1・国賊と呼ばれた女
一
昔ながらの蚊帳をつり、鈴虫の声をききながら、多津子は曾孫が絵本をえらぶのを待っていた。曾孫に絵本を読んでやって寝かしつけるのが、多津子の毎日の楽しみだ。
曾孫の流留はもうすぐ五つ。春先に芽吹く新芽のように、どこもかしこもやわらかな、桃色の頬の女の子。
「大ばばさま」
流留がえらんだ絵本を手に、するりと蚊帳の中に入ってきた。
「きまったかい? どれどれ。……今日は『おやゆびひめ』かい」
「ねむりひめにしようかなっておもって、しらゆきひめにしようかなっておもって、しんでれらもいいなっておもったけど、今日はこれ」
「ちかごろ流留は、おひめさまものばっかりだねえ」
「流留」の名は、多津子がつけた。
多津子が生まれて以来九十年ぶりに誕生した、滝家の女児。滝家は代々、女児を重んじる。
多津子の息子の名は流太郎。孫の名は渓太郎。
「水」や「流れ」にまつわる名をつけるのが、古代から続く旧家、滝家のならわしだ。
滝家は川神を降ろす神子の血筋。
「流留」の名をきき、同業者である神子家の者たちは、口をそろえて言ったものだ。
「流れる・留める。水を流すも留めるも自在の意か。さすが利宇摩川本流神の力をあやつる本家、滝家だ」
(利宇摩川の神子家なんぞ、もう知るかい)
多津子は心の中で毒づいたものであった。
(利宇摩川のバカ神なんぞ、つきあいきれるもんかい)
利宇摩川のバカ神なら、海外の宗教組織に呑まれて消えてしまった。
……が、海を渡って消えたのは、御神体のほんの一部。利宇摩の流れを荒しに荒していた、もっとも邪悪と言われた一部分のみである。河川神は大きいのである。簡単に消え去りはしない。
利宇摩神はこの土地の――東野平野利宇摩川流域の、最大級の土地神である。
「荒ぶる神」「祟り神」「邪神」と言われ、東野平野の歴史に悪名を刻み続けながらも、他神に潰されることなく数千年、支流や湖沼を含む利宇摩水系全流域の、主神の座に居座り続けるしぶとい存在なのだ。
多津子は膝の上に『おやゆびひめ』の絵本を広げた。
ちかごろの流留は、王子様と結婚してハッピーエンドの絵本ばかり好む。
女の子というものは、齢五歳にしてしあわせな結婚に憧れるものなのだろうか。自分のことは覚えていないし、今まで男児しか育てたことがなかったので、よくわからない。
(これはちょっと、早々に「あの話」をしておかなければいけないねえ)
多津子は絵本を閉じた。
「ご本の前に、流留に大事な話があるよ」
「だいじなはなし?」
黒目がちの目をきょとんと見開く流留。
目も鼻も小さめで、華やかな顔立ちではないが、大和撫子らしいよい顔だ。性格もほがらかで素直だ。このまますくすく育つなら、虫もすぐにつくであろう……。
「あのね、もし流留に好きな男の子ができたらね、神様に教えちゃいけないよ」
「えっ!」
「好きな男の子を神様に知られると、こわいことが起こるんだよ」
「……」
「わかったかい? よおく覚えておおき。じゃあ、読もうかね」
「……」
「おやゆびひめ。むかしむかし、あるところにおやゆびくらいの……。流留? きいているのかい?」
流留は茫然とした表情で、絵本ではなく蚊帳越しに中空を見つめている。
「どうしたんだい?」
「わたし、しられちゃった! 清ちゃんと深ちゃんと潤くんと、しゅぎょうしてるときに。沙月ちゃんに『流留ちゃんはだれがすきなの?』ってきかれて。きかれたときに、そばに渡鳴さまがいたの! わたし、きかれちゃった。すきなひと。渡鳴の神さまに!」
「ああ、渡鳴様にね……。渡鳴様はだいじょうぶだけどね。私の言ってる神様は、利宇摩様のことだよ。それに、気をつけなくっちゃいけないのは、流留がもっと大きいお姉さんになってからのことだよ」
「利宇摩さま? 利宇摩さまにいっちゃいけないの? 利宇摩さまはもういないよ……」
「いつまた出てくるかわかんないからね」
「利宇摩さまは、アメリカに行ったんじゃないの?」
「あの神様のことだから、しれっと戻ってくるかもしれん」
「渡鳴さまには、いってもいいの?」
「うーん……。あの神様も意外とそそっかしいから、教えないほうがいいけどね。利宇摩様にうっかりしゃべるかも」
「ひみつにしてねっていっとこう!」
「いや、だから、流留がもっと大きくなってからの話でさ……。本当の恋をしたときの」
「ほんとうのこいだもん!」
「……。ああそう……」
おませな孫に返す言葉につまって、多津子は絵本に目を落とした。
清ちゃん、深ちゃん、潤くん。
清一と深二と潤は、利宇摩水系に関わりの深い神子家の子供たちだ。利宇摩水系上流域の湖・渡鳴湖を統べる水神「渡鳴尊」のもと、流留とともに神子修行をしている。流留の親しい「おともだち」だ。
おともだち。
多津子は、三人が流留の「おともだち」だと思っていたが。
多津子の好奇心がむくむくと頭をもたげた。
「じゃあさ、流留はさ、誰が好きなんだい? 清ちゃんかい深ちゃんかい潤くんかい?」
「おしえなーい」
「なんでだい。教えとくれよ。大ばばにだったら、いいじゃないか」
「だって大ばばさま、そそっかしいもの。利宇摩さまにいっちゃうかも」
「いわないよう。大ばばがそそっかしいのは歳のせいでさ。そういう大事なことはいわないよ。沙月には教えたんだろ? 大ばばにも教えとくれ」
「だーめ」
(なんだい。つまらない)
でもまあ、きかずにおこうと、多津子は思った。
そのうち自分が痴呆にでもなって、利宇摩尊に余計なことをしゃべらないとも限らない。
このかわいい曾孫を自分のようなつらい目にあわせるのは、絶対にごめんだ。
(そうだ)
頭も体もしっかりしているうちに、流留に伝えるべきことを整理しておかねば。
流留が寝息をたてはじめると、多津子はそっと蚊帳を抜け出し、文机に向かいスタンドライトの明かりをつけた。
多津子は痴呆を患うことなく、流留が十のとき、静かにこの世を去った。
若き日に、国賊と呼ばれ死罪の宣告を受けたことのある女。
享年百歳の大往生であった。
二
大きく美しい湖の水面に、空の青と森の緑と、鳥居の朱が映っている。
初秋の渡鳴湖は避暑地としての役割を終え、湖畔の別荘地はだいぶ人がまばらになった。
北にそびえる鳴滝山が紅葉に染まるころ、再び多くの観光客を迎えるが、それまでのひと月の間は、湖のほとりも静かなものだ。
そよ風が吹き、湖面に映る鳥居がゆれる。
やがて、風がおさまる。なのに、湖面の鳥居はゆれたままだ。形をなくし、ただ、朱色が波打つ。そして水面が大きくうねる。朱色を散らし、湖水が渦を巻く。渦の中心から水柱が立つ。水柱は飛沫をきらめかせながら、青空に向かって高く勢いよく伸びあがる。伸びあがり、やがて上から下にリズムを持って順に砕け、霧のような飛沫となって散ってゆく。
日の光が、飛沫に七色に輝く虹をのせる。
湖面からにょっきりと突き出た鳥居に、光る水滴が降り落ちる。
(きれー……)
流留は、髪や顔が水飛沫に濡れるのもかまわず水際に立ち、水の織り成す華麗なショーにうっとり見入っていた。
「例祭のアトラクション、さわりはこんな感じです」
常人にはとてもできない術を終え、水のショーの演出者・鳴沼清一がふりかえった。
水滴がついて見えづらくなったためか、いつもの眼鏡をはずして手に持っている。眼鏡なしのほうが涼やかな顔立ちが際立つから、流留はすこしどきどきした。
清一が高校でなかなかモテるという話は、流留の中学にも伝わってきている。
「上等、上等」
答えるのは、澄んだ小川の流れのような、青銀色の長い髪を背に垂らした長身の青年。
身にまとっているのは、明るい寒色でまとめた詰襟・脇あけの平安装束。
銀髪といい、時代がかった衣裳といい、人間離れした美貌といい、人目を引かないはずがないのだが、湖畔を散歩する人々は「さっきの水術すごかったねー」などと話すばかりで、銀髪の青年にちらとも視線を向けない。
無理もない。見えないのだ。
ある程度神子の素質を持ち、さらに修行も積んだ者でなければ、青年を視認することはできない。声をきくこともできない。
青年はここ渡鳴湖の神である。
しかし、この青年そのものが神であるとするのは間違いである。
神の本体は、湖そのものなのだから。
人々が「神」という名で呼ぶエネルギー体は、その全体を用いて人の姿をとることはない。たとえどんなに小さな神であっても、ひとつの神の総体に、人の認識が届くことは決してないのであるから、人の感覚がうけとれる姿を神がとるならば、それは神の一部、神の分体である。
渡鳴神の分体は、にこやかに言った。
「このくらいならば、練習すれば深二も潤も流留もできるであろうし」
「えぇえ!?」
流留は思わずのけぞった。
「わたしたちもやるんですか? 清一だけじゃなく?」
「アトラクションで水柱は四本立てる予定であるから」
「さっきのを十月の例祭までに?」
「流留ならばできる。潤もできるだろう。ふたりともやればできる子だ」
渡鳴尊は、少し離れた場所に無表情で立っている潤を見やった。
寡黙な潤は無言でうなずく。
「問題は、やればできる子なのにやらない子……おや?」
さっきまで水際にしゃがみこんでカニをいじくっていた深二が、いつのまにかいなくなっている。
(神様に気配を悟られずにこっそり姿をくらますなんて。深二、さすがね)
流留は感服した。大いにずれた感服だが。
「深二のやつ、また! すみません、探してきます」
弟の不始末は自分の不始末とばかりに、責任感の強い兄・清一が走り去る。
湖畔には、潤と流留と渡鳴尊が残された。
「仕方ない。ふたりが帰ってくるまで、少し練習しておくとしよう。では、潤」
渡鳴尊の言葉に、仏頂面の潤が水際に歩み出る。
何を考えているかわからない、静かな瞳。
いや、何を考えているかわからないとよく言われる潤だが、流留には潤がやろうとしていることがものすごくよくわかった。潤の行動原理は、非常に単純なのである。
負けたくない。
ほとんどそれだけ。
鳥居が映る静かな水面が、再び渦巻く。さっきより大きな渦だ。
水柱が立ちあがる。さっきより高い水柱だ。
「でっかくすれば清一よりすごいってわけじゃないでしょー」
ついうっかり、憎まれ口が出てしまった。口を抑える流留に、潤が視線を向ける。
どんなときでも無表情。
でも流留にはわかる。これは「にらんでる顔」。
「流留は五メートルからはじめるのか」
そして、どんなときでも静かな口調。
しかし、ものごころつく前から潤と修行仲間の流留は、脳が勝手に無感情な潤流コミュニケーションの補完を行うのである。
補完するとこう言われたことになる。
流留なんて五メートルがいいところだろ。俺より高くできるならやってみろよ?
潤と目と目を合わせて三秒間。
散った火花が認識できるのは、お互いだけだった。
「あやまりに行ってこい」
渡鳴尊は静かに言った。
「ふえぇぇ~……。すみましぇん……」
渡鳴様ってすごいなあと流留が思う点。
普通、神様の分体が人の姿をとると、どこか冷たいかんじがするというか、人形じみているというか、感情がないというか、ああやっぱり人間とは違うと感じさせるのが一般的だ。
しかし渡鳴尊は違う。
額に浮かぶ青筋をおさめようとひきつりながら、おだやかな言い方になるよう怒りを抑えてしゃべるという、人間らしさにおいて非常に高度な表情をやってのける。さすがだ。
限界まで高さを競い合った潤と流留の水柱は、重さを支えきれず相次いで倒れた。湖の縁を越え、雑木林を越え、重なるように倒れた水柱は、先っぽが一軒の別荘にかかってしまった。
シーズンは終わりかけているので、もう引き払われて鎧戸の閉じた別荘だったら被害はそう大きくないだろうが、まだ誰かいるのならえらいことだ。
突然のスコール、洗濯物はだいなし、窓から入る大量の水、家具調度はびしょびしょ……。
「ああう……」
流留は頭を抱えて、潤とともに別荘地へ向かう坂道をとぼとぼ歩きだした。
渡鳴湖周辺は高級別荘地だ。
戦前からある由緒正しい別荘地で、かつては各国大使館員の別荘地として名を馳せた。日本に滞在する外国人名士たちの夏の社交場であったわけである。
そんな洗練された土地柄から、現在も富裕層に人気で……つまりお金持ちが多くて、家具調度も高級品が多くて、弁償だとかいう話になったら……。
(うわー払えんのかな……。うちなんかただの農家なのに)
古代から続く旧家といえども、滝家は経済的にはとっくに没落している。百年以上前に没落している。神子界では話題の人であった大ばば様でさえ、お嬢様育ちとは程遠い。ダイコンほってイモほって育ったらしい。
流留がため息をつくと、となりを歩く潤が言った。
「悪かった」
あいかわらず無表情だったが、流留は潤の言葉だけでなく表情も補完して読むことができる。
目が少し、泳いでいる。
潤は挑発したことを心から詫びているようだ。
流留は苦笑い気味の笑顔を潤に向けた。
それっきり無言で並んで歩いたが、潤が黙っているのはいつものことなので、気まずいことはない。
もっとも同じ中学の女子の中でそう思うのは流留くらいで、ほかの子はみんな、潤と一緒にいるとどうしていいかわからなくなるのだそうだ。
(悪いやつじゃないんだけど、もうちょっと愛想ってものがほしいよね)
潤の母親は早くに亡くなっていて、父一人子一人だ。神力の扱いにかけてはエリート中のエリートである潤の父親は、全国各地の神子家に呼ばれて、難事が起こったときの補佐をしている。
潤の家・早瀬家は、仕える神を持たない神子家だ。
潤の父親は、求められれば、木神・日神・山神・金神・水神、どんな神でもその身に降ろし、木性・火性・土性・金性・水性、どんな種類の神力をも扱う。難しい仕事だ。
神子は普通、血筋によって扱える神力の属性に制限がある。潤の父親のように自由な素質は非常にめずらしい。そのめずらしい素質は、潤も受け継いでいる。
潤の父、淳史はいつも大忙しで、年に数回しか潤のもとに帰ってこない。早瀬家は歴史上、利宇摩水系に縁が深いため、潤は現在、利宇摩水系上流域の天然湖・渡鳴湖神神子家に世話になっている。
つまり、鳴沼清一・深二兄弟のうちにいる。
流留のうちは、鳴沼家よりもうちょっと山奥だ。「もうちょっと」と言っても歩いて三十分はかかるが、田舎なので流留にとってはじゅうぶん「ご近所」である。
「ご近所」にはほかに歳の近い子供がいなかった上、神子修行も一緒にやっていたので、ふたつ違いの清ちゃんと、おない年の深ちゃん・潤くんとのつきあいは、小さなころから濃かった。
今もじゅうぶん濃い。友達に「で、結局、流留は三人のうちで誰が好きなのよ?」と、年がら年中たずねられてしまうほどに。
(子供のときからよくきかれたけどさ)
清一・深二の叔母の沙月に。曾祖母にもきかれた覚えがある。
流留は横を歩く潤の横顔をちらりと見上げた。
中学三年。ずっとおなじくらいの背丈だったのに、いつのまにか潤の顔が見上げる高さだ。潤だけじゃない。深二もだ。
(ずうっと、今のままがいいのにな)
毎日、四人一緒に神子修行して。時には、学校成績も優秀な清一に、あきれられながら三人一緒に勉強を教わって。渡鳴神社の秋の例大祭のときは、四人で力を合わせて余興をやるのが毎年のならわしになった。
余興に、渡鳴尊は快く神力を使わせてくれる。四人の力は年ごとに増して、余興はどんどん盛大になる。祭りを見にきた参拝客が、来年も楽しみにしてるよと声をかけてくれる。きつい修行も、がんばろうって思う。
いつまで四人は一緒にいられるのだろう。今のままの関係で。
早瀬の家の役割をまっとうしようとするのなら、潤はいつか抜けてしまう。
清一と深二は。清一と深二は……。
「どっちと結婚するんだ」
唐突に、潤が言った。
「うわ、前置きなしの直球ですか」
茶化す流留に、潤はそれ以上の追及をしなかった。無表情のまま口をつぐんでいる。
補完するならば、「流留は、清一と深二の、どっちと結婚するんだ?」。
さっきと違って、それ以上の補完ができない。「清一と深二の、どっちと結婚したいんだ?」と流留の希望をきいているのか、「清一と深二の、どっちと結婚することになるんだ?」と周囲の思惑をきいているのか、それすらもわからない。
初秋の風が、ふたりの間をさあっと通り抜ける。
流留はわざと明るくさばけた口調で言った。
「政略結婚なんてさ、お金持ちのお嬢様とか王族のお姫様とか、そういう人がするものなんじゃない? わたしじゃ、なんか申し訳ないなー」
ほらほらこんな別荘持ってる家のご令嬢とかさぁと、流留は木立の向こうに見えてきた、周囲よりひときわ豪奢な別荘を指さした。
「うっ……」
アールヌーボー調の立派な鉄門の前に、晴天なのに大きな水溜りができている。
(うわーよりによってここか! やっちゃったよ……。どうかどうか、誰もいませんように)
流留の願いもむなしく、ふたりが水溜りの浅いところをそろそろ歩いていると、アールヌーボーの鉄門がギィー…と不気味な音をたてた。
門を開くのは――お嬢様?
門に手をかけたその少女は、大きめのコットンシャツにロールアップしたデニムという、ラフな装いをしていた。服は乾いたものだが、マロンブラウンの長い髪が濡れてぺしゃんこになっている。
流留よりやや年上と思われる彼女は、東洋系の顔立ちでありながら、東系にはない明るい緑色の瞳で、流留をじろりとにらみつけた……ように見えた。
なぜなら、彼女が発音も抑揚も正しい日本語で、こうつぶやいた気がしたからだ。
「このド素人……」
(どしろうと?)
しかしそれは空耳だったようである。
彼女はにらんだわけではなく流留のほうを見ただけで、流留には理解できない他国の言葉をつぶやいたのだろう。緑の瞳のハーフっぽい少女は、すぐに眉が八の時になった微笑を浮かべた。
抜けるような白い肌と繊細な顔立ちが相まって、抱きしめたくなるような可憐さだ。
(か、かわいい……)
「水、申し訳ありませんでした」
顔を赤らめる流留のとなりで、潤が頭を下げる。
流留もあわてて潤にならって頭を下げた。ぼーっと美少女にみとれている場合ではない。
美少女は答えず、助けを求めるように別荘の庭をふりかえった。
お父様だろうか。余裕のある足取りがいかにもお金持ちっぽい白人男性が、花の咲き乱れる庭を通ってやってくる。
流留は彼に向かって再び頭を下げた。
「水浸しにして申し訳ありませんでした! お庭とか、お部屋の中とか、大丈夫でしたか? わたしのせいなんです。できるかぎり、弁償します」
できれば分割で。
流留はおそるおそる頭を上げ、別荘の主人と思われる白人男性の顔をうかがった。
そのときなぜか、よく知った声がした。
「別荘は大丈夫だよ。ただ、彼女だけ濡れてしまった」
「えっ、清一?」
清一が白人男性の背後で肩をすくめていた。
清一は状況説明のためか、美少女と白人男性に向かって英語で何やら話し始めた。英会話もお手のものとは、さすが優等生の清一だ。
通訳を終えると、清一はやれやれといった顔で流留と潤に向き直った。
「深二を探しに通りかかったら、いきなり水柱が倒れてくるからおどろいた。家や庭が濡れるのは防いだよ。でも、術で水を散らせればよかったんだけど、突然だったから水柱の先を道路にそらすしかできなかったんだ。そらした先に彼女が歩いてて……」
清一はすまなそうに美少女のほうを見た。
「この別荘のご主人が、彼女にタオルや服を貸してくれたんだ」
ここのお嬢様ではなかったわけだ。
被害者、通行人一名。
「うう、ごめんなさい。クリーニング代払います……」
通行人の美少女は首を振り、流留の謝罪にきこえるかきこえないかの小声で何か答えて、はにかんだ表情になった。そして別荘の主人に、サンキューと感謝の言葉をかけて、坂の上に向かって歩み去っていった。
おおごとにならなくてよかった。流留は心底ほっとした。
家族に迷惑をかけずにすんで、本当によかった……。
潤とふたりで歩いてきた上り坂を、今度は三人並んで下ってゆく。
「ありがとね。清一」
流留は清一の顔を見上げた。
潤と深二と違って、ふたつ年上の清一の顔は、昔から見上げる高さにあった。神子としても清一はいつも先をいっている。そのほか、知性教養、なにもかも。
清一は釈然としない顔をして考え込んでいた。
「どしたの?」
「いや、気になることがいくつかあって」
「えっ、なに?」
「うーん、僕のヒアリングが未熟なせいかもしれないんだけど……」
「ヒアリング? 未熟だなんてー! すごいよ清一、英語ペラペラ!」
「独学なんで、あんまり自信が……。うん、まちがいだろうな、きっと」
「なにが?」
「あの女の子、流留に『今度会ったらただじゃおかない』って言ったような気が……」
三
「あら、深ちゃん」
「こんちわ、おばさん。流留いますか?」
流留の母・まり子は、地元レストランに卸す無農薬野菜の配達を終え、車庫に車をおいてきたところだった。
滝家騒然の鳴沼兄弟、その片方の出現に一瞬ひるんだまり子だったが、そこは顔に出さず、にこやかにふるまう。
「作業場にいるわ。そろそろ野菜の仕分けが終わるころだと思う」
「そんじゃ、おじゃまさせてもらいま~す」
深二のほうも深二のほうで、いつものようにのほほんとしている。
(流留と婚約話が持ち上がってる中学生とは思えない余裕……。案外、弟のほうが大物なのかも)
まり子は複雑な思いで、未来の息子になるかもしれない少年の背中を見送った。
深二がプレハブの作業場をのぞくと、軍手にエプロン姿の流留が腰に手を当ててのびをしている。
流留は学校が休みの日、午前中は渡鳴湖で修行をやって、午後は農作業を手伝う。少々変り者の父・渓太郎に的外れな修行を課される日もあり、大忙しだ。
「ながる~。婚約者候補が来たぞ~」
流留は深二の呼びかけに、背をそらした姿勢からそのままうしろにこけそうになった。
「なんて登場のしかたすんの! それに、あんたが婚約者になる確率はまだ五〇%だよっ!」
「五〇%もあるの? 〇・二%くらいだと思ってたよ、義姉さん」
「誰が義姉さんだっ!」
「そんなことより、新モノを入手したよ」
「えっ。ええっ! ……結婚してあげてもいいわ、深二」
「その冗談はしゃれにならないんじゃないの」
滝家のテレビのある部屋に行きたいところであるが、今は祖父母が居間にいる。深二とふたりでいるのを見られたら非常にこそばゆい。流留ちゃんはやっぱり深ちゃんのほうがいいんかいねとかなんとか、婚約にまつわる話を持ち出されないわけがない。
「パソコンでみよう」
本当はすぐに大画面でみたい。けれどしかたがないので、作業場の片隅に置かれた受注整理用のノートパソコンを使うことにした。
深二がショルダーバッグから、一枚のディスクをとりだす。なぜかリボンがかけてある。使いまわしっぽい、よれよれしたリボンだが。
「羽子崎空港に近い小田区立六道図書館所蔵の、映像資料から抜粋」
「なんでそんな資料が手に入るの? そのリボンはなに?」
「リボンはもうすぐ流留の誕生日だから。資料は妖怪仲間の協力で入手」
妖怪仲間と言ったって、あたりまえだが妖怪の知り合いではない。妖怪愛好家仲間のことだ。
深二は水神に仕える血筋でありながら、自然神よりもっとずっと小さなエネルギー体に興味をもっている。雑神・妖怪・九十九神、そんなふうに呼ばれる存在に。西洋ならば、精霊とか魔物とか妖精とか呼ばれるたぐいのものだ。
ちなみに西洋諸国は一神教なので、父なる一神以外の神体は、全部「天使」と呼ばれるらしい。一神に従わない神体はすべて「悪魔」。
西洋の感覚からすると、川の神や山の神のような自然神のみならず、ときに橋やら道やらの人造物から生まれる物霊さえ「神」とよぶ「八百万の神の国」である日本国は、混沌の地であるらしい。
(西洋の感覚でいったら、渡鳴様は「天使」だろうけど、利宇摩様は……)
ぜったい悪魔。
映像がはじまる。いつものように、古い白黒映像だった。
大ばば様が若かったころ、世界は大戦の時代で、日本もアメリカを相手に戦争をした。深二が持ってくるのはいつも、その戦争が泥沼化するより前の、軍用飛行訓練場の記録映像だ。
戦争映画などでおなじみの、比翼に赤い丸が描かれた戦闘機が飛ぶ。映像の中の若いパイロットたちは、その後全員が命を落としたのだ。
「今映ったよ」
深二が言った。
「えっ、どこ?」
一時停止しようとする流留の手を深二がつかむ。
「待って。すぐあとに大きく映る」
兵士たちが上官を前に、横一列に並んでいる。誰もみな真面目な表情。
そして、映写機の前に大きく現れる、白い影。
***
「うおう、ばーさん、手をにぎったぞい」
「しずかに、おじいさん。きこえてしまいますよ」
「次男坊、やりおるのー。流留に猛烈アタックだのー。ううむ、長男坊にやるべきか次男坊にやるべきか」
作業場の窓から、老夫婦がのぞいている。
おじいさんはつなぎにゴム長靴、おばあさんは割烹着につっかけ。千二百年続くといわれている旧家滝家の、現当主とその妻である。
「あたしは流留ちゃんの気持ちできめたいとおもいますよ。それより、なにをみているんでしょうかねえ。みえます?おじいさん。あたし眼鏡をわすれちゃって」
「ゼロロ戦がとんどるのー」
「ゼロロ戦ん?」
「零々式艦上戦闘機のことじゃ」
「しってますよ。戦争映画ですか? 戦地にむかう兵隊さん、見おくる恋人、涙で刺せない千人針!」
「あ、終わってしもうた」
「短い映画ですねえ。そんなので感動が味わえるのかしら」
「流留はうっとりしとるぞい。ゼロロ戦がとんで、兵隊がならんどっただけだが……?」
「それは深二くんに手をにぎられたからじゃないですか?」
「うおお、らぶらぶじゃのう」
***
深二が持ってきた「新モノ」映像の衝撃が強くて、気にするどころじゃなかったけど。
「う~ん……」
その夜流留は風呂につかりながら、自分の右手をじっとみつめた。なんとなく、もにょもにょ動かしてみる。
パソコンの操作を制するために、深二の手が重ねられた右手である。
(深二の手が触れました。あたたかい手でした。さあさあ、ときめいてみましょう)
どきどきどき。
ときめかないこともない。だいぶ意識的かつ無理やりだが。
(もし深二と結婚したら、将来うちのおじいちゃんとおばあちゃんみたいな、ほのぼの夫婦になれるんだろうなあ……)
問題は、「うれしはずかし新婚時代」がまったく想像できないことだ。
いわゆる「政略結婚」は、世継ぎをつくらなければいけない。
世継ぎをつくるためには、あーゆうことやそーゆうことをしなければならない。
あーゆうことやそーゆうことを深二と?
まじめな顔して?
(いやちがうでしょそれ)
深二の性格やルックスにとくに問題があるわけではない。
でもちがう。ぜったいちがう。深二は流留にとって恋愛ジャンルの人ではない。深二を友達箱からとりだして、恋人箱に入れるなんて……いや、夫婦箱か。そんなのは冷蔵庫に本をしまうみたいなものだ。無理じゃないけど違う。
深二のほうだって、きっとそう思っているはずだ。九割九分八厘、自分にお鉢がまわってくることはないと信じてるから、あんなにへらへらしているのだ。もし深二と結婚なんてことになったら、あいつは修行をサボるみたいに結婚式もサボるだろう。新郎が式にやってこなくても、「やっぱりなー」なんて納得してしまいそう。
……ということは、やっぱり、清一?
清一と、あーゆうことやこーゆうこと……。
流留は湯船に鼻までぶくぶくと沈んでみた。想像の中で、きまじめな清一が、緊張の面持ちで自分の頬に手をそえる。眼鏡をはずし、やがて唇が近づいて……。
ちょっとまて。堅そうに見えて、清一はけっこう手慣れているかもしれない。清一みたいにルックスよし!性格よし!頭よし!育ちよし!なパーフェクト男子を放っておくほど、高校のおねえさんたちはのどかな恋愛観の持ち主ではないと思う。
よりどりみどりのはずなのに、鳴沼家に生まれたばっかりに、運動しか取り柄がなくてまるで女らしくない自分なんかと結婚するはめになるなんて。かわいそうな清一……。
あーゆうことやこーゆうことの妄想どころではなくなった。
湧いてくる妄想は、「おかあさん、おとうさんは今夜もおしごとなの?」と問う子供に「そ、そうよ。おとうさんは忙しいのよ」とひきつりながら答える自分。今日はどこの女の家にいるのやら……。
撃沈。
流留はズブンと頭まで湯船に浸かった。
だめよ、清ちゃんを信じなくっちゃ。でもその前に、女としての自分の魅力を信じなくっちゃ。
ううう、むずかしい……。
「これからこれからっ! わたしまだ十四歳じゃん!」
もうすぐ十五だけど。流留は勢いよく湯から立ち上がった。いまひとつ隆起に乏しい胸をお湯がなだらかにすべり落ちる。
法律では結婚できるのは十六からなんだから、少なくともあと一年ある。
がんばろう。
――何を?
(エクササイズでバストアップとかそういう? 間に合うんかいな)
女子力増強の方法をああだこうだと考えながら、髪をふきふき自室に戻ると、携帯電話が着信ありを告げていた。確認すると、潤からだ。
(なんだろ? めずらしい)
発信してみる。潤はすぐに出た。
「もしもーし。どうしたの?」
〈流留か。確認だ〉
「なんの確認?」
〈別荘。変じゃなかったか?〉
「単語の数をもうちょっと増やして話してくれる? わたし、テレパシーできないんで」
〈あやまりに行った別荘。変なところを感じなかったかときいてるんだ〉
「変なところ~? うーん、門の音が耳触りだった」
〈ほか〉
「ご主人、ひとりで滞在中? 女の子が借りてた服が男物だったけど、奥さんがいたら、普通は女物を貸すんじゃない? 別荘にひとりって、変わってない?」
〈人それぞれだろう。ほか〉
「つーかさ、なんでそんなこときくのか、教えてよ」
〈おまえは、感じなかったか?〉
「なにを?」
〈木性の神力〉
流留は眉をひそめた。
渡鳴湖周辺は、水神である渡鳴尊が土地神である。とはいえ、水性以外の神力も漂っているのが普通だ。木神の神力を感じてもおかしくはない。
日本ではどの土地にどの神が宿るか厳密に区別されてはおらず、おなじ土地に大小複数の神がひしめいている。土地神はその土地で一番力がある神に過ぎない。小さな神にもそれぞれ役目があるという考えが古くからあり、そこが八百万の神の国とよばれる所以である。
要はバランスの問題で、雑神や妖怪がどれだけいようが、パワーバランスがとれていて環境が安定しているなら、それでいいのである。
そんなことはわかりきっている潤が言っているのは、補完すればこういうことだ。渡鳴湖周辺の自然環境を狂わせるほどの、バランス外の木性神力を感じなかったか。
「ちょっと木性濃いなとは思ったけど、変ってほどじゃなかった。潤は感じたの?」
〈おまえとおなじ〉
「清一は?」
〈少し濃いと思ったから、行ったそうだ。木性の妖怪でも湧いたかと〉
流留は納得した。妖怪なんて害のないものなので、一、二匹湧くくらいなら駆けつけるほどのことではないが、清一は深二を探していたのだ。新しい妖怪が湧いたのなら、妖怪マニアの深二が見にいく確率は高い。
〈清一は別荘の敷地に入っただろう?〉
「中はもっと濃かったの?」
〈通常濃度は越えてたそうだ〉
「別荘の住人に知らせないとまずいよね。あの外人さんに。ほっといたら、人体にだって悪影響でしょ」
〈当然だ。午後、清一と霞月さんが行った。濃度は普通だった〉
霞月さんというのは、清一と深二の母親で、渡鳴神の神子のひとりだ。
「いきなり普通に戻ってるっておかしくない? 濃かったのって、今日の午前中のことでしょ?」
〈さっき俺も行ってみたが、平均だった。最初から異常なしなら問題ない。異常は清一の思い違いかもしれない。だからおまえにも確認をとった〉
電話を切ったのち、流留はすこしばかり落ち込んだ。
自分があーゆうことやこーゆうことについて悶々と考えているときに、潤は「神子のつとめ」を果たすべく、真面目に活動していたのだ。
神子のつとめは、神力で派手に水柱を立ち上げることなんかじゃない。
現代の日本において、神子の仕事なんて実に地味なものだ。
神子の主な仕事は、自然と文明の共存のための微調整だ。大昔からある神力という自然エネルギーのバランスを壊さずに、科学技術が生む人間発のエネルギーを割り込ませていく。そのための調節が神子の仕事である。
神様の力を借りて、神力バランスが壊れたところを修正し、どんなときにバランスが壊れるか統計をとり、以後バランスが壊れないように地道に予防していく。
「神様の力を貸してもらう」という点に、適性がある血統とそうでない血統がある。
生まれつき神力を扱えるか扱えないかが決まっているのだ。
そのため神子は世襲制をとる。そこは現代的ではないのだが、大昔の神子のように神楽舞でトランス状態になって神様を呼び込むこともないし、神様の力を笠に着て民衆を支配することもない。
民衆を支配するどころか、神力を私物化して社会を混乱させることがないように、定期的に国の神力管理局の監査が入る。
政府に見張られているわけである。
曾祖母の多津子など、百歳になっても見張られていた。
祖父の流太郎のもとにも、ときおり管理局から監査役の神力者が派遣されてくる。神子などとっくに引退しているにも関わらずだ。引退して長いため、神子技能も神感能力も、もはや枯れているのにだ。
祖母も利宇摩水系支流筋の神子家出身なので、監査は来る。祖母も神力を扱えたのは若い頃だけだった。なのに今も監査は来る。
父・渓太郎のもとにも来る。父も、年末年始と例祭のときに渡鳴神社に手伝いに行くほかは、表向き神子として活動していない。農業従事者としての経歴のほうがよほど大きい。
驚いたことに、母・まり子にも来る。母は地元農家出身の、生まれも育ちも普通の人だ。
滝家は特別らしい。
そして流留。
監査が来ないはずがない。幼い頃は、定期的にやってくる厳しい顔したおじさんやおばさんは一体なんなんだろうと、ずいぶん不思議に思った。
鳴沼兄弟や潤のところにも来るけれど、流留のところには三倍の頻度で来る。見慣れない計測器を体のあちこちにはめられ、盥の水を神力でかきまわしてみたり蒸発させてみたり、修行の基礎訓練テストみたいなことをさせられる。
そして毎回しつこく「利宇摩神の分体に会っていないか」と尋ねられる。
利宇摩神はいない。いや、利宇摩神とは利宇摩川の持つエネルギーそのものなのだから、利宇摩川が流れ続ける限り、利宇摩神は存在する。ただ、もう八十年も人間の前に人の姿で現れてはいない。神子に力を降ろしてもいない。
自分が神子界では有名人なのだと知ったのは、曾祖母・多津子が死んだ十歳のときだった。
葬儀にかけつける報道陣の数。
向けられるフラッシュ。
わすれやしない。
流留は「国賊・滝多津子の後継者」なのだそうだ。
滝家が代々仕える神、利宇摩神。
この河川神は、滝家の女にしか降りない。利宇摩神の力は、滝家の女にしか扱えない。
東野平野の暴れ川、利宇摩川。治めるも、あふれさすのも、それは滝の女のこころ次第。
そんなふうに言われたら、まじめにつとめを果たすしかないじゃないか。