2・霧流れの風神子
一
曾祖母・多津子の葬儀のあと、十歳の流留はしばらく立ち直れなかった。渡鳴神社で毎日励んでいた神子修行にも、まったく行かなくなってしまった。
そんな流留を心配して、清一と深二と潤は、入れ替わり立ち替わり、ときには三人一緒に、滝家にやってきては流留をなぐさめた。
「国賊なんて、戦時中の言い方じゃないか。テレビや雑誌は人目をひくために、そんなレトロな言い方してるだけだよ」
清一は毅然と言った。
「言い方がなんだって、大ばば様はひとごろしだもん」
「流留」
「何百人も殺したんだもん。利宇摩様の力を使って、何百人も。利宇摩川を溢れさせて」
「多津子様は人を殺したくて洪水をひきおこしたわけじゃない。戦争を止めたかったんだ。利宇摩川沿いにあった軍需工場を壊してしまいたかったんだ。それに、戦後わかったことだけど、洪水の被害がもしなかったら、アメリカ軍は軍需工場地帯に空爆を予定してた。空爆が実行されてたら、死者は何百人じゃすまなかったんだよ。何万人も死んだはずだ」
「何万人を救うためなら何百人は殺していいの?」
「何百人も死者が出たのは、川の水が増水してるのに、軍部が避難勧告を出させなかったからだよ。工場を止めたくなくて。敗戦後の裁判でその非が認められたから、多津子様はのちに釈放になったんだ」
「避難勧告が出てたって、きっと死ぬ人は何人もいたよ。すごい洪水だったんでしょ」
「流留……」
「わたし、いらない。神子の力なんていらない。修行はやめる……」
流留の目が涙で潤む。清一はうなだれて、口を閉ざすしかできなかった。
そのとき深二が言った。
「にーちゃんにーちゃん、それちがうから。多津子様は釈放になったんじゃなくって、脱獄だから、脱獄。大脱走」
「深二いいいっ!」
清一はバカな弟の口を塞ごうととびかかった。
深二はひゅるりと身をかわす。
「多津子様はねー、水神子だと見せかけて、実は風神に選ばれた風神子だったんだ。風神が牢獄から多津子様を連れ去ったんだよ」
「おまえそれは、おとぎ話の世界の話……」
「おとぎ話じゃないよ。マンガだよ。映画にもなってるよ」
「じゃあ言い方を変えてやる。ファンタジーの世界の話だ! 風属性の神は確認されてない。神の属性は木・火・土・金・水!」
「多津子様は水の力もあやつるから、『霧流れの風神子』っていわれててね。水を霧にして風で流すんだ。敵機は多津子様の霧に阻まれて、視界を失う。あ、マンガの中では多津子って名前じゃないけど」
「だからそれは、多津子様をモデルにした完全なフィクションで……」
「多津子様と一緒に国を救うのが、『花舞いの風神子』ね。彼女は木神の力も扱えるんで、種とか胞子とかを風にはこばせて、敵の空母に植物を異常繁殖させちゃうんだ。敵の空母は機能停止。火属性なのは『陽明の風神子』ね。これは男で、俺様系のイケメンで。土属性も金属性もいるよ。今度貸そうか? そのマンガ」
流留は「うん」とうなずいた。表情に生気が戻っている。単純に、そのマンガに興味を持ったらしい。
清一は苦々しい気分になった。
自分は一生懸命、流留をなぐさめようとしたのに。彼女の涙を止めたのが、ふざけた深二の話だなんて。
僕は何がまちがっていたんだ?
十五歳になった今も、深二は風神の存在を信じている。
今日も教室で「風神祖霊説」とかいう本を真剣に読んでいる。マンガではない。
「祖霊」とは「ご先祖様の霊」という意味だ。人は死んだら千の風になるというのは、日本では昔から広く言われている。民話や昔話にもよく登場する。
人は死んだら死霊になるが、時間が経つにつれ死霊はだんだん浄化され、やがて生前の記憶はうすれて先祖代々の霊たちとひとつになり、祖霊となると言われている。祖霊がさらに浄化され、昇華して空高く昇ると風になるという言い伝えがパワーアップしたものが、風神伝説だ。
風神は元が人だったというところが「妖怪とちっこい神様好き」の深二のハートをくすぐるのだろう。
ちなみに西洋由来の一神教地域では、人は死んだらそのまま地面に埋められのちに復活すると信じられていることを、流留は深二から教わった。「オレだけが神様!っていばってる神様はねぇ、人間なんかに天界をウロウロされるのがイヤなんだよ。だから地上に縛り付けるんだよ。心の狭いやつだよね」と深二は語る。彼はちょっと偏ってるなあと流留は思う。
さっきから呼んでいるのに深二がぴくりとも反応しないので、流留は前の席に腰をおろし、本を指先で読めない角度に傾けてやった。
「なにするんだ」
不機嫌そうに顔をあげる深二。
かまわず流留は言った。
「きのう潤から電話があってさ」
「デートの誘い? 『俺と一緒に神術バトルしようぜ』」
「それのどこがデートだ。深二きいてないの? 別荘の話」
「きいたきいた。清一が結構やばいことになってる」
「やばいこと?」
流留は眉をしかめた。やはり、あの別荘には問題があったのだろうか。
「別荘の主人が怖がっちゃってさ。この夏、知人から買ったばかりの別荘なんだって。モンスターが巣くってたりしたら嫌だから、定期的に見回りにきてほしいってウチに頼んできたんだよ。清一を指名して」
「清一を指名? なんで……。ああ、英語ができるからか」
「美少年だからじゃね? 奥さんも子供もなしで、ひとりで別荘ライフだぜー? 清一、あやうし!」
「……やばいってそういうことね。バカじゃないのあんた」
「おまえ心配じゃないの? 未来の夫がそっち方面に目覚めたら……」
流留は、手にしていた自分の本で、おもいっきり深二の頭をぶったたいた。
「いででっ」
「その話を学校でするな!」
小声ながらも強い調子で言う。
婚約するかもなんて話が学校で知れたら、うわさで持ちきりになってしまう。友達は流留の血統的な立場をわかってくれてはいるが、そこは「色恋」に敏感なお年頃。クラスメイトの婚約話なんて、血が騒ぐにきまっている。
「……ああもう、わたしの大事な本で、深二の頭なんかなぐっちゃったっ」
流留は大切そうに本をなでさすった。
『空飛ぶ神様 ~僕らの羽子崎飛行訓練場~』というタイトルの、かつての日本軍航空隊訓練生の手記である。
「流留、またその本読んでんの? 何回目だよ」
「きのう『新モノ』映像みたからまた読みたくなって。何度読んでも泣く」
深二はやれやれというように笑みを浮かべた。
「ほんとに好きだよね」
「だってかっこいいんだもん。かっこいいし、カワイイし、やさしい。あ~もう大好き!」
「問題発言だなあ。兄貴に言いつけるぞ」
流留は深二をじろりとにらんだ。「言いつけるな」という意味ではなく、「学校でそういう話をするなって言っただろうが」の意味である。
「おれ、思うんだけどさ」
今度は深二が声をひそめて言った。
「なに」
「風神じゃない? 流留が好きなその神様」
二
流留たちの修行は、学校が休みの日は午前中に、学校のある日は夕方から、渡鳴神社または神社前の湖のほとりで、神様のもとで行われる。
なぜ神様の近くでやるのかというと、神様の神力が届かなければ、人間ごときはどんな訓練を積んだところで、神力の効果発現などできないからである。神力なしで神子にできることは、神様の姿をみたり声をきいたりすることくらいだ。
移動可能な分体である渡鳴尊が近くにいなければ、もしくは本体である湖の力が届く範囲内でなければ、流留たちは水を動かせない。
実はこれは逆も言える。神子がいなければ、神は水を動かせない。
力の大きい自然神は、細かな力をふるうのは苦手なのだ。たとえば河川神は、大きく川筋や水量を変えたりはできても、瞬時に川の中から一匹の魚をすくいあげることはできない。神にそんな力は不要だからである。
流留たちが水柱を立ち上げたり水を砕いて飛沫を飛ばしたりするのをみつめながら、渡鳴尊は思った。よくこんなことができるな、器用だな、と。
(人間はおもしろい……)
人間との交流をまったく持たない自然神も多いが、渡鳴尊はもう千二百年、人間とともにいる。長年、分体で人に擬態して人と話しているうちに、なんとなく人間的な思考のしかたが身についてしまった。「話のわかる神様」として人間に頼られることが多くなって、人間との交流を好まない神々との橋渡しなんかをしてやってたら、人間社会での地位みたいなものができてきて、えらくなってしまった。
だからといって渡鳴神自身は何も変わらないのだが、小さかった渡鳴神社は有名になり大きな社殿になったし、最初は神と話をするのがやっと程度だった神子たちの質が、代を重ねるにつれ格段に上がった。自分の神子が百メートルの水柱を立ち上げる日がこようとは、かつては夢にも思わなかった。
(……夢はみないけれどもな)
修行が終わり、まだ少しばかり漂っている神力の残りをつかって、深二と流留があそんでいる。水際にしゃがみこんで水面から小さな霧を立ち上げ、ふうふう吹いて「霧流れの風神子!」などと言って笑っている。なんのことやらわからないが、かわいらしい子供たちだ。
流留は自分のところの神子ではないが、鳴沼家と婚姻を結ぶときいた。鳴沼家を盤石なものにしたいと願う、当主・鳴沼月夜の申し入れだろう。
今もなお、滝家の血を重く思う神子家は多い。
利宇摩川支流の各神子家にとっては、どんなに落ちぶれようと本流の神子家は血筋的に格上。流留の血を取り込みたいと考える神子家はほかにもあるだろうと、月夜は早いうちに動いたのだ。幼いころから流留を孫たちと共に修行させていたのも、もくろみのうちなのだろう。
流留をかわいがる滝家の者たちにとっても、ほかに神子らしい神子のいない滝家より、現役の優れた神子を何人も抱える鳴沼家に流留がいたほうが、心配は少なかろう。
滝家の女は、少々特別なのであるから。
渡鳴尊は、清一に「小学生みたいだぞ。渡鳴様がいらっしゃるのに」と小言を言われている流留を見た。すまなそうにこちらを見るのでほほえみとかけると、流留は花のように愛らしく笑った。
(似ているな……。ますます似てくる)
滝家の始祖に。
「渡鳴様~!」
社殿の方向からのんきな呼び声が届いた。
清一・深二の父親、鳴沼怜流である。
婿養子である彼は鳴沼家に入ったころ、渡鳴尊に対して緊張でガチガチになり、ろくに口もきけなかったのだが、今では手を振りながら子犬のように愛想よく駆け寄ってくる。
そういう態度は月夜にしかられるぞと注意してやりたくなるが、渡鳴尊自身は親しい人間にこんなふうに楽に接してもらうのが好きだった。
「どうしたのだ、怜流」
「氏子衆からいい酒をいただきました。例祭の前祝いにと」
渡鳴神はにやりと笑った。
怜流もにやりと笑った。
「では、私を実体化するのだ、怜流。こんな幻のような姿では、酒が味わえん」
「かしこまりました。急いで社殿に戻りましょう」
***
渡鳴尊と怜流は、湖のほとりから連れ立って神社へ行ってしまった。
いそいそうきうきした後ろ姿から、神とそれに仕える神子という荘厳な雰囲気は漂ってこない。漂ってくるのは「いい酒いい酒うれしいな~」と浮かれる、ただの飲み仲間風情だ。
このコンビは神の威儀と神子の礼節にうるさい清一たちの祖母・月夜の神経を逆なでするらしく、しかられないようにいつもコソコソしている。婿養子だけでなく、怜流と組むとなぜか神様のほうまでコソコソしてしまうようだ。
「おそるべし、神の威厳を無にする男」
深二が、父親の後ろ姿をみつめて言った。笑ったのは流留だけだ。潤は大抵のことにノーリアクションで、真面目な清一の表情は少々苦い。
流留は渡鳴尊・怜流コンビが好きだった。見ていてほほえましい。
深二は確実に、父親の血を濃く受け継いでいるというのがわかる。趣味がちょっとマニアックなところもよく似ている。
怜流の趣味は「神様お宝映像集め」だ。
この趣味にはまったきっかけは、こうであった。
清一がまだ赤ん坊だったころのある日、我が子のビデオ映像を編集していた怜流は、とあることに気がついた。
微小ながら、映像の中に神力を感じる部分がある。
のほほんとしていても、怜流は月夜に神子技能を見込まれて鳴沼家に入った男である。神感能力だって半端ではない。映像機器がすくいとったわずかな神力にだって、ちゃんと気づくことができる。
怜流は神経を凝らして、映像に集中した。
(あ、渡鳴様が映ってる)
ちょっとした驚きだった。実体化していない神がビデオにうつることも意外だったし、無防備にビデオカメラの前をうろうろする神様がいるというのも意外だった。
怜流の実家が祀っている神様はお堅くて、カメラを向けるなどという行為は厳禁であった。
そもそも、人態をとってくださる神様のほうが少ないのだ。人の姿をとるにしても、神は普通、必要のあるときにしかそんなことはしない。言葉で人間と交渉しなければいけない場合や、姿を現すことで人間に畏怖を与えようとする場合のみである。その場合だって、神殿でうやうやしくご尊顔を拝見しなければいけない。
怜流が渡鳴神社に来てまず驚いたのが、人態の渡鳴尊が渡鳴湖のほとりをのんきに散歩していることだった。まさか湖のみならず、神子の住居にまで顔を出していたとは。
(なにしにいらしてたんだろう……?)
その謎は三年後に解けた。三歳になった清一が、よちよち歩きの深二を撮ったビデオ。
その中で渡鳴尊は、深二をあやそうといないいないばーを試みていた!
しかし、深二はまだ神様を見ることができない。当然、無反応だ。渡鳴尊は一瞬だけムッとし、「ああそうか、みえないんだった」と納得したような顔つきになった。
(渡鳴様は赤ん坊を見に来ていたのか!)
神様に対する親近感が、急激に湧きあがってきた出来事であった。
(神様もけっこうかわいいとこあるんだな。もっとみたいな)
そう思った怜流は、ときどき神感を凝らしてテレビなどを見るようになった。
自然神で渡鳴尊のような神様は滅多にいないだろうけれど、市場から生まれた商業神や、書物から生まれた学問神など、人工物から生まれる九十九神から発展して土地神にまでなった神もいる。そんな人間寄りの都市神様だったら、人の姿でそこらへんを歩いていることもあるかもしれない。意外な姿をうっかり撮影されてるかも……。
怜流の読みは当たった。
今では結構な量の「お宝映像」がたまっている。神感能力がない者は観ることができないから、自慢できる相手が少ないことだけは、ちょっとむなしい。
当主の月夜や妻の霞月に見せたら「不謹慎」とおこられそうな気がするので、子供たちに自慢する。清一と深二と、鳴沼家に身を寄せている潤と、それから流留。
***
修行のあと、清一は約束通りルジェンドリ氏の別荘を訪れた。
木性神力が濃かったあの豪奢な別荘である。
曲線を多用した室内装飾、蔓草モチーフのバルコニーの手すり。凝った植物模様の重厚なカーテン。苔の上を歩くような感触の、密な毛足の分厚い絨毯。日本人のさっぱりした好みとは、やはり大きくちがうなと清一は思った。
その後、この別荘に異常は感じられない。あの日はこの装飾過剰な異国の雰囲気にのまれてしまったのかもしれない。
異常はないです、大丈夫ですとルジェンドリ氏に告げたが、彼はまだ恐怖心がなくならない様子だ。モンスターが湧くくらいたいしたことではないですよ、よくあることですと言ったら、「オオオウ!」と悲痛な声をあげられてしまった。泣きそうな顔で、また来てくださいと念をおされる。
(しまった。日本と欧米では、妖怪に対する意識が全然ちがうんだった)
欧米、とくに現代のアメリカは、神力の徹底管理が有名である。妖怪のような雑多なエネルギー体はすみやかに回収されるため、「妖怪がそこらへんにいる」という事態がまず起こらない。
妖怪くらいいようがいまいが一般人にはみえないのだし、妖怪が悪さをしようにも、妖怪の力は神子のような神力者が媒介しないかぎり、人間の生活世界に影響を及ぼすことはない。放っておけば人畜無害なのだが、そのあたりは理屈で納得できることではないのだろう。いたらイヤなものは、いたらイヤなのである。
不用意なひとことで、清一は当分ルジェンドリ氏のもとに通うことになりそうだ。
(まあいいか。英会話の実践練習ってことで)
清一はアメリカに興味を持っている。
日本の神子システムは、古代からの伝統だ。
伝統といえば聞こえはいいが、惰性ともいえる。今までこれでうまくいっていたのだから、これからもうまくいくだろうという、楽観にのっとった反省のないシステム。
原始、神がいて、その神を降ろすことができる神子がいた。その神子の子孫が、またその神を降ろす。子孫が途絶えたら、近い血筋の神子をつれてくる。その神子の子孫がまたあとを継ぐ。世襲のくりかえされる神子家。神子は、血統がものを言う。
血統に頼っていていいのだろうか。先祖の血は、それほど重要なのだろうか。
始祖の血さえ受け継いでいれば、どんな暴れ神の手綱でもとれるというのか?
清一は首を振った。
利宇摩神の神子、多津子様。洪水は、本当に彼女が望んだことだったのか?
たとえ戦争を止めるためだったとしても、多津子が洪水を起こすために神の力を使ったとは思えなくなった。
おそらく利宇摩神がやったのだ。多津子の能力を通さずに。
自然神は自然バランスを崩すようなことはしないという。人にとっては災害でも、神が起こす自然災害は、長期でみたら必要なものだという。しかし、あの洪水は自然界にとっても不必要なものだったらしく、周辺の神々はその後始末に追われた。洪水は軍需工場のみならず、自然界のバランスをも破壊した。
だから神の意志ではない、神の力を悪用した人の意志だと、多津子が疑われたわけだが……。
荒ぶる神。邪神。悪神。祟り神。利宇摩神をそう評するのは、人間だけではない。
狂神。そう言ったのは、渡鳴様。
利宇摩川は、狂った神の川。
流留は、狂った神の神子。
(流留ひとりには無理だ)
アメリカの神力者は、世襲制をとらない。血筋に関係なく、実力のあるものが大きな神力を扱う役目を受け持つ。そんなアメリカの神力者を育てる養成機関は、その圧倒的な実績から、近年世界で注目されている。
アメリカで学びたい。利宇摩神を制する力をアメリカの養成機関で学びたい。
狂った神から、この広い東野平野を守る力を。
幼い流留を守る力を。
清一は自宅に戻る途中、神様と父親が酒盛りをしている神社をのぞいてみた。
神聖な神殿や拝殿で酔っぱらうのはためらわれたようで、拝殿入口近くの控えの小部屋が酒盛りの場となっている。
そんなところで隠れるみたいに飲まなきゃいいのにと思う清一である。渡鳴様に守護していただく土地の人々が、渡鳴様のためにもってきた酒なのだから、お飲みになりたければ神殿で堂々と……。
(いや、やっぱり隠れて飲んでほしい)
「おや、せぇいち。おまぇものむか」
平安装束をだらしなく着崩して、美しいはずの面を真っ赤に染め、呂律のまわらなくなった我らが神なぞ、土地の人々に見せられたものではない。酒を飲むために「実体化」して肉体を持っている今の渡鳴尊は、神子でなくとも見えてしまう。誰にだって見えてしまう。
人態をとった神の分体を常世とよばれる神の次元から吸い出し、神力によって物象として生活世界に固定すると、血肉を持った人間のようになる。肉体を持つから一見人間とおなじようだが、食べたり飲んだりする必要はない。酒を飲むのも肴をつまむのも、渡鳴尊が好きでやっていることだ。
実体化は細かい技術のため、神子を必要とする。
細かい技術ではあるが、一般の人々の神をみたいという要望は多く、昔からありふれた神子技能と言える。清一でも深二でもできるのだが、渡鳴尊は実体化には必ず怜流を指名する。
実体化されるほうにしてみると、神力者によって肉体の出来が違うのだそうである。怜流のつくった体が、一番酒がうまく飲めるとかなんとか……。
「未成年なので」
清一は杯を断った。
「なんでおまえそんなに真面目なの。おれの息子のくせに。保護者が許可を出す。のめ」
それは許可ではなく命令だ。しかたなく下座につき、父につがれた杯をあおる。銚子を手にして渡鳴尊の杯を満たす。
渡鳴神は満足げに飲み干し、言った。
「せぇいち、おまぇ、ながるをめぇとるのかぁ?」
メートルのか? いや、「娶るのか」か。
「そのつもりです」
「ながるにあぃされるかくごはあるぅのか? ながるにあぃされるおとこは、しんでたましぃになっても、おぃかけられぇるのだぞ」
流留に愛される男は、死んで魂になっても追いかけられる――。
「誰に追いかけられるんですか。流留にですか?」
「とぉーま」
とぉーま。
――利宇摩。
荒ぶる神。邪神。悪神。祟り神。
滝家の神子に執着すると言われる――狂神。
「それならば、覚悟の上です」
三
数日後の休日。
午前中の修行のあと、流留は清一から誘われた。
「ルジェンドリさんの別荘に一緒にいかないか」
「へ? あの別荘? なんでわたしが?」
「なんというかその……お茶に招待してくれたんだ。流留にみせたいものもあるし」
修行のときは毅然としているのに、なぜか清一はそわそわとおちつかない。
一応、流留にも「女の勘」は標準装備されているので、これは神事関係の用事ではないというのはわかった。
(きた。ついにきた)
神事関係の用事でなかったら、婚約関係の用事に間違いない。
婚約話についてその後鳴沼家から正式な話はないものの、正式でない話は霞月からも怜流からも、渡鳴尊からもささやかれている。ホントは清と深どっちがいい?とか、入籍は成人してからがいい?とか、ほかに好きな男はいないか、大丈夫か?とか。
(ほかに好きな男はいないかってきかれても)
それをきいてきたのは渡鳴尊である。
(いるっちゃいるけど、どうにもならない相手だし)
相手は人間じゃないし。
しかももう存在してないし。
「いません」と答えたら、「いると言っていただろう。沙月に」と言われた。
沙月は霞月の妹で、清一と深二の叔母だ。現在は東京にいて、国家公務員をやっている。
「それ、もしかして五歳のときの話じゃないですか」と流留が問うと、「そうだったか?」と渡鳴尊は思案顔になっていた。神様の時間感覚はよくわからないと流留は思った。
それはどうでもいいとして、清一である。
「わたしにみせたいものって?」
「えーっと、まあそれは……道々話そうかと……」
流留の視界の端っこで、深二が突っ立っている潤をひっぱって、場から去ろうとしていた。潤の辞書に気を利かすという文字は、あるとしてもきっと読めないほど薄い。
渡鳴湖周辺の空気は秋らしく澄んでいた。
平野部ではまだ残暑が厳しい九月だが、山間の避暑地の秋は訪れがはやい。渡鳴湖を見下ろす鳴滝山は、朝夕ずいぶん肌寒くなった。
鳴滝山には、利宇摩川の源泉がある。
源泉の近くには、利宇摩神を祀る小さな祠がある。
かつて東野平野で知らぬ者のなかった、国弊大社利宇摩神社。江戸の中心部に本殿を構え、時の権力に沿い、威勢をふるった時代もあった。けれど現在そのなごりを留めるのは、流域に点々と存在する小さな祠のみである。
流留と清一は、別荘地へ向かう坂道をぎくしゃくしながら歩いていた。
「ルジェンドリさんは宝石商なんだよ」
「へえ。宝石商」
「渡鳴湖の別荘地には夏にお得意様が集まるから、ここに別荘を買ったのは、バカンスと仕事を兼ねてなんだって」
「へえ、仕事を兼ねて」
「この辺りには欧米人の別荘主が多いしね」
「へえ、別荘主」
……オウムか、わたしは。
流留はだんだん自己嫌悪におちいってきた。返す言葉がなにもみつからない。
自分はこんな女の子じゃないはずだった。深二が相手のときほどにはいかなくとも、清一とだってぽんぽん調子よく会話していたはずだ。
やがて、清一も黙ってしまった。
固くなったふたりの頬を、秋風がそっとなでてゆく。
「流留」
小さな声で、清一は言った。
ゆく先の道路に落ちる、木漏れ日をみつめながら。
「僕じゃ駄目か」
「……なにが」
「結婚相手」
流留は首を横に振った。
最初ちいさく。次に、目を閉じて大きく。
「守るから」
「……うん」
「流留を絶対守るから」
「ありがとう」
ゆく先をみつめたままの清一の左手が、流留の右手を包み込む。
あたたかい手。
もう一度頬をかすめて走る風。
この坂道を上まで行って、山道になってもさらに上がって、村々を見下ろせるまで高くのぼれば。
利宇摩川の流れがみえる。
広い大陸の国からきた人は、よく言うそうだ。利宇摩川は滝のようだと。
小さな島国である日本国の、背骨のような山脈から湧き出る、滝みたいにはやい流れの利宇摩川は、やがて川幅を広げ、平野部を流れるころには大河となる。利宇摩川は多くの村を流れ、街を流れ、最後に首都東京を流れ、湾に出る。
多津子が水浸しにしてしまったかつての軍需工場地帯には、まるでなにごともなかったかのように、空に定規をあてたような高層マンションが立ち並ぶ。
(わかってる。清一の気持ちは)
使命感の強い清一が守りたいのは、利宇摩川に連なるたくさんの人々。
(清一が一番守りたいのは、わたし個人じゃない。わかってる)
流留は清一の手を握り返した。清一はゆく先の道をみている。
流留もゆく先の道を見る。道に午後の日差しが照り返している。
そう、これは恋じゃない。
恋ではなく、使命なのだ。
「ルジェンドリさんは宝石商なんだよ」
清一はまた言った。
「清一、リピートしてるよ。こわれた?」
おや、以前のように自然に切り返せたと、流留は思った。
恋ではないと、納得したからだろうか。
「うん、だからさ……。もうすぐ誕生日だろう、流留」
宝石。誕生日。宝石。誕生日。――誕生日プレゼント!
「そ、そうだけど」
「だからさ……。別に今日、決めなくても、いいんだけど。みてみるだけでも」
「宝石っ?」
「みてみるだけでもどうぞって、ルジェンドリさんが言ってくれたから」
「だって宝石でしょ? 値段いくらすんの! もらえないって!」
「だって、誕生日だからってだけじゃ、ないから。婚約……」
宝石。婚約。――婚約指輪!
ぴかぴか光る銀のティーポット。うっかり歯を立てたら噛み割ってしまいそうな、縁のうすい白磁のカップ。注がれた紅茶の品のよい香りが、鼻孔をくすぐる。
「流留さんの誕生日は九月なのだそうですね」
「はい。もうすぐなんです」
「九月の誕生石はサファイアです。心を落ち着かせる、安らぎの石。サファイアのブルーは、あなたの清楚な雰囲気にぴったりです」
「ありがとうございます」
「サファイアは理性、知性の石でもあります。身につけると勉強がはかどります」
「それはすごいですね」
「流留さんは、水の力を扱えるのだそうですね」
「はい。すこしですが」
「清一君は、すばらしい才能だと言っていましたよ」
「とんでもないです。まだまだ未熟者です」
「ご謙遜を。宝石は神の力の結晶と言われております。ブルーのサファイアはもちろん、水の力の結晶です。そんなところも、あなたにぴったりですね」
……というようなことをお茶と焼き菓子をいただきながら、清一の通訳でやりとりしているうちはよかった。場に漂うお上品さに腰がもぞもぞする流留だったが、銀器も高級磁器もレースのクロスも、花瓶にあふれるように盛られた淡い色の薔薇も、レリーフが彫り込まれた椅子もふかふかの絨毯も、女の子なら一度は憧れたことのある「おひめさま」の世界の産物だ。幼いころの夢がよみがえり、流留はうっとりした。
しかし、所詮女は現実的な生き物。
いくつものサファイアの指輪を並べたケースを前に、流留は戦う。
「おおきすぎ。もうちょっとちいさい、みせて。プリーズ」
「エンゲージリング、ちいさいよりこのおおきさグッド」
「おおきいのたかい」
「たかいだいじょうぶ。清一、やさしい」
流留は清一をにらみつけた。
この男はなんだかんだ言っておぼっちゃま育ちだ! ほうっておいたらルジェンドリ氏のいいなりになって、とんでもないでっかい宝石を買わされてしまう!
清一の通訳をうっちゃって、流留とルジェンドリ氏はじかに片言の日本語で話し始めた。片言ゆえ、「お上品」が入り込む余裕はない。
「おおきいの、わたし、にあわない」
「にあう、にあう。流留、あなたゴージャス」
(さっき清楚って言ったじゃん! ったく商人ってやつは)
「流留、ある程度大きくたって、だいじょうぶだから」
清一がおろおろと口を挟む。
「ある程度? ここにあるのが『ある程度大きい』範囲内だと思ってんの? とんでもなくおっきいよ!」
「そうかな……」
「ルジェンドリさんが客を家に呼んで商売する理由がわかった。この部屋だと、ふつうの感覚が狂う。豪華な部屋にいると豪華なものがふつうにみえちゃう」
「うーん、そうかも」
「みてて。おっきい石を見慣れたところで、そろそろふつうのを出してくるから」
流留の言うとおり、ルジェンドリ氏は別のケースを出し、テーブルに置いた。中には先ほどの商品より、ふたまわりほど小さな粒をあしらった指輪が並ぶ。隣のケースの商品とくらべると、だいぶしょぼくれて見える。
ルジェンドリ氏は、どう? だめでしょ? とでも言いたげに、両腕を広げた。
「小さいんじゃない?」
「清一、完全に術中にはまってる……。次に出てくるのが、これとさっきの中間だから。ルジェンドリさんはね、次に出てくる中間ランクに決めさせるのが狙いなの」
日本語のぼそぼそ話に割って入るように、ルジェンドリ氏が英語でなにか言った。清一の通訳を待つ。
「リングじゃないけど、すばらしい宝石があるからみてみないかって」
「そうきたか! 強気だわ。さすがこんな別荘買えるような商売人。あくまで最初の大きさのを買わせるつもりなんだ」
「どういうこと?」
「もっとすごいのをみせられたら、最初みた大粒のだってしょぼく感じるじゃない」
「流留、遠慮しなくていいんだよ」
ルジェンドリ氏に先導され、油絵の飾られた廊下を歩きながら、清一は言った。
「すばらしい宝石」は別室にあるようだ。最高級品は管理がもっと厳重なのだろう。
「遠慮はしてないよ。指輪はもらうつもりだし。ただ、わたしに見合った品物がいいなって思うだけ。ふつうがいいの。ふつうにしたいの」
この結婚は、ふたりの共同事業。そんな意識の芽生えとともに、流留にいつもの調子がもどってきた。男と女だと思うから、しゃべれなくなるのだ。
案内された部屋の窓は、蔓薔薇が絡んだような鉄製の飾りで覆われ、差し込む西日が蔓薔薇モチーフの繊細な影を床に落としていた。美しい趣向に思えるが、流留はピンときてしまった。
この鉄製の蔓薔薇はつまり、鉄格子だ。
防犯ばっちり。
アンティークテーブルの天板がガラスになったような華麗なショーケースに、王侯貴族に献上する品かと思うような、大粒の宝石をあしらったアクセサリー類が並ぶ。ここまで大きいと買うとか買わないとかの次元ではなく、流留はただ素直に、美しい宝石に見入った。
ルジェンドリ氏もこの部屋の品を買ってもらおうとは思っていないようで、気楽な様子で清一に宝石のウンチク話をしている。
「どれかつけてみませんかって」
「えっ」
流留がびっくりしてルジェンドリ氏をみると、彼は「選んでください」というようにショーケースに手を向けた。
「サファイアのネックレスがあったけど、売れてしまって、あいにくほかの宝石しかなくて残念です、だって」
「いいですいいです。そんな、なんだっていいです」
こんなすごい宝石をつけさせてもらえる機会なんて、きっともうない。さっきまで青い石ばかりみていたから、赤い石のネックレスを選んでみた。
「ルビーはやはり、火の力の結晶ですか」と尋ねると、「もちろんです」と答えが返ってきた。
「石を支える台の裏をみてください、だって」
「なにか文字が彫ってありますね」
「封印だって。大きくて質のいい石は大きな力の結晶だから、封印しておかなければいけないっていわれてるんだって。まあつまり、高級品の証だって」
「へえ~」
「アクセサリーに加工してない高級品は、入れ物に封印文字を彫っておくのが、アメリカ東部の風習なんだ……って……」
「どうしたの? 清一」
清一の表情が真剣なものに変わった。
流留が視線を追うと、清一はショーケースの中の緑色の石をみていた。
親指ほどの大きさで、まだカットもされていない原石のようだ。その柱状の結晶体は、小さなガラスのケースに入れられていた。ケースの四隅には、ルビーの裏にあるのとおなじような細かな飾り文字が彫ってあった。
「流留」
「なに」
「結界が発動してる。飾り文字をよくみて」
流留は心を凝らし、鍛え上げた神感を研ぎ澄ます。
ケースに彫られた封印の文字は、小刻みにふるえていた。
流留は、首にかけたルビーのネックレスを裏返してみた。ルビーの封印はふるえていない。金の台座に彫り込まれているただの文字だ。
「ルジェンドリさん。このエメラルドの原石、ちょっとケースから出してみてもらっていいですか」
険しい顔で清一は言った。
「……エメラルドは木の力の結晶かな?」
流留の声も真剣味を帯びる。
「もしかして、あの日の木性神力はこれだったのか……?」