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8・始祖の名は賢介


     一


「神様歴半年って、なにそれっ?」

 羽子崎へ向かう車内で、流留は素っ頓狂な声をあげた。

 兄弟も「へっ?」という顔だ。

「何万年も神様やっててなにいってますの!」

 デイジーの怒声をやりすごし、楓はおどおどと身の上話をはじめた。

 ごくふつうの日本の高校生「笹森楓」として、ごくふつうの生活を送っていた彼のもとに、WGPO(世界神力機構)総本部から職員が派遣されてきたのは、半年前のことであった。

 彼らが言うには、楓の住む地域周辺の神力バランスの異常は、楓の体に熱帯の木神の分体が宿っているのが原因である、このままでは生態系異常が生ずる可能性が高いので、楓は即刻東南アジアのとある島に移住するように、とのこと。

 家族一丸となってそれは困ると抗議したが、楓は強制的に東南アジアへ送られてしまった。

 言葉もわからず知り合いもいない赤道直下のくそ暑い島で、楓は毎日泣き暮らした。

 慣れない土地での孤独から、楓の心は荒んでいった。楓は荒ぶる神となってしまったのだ。

 荒ぶる神を恐れた村人たちは、結託して楓を殺そうとした。

「あのときは、すごくかわいい女ターザンにたすけられたと思ったんだ。あーああーとは言わなかったけど、蔓つかんで木から木へと飛び移って、かっこよかったなあ、デイジー」

 楓は運転席のデイジーの横顔にうっとりした目を向けた。

 しかし憧れの色は一瞬でひっこみ、ひきつった顔で「実は鬼軍曹だったけど」と言った。

「お黙りなさい。わたくしが助けなかったら笹森楓の肉体はもうなかったんですのよ?」

「……ごめんなさい」

「でもなんで、ジャングルの木神が日本の高校生に宿るの?」

「どうせ改革派がらみですわ。東南アジアで狩った分体に、この国で逃げられたかどうかしたのでしょ。その分体がなにかの拍子に赤ん坊の死体に宿ったのですわ。赤ん坊の親はなにもしらずに、それを我が子だと思って育てたのですわ。分体のほうも分体のほうで、自分は人間だと思ってしまったのではないかしら。ジャラナーバの自我は完全に『笹森楓』ですもの」

「ジャラナーバのときの記憶ってないの?」

「僕、人態とったことなかったみたい……。人態とらないと人間的な『記憶』って、たまっていかないんだって」

「楓は特例中の特例ですわ。WGPOは融通がきかないのです。困ったことにWGPOは、神力バランスの安定しか考えていないのですわ。人間の自我しか持ってない分体をフォローもなしにジャングル本体のそばに放りだした場合、なにをしでかすか思い至らないなんて。愚かですこと」

「楓さんがなにかしたの……?」

 流留の問いに、楓が目を伏せた。

 本人の代わりにデイジーが答える。

「楓は、植物を異常繁殖させて、周囲の村をジャングルに飲み込もうとしましたの」

「ええ!?」

「国柄によっては神の分体なんてモンスターですから、モンスター呼ばわりされて自暴自棄になったのはわからなくもないけれど。でも村を潰すのは勘弁願いましてよ! おびえた村人に殺されそうになったのも、自業自得でしてよ!」

「……すみません」

「あなたの肉体と自我をセットで守れるのは、わたくししかいないんですのよ? よくおぼえておきなさいな。そして肉体が死ぬまでに『笹森楓』の自我は脱ぎ捨てて、ジャラナーバにおなりなさい。笹森楓でいられるのは肉体が生きている間だけですのよ。自覚なさって」

「……はい」

「トーマ。あなたにも言えましてよ。人間的な自我を持ってしまったなら、もっと大人になることよ。神が人の気持ちを持つのはとても危険なことですの。渡鳴尊を取り返したら、彼によく学びなさいな。大人としての在り方を」

「子供に言われたくはないな。処女のくせに」

 信号が赤になる。

 それを待っていたかのように、デイジーが鬼の形相でふりかえった。

「……それは関係ございませんでしょ? あなたを解放したのはわたくしですもの、わたくしにだって責任がありますわ!」

「おまえ、なんで大正時代の女学生みたいに話すんだ? 海老茶式部気取りか? 流留、言ってやれ。その話し方、いまどき痛いだけだからやめろと」

「これは、わたくしに日本語を教えた者がこの話し方だったからしかたがないのです! 女学生言葉でも、わたくしは修羅場をいくつもかいくぐってきましたのよ!」

「ふん。生娘がえらそうに」

 今どき完全アウトなトーマのセクハラ発言に、流留がダメ出しをしようと身を乗り出したとき。

「――楓。今夜私の部屋においでなさい」

 デイジーが声のトーンを落とし、ドスのきいた声音で言った。

「ちょ、ちょっとデイジー、なに考えてるの!? 僕になにしろと!?」

「処女だからって馬鹿にされるのは冗談じゃなくってよ!」

「デイジーだめっ! 乙女心を叩き売っちゃだめっ!」

 流留もあわてて止めに入る。

「乙女心? そんなもの、なんの役にも立ちませんわよ! 流留もさっさとやっちゃいなさいませ! あなたが子供だから、トーマは力を貸せないのでしょう? 兄とでも弟とでもいいから、今から――」

「今からってなに!」

 デイジーは時計を見て、「……sh○t。時間がありませんことよ」と言った。

 そういう問題ではない。この女も壊れてる。流留にはそうとしか思えなかった。それに、お嬢様言葉にいけない四文字言葉を混ぜるのはやめてほしい……。

「ねえ、トーマ様。トーマ様の言う大人とか子供とかって、そういう意味じゃないですよね? 大ばば様の時代は、結婚まで清らかだったのが普通でしょ?」

「様はつけるなというに。六田路だって深二にロックと呼ばれていたではないか。ああいうのがいい。なぜ私はだめなのだ? 今ここに月夜はいないではないか」

「……えーと。そう言われると」

「呼んでさしあげれば? 友達扱いされたいのではなくって? その河川神、子供(ガキ)ですもの」

 生娘と言われた仕返しとばかり、デイジーが言った。


 羽子崎に着いたら、どうやって石を取り返すか。車内では、もっぱらそのことが話し合われた。敵の顔もわからないのだから、追いかけようがない。

「アメリカ行きの搭乗ゲートをひとつひとつ当たるのか……?」

「おれらが手分けして?」

「中学生や高校生が航空会社に相手にされるわけないですわ。そこはお役所にご登場願いましてよ。神力管理局にもう連絡済みですの。ぬるい公務員ごときがプロの『神力狩り』をつかまえられるとは思いませんけど、敵に心理的圧力くらいかけてくれますわ」

「じゃあ僕らはどうする」

「飛行機を止めますわ。足止めを食らわせて、管理局の神力者にじっくり調べ上げてもらいます。逃げようとする輩がいたら、それが私たちの相手だと思いなさいな」

「どうやって飛行機を止めるの?」

「お役所の圧力で止めてくれれば、一番よろしいんですけど。でも航空会社は神様の分体が四つ五つなくなるより、滞りない運行のほうが大切ですから、こちらとしては物理的手段で無理矢理止めるしかございませんわ。今後を考えたら、ひっそり事を運ぶより大騒ぎにしたほうが牽制になりますから、派手にやんなさいって先達が言ってましてよ」

「先達って……?」

「権力に目がくらんだ馬鹿な聖職者は世界各国にいて、神力が欲しくて昔から何度も狩りにきておりますの。狩る聖職者がいれば、守る神子だっていたわけですの。先達とは、そんな神子たちですわ」

「……霧流れの風神子」

 流留はつぶやいた。

 大ばば様。大ばば様も、そんな守る神子のひとりだったんだ。

「あのマンガってそういう話だったよな……。半分実話?」

 深二が言った。

 半分どころか、ひょっとしたらほとんど実話かもしれないと、流留は思った。

「デイジーも、守る神子なの?」

「わたくし? わたくしは違いましてよ。アメリカ神界に巣食う改革派に、怨みがございますの。それだけですわ」

「……怨み?」

「改革派に支配されたら、アメリカ神界は終わりますわ。小さな子供たちをさらってきて、手下にするために調教したりする宗派ですもの。実力主義の弊害ですわ」

「子供たちを調協って。それってまさか、デイジーも……」

「とにかく! 飛行機を止めますわよ。改革派の『神力狩り』に思い知らせてやりますわ。あいつらの好き勝手にはさせなくってよ!」



     二


「水は木を生じ、木は土を(こく)す。水属性の助っ人に土属性の敵。いい循環ですわ。ひとつ文句を言うなら、利宇摩川が使えないってことかしら。すぐそこに流れが見えているのに、あの水が使えないなんて。なんてこと!」

 羽子崎地区。

 利宇摩川沿いを順調に埋め立て地へと向かう車の中で、デイジーは嫌味ったらしく言った。デイジーの提案した作戦には、海水ではない大量の水が必要なのだ。

 飛行機をどうやって止めるか。

 止めるモノが飛行機でなかったら、事は簡単なのだとデイジーは言った。金性バランスを崩す苔を使えるので、機械類を狂わせるのは朝飯前なのだが、人の命を運ぶ旅客機を下手に狂わせたら大変なことになる。だから苔は使えない。

 次に考えたのが、滑走路の地中から植物を繁茂させ、舗装を突き破り滑走路を破壊して使えなくすること。ひとりで行動していたときは、いざとなったらこの方法を使おうと考えていたそうだが、離陸する飛行機もあれば着陸する飛行機もあるのだ。発芽のタイミングによっては危険がないとは言い切れない。

「ジャラナーバが戻ってきましたので、雑神に頼らなくとも木性神力が豊富に受けられるわけですの。さらにあなたたちがいますから、水も豊富に使えますわ。この状況だったら、最も単純にして安全確実、その上にインパクト大な方法がありましてよ」

 離陸予定の飛行機をすべて、陸地に縛り付ける方法だ。

 強く根を張る太く頑丈な蔓で、離陸予定の飛行機をがんじがらめに縛りあげる。

「木は水から生じます。質量の大きい植物を大量に繁茂させるには、それに見合った大量の水が必要ですの。しかも水の供給が滞ったら、蔓はすぐに枯れてしまいます。星乃川には今日一日干上がってもらいますわ」

 あとは急ぐだけですわ。そうつぶやいたデイジーの横顔に、焦りがみえる。

 デイジーは極端に車をとばすことなく、ここまで運転してきた。「スピード違反で捕まったら時間のロス」だからだそうだ。彼女の慎重な一面が垣間見える。

 利宇摩川は、もう河口付近だった。

 車道の先に赤い鳥居がみえた。

 「空飛ぶ神様」の鳥居だ。

 流留がトーマにはじめて出会った鳥居。

 流留はトーマの顔をみた。潤の顔なのだが、数日ですっかりトーマとしてなじんでしまった。

 潤には絶対に戻ってきてほしいけれど、「潤トーマ」とお別れするのはさみしい気もする。姿絵どおりの人態トーマは神々しすぎて、「トーマ」とは呼べない。あれは「利宇摩様」だ。

「さっきからおとなしいね、トーマ。デイジーになんか言われても言い返さないし」

「落ち込んでいる。私は役立たずだ」

 トーマは親指を噛んだ。本気でくやしそうな顔をしていた。

 一瞬、潤に戻ったのかと思った。

 いつも子供っぽい無邪気な表情なのに、負けん気の強い男の子の顔をしていたからだ。

「なんで役立たずなんて思うの?」

「おまえに……おまえらに力を降ろせない私なんて、役立たずだ」

 流留は清一や深二や潤がこういう顔をしているとき、「そんなことないよ」とは言わない。彼らは流留にそんななぐさめを求めはしないからだ。

 でも、今のトーマは彼らとは違うと思った。

 慕っていた呼江に恨まれて死なれた、よるべない幼子のようなトーマ。よるべないまま、長い時をすごしてきたトーマ。そんな彼を突き放す気にはとてもなれなかった。

 流留は黙ってトーマの手をにぎった。

 トーマが顔をあげたので、やさしく目をみつめる。

「だいじょうぶ」

 なにがだいじょうぶなのかよくわからなかったけれど、流留はそう言った。

「私など、この場にいてもいなくてもいいではないか」

「そんなことないよ」

「うそをつけ」

「うそじゃないよ」

 流留はほほえんだ。

 親しい神子をなくした神様。もしかしたら、呼江は敵だらけの人間世界でたったひとりの理解者だったかもしれないのに……。

 トーマの手をにぎる両手が、じんわりあたたかくなったような気がした。

 トーマの目がうるんでいくのがわかる。

 そう、彼はさみしかったんだ。

 呼江をなくして、ずっとずっと、さみしかったんだ――。

「いてもいなくてもいいとか、さみしいこと言うなよ」

 後部座席から、深二も口を出す。

「おまえってけっこうおもしろいし――って、神様をおまえ呼ばわりしちゃった。ま、いいよな」

「う、うむ……」

 深二に親しげな口をきかれ、涙ぐんだトーマがはにかんで答える。

「おばあ様がいないところ限定で頼む、深二。……僕もトーマって呼んでいい……かな?」

 きまじめな清一も、たどたどしく敬語をやめる。

「い、いいとも……」

「僕のことも『楓』って呼んでね、トーマ。僕、神様仲間ってはじめてだなあ。うれしいよ」

「お、おう……。よろしく……」

 あたたかな空気が漂う車内から、流留は窓の外を見た。

 利宇摩川が夕日にきらめいているのが見える。

 空飛ぶ神様の鳥居が空港のためのフレームのように、夕方の空と飛び立つ飛行機を背景にして立っている。

 鳥居と交番に挟まれた地下道入り口の先は、羽子崎空港の敷地だ。

 まさかもう敵が飛び立ったとは思えないが、急ぐに越したことはない。

 流留が気持ちを入れ替えたそのときだった。

 地震が襲ってきたのは。


 最初、流留は車が段差を落ちたのかと思った。車体ががくんと下がったからである。

 落ちたと感じた次の瞬間、衝撃があって体がのけぞった。「塀に衝突した」ということは瞬間的にわかった。

 しかし衝突の衝撃がおさまっても、車体がガクガクと激しく上下している。

 土性神力が急に濃くなった。地表のごく表面だけで起こっている人為的な地震だとわかる。敵のしわざだ。

 車のドアを開こうとするが、開かない。車体が歪んだようだった。

 木性神力が車内に満ち、ガラスが真ん中から四方に向かって急速に溶けて収縮し、黴のようになって窓枠にこびりついた。デイジーが窓から這いずり出る。

 外から車内に手を伸ばし、デイジーは楓の手を取った。

 楓は両手でデイジーの片手を握りしめ、目をつぶった。

 デイジーが周囲をにらみまわす。額から汗が緑の瞳の横を一筋伝い落ちると、地表の揺れが小さくなった。

 しかし地震がおさまったわけではないことは、神子たちにはよくわかっていた。土性神力濃度の異常上昇にともなう、同率の木性神力濃度の異常上昇が感じられた。

 楓がブレスレットをはずしている。揺れはデイジーがジャラナーバの力を借りて押さえているに過ぎなかった。

「水!」

 デイジーが言った。

「植物の根で揺れを押さえてますわ! 水が要ります!」

 清一も窓から外に這い出る。深二が続く。流留はガタガタいうドアをおもいきり蹴り飛ばして開けた。

 トーマがあとから出てくる。

 空から龍のような細長い形にまとまった水の塊が近づいてくる。デイジーがなにをしているか察した清一が、星乃川から呼んだ水だ。星乃神の力も、ここならば届く。沈黙の神である星乃神は、神子を選ばないのが好都合だった。

 鳥居付近の植物たちの根は、地中深くで蜘蛛の巣を張り巡らせたようになっているはずだ。

 水の塊は大きく輪を描くように空を旋回すると、砕け散り雨のような滴になって降り落ちてきた。清一が運んだ水がすべて地に落ちると、やや小さい深二の水塊も空を回り、砕けた。

 流留も植物のために水を呼ぼうとすると、デイジーに言われた。

「流留は待って。トーマと交渉なさい。風神を貸しますから、飛行機を止めて。やり方は風神子がしってますし、トーマも経験者ですから、要領はわかってるはずですわ」

「交渉?」

「トーマの力を降ろしてもらえるよう、交渉ですわ。それでもトーマが使えなかったら、海神を降ろして。海神は沖に退いてしまったから力ずくで呼んで、海水を蒸気に変えて微小に凝結するのですわ」

「……霧をつくるってことね」

 清一のつくった人工雨が、デイジーの汗みどろの顔を流す。

「今どきの飛行機は霧程度じゃ止まらないかしら……。でも旅客機は、苔で狂わせられませんわ。濃く、なるべく濃く、霧をつくるのですわ!」

 デイジーは空を仰いだ。

 夕暮れの太陽で赤く染まっているのに、人工雨が降り落ちる空。

「なるべくぎっしり霧を吹き集めてくださいませ!」

 デイジーが空に叫ぶ。

 霊体だという風神子に向かって叫んでいるのだろうか。

 流留も空を見上げた。

 そして空港をみた。

 自分と空港の間に、「空飛ぶ神様」の鳥居がある。

「……困ったこと。管理局員は今、ほとんど空港ですわ」

 デイジーはまだ神力を緩めてはいない。今デイジーが手を緩めたら、揺れが再び街を襲う。

 今、飛行機を止めるためにデイジーの力を振り向けたら、街があぶないかもしれなかった。

 流留はトーマをふりかえった。

 トーマはコンクリートで護岸された川の堤防の上に立ち、厳しい顔で空をみていた。

 風が吹き、潤の姿をしたトーマの髪を逆立てる。

 まるであいさつのような、一瞬の強風。風神だろうかと流留は思った。

 結局ききそびれて、この風神が「空飛ぶ神様」かどうか、流留はまだ知らない。

「トーマ」

 流留の呼びかけに、利宇摩川本流神がこちらを向く。

 トーマは堤防から飛び降り、歩を進め、流留に近づいた。

 流留に向けて、トーマは手を差し伸ばした。

 阿吽の呼吸で流留がその手をつかむ。

 手を取り合いながら、トーマは流留の目をじっとみていた。瞳の奥の、魂を見透かそうとするかのように、じっとみていた。

「……渡鳴を助けたい。あいつとは千二百年の仲だ。説教くさくて腹立たしいやつだが、あいつの代わりは俺にはいない。同胞と呼べるやつはあいつしかいないんだ。あの渡鳴がいい。ほかの分体は渡鳴じゃない。あの渡鳴を持って行かれたくない。取り戻したい」

 真剣な面持ちで、トーマは言った。

「うん」

「そんなこと、今まで人間に言ったことなかったんだが……」

「なんで?」

「人間に慕われるあいつが妬ましくて。私だって慕われたくて……」

「そっか……」

「私だって、おまえたちの力になりたい」

「うん」

「仲間がほしいんだ。仰ぎみられたくない。畏れられたくない。呼び捨てで呼ばれたいんだ」

「『トーマ』」

 握る手に力をこめ、流留は笑顔で利宇摩川主神の愛称を呼んだ。

 潤や清一や深二を呼ぶときのように、偽りのないありったけの親しみをこめて。

「おまえたちの力に……なれそうだ。こういう気持ちは、はじめてじゃないんだ……」



     三


「あのな、力を降ろすとき……私は結構重いぞ?」

 トーマは、なぜかおどおどと申し訳なさそうに、流留に言った。

「あのねぇ、こっちはそのつもりでちっちゃいころから神子修業してるんだから。ちょっとやそっとの神力の重さはへっちゃらだよ」

「……なんと頼もしい」

 トーマはそう言うと、一瞬だけなにかを思い出しているかのような遠い目をした。

「清一と深二もだいじょうぶだろうか? 私の重さを受け止めきれるかな」

 トーマが星乃川から水の塊を運び続ける鳴沼兄弟を見る。

「全く問題なし!」

「頼もしすぎる……。じゃあ、やってみてくれ」

「うん」

 流留は利宇摩川の岸に立ち、水面をみつめた。

 手馴らしに逆波を立ててみる。一滴もいうことをきかなかったはずの川の水が、流れを留めて流留に従う。

 川の流れの一部が逆方向へ流れたとき、流留は思わず歓声をあげた。

「やった……!」

 流留の体を通り抜けてゆく利宇摩川の神力は、はやく冷たく透明だ。

 綺麗な神力。流留はそう思った。

 力の感触は、ただ重いのとは感触がちがった。重さではなく、激流に身を置くときの圧力のようだった。

「重いというより、速いね」

 滝のような流れの、利宇摩川らしい力だと思った。

「速いと言った神子はおまえがはじめてだ、流留」

「へえそう? じゃあいくよ。霧いくよ。トーマ要領わかってるんでしょ? そこの……風神様と風神子様と、やったことあるんでしょ?」

「風神と風神子なあ……」

 トーマは困ったようなはにかんだような顔をして、宙空を見上げた。

「あのさ、トーマ。あとで風神様と風神子様と……話がしたいんだけど」

「風神と霊体は人間にはみえないし、声も聞けないぞ」

「通訳してよ!」

「通訳なあ。……それから、気付いてないようだから言っておく」

「なに?」

「……たぶん『潤』だと思う。そこにいる。手伝うそうだ」

 

「潤んん――――っ?」

 流留の大声に、清一と深二も動きが止まる。

「潤っ?」

「潤!」

「どこ!」

「おいっ潤!」

「潤ーっ!」

「みえない」

「どこだよ」

「潤っ!」

「シャラ――――ップ! 気が散りましてよ!」

 デイジーが青筋を立てて怒鳴る。

「おもしろい。本当にたのしいな、おまえらといると」

 なにがたのしいのか、空をみたままトーマが笑う。

 最初はふっと鼻で笑っただけだったが、こらえきれなくなったのか「ふっ、ふふふっ、はははははは」と声をあげて笑い出した。

「流留、霧つくっとけ。おまえら、ちょっと私のところへ来い」

 手招きされて、潤はどこだと騒いでいた清一と深二が、トーマに近寄る。

「手、出せ」

 言われるがまま、ふたりが握手でもするかのように、揃ってトーマに右手を差し出す。

 ポーズがポーズだったので、トーマも握手の要領で兄、弟の順に手を握った。

「?」

「?」

 鳴沼兄弟は、この非常時に握手がどうしたとでも言いたげな顔だ。

「おまえら、なにが起こったかまるでわかってない顔だな。ま、仕方ないか。渡鳴の神子だしな。……デイジー、おまえのほう、まだ水がいるか?」

「そろそろ結構ですわ。根競べは私が勝ちましてよ」

 土性神力はだいぶ弱まってきていた。

「じゃ、水神子は全員霧つくれ。おい、海のほう向いてどうすんだ鳴沼兄弟。すぐここに水があるだろ。利宇摩川の水が」

「おれら利宇摩川動かすの無理でしょ。それよか潤は……」

「重いから覚悟して降ろせよ」

「無理っつうに。人の話きけよ」

「やれっつうに」

「口調変わってるぞ、トーマ」

「し、深二!」

 清一の声のうろたえっぷりに、深二はなにごとかと視線を向ける。流留がもわもわと水蒸気を量産しているその手前で、清一が腰を抜かしている。

「と、と、利宇摩川が動かせた!」

「なに――――っ?」

「だからおまえらにも動かせるようになったんだよ! 俺はずーっとこうしたかったんだよ。渡鳴みたいに、神子みんなに力を降ろしたかった。だけど呼江の子孫の女以外、降ろせなかったんだ」

「なんで?」

「わからん。でも、できるときがあるんだ。やっぱりあるんだ。あれは偶然じゃなかった……。友達になれれば……」

「なにひとりでぶつぶつ言ってるんだ! それよかなんとかならねー? 動くは動くけど、神力まじ重いし! つら!」

「それは深二、おまえの修行が足りないからだ。俺だって好きで重いわけじゃないんだっ!」

「『私』が俺になってるぞ。口調軽くしても神力は重いぞ!」

「慣れろ!」

「くっそ、慣らすよ! 渡鳴様を救わなきゃ。蒸気蒸気蒸気蒸気! 凝結凝結凝結凝結!」

「がんがんつくってよ深二! 霧流れの風神子なんだから、わたしたち」

「霧流れンジャー。2号どこだよ2号! 手伝うって言ってたんだろ? 潤出てこーい! なんか言え潤!」

「……潤には潤の役割があるようだぞ。お手並み拝見といこう」

 トーマはさっきから楽しそうだった。

 流留も、緊迫した状況だけれど、バックで景気のいい音楽が流れているような、いいかんじのヤマ場感が迫っているような、そんな予感があった。

 そう。戦いは悲愴な顔でやってはいけない。

 晴れがましく、堂々といこう。

「風神様、風神子様、わたしたちの霧をよろしく――――っ!」

 流留は霧を風に託した。これだけではまだだめだ。最新鋭の旅客機に飛行をあきらめさせる濃霧にするために、もっともっと霧をつくらなければ。

 意思を持つ風が強く吹いた。

 霧をさらって高く上空へ舞いあげる。

「ほら、やっぱりいたじゃないか、風神」

 深二はとびっきりうれしそうだった。

 流留もうれしかった。

 あの風神と風神子なら、きっと飛行機を止めてくれる。

(もし、ここにいるのが彼らなら。飛行機のこと、よくしってるでしょ?)

 「空飛ぶ神様」の朱い鳥居が、流留たちがつくる霧の中に、堂々と立っていた。


 デイジーはようやく地震から解放された。派手に活躍してやろうと意気込んでいたのに、誰も見てない地味な地中戦に体力を費やしてしまった。

(絶対とっつかまえてやりますわ。にくったらしい地震野郎!)

 敵も相当の消耗を強いられたはずだ。

 ここまでしつこく自分を足止めしようとするのだから、空港に行かれたら困ると言っているようなものだ。

 敵は二人組だと、六田路は言っていた。地震野郎は空港入り口に残って追手がいたら阻み、もう一人が石を持って出国する手筈なのだろう。彼らだって、捕まらないよう必死なのだ。

 ここで取り逃がして海外へ行かれたら、石を取り戻すのが厄介になる。

(水神子たちがどこまでやれるかしら……)

 デイジーは集中を解いて、運河の向こうの空港を振り仰いだ。

 そして――唖然とした。

(……霧じゃないですわ、これ)

 白い霧ではなく、黒い雲があった。

 空港上空からゴロゴロと響いてくるのは、雷ではないのか?

「まさか……積乱雲つくりましたの!?」

 まっ白い霧に覆われた幻想的な風景は、そこにはなかった。白い濃霧の代わりにおどろおどろしい真っ黒な乱雲が、空港上空にだけ(かな)床状(とこじょう)に渦巻いている。

 羽子崎の住人たちが、不吉すぎる空を指さし、「祟りだ……」「呪いだ……」とささやき合うのがきこえた。

 次々と飛び立っていた飛行機は、ぱたりと離陸しなくなっていた。

 着陸機は空港上空だけをピンポイントに覆う黒雲におびえたように、旋回して去って行った。

 どこをどう見ても自然現象とは言い難い雷雲に、突っ込んでいくパイロットもそれを許す管制官もいないようであった。

 狙いとはちがうが……飛行機を止めることには、見事成功した。

「……誰がやりましたの」

「わたしたちは霧をつくってたつもりなんだけど……」

「わかってますわ。どこの風神子がやったのかきいていますの。私のしってる風神子は、ここまで気流を操れなくてよ。蒸気を密集させて雷雲をつくるなんて……」

「『潤』だろ」

 デイジーはトーマを見た。

 潤の顔をしたトーマは、愉快そうに笑っている。

「おまえらを助けにきたんだ。仲間だからな」

 トーマは明るい光を仰ぎ見るようなまぶしそうな笑顔で、禍々しい黒雲を眺めた。

 雲の間に閃光が走るのが見える。

 耳をつんざく雷鳴とともに、空港の避雷針に雷が落ちた。

「おまえらって、いいなあ……」

 トーマは遠い目をして笑っていたけれど、、今にも泣きだしそうにも見えた。


 その後、神力管理局員の取り調べから逃走した「神力狩り」の大捕物が、羽子崎空港から利宇摩川河岸で繰り広げられた。

 石の持ち出し役の聖職者は、利宇摩川の水は神力者でも動かせないという情報から逃走経路に利宇摩川を選んだようだが、それはあきらかに失敗だった。

 敵はアメリカから持ち込んだ「魔石」を解放して、人工的に合成されたモンスターを使役し抵抗したが、水上から剣のように突き出す水柱、弾丸のように襲ってくる水球、鞭のように攻撃してくる蔓、意思を持つかのごとく吹く突風になすすべもなく、蔓性植物にぐるぐる巻きに縛られた状態で、WGPO日本支部に引き渡された。

 グロテスクな人造妖魔とはじめて戦った深二は、「渡鳴様の妄想が現実になった……。霧流れンジャー第一話……」と、茫然とつぶやいた。

 デイジーは「地震野郎」を取り逃がしたことに熱り立ち、すぐに敵の後を追って行った。


 さて、問題は潤であった。

 トーマが退いた肉体に、潤は一旦戻ってきた。

 しかし、流留たちが感動の再会に涙する間もなく、「親父たちに呼ばれてるから、急いで戻らないと」と一言だけ言い残し、すぐに幽体離脱してどこかへ行ってしまったのだ。

「ちょっとー! 体どうすんの、体!」

 無責任な潤のおかげで、利宇摩尊はまた「潤トーマ」に戻るはめになってしまった。

 潤のことは、のちに怜流が詳しく語った。

「潤君の危篤を知らせたとき、淳史さんが『早瀬家の神子に若死は許されない』って言ったんだよ。てっきり息子の死を信じたくない父親としての言葉だと思ったんだけど、違った……」

 歴史ある西の都からきた精鋭神子家、早瀬家。

 京都にある総本家では、十代で若死した神子は風神を降ろすと言い伝えられているそうだ。

 淳史が渡鳴湖に戻ったのは、風神子となった息子を戦力として拾っていくためだった。

 子が子なら、親も親。

 言葉をなくす流留たちだった。

 しかし、流留と鳴沼兄弟が初陣を終えたとき、オヤジ組の戦いはまだ始まったばかりだったのだ。潤が感動の再会どころではなかったのも仕方ない。

 オヤジたちの戦いは、「トーマ」でも「ジャラナーバ」でも「トナリ」でもなく、エメラルドとともに神力管理局から強奪されたあのルビーのためだったのだが、それはまた別の話だ。



     四


「早瀬淳史はルビーを追っていたのですわ。ルビーの名前は「ヨーキ」。神石「ヨーキ」を追う過程で、神石「トーマ」が存在していると知った彼が、私にトーマを追ってくれと頼んできたのです」

 渡鳴湖畔。

 デイジーは満身創痍で包帯だらけ、その上松葉杖だったが、ひと仕事終えた清々しい顔をしていた。「ヨーキ」争奪戦に、見事勝利した清々しさである。

 デイジーは楓を連れて「ヨーキ」争奪戦に助っ人として乱入したらしい。

 渡鳴尊を取り戻すのに貢献したデイジーは、保養地渡鳴湖で今、特別待遇を受けている。リゾートホテルのスイートルームは、しばらくデイジーと楓のものだ。

 療養中で暇なのか、湖畔で修業後の流留をみつけては話しかけてくる。

「でもあの地震野郎の捕縛がまだですわ。はやく怪我が治らないかしら……。『神力狩り』だって、絶対にまた来ますわよ。いつまでもゆっくりしてはいられないのに」

 焦りをぶつけるように、デイジーは松葉杖で小石を小突いた。

(なにがデイジーをそんなに駆り立てるんだろう……)

 流留は不思議に思った。

 過去の出来事がデイジーを駆り立てるのだろうとは感じていた。

 でも、デイジーの思い出にずけずけと踏み込んだらいけない気がした。デイジーともっと親しくなって、いつか彼女のほうから話してくれることがあったら、そのときはきちんときこうと思った。

 羽子崎空港と利宇摩川の大捕物のあと、流留はようやく大ばば様の書き付けの続きを読むことができた。

 書き付けを読むかぎり、残念ながら風神子様は高井賢介ではないようだった。

 流留は望みが捨てきれずに、デイジーに空飛ぶ神様と高井賢介の話をした。

 デイジーが連れている風神は「空飛ぶ神様」ではないかとたずねたところ、「ありえませんわ」と言われた。

「風神がどうしてなかなか確認されないかというと、生身の人間には降りてこないからですの。風神はほかの属性の神とはちがう位相にいるらしく、霊体にしか降りないのですわ。高井賢介は生きてるうちに『空飛ぶ神様』の神力を降ろせたのでしょう? ならば、その神様は風神ではありえませんわよ」

「えっ……。そうなんだ」

 流留はひどくがっかりした。

「空飛ぶ神様」に会いたかったのに、望みが断たれてしまった……。

「そもそも人態化した風神なんて、きいたことなくってよ。風神子だって滅多にいないのに、人態化した風神なんて、それこそ伝説上の存在ですわよ」

「ふーん……。残念。デイジーは風神子様とどうやってしりあったの?」

「小さいときから一緒ですわ。私の曾祖母ですの。生前の面識はありませんけども」

「えーっ!」

「守り神子の先達ですわ。生前は日本の木神の神子だったそうです。トーマとは知り合いですって。曾祖母の霊が教えてくれたから、わたくしは日本語が話せるのですわ」

「デイジー、霊体と話せるの?」

「話せますし、みえますわ。神子の素質があれば、霊体を感じるのは訓練しだいですことよ。暇だから教えてさしあげてもよくってよ。潤がみえないと不便でしょう?」

「確かに。お願いします」

 潤はどうやら風神子でいることに存在意義を感じているらしく、ほとんど体に戻ってこないのだ。せっかく体があっても、いつも霊体なのだから死んでいるのと一緒だ。

(トーマに肉体、のっとられちゃうぞ)

 トーマが潤の体を離れて利宇摩尊になっているとき、からっぽの潤の体は滝家で眠っている。

 

      ***


 渡鳴尊は霞月に石の封印を解かれ、数日ぶりに渡鳴湖畔を散歩していた。

 石だった間、渡鳴尊は人の意識を持って以来はじめて、夢をみていた。

 もう夢からは覚めたはずなのだが、「それ」の姿をみつけたとき、まだ夢は終わってなかったのかと錯覚してしまった。

「……なぜおまえがいるのだ」

 湖畔にはもう一柱、水神の人態がいた。

 利宇摩尊である。

 あいかわらず着物の趣味が悪いと、渡鳴尊は思った。無駄に豪奢で派手すぎる。

「アメリカで石になっていたのだが、戻ってきたのだ」

 憮然とした顔で利宇摩尊は言った。こんなに自然に「憮然とした顔」ができる自然神を、渡鳴尊は自分以外に利宇摩しか知らなかった。

「おまえも石に?」

「そうだ。もう二度とご免だな、あれは」

「……それほど悪いものではなかったが」

「なに?」

「夢をみることができたからな。夢の中で、なつかしい顔に会った。もう死んでしまった神子たち……。夢でも、また会えてうれしかったぞ」


     ***


(こういうことを言うから、渡鳴は腹立たしいのだ!)

 利宇摩尊は苛立った。

 自分は石だった間、悪夢しかみていないというのに。大好きだった呼江が首から血を流しながら、自分を呪ったこと。呼江の死後の狂おしい年月。おびえた目で自分を見る神子たち。腫れものにさわるように自分を扱い、権力に寄り添うための要求ばかりする滝家の男ども。

 渡鳴はいつでも神子たちに囲まれて愉快そうだったけれど、自分は呼江の子孫の女にしか、力を降ろすことができなかった。

 呼江の血を引く女の中から、一時代にひとりだけ。

 それは、呼江の呪いだったのだろうか。

 しかし渡鳴が言ったことがある。

 それはおまえが自分自身にかけた呪縛だと。

 なんのことやらさっぱりわからないが、石の封印が解けてから、呪縛がうすらいだ気がしている。神子たちに「トーマ」と呼ばれるようになってから。

「流留に力を降ろせた」

「ほう」

「流留はときおり、大人の女のようだな……。好いた男もまだおらぬような子供なのに」

「いや、いると言っていたがな」

「なにっ?」

 それは聞き捨てならない。流留は自分の神子なのに、そんな大事なことを渡鳴には言って自分に言わないとは。

 利宇摩は裏切られたような悲しい気持ちになった。

「誰だそれは。清一か? 婚約話が持ち上がっているという話だが……」

「清一ではない。空を飛ぶ神だそうだ」

「風神のことか?」

「怜流に言えば、『びでお』で見せてくれる…………おや?」

 利宇摩尊は消えていた。

「……言っていたのは五歳のころだが」

 誰に言うともなく、渡鳴尊はつぶやいた。

 利宇摩様にはひみつにしてねと五歳の流留に言われたことは、完全に忘れていた。


     ***


 流留はデイジーに霊体をみる訓練をしてもらうのに清一と深二も誘おうと思い、鳴沼家を訪れた。利宇摩川の気配が漂っていたので「利宇摩様」がきていることはわかっていた。

 流留と兄弟は立派な姿の「利宇摩様」にも慣れてしまったが、月夜をはじめ鳴沼家の大人たちは、時々ふらりとやってくる主神の人態にかなりの緊張を強いられているようである。

 流留がいつものように「こんにちはー」と言いながら玄関の引き戸を開けると、お手伝いさんが「神子様がいらっしゃいました!」と奥へ駆け込んで行った。

(神子様って……)

 いつもは「流留さん」か、月夜がいなければ「流留ちゃん」じゃないか。

 深二が階段を駆け下りてきた。

「流留! トーマが『空飛ぶ神様』の映像を見せろって、親父に言ってるぞ!」

「えっ、なんで!」

「流留の好いた男だと渡鳴様にきいたとかなんとか……」

(ば、ばれた!? いや、でも人間じゃないし、もう存在してないし、だいじょうぶだよね……)

 存在してない。

 消滅したかもしれない。

 しかし流留は今、ひとつの望みを持っていた。

「空飛ぶ神様」は石にされて、アメリカに連れていかれたかもしれないと。


 鳴沼家の怜流の書斎は、異様な雰囲気に包まれていた。

 流留と深二と清一は、廊下から障子を細く開け、中の様子をうかがった。

 豪奢な着物の「利宇摩様」は、テレビの前に正座の姿勢で身じろぎもしない。まっすぐ黒い画面をみつめている。

 怜流がおどおどとリモコンを手にし、「では、まいります」と言った。

(なんかトーマ、真剣なんですけど)

 渡鳴様とよく似た人態トーマの顔は端正すぎるほど端正なので、無表情でいられると威圧感が醸し出されて、非常にこわい。

 テレビ画面に白黒の映像が映し出される。ゼロロ戦が飛ぶ様子が現れると、トーマの表情が変わった。

 はじめは「おや?」とでも言いたげな顔。

 次に、食い入るように見入る顔。

 神感能力がない者にとっては、ただ戦闘機が飛ぶだけの記録映像だが、流留は五歳のときにはじめて怜流にこの映像をみせてもらったとき、憧れのすべてを持っていかれた。

 飛行機の上で宙返りなんかしちゃって。飛行機のほうも宙返りなんかしちゃって。たのしそうだなあ。かっこいいなあ。やってみたいなあ。神様って、こんなことができるんだ! すごいなあ。ほんとにすごい。

 この神様と一緒にあそびたいと、五歳の流留は強く思った。

 この神様と一緒にいたら、きっとすごくたのしいだろうと思った。

 そのあとは五歳の単純さで、「そうだ! わたしこの神様と結婚しよう!」と言い出し、怜流を笑わせた。

 今から思えば、当然、それは恋なんてものじゃない。

 映像は次々と進む。

 教官どうしの立ち話を盗み聞きして、訓練生たちに言いふらしにいくような行動をする神様。並んだ飛行機の間を漂いながら、日なたぼっこをする神様。離陸する飛行機の前に立ちふさがって、風圧で吹っ飛ばされるのを楽しむようなおバカな遊びも、実体のない神様ならではだ。

 やんちゃでかわいい男の子。こんな神様、ほかにいない。

 五歳の流留はやがて十代に入って、羽子崎飛行訓練場の神様と、本の中で二度目の衝撃的な出会いをした。

『空飛ぶ神様 ~僕らの羽子崎飛行訓練場~』である。

 神様の仲間たちは、みんな死んでしまった。

 海の上で、若い命を散らしてしまった。

 神様はあんなにがんばったのに。賢介もあんなにがんばったのに。

 どうしてわたしがそこにいなかったのだろうと流留は思った。

 大戦の時代の、羽子崎軍用飛行場に。

 わたしだったら、みんなを助けることができたかもしれないのに。神様をひとりぼっちにしないですんだかもしれないのに。

 神様はどこへいってしまったんだろう。悲しみのあまり、消えてしまったんだろうか。

 映像は一番新しいものに進む。深二がみつけてくれたあの映像だ。

 いつしか流留はトーマの表情を追うことを忘れ、ただ映像に見入っていた。

 五歳のころ持っていかれた憧憬は、まだ彼のところにある。

 あどけない笑顔の、空飛ぶ神様に。

 空飛ぶ神様は白黒のアップで、ありったけの親しみを込めて「けんすけー」と言った。

「う……ひっく」

 泣き声がした。嗚咽をこらえ、こらえきれずに漏れたような声だった。

 自分ではない。障子の陰で、流留は目を見張った。

 トーマが泣いていた。

 なぜトーマが泣くんだと、流留は驚いた。

(どうして? トーマがどうして泣くの?)

「ひっく……ひっく……。けんすけ……」

(え……?)

 トーマがつぶやく名前をきいて、流留の中で疑問が確信に変わる。

 けんすけ。賢介。

(ああそうだ、空飛ぶ神様だって泣いたんだ。賢介に「おまえの力不足じゃない、俺の力不足なんだ」と言いながら、一緒においおい泣いたんだ)

「け……賢介はこのあと、俺にうっかり『じゃまだぞ』なんて言って……。バカだな、上官に俺はみえないのに……。邪魔とはなんだって上官にしかられて……。ははは、うかつなやつだな……」

「利宇摩様……まさか」

 怜流も、利宇摩尊の言葉に驚いたようにつぶやいた。

「お、俺はせめて賢介だけでも戦場から連れ帰ろうと思ってたのに……。あのバカ、精神が焼き切れるまで、俺の力降ろして……。仲間、助けようとして……。俺は重いんだぞ。ろくに修行もしてないくせに……修行もしてないくせにあそこまでやって。水が使えないのに、『流れ』だけであそこまで戦って……。仲間のために。仲間のために戦って死んで……」

 流留は障子をバン!とおもいきり開け、トーマに近づいた。

 トーマは泣きぬれた顔を流留に向けた。

 凛々しいはずの顔は、少年のように剥き出しの悲しみに覆われて、守ってやらなければ壊れてしまいそうだった。

 肩も抱いてやれず、手もとってやれないのがもどかしかった。

 流留は咄嗟に、トーマの実体化を試みた。

 あたためてあげなければいけない。手をとって、抱きしめて、あたためてあげなければいけない。

 大切な友達をなくした悲しみで、今にも壊れそうな彼を。

「火神子だったんだ……賢介には火神子の血が流れてて……。水が降ろせないのに、なのに、あいつだけだったんだ。呼江の血がないのに力を降ろせた神子は。あいつだけだったんだ……」

 怜流が実体化したトーマの姿に驚きの声をあげる。

 きらびやかな平安装束は消えていた。

 トーマがまとうのは、白いシャツに、濃灰色のズボン。

 涙に濡れているのは、凛々しい青年ではなく、幼さの残る少年の顔。

「賢介だけじゃないよ、トーマ」

 流留は言った。

 トーマを――「空飛ぶ神様」を抱きしめてやりながら。

「清一もいるし、深二もいる。仲間はどんどん増える。だから」

 ひとりじゃないよ。もうだいじょうぶ。



     五


 そしてある日、わたしのいる牢屋に、風をあやつる風神子様がやってきたのです。

 牢屋番は、風神子様に気づきませんでした。わたしも、最初のうちは気づきませんでした。

 風神子様の姿は、誰にも見えなかったのですから。

 風神子様は霊魂だったのです。

 風神子様はわたしに、大勢の人を殺した罪をつぐなう気があるのなら、力を貸すようにいいました。わたしは従いました。風神子様本人にも、つぐないをしなければいけないと思ったのです。風神子様は、洪水でおぼれ死んだ研究所の神子のひとりでした。

 海をこえて日本の神様を盗みにくる人たちがいました。その人たちが海の上で迷ってしまうように、わたしは霧をつくる役目をしました。ぶじにその人たちを追い払ったあと、風神子様はわたしにいいました。利宇摩川を二度とあふれさせたくないのなら、利宇摩様を海のむこうへやってしまえばいいと。そのやりかたをしっていると。

 わたしは迷いました。利宇摩様はやさしいのです。狂っていても、やさしいのです。ほんとうは、お別れしたくなかった。けれど、わたしが生んだ赤ちゃんの顔をみているうちに、決心がつきました。

 利宇摩様は、わたしのそばからいなくなりました。

 ほんとうにそうしてよかったのかどうか、実は今でもわかりません。

 わたしはまちがったかもしれません。そう思ったのは、わたしの赤ちゃんがすこし大きくなって、わたしのことをおかあさん、おかあさん、と呼ぶようになってからです。  

 わたしは、ちいさな流太郎がわたしをみる顔が、利宇摩様とおなじだと気がつきました。

 ちいさな流太郎は、わたししかみていませんでした。

 ちいさな子供は、おかあさんしか見えないのです。おかあさんが、世界のすべてなのです。もしかしたら利宇摩様は、神子たちにおかあさんを求めていたのではないでしょうか。

 もしも利宇摩様が戻ってきたら、流留ちゃんにおかあさんになってもらいたがるかもしれません。おかあさんになってあげてもいいけれど、ひとつだけ、ほかにやってあげてほしいことがあります。

 友達をつくってあげてください。

 いつまでも、おかあさんばっかりみてたらだめなのよと、おしえてあげてください。

 おかあさんは世界のすべてではありません。おかあさんは世界に出ていく最初の一歩でしかありません。もしかしたら、はじめに呼江様で失敗してしまったから、おかしくなっているのかもしれないけれど、そのおかしくなってしまった流れをとめて、新しい流れをつくってあげてください。

 流留ちゃんの名前は、そんな思いをこめて、わたしがつけました。

 呼江様がつくってしまったおかしな流れは、流留ちゃんが留めてくれたらいいなと、願わずにはいられません。

 新しい流れの始祖には、呼江様ではなく、利宇摩様のいちばん最初のお友達がなってくれたらいいと思います。




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