激情
「リリー」
「その名前で呼ぶな!!」
「嫌だよ。リリーと呼ばないと、この愛でさえ偽りになってしまいそうで」
「お前、どういう…!」
「リリー、愛しているよ」
傷ついているところに付け込んだのは十分承知していた。
でも、私が傍にいることで、愛しい彼女が少しでも立ち直れるならば。そう思った上での行動だった。
あれから何年経っただろう。
リリーはすっかり立ち直ったようだ。それでも時々癇癪を起こしたり、あの頃を思い出して取り乱すことがある。それを落ち着かせるのも、私の役目だ。彼女の全ての事情を知るのは、私だけなのだから。
それが、心地良かった。
いつから自覚しただろう。私だけが知っている彼女を見る度にどこか嬉しいと感じる。その時、私は彼女を助け、支えることが出来る。彼女も私に頼ってくれる。私だけを見てくれる。
そう。私は彼女に、私だけを見てほしかったのだ。
でも、彼女を前にしてそんなことを言えるわけもない。リリーもこの学校の校長をするようになってから、私といる時間が減った。愛を交わしたことすら忘れてしまうこともある。それを自覚する度に、私の胸の内にどす黒い欲望が湧きあがるのが分かった。
そう。私はリリーに、私だけを見てほしかったのだ。
だから私はあの日、リリーの家に行って、一夜を過ごした。愛を確かめるために。彼女と二人きり、彼女の胸に顔を埋めて、黒い欲望が少し霧散したのを感じた。これでいいのだ、と。そう思った。
彼女に男の噂が立ったのは、それからすぐ後のことだった。
相手は同じ職場の同僚。つまりリリーの部下ということになるのか。
彼は、私より10歳年上の、保険医をしている男だった。
私は彼に誘われ、食事をし、彼女への…リリーへの想いを打ち明けられた。その言葉は重く、真っ直ぐだった。私の中で黒い感情が急激に湧いた。気がつくと私はその言葉に抵抗していた。彼女を受け入れられる覚悟があるのかと。彼女に何があったかも知らずに。そうだ。彼女の本当の姿は私しか知らない。だから、
「分かったような口を利くな」
思考が止まる。
「私は理解しているよ」
「じゃあどうしてあの人はお前の言葉に怒るんだ?…お前もホントはあの人のことを分かっちゃいねぇんだよ」
分かっていない?私が?
それから先はあまり覚えていない。あの男の言葉が頭を巡って。
私が彼女を分かっていないわけがない。しかし、本当にそうだったとすれば、私はリリーにどう見られているのだろう。湧いた感情はどうしようもない不安と、恐怖だった。
"リリーの本当の姿を知っている"
"そのリリーを支えることで、私は彼女を愛することができる"
その絶対的な自信が、私をどれだけ支えていたのか、あの時初めて分かった。壊れてしまって初めて、分かってしまったのだ。そして残ったのは、真っ黒な欲望だけ。リリーに私だけを見てほしいという欲望だけが独り歩きして。
それが愛かどうかも、もはや分からなくなっていた。
不安に駆られると人は思いもよらない行動を取ることがある。強迫観念というものか。私は彼女があの男の元に行ってしまうのが怖かった。彼女が今何をしているのか。何を考えているのか。その疑念の矛先は何故か、あの男に向いた。私はあの男に電話をかけたのだ。
『もしもし…どうしたんですかこんな時間に』
「いや…大したことはないんだけどね…今どこにいるんだい?話はできそうかい?実は…」
『ああ…今家なんですけどね…ちょっと立てこんでて…』
「え?」
『深夜ー…早くー』
遠くに女性の声が聞こえた。聞き間違えようがない。
『はいはい今行くから。…すいません、また後でかけなおします』
電話が切れる。周りの音が、景色が、遠のく。
彼女はあの男の所にいる。どうして。どうして。そもそも何故彼女はあの男と一緒にいる?
私はどうなる。
私は…奪われたのか?彼女を、あの男に。
彼女には私だけを見ていてほしい。彼女は私のものだ。なのにどうしてあの男は。私は認めない。許さない。許さない。許さない…!許すものか!
奪われたのなら…奪ってやろう。
同僚から電話があったのは、ある日の夜だった。
その日、俺はあの人と、後藤花子と自宅にいた。いつものように食事に誘い、飲み過ぎたあの人を介抱しようして。たまたま自宅があるマンションの近所まで来ていた。居候が帰省していたから二人きりだった。
俺は携帯を閉じると水のコップを持ってあの人が横になっているベッドに腰掛ける。それに気付いたあの人は身を起こした。
「…水か…?」
「そうだよ。ほら。…少しは楽になったか?」
「わり、飲み過ぎた」
「いや。…何かあったのか?」
「……」
「いいんだ。話したいときに話してくれりゃ」
後は大人しくさせておこうとベッドを立とうとして、腕を掴まれ引き戻された。
「おい」
「深夜、お前は私が好きなんだよな」
「…何だよいきなり」
「どうなんだ」
俺も酒が入っていたからかもしれない。あのときベッドで向かい合った時、あの人はとても魅力的に見えた。俺はしっかりと花子を見つめて。
「…そうだよ。あん時とちっとも気持ちは変わってない。俺はお前を愛してる」
荒々しくドアが開いたのは俺の言葉が言い終わるか終わらないかというタイミングだった。そういえば鍵をかけていなかったと思い出す。
二人同時に顔を向けたドアの方向に、金髪の男が立っていた。そのスカイブルーの目は驚きと怒りに見開かれてて、ちゃんと見えているのか怪しいくらいだ。さっきまで電話していたのに、どうして。どうしてここが。
「…アレックス先生?」
「……リリー…どうして…」
「え…?」
アレックス先生は口に形ばかりの笑みを浮かべて、花子に向かって語りかけた。その穏やかな口調がかえって怖い。
「私はどうなるんだい?私だけを見ていてくれていたじゃないか。それなのにどうしてここにいるんだい?隣の男は何だ?」
「アレックス…?どうしたんだお前?深夜がどうかしたのか」
「私は絶対に認めない…許さない…」
握っていたものが果物ナイフだと気がついたのはそのときだった。そして、気づいたときにはもう遅かった。
隣に座っていた花子の腹部に、ナイフが突き刺さっていた。
「!!!」
「花子…!!」
「…霧」
「アレックス…お前何を…!!」
ベッドのシーツが赤く染まる。倒れた花子を抱きかかえて振り向くと、アレックスと目が合った。口元はつり上がっているのに、目は虚ろで、笑っていない。恐怖に、身体が動かなくなる。
次は、俺なのか。
「私は奪われた…」
ナイフが逆手に持ちかえられる。
「だから…君の全てを奪ってやろうと思うんだ…。思い知るんだ…奪われ、残される苦しみを!」
その瞬間、彼が何をしようとするのか悟った。
切っ先は俺ではなく、自らの首筋に―――。
「やめろ!!!!!」
(ああ、これで私と彼女はずっと一緒にいられる)
(それは、どんなに幸せなことか)