05 中央政府(前編)
翌朝目を覚ますと、見覚えのない部屋に暫しぼんやりとしてしまった。
「異世界だっけ…」
起き上がり窓際に寄るとカーテン代わりのブラインドを上げる。広がる街並は昨日見たものと同じで、相変わらず現実離れしていた。見下ろすと宙に浮かんだレールの上を列車が走っている。屋根が紫色だ。もしかしてエリィさんだろうか。太陽は既に上っているが、日差しはまだ柔らかく早朝と思われる。出勤時間が早いのだろう。日本の鉄道だって始発は日が昇る前だ。
朝日に輝く景色から目を逸らし深呼吸を一つ。
「今日から頑張ろう」
リビングに行くとシンが朝食を並べているところだった。まさか彼が作ったのかと驚いていると、あたしの視線に気付いてエリィさんが用意していったのだと説明してくれた。
やはりエリィさんは仕事で暗いうちに出て行ったそうだ。魔道機関車の一番早い始発は朝の七時。準備等を合わせ六時から十五時までが早番、十五時から二十四時までが遅番になるそうだ。
用意されていた朝食はデニッシュ系のパンと目玉焼き、ターレのサラダ、フルーツの盛り合わせという軽いメニュー。卵のことをこちらではランと呼ぶ些細な違いがあった。フルーツはレモンと見せかけて、切ってみると赤い果肉のグレープフルーツ。名前はプフレという。
全く違う名称だったり、地球に似ていたりと難しい。混同しなくなるまでは時間がかかりそう。
「詩子さんの服は姉さんが用意していってくれたから準備できたら出かけよう。必要なものも揃えなきゃいけないし、一日で回りきれるかわからないね」
朝食を食べながらシンはそう話した。身分証明証を作る政府は役所のようなところだから、朝早くから人がいるらしい。中央門が開き、外からの人が政府に押しかける前に済ませてしまおうということだ。
一緒に教えてくれたのだが、トラッツェンは外壁に覆われていて東西南北に門がある。北を中央門と呼び、それ以外は東門、西門、南門とそのままの呼び名がついている。外から初めてトラッツェンにやってくる人は中央門しか通れない。そこで簡単な検問があり、入街証を発行される。観光を目的とするような一週間程度の短期滞在ならばそれだけで街の中を回れるが、売買を目的とする商人であったり、観光でも一週間以上の長期滞在、また住居を構えるという場合は政府で正規の証明証の発行をしなければならないのだ。
一度発行すると、中央以外の門からの出入りが可能になる。しかし二年に一回は政府で更新が必要。…昨日聞いたときは安易に作れるような印象だったが、意外とそうではないのかもしれない。シンの話し方は本当に簡単なことだと思っているようで認識の違いを少し感じたが、あたしの考えすぎだろうか。
とにかく行って見なければわからないということで話もそこそこに、あたしはエリィさんのご好意に甘えて身支度を整えた。衣服のほかに化粧品も用意されてあって気遣いに感動した。昨晩は倒れたから何もせずにそのまま眠ってしまったし、二十歳を越えてからのお手入れはかかせないのだ。
アイボリーのクラシカルなシャツに淡いブルーミントのスカート。相変わらず背中が開いていたので、薄手のロングパーカーを羽織る。上着をだしてくれたのはシンだ。
「ごめん。姉さんが上着を用意してないのは多分わざと」
申し訳なさそうに言うシンにあたしは苦笑いで返すしかなかった。あたしに羽はないのだから背中の穴は必要ないし、見せて歩く趣味も度胸もない。エリィさんのお茶目を無事に隠すといよいよ外出だ。ぐっと拳を握って意気込むあたしの頭に何かが被せられた。手で触ってみると帽子だった。
「念のために被っといた方がいいと思って。詩子さんは一部で有名だから」
「顔隠すほどかなぁ」
いまいち実感が湧かないし、視界が狭まるから帽子はあまり好きではない。しかし鍔を触るあたしにシンが真顔で頷くものだから、素直に従っておくことにした。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
扉を開けたシンに続いて一歩出る。出ると言っても、ここはまだマンションの中。ワンフロアに四つの部屋があるということで、玄関の正面、二十メートルほど先に向かいの扉が見える。ワインレッドの絨毯が敷かれた通路の真ん中が右に別れているのでシンの後について行くと、フロア中央に魔方陣のような模様が描かれていた。見たこともない蛇のような文字と点と図形。どんなに見つめても理解なんて出来ずに首を傾げているとシンがあたしの手を引いた。
「これは転移の魔術陣だよ。危なくないから乗って」
「転移…まさか生きているうちに体験することになるなんて」
近未来物のファンタジーでは当たり前に目にする転移。地球ではいつか科学によって実現するであろうものだが、数百年後のことで自分には関係ないと思っていた。感動よりもなんだか諦めの境地だ。直系三メートル程度の円に乗ると、円の枠に沿って透明の壁が現れ閉じ込められた。
「ひっ」
繋いだままのシンの手を強く握ってぴたりと傍にくっつく。シンは透明の壁にできた隙間にカードを差し込んだ。
「シンシア・レッグホーン。地上一階、受付」
シンが声を発するとカードから波紋が広がり、壁全体が白く染まる。
『魔力紋、声紋、照合完了。七七三号室、シンシア様を受付まで転移します。…三、二、一』
どこからともなく女性の声が聞こえてきたと思うと、あっという間にカウントが終わる。魔術陣が仄かに光を放ち、エレベーターに乗っているような浮遊感に襲われる。顔を顰めたのも束の間に感じなくなり、白い壁は再び透明に戻っていった。
『転移完了。いってらっしゃいませ、シンシア様』
陣の光が消え、シンがカードを引き抜くと同時に壁もなくなる。透明に戻ったときから見えていたが、陣から外れた先は先ほどまでの景色ではなかった。高級ホテルを思わせるロビーに受付フロント、そして極めつけはマンションの住人と思われる人々の多種多様な姿に口が自然と開いてしまう。魔術陣は受付正面の壁際に五つ並んでいて、隣の陣が赤く光ったかと思うと白い壁が現れた。それもすぐに透明に変わって、中から出てきたのは顔が狼の獣人だ。黒い背広姿の男の人。あたしの視線に気付いたのか目が合ってしまい、咄嗟に俯いてしまった。下がった視界で遠ざかる尻尾が動く。白と灰色の立派なもふもふだ。
「詩子さん、平気?」
「大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」
どんなに聞いて知っていたって実物を目にした衝撃は大きい。シンやエリィさんの姿が翼がないとただの人間にしか見えないから余計だ。シンはあたしをロビーのソファに座らせると、フロントにカードを預けに行った。急ぎ足で戻ってきたシンと共に、今度こそ街へ出る。木製のアンティークな扉を押し開くと、ひんやり冷たい風が吹き抜けた。
白と薄いオレンジを交互に並べた石畳の道。建造物は四角いものが多い。地球で言うとヨーロッパのイタリアがこんなイメージだ。ほとんどの建物の壁は白く、時折、アクセントのようにして一部色がある。白い壁とは裏腹に屋根はカラフルなようで、上から見下ろしたときに色彩鮮やかに見えたのはそのせいだ。民家や店は一階から三階建てが多い。しかしその中からにょきにょきと伸びるようにして高層ビルやマンションが建っている。そういった高い建物は壁も色が塗ってあり、あたしが出てきたマンションはレモンイエローだった。
「すごい!可愛い街だね!」
日本では見れない街並にテンションが上がるのも仕方ないだろう。不安も吹き飛んできょろきょろと見回してしまう。目の前を通り過ぎた猫耳の女性が横目であたしを見ていたが気にしない。シンは微笑ましいものでも見るような目であたしを見つめると、再び手を繋いできた。
「街の案内はあとでするよ。迷子にならないでね」
「はーい」
ぎゅっと握り返して歩き出したはいいが、見るもの全てに気をとられて道順なんてちっとも覚えられなかった。
シンが住んでいるマンションはプフレの雫というのだが、トラッツェンの中心から東側にある。目的地とする中央政府は北北東に位置しているが、そう遠くないとらしい。歩いて行って三十分程度。景色に見惚れている今のあたしにしたら全然苦ではない。住宅街の裏通りといった道を抜け、辿り着いた先は四角い建物が多い中では目立つ半円。つまりドーム状の形をしていた。
中に入るといくつもの受付があり、そこに並ぶ人の列ができていた。まだ数はそう多くないが、朝ということを考えたら少なくもない。もう少し時間が経つと混雑するのは容易に予想できる。シンと一緒に証明証関係の列に並ぶと、程なくして順番が来た。迎えてくれたのは人間のお姉さんに見える。桃色の髪をツインテールにして赤いリボンで飾った可愛らしい人だ。大きな瞳が愛らしい。
「おはようございます。本日はどうされましたか?」
「彼女の身分証明証を発行に来ました。身元引受人は俺です」
シンが水色のカードを差し出す。おそらくそれがシンの証明証なのだろう。受け取ったお姉さんはカードを確認すると、受付に設置されている水晶を手で示す。
「畏まりました。本人確認を行いますので、シンシア様は純水晶に触れてください」
シンが言われたとおりに水晶に手を置くと、水晶の中が揺らめいた。あたしの側からはよく見えないが、何かが映っているようだ。お姉さんがカードと水晶を見比べている。
「はい、もういいですよ。本人確認が出来ましたので、発行希望の方はこちらの用紙にご記入をお願いします。記入が終わりましたら、右手にある三番の扉にどうぞ。そこで内容の確認と証明証の発行を行います」
あたしには身分証明証申込書を渡し、シンにはカードが返される。記入をする台へと移動するあたしたちをお姉さんは金色の瞳を細めてにっこりと見つめていた。
「そういえば詩子さん、文字は読める?」
「え、読めるけど…日本語と同じじゃないの?」
渡された申込書の内容は問題なく読めた。あたしには日本語にしか見えないのだ。しかしシンは首を振った。
「この世界の共通語はトレディア語。日本語って三種類くらい文字の種類があって、それを混ぜて使ってるんだっけ?」
「そうそう。よく知ってるね」
「設定資料集にあったから。トレディア語は、うーん…蛇みたいなうねうねってした文字なんだけど」
「あ!もしかして、魔術陣に書いてあった?」
「そう、それ!」
あの魔術陣にあったのがトレディア語ならば、どうして日本語に見えなかったのだろう。文章と式に組み込まれた文字はまた違うということだろうか。二人で謎に頭を悩ませながらも、とりあえず申込書に日本語で名前を書いてみる。するとシンが目を丸くしていた。
「トレディア語になってる。書けてるよ、詩子さん」
「うーん、日本語で書いただけなんだけど…自動翻訳ってどういうことだろうね」
「わからないなぁ。でも、書けない読めないよりはマシだよ。ラッキーって思っておこう」
得体の知れない現象にもやもやとしたものが残るが、シンの言うとおりラッキーと思ってやっておくしかない。
記入内容は名前、種族、生年月日、年齢、住所、連絡先が主だ。シンに聞きながら空欄を埋めていく。身元引受人の記入欄もあり、最後にはシン自身にサインを書いてもらって終了だ。あたしから見たら日本語だらけのそれを持って、お姉さんに言われた三番の扉に持っていく。扉の横には申込書を入れるポストのようなものがあり、紙を入れると程なくして扉が開いた。
中から扉を開けたのは赤い瞳が印象的な男性だった。切れ長の瞳は鋭く光り、あたしの頭から足の先までをじろりと値踏みするように見下ろしていく。その冷たい視線に肝が冷えるのだが、それに耐えられるくらいにはあたしの意識を奪うものがあった。つんと尖った耳である。男性の容姿は怖いけど整っている。細身の長身、尖った耳。もしかしてファンタジーの定番、エルフの登場でしょうか。
「西崎詩子で間違いないか?」
「はい」
「中に入れ。身元引受人はここで待機するように」
ドキドキしていた気分が一気に萎んだ。シンが一緒に来れないのだ。隣に立っていたシンは微かに肩を揺らすと、あたしの背中を撫でた。
「やっぱダメか。詩子さん、何も怖いことはないから大丈夫。ここで待ってるよ」
「ん。いってくるね。待ってて」
子供じゃないのだから駄々を捏ねるなんてことはないが、知っている人と離れるのはやはり心細い。それでも行かなければ始まらないので、あたしは扉の中へと進んだ。
カタンと背後で扉が閉められ、エルフっぽい男の人が部屋の真ん中へと歩いていく。首元で緩く縛られた黒髪が背中で揺れていた。威圧感すら感じる後ろ姿から目を逸らし部屋を見回す。質素ながらセンスの良いテーブルとソファが配置された応接室のような作りだ。テーブルの上には受付でみたものよりも二回り大きい水晶がある。そこにカエルが乗っていた。
「え?」
五センチくらいのアマガエルだ。デフォルメされているわけでもなんでもない、リアルなカエルである。反応に困るあたしを余所に、男性は向かいのソファに座った。
「いつまで立っている。早く座りなさい」
「は、はい」
腰掛けても目はカエルに釘付けだ。気をそらそうと水晶や男性に集中しようとしても、結局はカエルに戻ってしまう。…しかも、かなり見られている。目が合ってるとしか思えない。
水晶にぺたりと伏せるようなカエルが気になりすぎていっそ声をかけようかと悩み始めた頃、申込書に目を通していた男性が顔を上げた。
「ハロウェル様、身分証明証の発行を希望している西崎詩子という人間の女です。お願いします」
「うむ」
カエルが喋った!
言葉を失うあたしを余所に、カエルは前足で身体を起こすともう一度口を開いた。
「ウタコ。妾はハロウェル。フロレナ族のハロウェルじゃ」
「…あ、あたしは西崎詩子です。お願いします」
「うむうむ。フロレナ族は初めてという顔をしておるの。蛙型獣人はあまり人里に下りんからのぉ」
ハロウェルと名乗ったアマガエルがぷくぷくと頬を膨らませる。喋り方からするとおばあちゃんだろうか。のんびりとした老年の雰囲気を感じる。このまま世間話にでもなりそうな空気を、怖い顔をした男性が遮った。
「ハロウェル様」
「おお、恐い恐い。マティはちょっとお喋りすると怒るんじゃから。短気は損気と常々言っておるのにのぉ」
「…ハロウェル様」
「わかったわかった」
マティと呼ばれた男性の眉間の皺が大変なことになっている。実は苦労人気質なのだろうか。しかし相手はカエル。どう考えたってカエル。カエルに苦労をかけられるエルフっぽい人ってあっていいのか。
やりとりが終わったようでカエルはケロッと一声鳴いた。
「ウタコ、この国で身分証明証を作るには簡単な審査がある。それが人格診断と魔力紋の登録じゃ」
「聞いています。しかし、身元引受人がいる場合には書類記入だけで終わると言われました」
「うむ?」
「彼女の身元引受人はシンシア・レッグホーンです」
シンから聞いていた話を言うと、ハロウェルは小さな顔を傾けた。それにマティが答え、なるほどとハロウェルが頷く。
「シンシアか。あの子はエリシアと共に入国したのだったなぁ」
うむうむと頷きを繰り返すハロウェルはゆっくりと説明を始めた。
シンが中央政府での登録を簡単だと思っていたのは、自身の経験からだった。エリィさんは国が運営する魔道機関車の操縦士という国家試験に合格し、身分に関しては国が保障している。姉と共にトラッツェンへやってきたシンの身元引受人は、当然エリシアである。国が保障する存在が引受人であり、初入国時に行われる検問――これには人格診断が含まれていた――を受けて問題がなかった。あとは魔力紋の登録をすれば済む。つまりエリィさんのおかげでシンは他の人よりずっと楽に身分が証明されていたということだ。
「国家資格保有者の身内が全て優遇されるというわけではない。むしろ、こういったケースには一定期間の監視がついて追加審査を行っておる。…お偉いさんほど黒いものを持ってくるからのぉ」
「ハロウェル様、お喋りが過ぎます」
ケロッケロッケロッと笑うハロウェルをマティが溜息と共に嗜めた。
「こんな情報、ある程度知識があるものならば知っておること。マティは心配性じゃのぉ」
確かに役所での手続きの仕方なんて自分の経験以外にはあまり気にしないかもしれない。シンはこういったことに興味がなく、知識がなかったというのが正解のようだ。今、説明されたこと以外にも細かい規則や制約があるのだろう。
しかしそれ以上に、エリィさんが凄い人だった。この世界での国家資格がどれだけの価値かわからないけど、国に認められる試験に合格するなんて日本でも称えられるものだ。そもそもトラッツェンで七人しかいない操縦士なのだから凄いに決まってた。
「うむ、納得してもらえたかの。良ければ診断にはいろう」
「はい。説明ありがとうございました」
そして、ぷくりと頬を膨らましたハロウェルの黒い瞳がぎょろりと輝いた。