閑話 とあるオタクのプロローグ
姉さんと別れて自分の部屋へ行くと、後ろ手に扉を閉めて大きく息を吐いた。
…夢だと思った。
今日は待ちに待った新作発表、そしてCMの初放送。夜中は全放送局が停止しているテレビが徐々に始まるのが朝の四時からだ。今回のCMは朝一番に流そうという企画になっており、予定では四時半前のCMで流れることになっていた。朝一のどうでもいい番組を横目に、お目当ての放送が始まるのを今か今かと待つ。
そして、その時はきた。
オルゴール調の第一作メインテーマをBGMに真っ白の画面の中から前作までのシンボルフラワーである桜、向日葵、秋桜が順に浮かび上がり咲いては消えていく。そして、秋桜が消えるとただの白だと思っていた背景はいつしか雪へと変わっていた。雪の積もった地面を見つめていた視線が上がるようにしてカメラも動き、その先に五人の女性の後姿が映る。真ん中の一人、一色奏が何かに気付いたように振り返り、僅かに目を見開いて、そして嬉しそうに笑った。
「遅いじゃない。待ちくたびれちゃったわ」
その一言を皮切りにBGMは今作のテーマソングを歌う有名バンドの曲へ変わり、疾走感に合わせて目まぐるしく場面が変わっていく。前作までの名シーンスチルと台詞も合わさりながら、新しいワンシーンが小出しに映し出される。合間にヒロイン紹介を挟んでくるので、息も忘れて見入っていた。
だがしかし、なかなかお目当てのヒロインの番にならない。順番的にそろそろのはずだ。早く見たい。会いたい。高まる期待に胸を躍らせているとようやく彼女の声が一言耳に届く。
今回のシンボルフラワーを背景にいよいよ――そう身を乗り出した瞬間、背後からとてつもない魔力の波が俺を襲った。
「ッ!?」
そして更に、振り返ることも許さないかというようにテレビの画面が強烈な光を発したのだ。あまりの眩しさに手で目を覆いながら瞼を強く閉じる。数秒か、数分か。瞼越しの光が弱まったように感じた。確かめる為に薄く目を開くと、画面に映るのは雪を被りながらも可憐に咲く黄色い花。『Pure Memories~追憶の朔日草~』というゲームタイトルと花が白く塗り潰され、最後にヒロイン達五人の声で「三年間、お待たせしました!」と流れてCMは終わった。
「って、途中見れてないし!マジかよぉぉ」
信じられない。何のために早起きして待機してたと思うんだ。動いて喋る俺のヒロインを見るためだったのに、ほとんど見れてないじゃないか。
「一体なんだったんだよ、さっき…の…」
大きな溜息と同時に項垂れた視線の先、テーブルとテレビの間の床。誰かが倒れている。…誰かじゃない、俺のよく知っている人だ。
「待て待て待て!いくら見れなくてショックだったからってこれは、まさか、こんな幻覚…夢?」
都合の良い、妄想百パーセントの夢。だってそうだろう?絶対に会うことの叶わない二次元の嫁――西崎詩子が、俺の目の前に倒れているなんて!
高校生編で何度も見たジャージ姿。放課後、園芸部の作業場である中庭の花壇に行くと彼女はその姿で出迎えてくれた。
でも、きっとここで眠っているのは大学生編の姿だ。大学三年生の夏休みが舞台である第二作目。高校時代はセミロングの黒髪と目を隠すような前髪で地味なポジションだったのに、大学生になると明るい色のショートカットにした彼女はがらりと雰囲気が変わる。率直に言ってしまえば、すごく可愛くなるのだ。実際にいたらきっとこんな感じなんだろうと、想像と妄想を繰り広げていた俺が見間違えるわけがない。
何より、先ほどCMで一瞬映った姿と衣服以外は瓜二つ。
「…詩子さん…?」
傍に膝をついてしゃがんで、恐る恐る指先に触れてみる。ぴくりと指が動いて、俺は反射的に胸元へ手を引っ込めた。
…生きているのだ。夢でも、精巧にできた人形でもない。きっと、本物だ!
飛び上がって喜びたいのをぐっと抑えて、俺は詩子さんを抱き上げると自室のベッドへと運んで寝かせた。自分の部屋のベッドに焦がれて焦がれてやまなかった人が寝ているという、何度見直しても信じられない光景。いつ目を開くのか、そわそわと落ち着かない。繰り返し視線を向ける時計はまだ朝の五時過ぎだ。仄かに窓の外が白み始めているのがわかる。
「…とりあえず、見られても恥ずかしくないよう片付けておこう」
何かをしていないと落ち着かなくて、結果、家中の掃除をすることになった。
詩子さんが目を覚ましたのは、お昼を過ぎた頃。ゲームで知っている詩子さんは規則正しいイメージだったから、もしかしたらトリップしてきた影響かもしれない。最初は俺を疑っていたようで怯えられたりもしたけれど、きちんと話すと受け入れてくれたようだった。ゲームの実物を見たのも信憑性があったんだと思う。ただ、三作目に手を伸ばしたときは思わず止めてしまったけれど。詩子さんの顔色がどんどん悪くなっていたのが止めた理由の一つ。もう一つは、
「これだけ十八禁だからなぁ…」
棚からゲームソフトを手に取り、ベッドに仰向けに寝転がる。一作目、二作目は全年齢向けの健全なギャルゲーだ。その作り込まれた世界観とピュアなストーリーに爆発的ヒット作となった。三作目ももちろん完成度は高い。しかし、プロデューサーが変更になっていたせいか全体的な雰囲気が今までと違ったのだ。年齢制限有りということで『ピュア』の要素がかなり減ったのもマイナスだったと思う。実際、三作目の仕上がりに前プロデューサーが激怒して四作目の制作に踏み切ったという話もあるほどだ。
まぁ、ゲーム制作の話は置いておくとして。あんな青い顔をしていた詩子さんが、十八禁ゲームなんて文字を見たら気を失いかねないと思ったのが最大の理由。
「でも、ゲームより詩子さんの胸、小さい気するんだよなぁ…」
バスルームで詩子さんが倒れたと、泣きそうな顔で俺を呼びにきた姉さんの姿はタオル一枚だった。まずは着替えろと追い立てながら脱衣所を覗くと、これまたタオル一枚で横たわる詩子さんに俺が気絶したくなった。その時にタオル越しながら胸元を見るに至ったわけだが、ゲームだともう少し自己主張が激しい大きさだったような…ゲームの各パッケージを見て首を傾げる。年齢制限に合わせてキャラクターデザイン変わってるだけか。そもそも三作目は新婚編だからもう少し年齢高くなってるしな。
一人頷いて起き上がるとゲームソフトを棚に仕舞っておく。いつかは見られてしまうかもしれないが、わざわざ見えるところに置いておく必要もない。機会があれば、二作目までなら一緒にゲームしてみるのもいいかもしれない。さすがに恥ずかしがって…いや、その前に不快に思うかもしれないな。俺にとって詩子さんはゲームの中の人だけど、詩子さん自身にその自覚はないのだから。
「ゲームの中かぁ。ホント、どうやって詩子さん来たんだろ。帰れるのかな」
突如始まった夢のような時間。西崎詩子というキャラクターに本気でのめり込んでいた俺にとって、終わってしまう時のことを考えるとかなり寂しい。
そもそも何か一つでも打ち込める趣味というのは、ある種の現実逃避だ。それに夢中になっている間は現実というストレスを忘れられる。リラックスすることがストレス発散には一番効果的なのだ。その方向性が何になるか。正直、楽器やボードゲーム、剣や魔術の修行という根気が必要なものよりも、本やゲーム、テレビといった他者が創造した世界に浸るのが手っ取り早くて楽だと思う。個人差はもちろんあるだろう。俺の場合はそうだったというだけの話。煩わしい同族たちから逃げるようにして、姉がくれた本を無心で読み始めたのがきっかけだった。
姉さんが操縦士試験に合格して勤務地がトラッツェンに決まり、これ幸いと俺も一緒に着いてきた。
トラッツェンは科学と魔術を融合させた技術の発展が盛んな街だ。いろんな分野のオタク気質な人間が集まる傾向にあったようで、とてもマニアックな方向に発展していった。いつしかついた呼び名が娯楽都市。あちこちに溢れる想像の世界に俺が嵌っていったのも必然かもしれない。その嵌る速度を助長してくれた友人もいる。
そんな俺だが、いろいろなものに目移りして本命といえる作品には出会えていなかったのだ。…件の友人にピュアメモを貸してもらうまでは。落ち目にあった制作会社からの新作ゲーム。正直期待はしていなかった。それが良い意味で裏切られて、俺は西崎詩子にどっぷり嵌ることになる。
その西崎詩子が目の前にいて、言葉を交わしていたのだ。彼女のことを好きすぎる俺が、美化している可能性も否めない。例えそうだったとしても、実際に詩子さんはとても優しくて、しかも料理まで上手だった。落ち込んだ表情も、笑顔も、窓の外に驚いた表情も全てが新鮮で、どれも綺麗だった。思い出せば思い出すほどに顔がにやけていく。いつか帰ってしまうかもしれないのは残念だが、それ以上に明日からの毎日が楽しみすぎる。
「くっ…ふふ…」
堪えきれない笑い声が唇の隙間から洩れる。自分でも危ないと思う笑い方だ。それを咎めるようにして、デスクの上にある魔電計算機からメッセージ着信の音声が鳴った。確認してみれば、俺をピュアメモに嵌めた例の友人からだ。内容はピュアメモアニメ化記念イベントに一緒に行くか、というお誘い。いつもだったら二つ返事だが、詩子さんのことを考えると少し複雑かもしれない。
そう思いながらメッセージに貼られていたイベント特設ページに飛ぶ。そこに書いてあった開催予定コーナーの一つに目が釘付けになる。
「これは…!」
気がつけば俺は一緒に行くと返事を送り、更に思い出した重要な本題を慌ててもう一通追加して送信した。
二次元から現れた俺のヒロイン。
彼女と俺の日常は始まったばかりである。