4-16 エレノーラ・ノースコート
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夏の日差しが照りつけながらも涼しい湿原で、二人の子供が戯れている。二人ははしゃぎ声を上げながら腰より高い草を掻き分け、泥だらけになりながら走り回った。
「エレノーラ捕まえた!」
少年が少女に後ろから抱きついた。
「つかまっちゃった~」
少女――エレノーラは観念して逃げるのを止めると、少年に笑い掛ける。少年も息を切らしながら、眩い笑顔を返してくれた。
「エレノーラ足が早いね。ぼくの方がお兄さんなのに、捕まえるの苦労したよ」
「お父さまもほめてくれるの。大きくなったらゼフィールさまよりわたしの方が早くなるんだから」
「えー? ぼくの方が早いよ」
「負けな――きゃあ!」
「うわっ!」
手をつないで歩いていたのだが、エレノーラは草に足を取られて転んでしまった。つられて少年――ゼフィールも転ぶ。前日までの雨で湿原は泥でぬかるんでいた。そんな所で転んだ二人は、当然ながら泥に突っ込む形になったわけで。
頭からつま先まで泥で汚れた互いの姿を見て、馬鹿みたいに笑った。泥で汚れるのが楽しくて、そのままコロコロ転がって、更に泥にまみれて行く。
「あらあら、二人とも、随分と斬新な遊びをしているわね」
日傘をさした二人の女性がこちらへ歩いて来た。
「あ、お母様ー」
呼びながらゼフィールが駆け寄ると、アレクシアがハンカチで彼の顔の泥を拭う。エレノーラも自らの母の元へ行くと、顔の泥を拭ってもらえた。
二人の顔が綺麗になると、アレクシアがゼフィールに微笑む。
「エレノーラがたっぷり遊んでくれて良かったわね。そろそろ寒くなるから帰りましょう」
「はーい。エレノーラ、また遊ぼうね」
「うんー」
ゼフィールが小指を出してきたので指切りする。指を離すと、笑いながら女王母子は帰って行った。
それが、エレノーラとゼフィールが初めて出会った思い出。当時のエレノーラとゼフィールは四歳と五歳。許嫁などと言われても何のことか分からず、新しい友達ができたくらいの感覚だった。
そんな関係は二年続き、これからも変わらず続くのだろうとエレノーラは思っていた。けれど、ゼフィールが所用でしばらくロードタウンに行くと聞いてから、彼とは会わなくなった。
許嫁がどういう立場であるか理解し、彼と会いたいと思い始めていた一四の春。アイヴァンに連れられたゼフィールと名乗る青年と顔を合わせた。
彼に会うのは随分と久々で、楽しみにしていたのだ。けれど、折角会えた彼に心を開けなかった。
見た目の変化は仕方がない。しかし、話し方や反応の仕方、癖などの細かいところが記憶の中の彼と何かが違い、戸惑わされた。
エレノーラが心を開かなかった事は相手にも伝わったのだろう。それからすぐに、ロードタウンの離宮へ勤めに行くようにとの勅令が出た。
"王子に関する事、ロードタウンで見聞きする事の口外を禁ず。話した場合、両親の身の安全は保証しない"という、アイヴァンの勅書付きでだ。
離宮での扱われ方は酷いものだった。けれど、両親を人質にとられていては反抗する気も起きない。
(本物の王子はきっと別にいらっしゃる。いつかきっと、私を迎えに来てくれるに違いない)
そう思い込み、まだ見ぬ本物の王子に想いを馳せた。様々な占いを覚え、二人の相性を占ってみたりもした。相性がいいと分かった時は、跳びはねて喜んだ。
相性を知ってからは、熱心に仕事に励んだ。将来ゼフィールが迎えに来てくれた時、手ずから彼の身の回りの世話ができると思えば、使用人の仕事も悪くなかった。
そうやって、どうにか毎日を送っていたあの日、彼が現れた。
長い銀髪の涼やかな青年。
髪と瞳の色こそ違えど、彼はどことなくアレクシアに似ており、王子とも似た名をしていて驚いてしまった。何より、彼の行動の端々には幼いゼフィールが見せた癖が見受けられ、それがますます王子を彷彿とさせる。
マフラーを編もうと思ったのは、彼にゼフィールの姿を重ねていたからだ。王子に似た彼に何かをすることで、自己満足が得たかった。
そんな気持ちに変化が起きたのはいつからだっただろう。
街を歩く時、彼がエレノーラのペースに合わせてくれている事に気付いた時だろうか。それとも、街路樹の雪がエレノーラに落ちぬよう、いつも彼が樹の下を歩いている事に気付いた時?
彼はいつでも優しかった。
力仕事はたいてい手伝ってくれたし、ささくれた指まで癒してくれた。夜になると竪琴を奏で、ゆったりとした時間を過ごさせてくれて、あれではどちらが仕えている側なのか分からぬ程だ。
珠に魔力を取られ意識が朦朧としている時、彼がとっさに"エレノーラ"と呼んだ時は心が震えた。
あれ以来、"エレノーラ殿"などと他人行儀ではなく、"エレノーラ"と呼んで欲しくてたまらない。できれば、彼の広い胸に抱かれ、名を呼ばれたいと。長く綺麗な指で触れられたいと願ってしまう。
離宮の地下広場で倒れ、彼に抱かれていた時の幸せをまた感じたいと、心が求める。
そんな自分に気付いた時のエレノーラの動揺は大きかった。
ゼフィール以外には心を動かされないと思っていた。事実、誰に声を掛けられても何も思わなかったのだ。なのに、出会って数日の青年に、こんなにも惹かれている。自分が不思議でならなかった。
エレノーラを悩ませていたそんな想いも、当の彼がアントリムへと行った事で収まっていた。だというのに、こんなところで彼の片鱗に出会うとは、運命を感じずにはいられない。
「エレノーラさん、どうかした?」
ユリアが不思議そうにエレノーラを見ている。
「いいえ。申し訳ありません。少し、物思いをしてしまいまして」
エレノーラは少し困りながら微笑むと、ユリアの腕から手を離した。
ユリアが身に付けているブレスレットに触れた時、それに込められた魔力と想いに触れ、彼を思い出してしまった。どこまでも暖かいあの魔力は、間違うことはない。ゼファーのものだ。
「こちらの乳白色の石はムーンストーン、もう一つはラブラドライトですね。どちらも、精神を安定させたり、疲れた心を癒してくれる石と言われています」
「へー。そんな効果があったのね、これ」
「はい。それに、石の効果とは別に、あなたを守ってくれるようにという想いと、強い守護魔法が掛かっています。これを下さった方は、あなたをとても大切になさっているのですね」
ブレスレットに使われている石の説明をしながら、エレノーラの胸がチクリと痛んだ。
(私は、嫉妬している?)
彼からこんなにも大切にされている彼女が羨ましいと思ってしまう。
対して、ユリアは、ブレスレットを撫でながら、優しい目でそれを見つめている。
「そうなんだ。ほんと、馬鹿よね、あいつ。一言言っておいてくれないと、ただのアクセサリーだと思っちゃうのに」
少しの間ブレスレットを撫でていたユリアだったが、突然手を打ち鳴らした。そして、リアンを指さしながら尋ねてくる。
「リアンもあいつから貰ったブレスレット持ってるの。あっちの石もどんな効果があるのか教えてくれる?」
「あ、はい。構いませんが」
「ありがとう! リアン。ちょっと来てー」
服を選んでいるリアンにユリアが声を掛ける。その声はとても明るくて、少し前までぼうっとしがちだった彼女とは思えないほどだ。
リアンは物色中の服を元に戻すとこちらにやって来た。
「何? ユリア、もう服選んだの?」
「違うわよ。エレノーラさん石に詳しいんですって。だから、そのブレスレットの石もどんな効果があるのか教えてもらおうと思って」
「そうなの? ユリアのどんな効果があったのさ?」
「内緒。さ、腕を出しなさい! エレノーラさん宜しくね!」
ユリアはリアンの左手を掴むと、素早く袖をまくりあげてブレスレットを露出させた。「きゃーえっちー」とリアンが騒ぎ、彼女に頭を叩かれている。
微笑ましい光景に、エレノーラは思わず小さく笑ってしまった。
リアンが残念そうな顔をしたので、慌てて笑いを消し、彼のブレスレットに触れる。
「こちらはカーネリアンですね。困難や障害に会った時持ち主を支えてくれたり、何かを始める時に力を貸してくれると言われています。ユリア様の物と同じく、守護魔法が掛けられていますね」
「へー。この石、意味なんてあったんだ」
「あと、変わらぬ友情を誓う石とも言われています。素敵ですね」
石から手を離しエレノーラが微笑むと、リアンは照れたように頬を掻いた。彼はユリアをチラリと見、溜め息をつきながら肩を竦める。
「僕さ、彼と会ったらやりたい事が出来ちゃった」
「奇遇ね。私もよ」
「まぁ、僕達双子だし? 同じ事考えてるかもね」
何かを納得したのか、二人はうんうんと頷く。そんな彼らにエレノーラは問うた。
「あの、お二人はそのブレスレットの送り主と、どういう関係なのですか?」
「僕達? んー。家族? 兄弟? まぁ、そんな感じかな」
「家族……ですか?」
リアンの言葉にエレノーラは首を傾げた。
正直、全然似ていない。それに、そんな感じとは、なんとも曖昧な表現だ。
「家族でも兄弟でもなんでもいいけど、二人共、服、決まったのかしらー?」
双子の肩をマルクが叩いた。彼はもう選び終わったようで、先程までと服が違う。後ろの方でゾフィがうんうんと頷いているので、彼女が選んだのだろう。
「防御魔法掛かってる服じゃないと寒いとは聞いてたけど、ここまで寒いなんて知らなかったわ。二人とも風邪引かないように暖かくしておいてね」
「あ、ごめん師匠。すぐ選ぶから待って。エレノーラさん、選ぶの手伝ってくれる?」
「はい。元よりそのはずでしたのに、脱線させてしまい申し訳ありません」
エレノーラは軽く頭を下げると、ユリアに似合いそうな服を選ぶ作業に戻る。
防御魔法の掛かった衣類が欲しいということで店を訪れ、服を選ぶ途中で、ユリアのブレスレットにエレノーラが気付いたことから脱線が始まってしまった。
「このピンクのセーターなどどうでしょう? ブレスレットとも良く合いますし。こちらの白い外套と合わせると、可愛らしくて、ユリア様にお似合いだと思いますよ」
「少し可愛すぎないかしら?」
「いいんじゃない? 似合ってるし」
「本当ですわね。どこかのマルクとはセンスが違いますわ」
「何よソレ? どういう意味!?」
「言葉の通りでしてよ。だいたい貴方、《シレジア》でまで、真っ先に女物の服を物色に行った神経が理解できませんわ」
「えー。だって、女物の方が可愛いの多いじゃない」
「あれ? そういえば、師匠男物着てるのね」
「そーなのよ! ユリアちゃん聞いてくれる!? アタシね、最初女物の服探してたの! なのに、なのによ! サイズが無かったのよぉおおおお!」
身振り手振りを交え叫ぶマルクの横で、耳を押さえたゾフィがうるさそうにしている。
「無くて良かったですわ。折角の綺麗な景色ですのに、汚物が混じるところでしたし」
「あー。でも、ほら。僕思うんだけど、化粧してなければ、服が女物くらいだったら、どうにか見れる範囲なんじゃ?」
「そんなのゾフィの化粧道具借りるわよ」
「貸しませんわよ」
「じゃぁ、アナタの連れ達の――」
「貸しませんわよ!」
「なんなのよ! ケチっ!」
「貴方こそ、わたくしの美的感覚を完膚なきまでに破壊するつもりですの!? 四六時中化物の姿を見てたら、目が腐りますわ!」
騒がしい一団を見ながらエレノーラは微笑む。
こういう人達の中でゼファーが育ったのかと思うと、彼の内面の一端に触れられた気がして、少しだけ嬉しかった。




