1.黒の聖域
暖かな風が寂しく吹き付ける中、わたしはいつも歌う唄を思い出しながら空を見上げていた。
辺りには何もない。真っ暗闇がわたしを包み込んでいる。その暗闇から守ってくれるかのように、空からは一筋の日光が降り注ぐ。
真っ暗なのはここが洞窟の中だからだ。
岩の天井に出来たほんの少しの割れ目だけがこの場所に光と雨をもたらす。
それ以外は何もない。わたし以外の生き物も、あまりいない。
ここは黒の聖域。わたしだけの場所。もう十年以上、わたしはここに一人だけでいる。退屈を紛らわしてくれるのは、亡き父が教えてくれた唄だけ。聞いてくれるのは誰もいないけれど、わたしは一人きりで歌を唄いながら、自分の名前を心の中で呼ぶ。
ナナ。その名前を誰かが呼んでくれたのは、もうずいぶん前の事だ。最後に呼んでくれたのは、確かすぐ上の兄だったと思う。
かつては六人の兄姉と共に父の元で暮らしていた。母の記憶はなく、わたし達は父の愛を受けて育った。
その兄姉たちの顔も、もう随分と見ていない。
父が亡くなり、この大地を死の風が吹き荒らしたあの日から、わたし達は神々のお告げで引き離された。七つの聖域に一人ずつ、七柱の神々に一人ずつ、わたし達は捧げられた。子羊と呼ばれ、生贄として。死の風がどうか吹き止むようにと願いを託され、七柱の神々の婢として存在する事を望まれた。
それから、わたしは一人きりでここにいる。
わたしの仕える神様は、黒。人々に畏怖される暗闇の神様。参拝する人はこっそりと現れては消え、子羊であるわたしに会おうとも思わないらしい。けれど、兄姉のもとに誰かが参っているのかどうかすら知らないので、それが不公平なのかどうかでさえ知らなかった。
ただ、寂しかった。一人で歌うのは寂しかった。寂しいまま、十年以上の時が過ぎていく。
わたしは何も知らない。
ナナという自分の名前と、歌を唄うことと、祈りを捧げることと、ここでの生活のこと以外は何も知らなかった。
外ではまだ死の風が吹いているのだろうか。
それとも、わたし達子羊の祈りが少しは役に立っているのだろうか。
その答えすら、教えてくれる相手はいない。
だから、わたしは唄を歌った。懐かしい歌を、父の面影に出会えるこの歌を、祈り続ける自分を慰めるためだけに歌い続けた。
今日もわたしは歌っていた。
日の光を浴びながら、暗さと明るさしかないこの聖域で、歌い、歌い疲れ、そして空しさを覚えていた。今日も空しいだけの時間が過ぎていくだけ。いつもと変わらない孤独が横たわるだけの日。
そうとばかり思っていた。彼女を見つけるまでは。
歌い終わったわたしは、ふと、暗闇の中にわたし以外の吐息を感じた。日光の下にいることもあって、暗闇の中がどうなっているのかちっとも分からない。
「誰かいるの?」
思い切って問いかけて見ると、微かに身動きする気配を感じた。
誰かがいる。大きな肉体を持つ者。獣だろうか、それとも人間だろうか。
わたしは多少の期待を抱きながら、その何かがいるところへと近寄って行った。暗闇に足を踏み入れれば、一瞬だけ目を奪われる。けれど、闇に馴染めば次第に目は冴え、辺りが見渡せるようになるものだ。
そう、しばらくしてわたしは、ようやくその何かの姿をこの目に捉えることが出来た。
わたしは固唾を飲んだ。
人間だ。人間の女。獣ではなかった。けれど、獣のような風貌だった。着ている服は襤褸のようで、長い髪はざんばら。眼は恐ろしく光っていて、鬼気迫る表情でわたしを睨み付けている。手元には刀が握られ、その手には無数の傷がある。よく見れば、顔も、首元も、そして千切れた衣服の下も、傷だらけだった。
吐息が荒いのは、傷のせいだった。
見開かれた眼も、わたしの姿が見えているのか分からない。
だが、そんな襤褸のような姿にあっても、穢れの下に窺える顔だちは恐ろしく美しく見えた。それは、間違いなく、わたしが父の元にいた時には見たこともないような類の女剣士だった。
わたしが近づくと、女の身がやや強張った。気配だけを察知して警戒しているのだろう。
「大丈夫。わたしは敵じゃないよ」
わたしが声をかけると、女の表情が変わった。
やはり、見開かれている目は、わたしの姿をはっきりとは映していないようだ。そっと近づいてみてやっと、女の目から警戒の色が失せた。
「ここは……?」
訊ねてくる声色は低く、けれど、か細かった。
「ここは黒の聖域。わたしはここの子羊。子羊のナナよ」
「君が……君が、黒の子羊……?」
女はやっとの思いでそう繰り返すと、そのまま倒れ伏してしまった。
気を失ってしまったらしい。
わたしが触れてみても、女は起きそうになかった。ただ、柔らかな肌の感触と、恐ろしく深い傷の様子だけがわたしの手に伝わってくるばかりだった。