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7・風神

     一


 神子界で、「鳴沼家は長男のほうが資質に恵まれ出来がいい」と囁かれることは多い。

 しかし清一本人は、弟に劣等感を感じさせられることがよくある。

 鳴沼兄弟に課された潤の魂探し。その第一日めに清一ができたのは、図書館で御魂や祖霊について文献を調べることだけだった。「霊魂」などという、存在が確かなのかもわからないものを探すのだから、最初の一日はそのくらいが精いっぱいだと思った。

 しかし夜になって深二と今日の成果を報告しあったら、深二は鳴滝山周辺の地図に赤マルだの青マルだの印をつけたものと、ノートに誰かの証言を大量にメモしたものを広げ、説明をはじめた。

「魂は山をのぼって上空へ行きたがる性質があるんだ。でも死んだばっかりの魂はまだ死穢(しえ)をもってて穢れてるから、山神が高いところへはのぼらせない。山頂は祖霊が住まう清らかな場所だから、現世への未練や恨みで汚れてる新しい霊魂は、山の中腹あたりに留まって浄化を待ってるのが普通だ」

 そのあたりのことは清一も調べてきた。だから明日は鳴滝山の中腹へ行くつもりだった。

 深二は続けた。

「だけど若くして死んだ魂なんか未練でべとべとだから、山にのぼろうとしてみたりまたおりて街をさまよってみたり、見苦しくうろうろして、かなり目につくものらしい」

「目につくって、誰の?」

「雑神とか妖怪とかの。だからそこらへんの『妖怪仲間』に聞きまわってきたんだよ」

「おい、『妖怪仲間』って妖怪愛好家仲間のことじゃなかったのか? 人間の……」

「人間の場合もあれば、妖怪の場合もある」

 深二はしれっと言った。

「そんなバカな……。妖怪って言葉が通じるのか?」

「ほとんど通じないけど、妖怪と話せる九十九神がいるから。通訳してもらう」

「……通訳を買って出てくれる九十九神の知り合いがいるのか?」

 信じられない思いで清一は尋ねた。

「おれが精魂傾けてつくってる『利宇摩水系雑神リスト』をなめるなよ。ネットで情報拾ってつなぎ合わせたようなシロモノじゃないんだぞ。おれが足で歩いて実物に会ってつくってるんだ。『利宇摩水系妖怪リスト』もだ」

(修行さぼってなにやってるんだと思っていたら、そんなことをやっていたのか……)

「それでまあ、若い男の魂でそれっぽいのをいくつか目星つけてきた。明日からこれの絞り込みに入る」

 深二は印だらけの地図を爪でぴしっと弾いた。

 今度もまた、完敗だ。

 清一は心からそう思った。


     ***


 新幹線の窓から見える早朝の風景は、ビルの建て込む都会のものから田んぼの広がる農村のもの、そして緑の山林のものへと次々移り変わっていった。

 トーマは窓際の席で外をみながら、あれはなにこれはなにと、子供のようにたずねてくる。

 八十年ぶりの祖国なのだから、流留はできるかぎりの説明をしてやったが、さっきラブホテルの前を通過したので困ってしまった。「なんで欧州の城が建っているのだ?」とか、大声できかないでほしい。

 流留は助けを求めるように、通路を挟んだとなりの三人席のほうを向いた。

 通路側に霞月、真ん中にデイジー、そして窓際に座っているのは、デイジーと同年代くらいの少年だ。

 日本人のようだが、中性的で体の線が細く、やわらかそうな髪は軽くウエーブのある癖っ毛で、繊細な顔立ちのデイジーととてもお似合いだ。

 今朝はじめて会ったとき、彼は「笹森(ささもり)(かえで)です」と自己紹介した。

 しかしデイジーが横から「あなたは『ジャラナーバ』ですわ!」と厳しく訂正を入れた。

 彼はうなだれつつ「笹森楓なのに……」と小声で抵抗をしたが、デイジーに凶悪なにらみをきかされ、口をつぐんだ。

 彼は昨晩まで植物状態だった。

 おとといまで生きるか死ぬかだった早瀬潤と、突然植物状態から回復した笹森楓が揃って姿を消した羽子崎中央総合病院は、今ごろ大騒動だろう。本当に申し訳ない。

 笹森楓こと木神ジャラナーバ。

 エメラルドに封じられていたのは彼である。

 早瀬潤こと水神利宇摩。

 サファイアに封じられていたのは彼。

 石から人に器を変えた自然神の分体が二柱、新幹線のおなじ車両にいるわけだ。

 笹森楓は封印文字を刻んだ革のブレスレットをしている。ジャラナーバは赤道直下の熱帯雨林神なので、神力が漏れると日本の自然界に変調をもたらす恐れがあるからだ。

 しかしジャラナーバは、エメラルドに封じられた神力の十分の一しか楓の体に移してもらっていない。

 霞月がエメラルドの封印を十分の一しか解かなかったからである。

 エメラルドの力は今もまだ、九割がガラスケースの中に閉じ込められている。

 流留はいつもやさしい笑顔を向けてくれる物静かな霞月が、実は鳴沼家で一番おそろしい存在であることを昨晩あらためて思い知った。

 昨晩デイジーは封印を解けと、霞月に拳銃を向けた。

 霞月は「まあこわい。火薬が湿っているのに」と身ぶるいしながら言った。

 水の神術で湿らせたのは霞月なのに。

 デイジーは拳銃をあきらめ、ポケットから小瓶を取り出し、蓋を開けた。

 しかしなにも起こらない。

 霞月が「乾燥に弱い胞子なんじゃないかしら」と気の毒そうに言った。

 瓶の中の水分をすべて抜いたのも霞月だ。

 拳銃も小瓶も厳重に神力よけの結界が施してあった。しかし、神子界で「封術師」と異名をとる霞月には、解けない結界はないのである。

 ついにデイジーは腕力による最終手段に出た。

 けれどつかみかかろうとするデイジーの腕が霞月に届く前に、デイジーの鳩尾に流留の蹴りが入った。蹴りは綺麗に決まり、デイジーは拳銃を取り落とした。

 流留はデイジーの手から離れた拳銃をキャッチし、敵の頭に突きつけた。

「霞月おばさん。撃てるように弾の湿気、抜いて」

 勝負あった。

(バカ親父の的外れな修行が役立つ日がくるとはね……)

 渓太郎が流留に課す「修業」は、もっぱら体術である。合気道だの空手だのだ。

 それはともかく。

 デイジーは①神力管理局新支部から強奪されたエメラルドを所持している。②他国の神力を宿した人体を連れている。③拳銃を所持している。という点において、神力管理局でもWGPO日本支部でも警察でもどこでも突き出してOKなのだが、それをしないのは潤の父親に連絡したら「味方だと思っていい」と言うからだ。

 とはいえ、簡単に信用する気にはならない。

 ジャラナーバの封印を全部解かないのは、人質をとっておくようなものだ。

 霞月が施した封印は霞月がやらないと解けないというのがよくわかっているためか、デイジーもおとなしく渡鳴湖についてくることになった。「おとなしく」と言っても腹の中は煮えくりかえっているようで、むすっとして口をきかない。

 ジャラナーバが時々デイジーの顔色をうかがっては、おびえて身をすくませている。

(あのふたりってどういう関係?)

 ジャラナーバがなにか言おうとすると、デイジーが鬼のような形相で彼をにらむので、木神からはなにもきき出せない。このふたりの間では、神と人間の主従が完全に逆転しているということだけは、ものすごくよくわかる。

 早瀬淳史はデイジーについて、こんなことを言っていた。

 デイジー・ベリスは石にされた神を解放するために生きてるような女さ。

 渡鳴尊が石にされたのなら、絶対力になってくれる。



     二


 流留たちが迎えの車で駅から渡鳴湖畔へ着いたとき、鳴沼家当主・鳴沼月夜は、白い小袖と紫の袴を用いた正式な神子装束を身に付け、待ち構えていた。一時寝込んだという話だが、そんなことはまるで感じさせない、背筋のしゃんと伸びた立ち姿である。

 清一と深二も洋装ではなく、神職らしい浅葱色の狩衣姿だった。

 潤の姿をした利宇摩尊が、車から降りる。

 渡鳴神社の神子たちが拝の姿勢をとるその向こうに、三の鳥居と渡鳴湖がある。

 利宇摩尊は目を細めてきらめく渡鳴湖を眺めた。

 月夜が歓迎の口上を述べる。

 流留も霞月とともにすぐ神子たちの列に加わって、トーマの様子をうかがった。

 トーマは渡鳴湖畔へ注意を向け、なにかを探しているようだ。目当てのものが見つかったのか、軽く目を見張り――そして訝しげに眉をしかめた。

「神殿へお入りになられますか」

 月夜がたずねた。

 渡鳴神社の神殿は渡鳴尊のためのものだが、利宇摩神は渡鳴神を従える利宇摩水系主神だ。現在利宇摩神社は存在していないのだから、利宇摩尊を迎えるにふさわしい場所は、鳴滝山には渡鳴神社をおいてほかにない。

「いや、神子の家へ行く」

 へっ? 流留は思わず口に出しそうになった。

 そういえば、トーマが渡鳴湖へきたらどこに寝泊まりするのかなんて考えなかった。潤の体にいるのだから、鳴沼家の潤の部屋に泊まるんだろうくらいの気でいた。

(そうだよ、神様なんだよ……)

 きちんと形式を整えて利宇摩尊を迎える渡鳴神社の一同をみて、流留にようやく実感が湧いてきた。

 利宇摩神の重さと、自分自身の責任に。


 利宇摩水系の各神子家が今も利宇摩神を重く考えているのに、なぜ利宇摩神社が取り壊しになったのか。

 羽子崎飛行訓練場の名もない九十九神のために建てられた鳥居が今も大切に保存されているくらいなのに、なぜ東野平野有数の大神である利宇摩神の神殿が残されていないのか。

 それは利宇摩神が、日本を敗戦に追いやった元凶だという、当時の国民感情のためだ。

 洪水は戦局が泥沼化した戦争末期の出来事だったが、降伏のきっかけになった。洪水のせいで戦争に負けた、利宇摩神は敵国に加担した。そんな思いが敗戦直後の日本を席巻し、利宇摩神社は国民の怒りの捌け口となり壊された。

 呼江の死後数年間、利宇摩川は荒れに荒れたという過去がある。歴史上、東日本が長く西に遅れをとったのは、利宇摩川という暴れ川にふりまわされたからだ。

 東野平野の人々は、故郷を流れる利宇摩川を愛せない。

 歌舞伎の人気演目でも、利宇摩神はいつも悪役だ。正義の神様が利宇摩神をやっつける話に、人々は溜飲をさげるのだ。

(わたしの神様は、悪い神様……)

 塞いだ気持ちで家へ戻ると、流留は祖父から、多津子が流留に残した例の書き付けを渡された。


 流留ちゃんへ

 これを読んでいる流留ちゃんは、もう利宇摩様に出会っているのですね。仲良しになれそうな方でしょう。こわい神様でなくてほっとしていますか。でもその安心は、すこし待ってください。こんなことをいうとおかしいと思うかもしれませんが、神様はこわくない神様のほうがこわいのです。こわい顔でだまっている神様のほうが、こわくない神様なのですよ。そのことをよくおぼえておいてくださいね。

 利宇摩様のどんなところがこわいのか、わたしの身の上に起こったことをつうじて書きのこしておきたいと思います。流留ちゃんが利宇摩様と出会うときまで、わたしは生きていられるかどうかわかりませんからね。

 わたしは利宇摩様と、七つのときに出会いました。利宇摩様はにこにこしたやさしい神様だったので、すぐに仲良しになりました。十年経って、わたしが数えで十七歳になったとき、利宇摩様は力をくださいました。利宇摩川を動かす力です。わたしはとてもうれしかったのをおぼえています。おとうさんやおかあさんや、ほかの神子家のみんながほめてくれたからです。滝家はわたしが生まれるまで百年も女の子が生まれていなくて、利宇摩様は女の子にしか力をくださらないのです。

 これで帝都に帰れると、おとうさんは言いました。おかあさんは、利宇摩様に由良(ゆら)小路(こうじ)様のご子息と結婚させてくれるようにたのみなさいと言いました。由良小路様という方は、帝都でえらい政治家をやっている方でした。わたしはいやでした。由良小路様のご子息なんてしらない方だし、仲良しの利宇摩様にうそをつきたくなかったのです。

 おかあさんがどうしてそんなことを言ったのかというと、利宇摩様は神子の恋をかなえてくださる神様だからです。おかあさんはわたしにえらい人と結婚してほしかったのです。けれど、わたしはしらないえらい人となんかでなくて、ほんとうに好きな人と結婚したいと思いました。わたしには好きな人がいたのです。その人は利宇摩支流の小さな神子家の人でした。わたしは好きな人の名前をこっそり利宇摩様に教えました。

 やがて戦争がはじまりました。戦争に勝つために、えらい軍人が、おそろしい研究をやるように神子たちに命じました。神様を死人に宿す研究です。研究はなかなか成功しませんでした。外国の研究の様子から、死人はふつうの人よりも神子のほうがうまくいくことがわかりました。

 わたしの好きな人が殺されることになりました。お国のために命をさしだすように、命令されたのです。わたしは泣きました。涙が枯れるまで泣きました。彼が殺されてしまったら、わたしも死んでしまいたいと思いました。わたしは国を憎みました。戦争を憎みました。利宇摩様に彼をたすけてくださいとたのみました。

 利宇摩様はわたしの願いをかなえてくださいました。

 大きな洪水を起こしたのです。

 洪水は研究所を流しました。研究を命じられていた神子たちを流しました。研究所は工場地帯にあったので、工場もぜんぶ流しました。工場で一生懸命働いている人たちも流しました。工場地帯のまわりの家も、そこで暮らしている人たちも、みんな流しました。

 何百人もの人が流されて死にました。

 その洪水のせいで、研究は中止になりました。何百人もの命とひきかえに、私の好きな人はたすかりました。

 利宇摩様はわらって言いました。もうだいじょうぶだと。

 なにがだいじょうぶなのでしょう。どうしてわらっていられるのでしょう。

 利宇摩様はわたししかみていなかったのです。自分の神子しかみえていなかったのです。

 わたしのほかの、何百人もの流された人と、その人たちの死を悲しむ人は、みえていなかったのです。

 わたしは利宇摩様のやさしさがどういうものか、そのときやっと気がつきました。

 利宇摩様は狂っているのです。

 わたしは洪水を起こした神子として、牢屋に入れられました。わたしはなにもしていませんが、わたしがやったのとおなじことです。利宇摩様の狂気に気がつかなかったわたしが、何百人もの命を水に流したのです。

 牢屋の中で、わたしは結婚するようにいわれました。滝家の女は子孫を残さないといけないからです。利宇摩様の力を降ろせる神子の血を絶やしてはいけないからです。

 わたしは子供など産むものかと思いました。利宇摩様の狂気を断ち切らないといけないと思いました。わたしの子供の父親になるために、牢屋までやってくる男から、どんな手をつかっても逃げようと思いました。

 しかし、やってきたのはあの人でした。

 わたしが好きだったあの人でした。

 あの人はわたしを抱きしめて、なぐさめてくれました。わたしは逃げられなかった。自分の恋からついに逃げられなかったのです。利宇摩様の勝ちでした。

 牢屋の中で生まれた子供は男の子だったので、わたしはほっとしました。でも安心はできません。この子が将来結婚して、女の子をもうけたらどうしよう。わたしは牢屋に閉じこめられたまま、毎日毎日考えました。滝家の女の子が、利宇摩様の狂ったやさしさから逃れる方法を毎日毎日考えました。

 そしてある日、わたしのいる牢屋に、風をあやつる風神子様がやってきたのです。


「おい流留」

 自分の部屋で多津子の書き付けを読んでいた流留は、あわててそれを机の引き出しにほうりこみ、ぴしゃっと閉めた。

「ノックくらいしてください」

 潤に入ったトーマは椅子に座った流留の前までつかつか歩いてくると、流留の両肩を両手でがっしりとつかんだ。

「渡鳴に会った。あれはなんだ?」

「渡鳴様に?」

「あんな抜け殻、渡鳴じゃない。あれはなんだ!」

 流留は目の前にせまるトーマの目をじっとみつめた。

 怒りを帯びた真剣なまなざしだった。

「あんなうつろな神様は渡鳴様じゃないっていうのは、渡鳴湖の神子全員が思ってます。あの方が渡鳴神の分体なのはまちがいないけど、あの方はわたしたちの渡鳴様じゃない」

「本当の渡鳴はどこへ行ったんだ」

「……石になってるかも」

 トーマの顔色が変わった。

 驚きと狼狽。言葉の意味が沁み込んで、さらに激しくなる怒りが、トーマの心に燃え盛るのがわかる。

 流留は読んだばかりの多津子の言葉を思い返した。

『利宇摩様はわたししかみていなかったのです』

(ちがう。そんなことない)

 今トーマがみているのは、目の前の神子ではなくて、トーマの心の中にいる本当の渡鳴様だ。

(利宇摩様は神子以外だって、ちゃんとみることができる。だってトーマは今、渡鳴様のことを思ってる。渡鳴様の不在を悲しんでる。渡鳴様のために怒ってる)

 ならば、トーマの悲しみと怒りを信じよう。

 信じてみよう。

 トーマが渡鳴様を思う気持ちを。

「お父さんと、怜流おじさんと、淳史おじさんが、神様を石にしてまわってるアメリカの聖職者を追いかけてます」

「あのこわい神官が来てるのか?」

「トーマ様を石に変えた神官はもう死んでると思いますけど。でも、同じ能力を持った聖職者が、アメリカには何人もいるみたい。彼らは神様の石を集めてるんです」

「なんのために」

「デイジーの話では、神様の力を我が物にするために。神様は乗りものに乗れないけど、石にすれば飛行機や船に乗せて簡単に海外へ持ち出せるでしょう。人に宿すよりもっと簡単に。高い位を得るために、手下に石を集めさせてる神官がいるみたい」

「……またそんなことをやっている外国人がいるのか」

「また?」

「終戦直後にも来たのだ。追い払うのに私も手伝わされた」

「……手伝わされた? どうやって? 終戦後しばらく、大ばば様は牢に入ってたでしょ? 神子なしでやったんですか? でもトーマ様は神子がいなかったら、おっきい洪水しか起こせないんじゃないですか?」

「大ばば様って多津子のことか? 牢なら出たぞ」

「大ばば様が釈放になったのは、終戦から何年も経ってからですよ」

「一度勝手に出たのだ。脱獄だ」

「はぁ? 脱獄ぅ?」

 なんだか、どっかできいた話みたいになってきた。

 たしか深二が貸してくれたマンガだ。

「風神が力を貸して、監獄の庭から連れ出したらしい。重罪人を取り逃がしたとあっては政府の威信が回復できないとみてか、緘口令が敷かれて騒ぎにはならなかったがな」

「……マンガの話じゃないですよね?」

「マンガ? なんだそれは。私は風神に頼まれて、多津子とともに大量に霧をつくったのだ。風神がそれを海上に運んだ。敵の船と航空機を寄せ付けないためにな。当時東京湾は魔の海と呼ばれたぞ。霧で視界を塞がれる上に、計器がすべて狂うのだ。計器は木神の神子の仕業だがな。細かな種や胞子が入りこんで、部品の隙間で発芽するのだ。胞子を運ぶのも風神がやった」

「……マンガの話じゃないですよね?」

「だからなんだそれは。あのデイジーとかいう女をみたとき、おかしな縁だと思ったものだ。あれはそのときの木神の神子の血を引く女だ。日本人の血が入っているだろう?」

(よくわかんない。よくわかんないけどなんか……)

 おもしろい。

 テンションが上がる。

「しかし手伝ってやったというのに、私は風神にアメリカへ飛ばされてしまった。飛行機の気流に縛り付けられてな。うかつであった」

「飛行機の気流?」

「羽子崎に飛行場があるだろう。羽子崎は利宇摩川の河口だ。羽子崎から飛び立つ飛行機の気流は、利宇摩川の『流れ』の続きのようなものだ。私を空気の『流れ』に乗せられるとみた風神が、神子に気流をあやつらせて私を身動きとれなくしたのだ!」

「そんなことができるんですか」

 河川神の本体は『水』ではなく『流れ』。そのことは月夜がよく言っていたが、水の流れだけではなく空気の流れとも関係が深いとはしらなかった。

「私は風神とともにアメリカへ渡ったが、私が石にされてる間に風神のやつは逃げ去った。あの風神、今度会ったら消滅させてくれるわ!」

 羽子崎。飛行場。風神。

 終戦後いなくなった「空飛ぶ神様」。

 流留の中でいろいろな符号がひとつになる。

「羽子崎の軍用飛行場は、国際空港に変わるまで閉鎖されてたんでしょう?」

「一部開港されていたぞ。アメリカの進駐軍のために」

「……風神の神子って誰がやってたんです?」

「知るか。どこぞの幽霊だ。霊体だ」

「霊体っ? 魂が神子やれるんですかっ?」

「やれるようだぞ」

 羽子崎。飛行場。風神。終戦後いなくなった「空飛ぶ神様」。

 そして、手記を残して海に散った高井賢介。

 ……日本を救おうとする風神と、幽霊の風神子。

 そしてアメリカからきたデイジーは、風を連れている。



     三


 流留はいてもたってもいられなくなって、渡鳴神社にいるデイジーに会うために、再び渡鳴湖へ向かった。

 なぜか当然のようにトーマもついてきた。

 通いなれたいつもの山道。崖の下には利宇摩川が、激しく水音を立てて流れている。

 流留は歩みを止め、潤に入ったトーマをふりかえった。

「トーマ様」

「様はいらないというに」

「わたしに力をください」

 トーマは流留に近づいて、じっと顔をみた。潤はくっつくほど顔を近づけたりしないので、慣れない距離に一歩引く。

 中身は利宇摩尊でも、顔は潤だ。なんだか照れくさい。

「……流留はまだ子供ではないか」

「ふんだ。悪かったですね。なんで子供じゃだめなんですか」

呼江(こうみ)が大人の女だったから」

(またか……。呼江が出てくると質問が成り立たないんだけど!)

「トーマ様は呼江がお好きだったんですか」

「うん」

「……だから、呼江の夫を殺したんですか」

 ついにきいてしまった。地雷かもしれないのに。

「なんで呼江が好きだと夫を殺すのだ? 神子はみんなそうきくが、女はどうしてこう、ヤキモチの話にしたがるのだ」

「あっ、ちがうんですか? じゃあ呼江の夫が、勝手に水路を変えたから?」

「川がどこをどう流れようが、そんなものは『しんかんせん』でいくか『こうそくどうろ』でいくかくらいの違いだ」

 トーマは覚えたばかりの言葉で例えをつくった。案外、時代への適応がはやい。

「……じゃあなんで、呼江の夫は川で溺れて死んだんですか?」

「……落ちたから」

「は?」

「呼江が留守の間に、呼江の夫が政敵に誘いだされて川へ落とされたのだ。まずい落ちた!と思ってるうちに流れていって、溺れて死んだ」

(それは殺したって言わないよね?)

 河川神は落ちた人間を掬いあげるなどという、器用なことはできないのだ。落ちた人間は、神子が協力しなければ助けることができない。

「そうしたら呼江が私に、なんで黙ってみていたんだ、おまえが殺したも同然だと言って、怒って泣いて。恨んでやる呪ってやると言って、あの人がいなければ生きていけないと言って、自分で自分の喉を刺して、川へ飛び込んだのだ」

「え……」

「私は呼江の血の匂いがする川でいるのが、嫌で嫌で嫌で」

「…………」

「雨になって繰り返し戻ってくる水を何度も溢れさせた。呼江の血の匂いが消えるまで」

「…………」

「呼江の子孫の女がまた、川に飛び込んで死んだら嫌だ。呼江と同じ血の匂いがするから」

「……トーマ様」

「女は夫が死ぬと自分も死ぬのだ。思い人が死ぬと自分も死ぬのだ。思い人と一緒になれなくて、川に飛び込んだ神子もいた。神子の死穢は呼江の死穢と同じ匂いがして、嫌だ」

「大ばば様も、死んでしまいそうで嫌だったんですか」

「うん」

「大ばば様を死なせないために、洪水を起こしたのですか」

「うん」

「……トーマ様、わたしは川に飛び込んで死んだりしません」

「うん。私がおまえの思い人を守るからな。だいじょうぶだ」

(そうじゃない。そうじゃなくて……)

 だいじょうぶだと、笑顔で言うトーマを見て、流留はなんと言葉を紡いだらいいかわからなくなった。

再び前を向いて歩いていたら、思いがけず涙がにじんできた。

 自分だって、潤が死にそうになったとき、利宇摩神を恨んだ。

 恨んで、呪って、泣き叫んだ。

 トーマのせいではなかったのに……。

 流留はトーマが不憫でかわいそうで、なんだかたまらなくなってしまった。


 渡鳴神社に着くと、ジャラナーバが境内の大銀杏の根元で、膝を抱えてぽつんと座っていた。

「ジャラナーバ様。デイジーはどこですか?」

 神様を見下ろすわけにはいかないので、流留も彼の前に膝をつく。

「……笹森楓です。デイジーなら、僕の封印を全部解除するように、霞月さんと交渉中です」

 ジャラナーバはお守り授受所の二階にある、社務所のほうを指さした。

「ありがとうございます。ジャラナーバ様」

「……笹森楓です。デイジーだって、普段は楓って呼ぶんです。楓って呼んでください」

「承知しました、楓様」

「様はいりません」

「……」

 流留は一礼して立ち上がり、もう一度深く礼をしてから大銀杏から立ち去った。ジャラナーバこと笹森楓は、流留の礼に会釈を返した。神様はそんなことしなくていいのに。

「様をつけるなって、流行りなんですか? トーマ様」

「だから様をつけるなというのに」

「月夜様に絶対しかられるから、ダメです」

 境内を社務所に向かって歩いていると、バタバタと走り寄る足音がきこえた。狩衣を脱いで普段着に戻った清一と深二だった。

 ふたりは潤の魂を探しに、鳴滝山の西に位置する、日場山(ひばやま)へ行っているはずだった。

 ふたりは流留たちからやや距離を置いた場所で立ち止まり、潤の姿の利宇摩尊にそろって深く礼をとった。

 三呼吸置いても顔をあげない兄弟に、トーマがいらついた調子で言った。

「ぺこぺこぺこぺこするな。うっとうしい!」

 ふたりは言われてようやく顔をあげた。

「申し訳ございません」

 清一が言った。

「あやまるな!」

 流留が「ちょっと、なに怒ってるんですかトーマ様」ととりなすように言うと、「様をつけるな!」とさらに怒る。駄々っ子みたいだ、もうほっとこうと流留は思った。

「今日は日場山じゃなかったの?」

「日場山に向かう途中に、異変があったんだ。父さんたちには知らせたけど、オヤジ三人組は山を越えて日本海側へ行ってる。オヤジ組が追ってる敵は北陸方面に行ったらしい。なのに今、おかしなことがすぐそこで起こってたんだ」

 深二が手にした地図を広げる。赤マルや青マルがいくつもついているが、そのマルを数個まとめて囲むように、蛍光イエローで大きなマルがつけられている。ちょうど鳴滝山と日場山の間の、谷になったあたりである。

「この黄色のマルはなに?」

「赤マルは潤のかもしれない若い魂を見かけた九十九神の支配域。青マルは同様の、妖怪の行動範囲。黄マルは……謎の結界が張ってあった範囲。結界はおれらが調べてる間に解かれた」

「謎の結界……? 誰が張ったの?」

「鳴滝神社の神子でも、日場山神社の神子でもないことは確かだよ。流留でもないよな? このあたりにほかに神子家なんてない。どこかよその土地の神子がやったとしか考えられない」

「よその土地の神子か、それともよその国の聖職者か」

 清一の言葉に深二がつけ足す。

「……渡鳴を石にしたかもしれぬ輩か」

 トーマが口を挟んだ。

「そうです」

 真剣な顔で清一が答える。

 そのとき突然、静かな境内に怒声が轟いた。

「だからいわんこっちゃないのですわ! わたくしをこんなところに足止めさせるから、『神力狩り』が野放しになるんですのよっっ!」

 デイジーは降りてきたばかりの二階の社務所に向かって、

「FU――○K! さっさと封印解けって言ってますのよ!」

と、中指を立て悪鬼の形相で怒鳴りつけた。

 社務所の窓から、狂犬をみるようなおびえた顔で、霞月がデイジーを見下ろしていた。



     三

 

 デイジーが渡鳴神社所有のバンを運転し、清一、深二、流留、トーマ、楓は、謎の結界が張ってあった日場渓谷付近へ到着した。

「このあたりに結界があったの? ……土性の神力バランスが濃くなってる」

 車道から谷を見下ろし、流留がつぶやく。

「羽子崎の神力管理局を襲ったやつと、同じやつのしわざか?」

 清一の問いに、デイジーは「わからなくってよ。神力石化の技能を持つ聖職者は、みんな土属性のエネルギーをつかいますもの。敵は一グループとは限らなくてよ」と答えた。

「土属性ね……。おれら分が悪くね? 水性は土性に剋される」

 神力には相対した場合、勝ちやすい相性・負けやすい相性がある。水の神力は、土の神力に相対して効力を発揮しづらく、争いになったら分が悪い。

「わたくしがおりますでしょ。木性は土性を剋しますわ。楓、わたくしの目が届かないところに行くんじゃなくってよ? またうっかり石にされたりしたら、次は見捨てます。自覚の足りない輩はいらなくってよ。このわたくしがあてにしてさしあげるの。わたくしにしっかり力降ろしてちょうだいね」

「はい」

 デイジーと楓の、神と神子の地位が逆転したやりとりに、清一と深二は不思議そうに顔を見合わせた。

「鳴沼弟。あなた、雑神に詳しいんですのね? この谷に、人間の観点から見て、使い勝手のよさそうな雑神はいまして?」

「人間の観点からみて? ……ときどききてるよ」

「その雑神の属性と特性をお言いなさいな」

「属性なし。道の九十九神で、コミュニケーション能力があるっていうか……。妖怪と話せる。人間の言語にもかなり通じてるな」

「その雑神、狩られたかもしれませんわ。そういう便利そうな雑神を欲しがる改革派聖職者は多いですもの。結界は『狩り場』だったのですわ。獲物を逃がさないための、『神の檻』」

「狩られた!? 石にされたってことかよ?」

「運が悪ければそうなってますわ」

「ざけんなくそっっ!」

 深二が谷へ下りる坂道をすべるように駆け下りていく。

「深二!」

「ローック! 返事しろロック! ロック! 六田(ろくでん)! (ろく)田路(でんろ)!」

「我々も追いかけますわよ。トーマと楓は絶対そばを離れないでくださいましね? 指揮をとるのはわたくし! GO!」


「ロックうううう!」

「深二、ここ、ここ」

 獣道を駆け下りながらわめいていた深二は、頭上からきこえた声に顔をあげた。声と言っても肉声ではない。大木の枝に立っている()(ずら)に水干姿の少年も、実体ではない。

「よかったあああ! 無事だったんだなロック!」

「なんとか逃げたよ。すっげこわかったけどな。やっぱこえー。アメリカ人こえーよ。それよか、大変なことになってるよ深二!」

 ようやく一行が追いついてくる。ロックこと口調のくだけた九十九神、六田路(ろくでんろ)は、一行の中のひとりに気づくと絶叫した。

「ぎゃあああああ! 利宇摩の分体がいる! おまえ消滅したんじゃなかったのかっ!」

「ふん。生憎だったな」

「アメリカ人もこえーけど利宇摩はもっとこえーよ。もう都会にかえろ……。つか深二、えらいことになっちゃったよ! 渡鳴がやばいよ! 連れてかれちゃうよ! アメリカ人の二人組の男が、渡鳴を水色の石にして、がっつり封印しちゃってるよ。渡鳴だけじゃない。いろんな石を持ってた。黄色のとか黒いのとか桃色のとか……。めっちゃこえーよ! あいつら、あの石持ってっちゃうの? アメリカ持ってっちゃうの? あいつら、神子どもにばれたようだから帰国するとか話してたよ」

「やつらはどこに行きましたの?」

「車で東南方面に。空港に行ったんだよ。羽子崎から今日の直行便がどうたらって話してた」

 ……羽子崎空港!

 一同は顔を見合わせた。もはや一刻も猶予はなかった。


 一行は大急ぎで車に戻った。

「羽子崎に行くか? このまま(ちょく)で」

「弟、あの雑神は信用できますの? 道の神のくせになぜ山にいるのかしら。あやしいですわ」

「ロックはおれをだますようなやつじゃないぞ!」

六田路(ろくでんろ)は日場山と(あり)()()四辻(よつじ)をつなぐ道なんだよ。有香路四辻は東野平野有数の商業区に成長してるけど、有香路神は九十九神だったから神力に乏しい。だから日場山神が神力を補佐してるんだ。六田路様はその有香路と日場山を中継してる道の神だ。立場は固い」

 清一がざっと説明する。

 デイジーは少し考え、「了解」と一言述べた。

「楓の封印も解けたことですし、行きますわよ。羽子崎へ!」

 デイジーが運転席に乗り込む。

 清一と深二は、日光の降り注ぐ日場渓谷をふりかえった。

「潤――――っ!」

 谷に向かって、深二が叫ぶ。

「待ってろ! そこ動くな! 渡鳴様を取り返したら、次はおまえを取り返す! 逃げるなよ! おれは絶対おまえを行かせないぞ! おまえは戻ってくるんだ――――っ!」

 清一が泣きそうな顔で弟をみて、そして谷をみた。

 流留も谷をみた。

 まだ日は高い。

 今日のうちに渡鳴様を取り返すと、強く心に誓う。

「潤――――っ!」

 流留も叫ぶ。おもいきり、腹の底から。

「そこにいるなら一緒にきて! あんたも渡鳴様をたすけるの! あんたが必要なんだから! 体ならここにある! さっさと戻ってこ――――いっ!」

「そーだ、こい! 戻ってこ――――いっ!」

「潤――――っ!」

「潤――――っ!」

 清一が眼鏡の奥に手をやり、滲む涙を指でぬぐった。

 そんな神子たち三人の様子を、トーマがうるんだ深い瞳でじっとみつめていた。


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