7.罪と罰
光と共に何処からか風が吹き込んできた。
柔らかで優しげなその風が、マカミの荒れた長髪を撫でていく。その姿はとても美しく、兄姉の仇といういまだ実感のない事実を忘れてしまうほどだった。
マカミはわたしから目を逸らさずに、告げた。
「昔、私には大切な人がいた。同じ仕事をしている男。強くて逞しい太陽のような人だった。私の大事な相棒で、誰よりも頼りになる男だった……」
それは、今まで語らなかった話だった。わたしは黙ったままマカミの話に耳を傾けた。
「ある時、彼と私はいつものように狩りに行った。狙っていたのは小物だ。人間の役に立つようなもの。けれど、その日の私たちは運が悪かった。出会ってしまったのは、魔物の中の魔物。あの蛇女なんかよりも強い奴だ。奴は私たちを見逃そうとせず、二人まとめて食い殺そうと襲ってきたんだ」
マカミの言葉がじわじわと沁みこんできた。不思議だった。言葉が魔法となって、わたしの脳内にその光景を生み出すかのようだった。その時にマカミが感じた絶望が、わたしにも伝わってくるようだった。
「私は……生き延びた……彼に庇われて……私だけが逃げ延びて……」
そこまで言ってマカミは両手で顔を被った。
泣いているのだろうか。そうなのかもしれない。それくらい、その男はマカミにとって大切な人だったのだろう。肩を震わせるマカミの姿は、わたしとは何か違う人間らしさを醸し出していた。わたしなんて、兄姉が殺されたと言われても涙ひとつ浮かべていないのに……。
「彼を失った私は魔物を呪い続けた。愚かにも寂しい気持ちを払いたい一心で呪い続けた。そうしているうちに、奴が現れた」
「悪魔……」
「悪魔は神々を恨む私に近づき、こう言った。『想い人の仇を取りたいのなら、力を貸そう』。藁にもすがる思いだった。魔物に一矢報いることが出来れば、それでよかった」
静かに言いながら、マカミは胸を抑えた。
「悪魔は言った。『かの魔物は強大な敵。だが、不死身なわけではない。倒すには力が必要だ。妖刀を正しく使えるだけの存在にお前がなるしかない』。そして、私は悪魔の言うままに、子羊達を襲い始めた。白、赤、青、緑、黄、紫……そして、黒」
それはわたし達の色。聖域を守る神々の色。
段々とわたしの中で、兄弟を失った事実が、事実として沁み渡ってきた。マカミは嘘なんか吐かない。本当にわたしの兄姉を喰い殺し、体内に捕えて、わたしをも捕えるためにここにやってきたのだ。
目眩がするような事だった。
けれど、どうしてだろう。マカミを恨むことがどうしても出来なかった。
「一人目を食らってすぐに気付いた。私の中で何かが変わった。人を食ったからではない。何か呪いのようなものが私の身体を変えようとしている。私がそれに気付いた時、ようやく悪魔は言った。『お前はもはや人ではない。このまま子羊を食らう事を止めれば、お前は獣になるだろう。それが神々に逆らった罪の証。そうなれば、もう魔物に復讐は出来ない。お前は進むしかないのだよ』」
見たこともない悪魔の姿が見えるようだった。
マカミは力なく笑う。
「私は魔物を殺したい一心で、君の兄姉を食らってきた。獣になるくらいならどうでもいい。どうせ私は孤独な女だ。ただ、どうしても、彼の仇を討ちたかったから、ずっと進み続けた。そして君の元に来た。けれど……」
――けれど。
「出来ない。ナナ。君を殺すなんて、どうしても出来ない。この一ヶ月間、楽しかった。君が話を聞いてくれるのが、楽しくて仕方なかった」
天井に向かってマカミが嘆く。その姿が何故だか狼のように見えて仕方ない。荒野に取り残された雌狼のようにマカミは地面を手で掻いた。
「きっとこれは神々が与えた罰だったのだろう。欲のままに力を望み、現を無視した私への罰。罪のない君の兄姉達を喰い殺した罰。後悔に苦しみながら、彼を奪った魔物を憎みながら、獣になる道しか私には残されていないんだ……」
マカミは嘆きつつ、わたしから目を逸らした。
「罵ってくれ、ナナ。私を恨んでくれ……」
「マカミ――」
わたしは思わずマカミの傍へと近寄った。
マカミは身動き一つしない。そっと目を閉じ、何かを覚悟したように表情を緩める。その様子があまりにも哀れで、さっきまで戦っていた姿が嘘のようだった。
わたしはマカミの傍で座り込むと、そっとその頭を撫でた。やがては獣になっていく美しい女性を見つめながら、わたしは静かに告げた。
「わたしも殺して」
それは、本心からの言葉だった。兄も姉もすべて消えた世界。何のために生贄に捧げられているかも分からない世界。孤独から救ってくれたのはマカミだけだった。そのマカミがやがては獣になり、わたしの傍から離れると言うのなら、その前にマカミに食べられた方がましに思えたのだ。
マカミの目が見開かれる。
獣のような仕草でわたしの目を見つめ、その真意を探ろうとする。やがて、わたしの言葉に嘘も偽りも一時の憐れみもないことを感じ取ると、マカミは地面へと視線を落とし、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべてわたしを抱きしめた。
「出来ない」
マカミは言った。
「君を殺す事なんて出来ない」
それは、覚悟の籠った声だった。
「そう経たない内に、私は獣になるだろう。君と喋ることも、心を通わす事も出来なくなるかもしれない。けれど、覚えていてくれ。私は君と過ごした日々が楽しかった。まるで彼と過ごした日々のようで幸せだった……」
「マカミ――」
それに続く言葉は宙に浮いたまま。わたしは結局、マカミにそれ以上の言葉をかけられなかった。
そして、数日も経たない内に、その時は訪れた。
言葉を交わさないまま寄り添い続け、ある日、目を覚ましたわたしの隣にいたのは大きな狼だった。漆黒の毛並に、凛々しい目。美しい狼はわたしの傍に寝そべり、冷えるわたしの身体を優しく温めていた。
マカミ。
消えた女の名をそっと口ずさむと、狼が一瞬だけ笑みを浮かべたような気がした。