5-19 アテナの系譜 前編
「そこに行けばあんたの隠し事を全部知れるの?」
「ああ。怖いか?」
「ううん。だって、何も知らないし。怖い所なの?」
「どうだろうな? 少なくとも、俺は好きじゃない」
「ふーん」
ユリアが少しだけ不安そうな顔になる。
「どうする? 行きたくなければ、今は連れていかないが」
「"今は"ってことは、いつかは連れて行かれるんでしょ? なら、今行くわよ」
彼女の不安顔がムスッとなった。機嫌を損ねたらしい。
いつものことなので軽く無視して、ゼフィールはつないだ指を解いた。そして、自らの手首から《ブレーメン》の十字石を外す。
「お前にこれを渡しておこう」
言いながら、外したばかりのそれをユリアに手首にはめてやる。
その様子を眺めながらユリアが首を傾げた。
「これ何? ゼフィールも似たようなの付けてるわよね?」
「お守りだと思ってくれればいい。俺と、ゾフィ、マルク、ライナルト殿からのな。できれば肌身離さないでくれ。それじゃ、行くか」
ゼフィールはユリアを連れ大岩から降りる。合わせて、フレースヴェルグを呼び寄せ羽根に戻した。
「ニーズヘッグ、聞こえているな? 今から《ブレーメン》の継承の間へ行く。お前も来い」
適当に呼び掛けると萱藪からニーズヘッグが顔を出す。それを見たユリアが血相を変えて追い払おうとしたので、ゼフィールは慌てて止めた。
(こんな感じで毎度毎度追い払われてたんだろうな)
納得できてしまい、軽くため息をつく。ユリアの視線を遮るようにしゃがみ、未だ萱藪の陰に隠れ気味のニーズヘッグに尋ねた。
「恐らくだが、継承が終われば俺達はそのまま《シレジア》へ帰る。ソレは国を出ても大丈夫な身体か?」
今の《ブレーメン》の状態で、器と力の両者が長期間土地を離れれば、弱り切っている大地に追い打ちをかけかねない。目の前にいる蛇が本体だとしたら、分身で来るように言うつもりだった。
ニーズヘッグが少しだけ前に出て赤い舌をチロリと出す。分かり難いが、問題ないと言っているように見えた。
ゼフィールが手を差し出すと、ニーズヘッグがするすると腕に巻きつく。
ニーズヘッグ自体は細身な上に一メートルにも満たない体長なので、重くもなんともないのだが、ユリアに信じられないものを見るような目で見られ、若干距離をあけられた。
そのお陰か、少しばかり心にダメージを負ったような気がしたのは、気のせいではないだろう。
途中で会った者にカーラの居場所を聞き、居住区の一室を尋ねる。のんびりと剣の手入れをしていた彼女に、ゼフィールは単刀直入に用件を切り出した。
「随分と世話になったが、探しものが見つかったから出て行こうと思う。悪いんだが、他の者達にはカーラから礼を伝えておいてくれ」
「あんた、探し物なんてしてたのかい? 道理で中々帰らないはずだよ。てか、探しものって、もしかしてその蛇?」
呆れ顔のカーラがニーズヘッグを指さす。
「こいつだけじゃないんだけどな。まぁ、蛇のことは昔尋ねただろう?」
「聞かれたっけ? まぁ、見つかって良かったね。で、帰る手段はあるのかい? あと、いつ出るつもり? 他の連中に挨拶もできない程ってなら、明日の早朝?」
「いや、今から発つ。帰る手段の心配も無用だ」
「もう暗くなるけど?」
「問題無い」
「あっそ」
カーラは特に気にするでもなく頷くと、剣の手入れを止めた。そして、頬杖をつきながら世間話でもするように話しかけてくる。
「じゃあさ。置き土産に一つ教えてくれよ。あのやたら強かったチビっことあんた、本当は何者なわけ?」
(最後にそれを尋ねられるわけか)
アゴを撫でながらゼフィールは目を細めた。
思い返してみれば、カーラには隠し事ばかりしていた。答えられない質問ばかり受けたので仕方なかったのだが、適当にはぐらかしっ放しの事柄も少なくない。
最後くらいは質問に答えてやりたいとも思う。幸い、今のタイミングでなら、この質問に答えられる。もう去る地だ。今更保身を考える必要も無い。
ゼフィールは腕に細く傷を付けると、そこから流れる青い血をカーラに見せた。彼女が目を丸くしている横で、何事も無かったように傷を癒す。
「ゾフィの事は言えないが。俺は《シレジア》の王太子、ゼフィール・エンベリー。そうだな。お前達のことはこの国の王太子に掛けあっておこう。それでも襲撃が止まず、引っ越しの必要性が残るようなら《シレジア》に来てくれてもいい。ここに比べて寒いし、お固い国だけどな」
カーラの顔がぽかーんとなる。
ゼフィールは小さく笑うと、己の唇に人差し指を立てた。
「あと、これから見ることは他言無用で頼む」
無言でカーラがコクコクと頷く。それを確認して、ゼフィールは《ブレーメン》城へ転移した。
◆
転移先は暗い空間に佇む金属扉の前であるはずだった。
確かに、儀式の扉の目の前に跳べはした。
長い長い螺旋階段を下りた空間の最下層にゼフィール達はいる。
しかし、周囲には灯りを持った兵が複数おり、暗い空間には程遠い。兵達が慌てふためく表情すら視認できる程だ。突然現れたゼフィール達に驚いたのだろう。
『随分と早くいらっしゃいましたのね』
螺旋階段を登り始めてすぐの辺りにいるゾフィが困った表情でこちらを見ていた。
『取り込み中のようだな』
改めて周囲を観察する。
ゼフィールの渡しておいた羽根は足元に落ちていた。階段の登り口ではゾフィが困っていて、兵達が彼女を囲っている。
察するに、儀式の扉前まで来たはいいが、警備の兵に見つかって追い出されようとしている。そんなところだろう。面倒なことに、階段の中ほどにはヨハンの姿も見え隠れしている。
もう少し遅れて跳んでくればゼフィールのことはバレなかったのだろうが、後の祭りだ。
足元の羽根を兵から見えぬように回収すると、ゼフィールは扉を見上げた。
騒ぎを大きくしたくなかったので水面下で動いてきたのだが、ここに来た事もバレてしまった。幸い扉は目の前だ。こうなれば、強硬手段に出る方が早いだろう。
「ユリア。目の前に大きな扉が見えると思うが、お前はそれにぶつからない。いいか? 見ててごらん」
ゼフィールは扉の前で一度手を止め、ゆっくりと前へ突き出した。手は扉に遮られず奥へ進む。その様は、まるで、扉に手が埋まっているようにも見える。
手を引き抜くと、ゼフィールはユリアの肩を抱き、扉を指さした。
「お前が行くべきはこの扉の先だ。俺の言葉を信じて前へ進め。そして、帰ってきたら聞かせてくれ。お前の考えを」
不安顔なユリアに頷くと、ゼフィールは彼女から手を離した。そのまま一歩下がり、成り行きを見守る。
ユリアはしばらくゼフィールを見つめていたが、前を向くと一歩だけ進み、止まった。心配そうにしているその背に、ゼフィールは声をかける。
「ユリア」
「うん?」
振り返った彼女に、ゼフィールはユリアが握ってくれた手を見せる。
「お前が俺の手を握っていてくれるように、お前の手は俺が握っている。心細くなったり、負けそうになったら思い出せ」
「そうする」
ユリアはふんわり笑うと、前を向き、深呼吸した。そして、意を決したように歩き出す。彼女の姿はあっという間に扉の中へ吸い込まれ、後には静寂だけが残った。
「ゾフィ殿といい、貴方といい。どういう事か説明して頂けますか?」
足音と、ヨハンの声が静寂を破る。彼は兵を伴い階段を降りてくると、ユリアの消えた扉を睨んだ。
ゼフィールは顔に笑顔を張りつけヨハンに向き直ると、やや大仰な身振りで挨拶をする。
「これはヨハン殿下、お久しぶりです。わざわざ迎えまで遣わして頂いたのに、俺の身勝手で振り回して申し訳ありませんでした。お返し、と言ってはなんですが、儀式を通過できる者を見つけたので連れてきました。《ブレーメン》の為に、少しでも貢献できれば、と」
「それはお気遣いありがとうございます。ええ、貴方には儀式の事や、今突然現れたように見えた事など、聞きたい事がたくさんありますよ」
「お教えしたいのは山々なのですが、何分下々の者と慣れない生活でしたので、疲れてしまって」
困った表情を作ると、わざとらしくふらつく。そこにゾフィが駆け寄ってきて、こちらもわざとらしく介抱を始めた。
「まぁ、ゼフィール様。そのようにふらつかれるだなんて、さぞお疲れなのでしょう。偶然ですが、わたくし、今この城に滞在しておりますの。よろしければわたくしの部屋でお休みになりませんこと?」
『大根芝居にも程がありますわよ。思わず笑ってしまいそうでしたわ』
『お前も人のこと言えないだろう? だが、さすがはゾフィだ。このまま誤魔化してこの場は切り抜けよう』
「お前も来てたのか? ああ、でも、今はともかく休みたい。その好意ありがたく受けるとしよう。そういうわけで、ヨハン殿下、歓談はまたの機会に」
弱り切ったゼフィールをゾフィが支えるという体を装って兵の横を通り抜ける。同様に、心配顔のヨハンの横も通り過ぎた。
上辺だけは心配している体裁を保っているヨハンだが、放つ空気は険悪そのものだ。王候補を殺す習慣が残っているのだとしたら、扉をくぐらせてしまった彼の怒りたるや凄まじいものだろう。
階段をほとんど登り切り、もうすぐ儀式の間の出口という所で、階下から怒鳴り声と金属を叩く音が聞こえた。扉を開けようとヨハン達が頑張っているのかもしれない。
『彼、表の顔と裏の顔に随分と違いがあるような気がしますわ』
『俺もそう思う。とりあえず、リアンとエイダに会わせてもらえるか?』
『ええ。お二人共随分と心配なさってましたわよ。ああ、でも。リアン様は心配するのと同じくらいお怒りでしたわね』
ゾフィの言葉にゼフィールの足が重くなる。
普段怒らない分だけ、リアンが怒ると怖い上に厄介なのだ。
「長いお説教だったようですわね」
「まったくだ。リアンのやつ、浴室にまでついてきて、一緒に風呂に入りながら説教垂れ流してたんだぞ? 信じられないだろ?」
「ふふ。それだけ心配をさせたという事ですわ。随分と勝手をなさってましたし、仕方ありませんわね」
「それを言われると何も返せないが……。しんどかった」
だらしなくバルコニーの手すりに身体を預ける。そんなゼフィールの横に、クスクス笑いながらゾフィも並んだ。
しばらくは黙って景色を眺めていた彼女がぽつりと呟く。
「アテナの器、ユリア様でしたのね」
「ああ」
「砂人形と戯れていた時は、もう分かっていらっしゃいましたの?」
「いや。あの時は他の者が器だと思っていた。あの後ニーズヘッグが出てきて、ユリアが器だと教えてくれた」
ゼフィールはバルコニーの片隅でとぐろを巻いているニーズヘッグを指さす。
一瞬だけニーズヘッグを見たゾフィだったが、さして興味は無かったのか、すぐに視線をゼフィールの方に戻した。いつもポーカーフェイスな彼女の瞳が珍しく悲しげに揺れている。
「よくユリア様を継承の間へ送り出せましたわね。わたくしだったら躊躇しそうですわ」
「俺も悩んだよ」
ほんの小さな声でゼフィールは答えを返した。星空を見上げると、わずかに目を伏せ、ゆっくりとゾフィへ顔を向ける。
「だけど、あいつもいつかは継承の間に入らないとならないだろうしな。それに、身の振り方を決めるのはユリアだから。全てを知った上で選べばいい。俺は彼女の決断を受け入れるだけだ」
「辛い、ですわね」
「俺達はその為に産まれてきた存在だしな」
ゾフィは一瞬眉間に深く皺を刻み、顔を逸らした。そのまま夜景を眺める作業に戻ると深くため息をつく。
「ゼフィール様はお強いですわね。さすが、贄の運命をすんなり受け入れた方ですわ」
「俺は既に多くの命を奪っているからな。俺が死ぬのはいわば贖罪だ。それでも、受け入れられているとは言い難いな。今でも生きられるのなら生きたい。お前はどうなんだ? ゾフィ」
「大差ありませんわね。継承の儀を受けた直後は贄の運命が嫌で、泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣きましたけど、死ぬ決心はつきませんでしたし。心を凍らせてようやく、ですわ」
「やっぱりすんなりとは無理か」
「当たり前ですわ」
だらけていた姿勢を少しだけ正し、ゼフィールは視線を上げた。
すっかり暗くなった空に星が瞬いている。
それに負けぬほどの数の命がこの空の下では輝き、今、この時にも、どこかで新しく産まれているに違いない。
全てを知ったユリアはどんな選択をするだろう。
命の輝きを守る為――世界を守る為に共に命を投げ打ってくれるだろうか。
ユリアの事だ、きっと最後には運命を受け入れるのだろう。それが自身に死をもたらすものだとしても。
(ユリア。この運命だけは、お前と違う道を歩みたかったよ)
カラカラの夜風がゼフィールとゾフィの頬を撫でる。それは、死の運命を受け入れ、どこか乾いてしまった自分達の心と似ていた。




