遊撃(先輩と一緒に秋葉原までハードディスクを買いに行った話)
こうしてわれわれは、ゆたかな肉体的愉悦に包まれた。
さて翌未明、妙なうめき声によって起こされる。
眠い目を擦って部屋の奥を見ると、先輩がなにやら焦燥した笑みをうかべてディスプレイに向かっている。
一糸まとわぬ姿のまま地面にあぐらをかくので、薄い乳房も陰毛も、ぜんぶ丸見えになってしまっていた。
「HDDが満杯なんだ」
われわれの部屋の片隅で、無骨な自作PCがブオンブオンと機械的な排気音を上げている。
「そうですか」
「もう残り1GBもない」
「なるほど。で、それがどうしたんです」
「ストレージがなければ、これ以上アニメを録ることはできない」
「その通りですね」
「買いに行こう」
「はい?」
「買いに行こう」
「なんですって?」
「追加の分を買いに行こう。いまから。秋葉原まで」
「勘弁してくださいよ」
なにしろ、深夜の3時なのだ。
「朝まで待ってください。なにせ明日は日曜日なんですから。HDDなんかいくらだって買いに行けるじゃありませんか」
「日曜日だから困るんだよ」
なんだって?
「8時半からプリキュアがはじまるじゃないか」
なるほど。
「そうですか。しかし、今日はもうあきらめましょう」
「けど、この5年間、1話も取り逃したことがないんだ。これは絶対なんだ。お願いだ」
あきれかえりながらも、断る口実を探す。
けれど、マシなものがひとつも出てこない。
「夜の街には、凶暴な魔物たちがたくさん徘徊してますよ?」
考えた末、ようやく捻り出した言葉がこれだった。
「なら、武装して行けばいい」
反論の余地がなかった。
われわれは、部屋を引っ掻き回して身にまとえるものを探しはじめた。
先輩は冬用のダウンジャケットを着込み、消火器の中身を全部抜いて鈍器にした。
わたしは暑いのがいやだったので、適当なシャツを着てカーディガンを羽織り、防災用のヘルメットをかぶって、フライパンを構えた。
お互いに、さらしを巻いた包丁を一本ずつ持った。先輩はジャケットの内ポケットに仕込み、わたしはブラジャーの肩紐にひっかけた。
こうして、われわれは秋葉原に向けて出発した。
「やはりいなかったよなあ、ツチノコは」
「そりゃそうですよ」
「懐かしいねえ。代々木公園じゅうかけずりまわって探したっけ。あのときはあすこが一番怪しいとおもったんだけどなあ」
だらだらだべっているあいだに、新宿南口まで来ていた。
駅舎は崩落し、車道の舗装は焼け爛れて剥がれたままだ。とても車両が通れそうな状態ではない。
陸橋にはまだところどころ穴があいていて、下を通るJR線が覗けてみえてしまっている。
代々木方面を見渡す。
「高島屋ですね」
高島屋は6階より上の部分がぜんぶ吹き飛んでしまって、見る影もなかった。
「あちゃー、きれいに半分こになっちゃって」
「あそこ、あの上のほうにあった映画館、ふたりで行きましたよねえ。なんかフランスかなんかのアニメ見た」
その奥にNTTの時計塔が覗いている。御多分に漏れずさきっちょが見事にへし折られていて、哀れな立ち姿をさらしている。
しかし、それでもなお厳かな、大見者の趣きみたいものの残滓が、かすかに感じ取れた。
先輩は秋葉原まで行くなどとぺらぺら言うが、実行するのはそう容易いことではない。
深夜なので当然鉄道は使えない。タクシーの類はまったく当てにならない。
そうなると徒歩しか手段はないが、渋谷区松濤から秋葉原まで歩いていくのは、それなりに骨が折れることだ。
あくまで一例だが、たとえば次のような道のりを往くことが考えられる。
まず住宅地を抜け、山手通りに出る。そのまま甲州街道と交わるまで北上し、初台の交差点を右折。新宿の陸橋を通過して旧バルト9のあたりを左に曲がり、伊勢丹跡地の脇を通過して靖国通りに出る。そのまま靖国通りを進み神保町によってもいい。ただし、靖国神社前は他地域と比べ高レベルの魔物が多い危険な場所なので、なるべくさけて通りたい。安全を期して旧大本営付近で外堀通りに移る。あとはこれをそのまま伝っていけば、万世橋まで出れる。
口で言うのは簡単だが、道路はまだ荒れ果てていて、未整備部分も多い。岩を押し退け地割れを避けながら、いつ先制攻撃を仕掛けてくるとも知れない魔物を警戒しつづけのは、やはり大変に神経をすり減らすことだ。
それにさっきのように傷をもらうこともある。
先輩が背中を左手でさすった。
「いてェ」
「痛みますか」
「そりゃあね。歩くたびにちくっと。毒ダメージ、毒ダメージ」
ここまでの道中、野犬8頭、トカゲ兵4頭、ゴブリン3頭、二股ヘビ3匹、チーマー1グループにエンカウントした。
魔物たちは合計で4430円ドロップした。
ちょうどHDD代の足しになると先輩は喜んでいた。
だが、こちらも無傷では済まなかった。
先輩が二股ヘビから毒をもらって、それが直っていなかったのだ。
「どうしましょう」
「この先に新宿御苑がある。たぶん薬になるような植物があるとおもうんだよね」
「なるほどね」
こうしてわれわれは新宿御苑にたどりついた。
門は朽ち果て、ひとの姿などどこにも見あたらなかった。昔は観覧客から入園料を取っていたが、いまやそんなことを気にしてこの廃墟に立ち入るものなどどこにもいない。
整然と植物を植え分け、季節ごとに来園者の目を楽しませていた新宿御苑の姿はもうない。歩道の周辺で色鮮やかに華やいでいた、桜やツツジや楓の木は、なにか見たことのない奇妙な姿の高木にその場を譲ってしまった。
木々は鬱蒼と生い茂り、たとえ白昼だとしても、ほとんど日の光が届くことはないだろう。ましてや真夜中の視界など最悪で、ほとんど手探りで進まなければならない。かつて遊歩道だった部分ももぬめぬめと湿ったツタ植物に覆われ、前に進むことさえ骨が折れる。
ツタをかきわけながら先輩に尋ねる。
「本当に薬草なんかあるんですかねえ」
「あるよ」
本当か? というかなんでこのひとはそんなことまで知ってるんだろう。
「あんまり深いとこまで行かないでくださいよ」
これだけ鬱蒼と茂っていると、草陰になにが潜んでいるかわからない。危険な毒虫や食人植物が生息しているかもしれない。
黙々と進んでいると、行く先に奇妙な色で光る雑草を見つけた。魔法使いのステッキみたいなグルグル巻きの葉っぱを持ち、身全体が黄金色に光り、茎を覆う繊毛の先っぽが、じっとりとした半透明の粘液をひりだしている。
「これはなんですか?」
金色の雑草を指さす。
「あーこれはコガネイロゴアゼンマイだね。茎の部分に含まれてる成分に幻覚作用がある」
先輩がコガネなんちゃらを何本かまとめて手折る。切り口からプシュッと白い汁が飛び出した。
「密室で燻すと、部屋の壁全体がおっぱいになったみたく感じるんだ。戻ったらうちでやってみよう」
先輩はさらに奥へずんずん進んでいく。
だんだんと下草の密度が濃くなってきた。まるで草全体が意志を持っているかのように膝下に絡み付いてくるので、注意していないと足を取られて転びそうになってしまう。仕方ないので、包丁を取り出して切り裂きながら道を切り開いていく。草の葉が手の甲や首で擦れて、かすかな痛みを感じる。
「あった。これだ」
見ると、道の真ん中に一輪咲きの美しい花があった。位の高いお坊さんのようにしとやかな紫色をした、優美な花だ。
「キキョウジムモドキだ。めしべから分泌される粘液に解毒作用がある」
先輩は、おもむろにわたしに背を向け、ジャケットを勢いよく脱ぎ捨て、薄く汗の滲んだ白シャツを後ろ手にめくりあげた。血管の網が透けてみえそうなほど白い背中が露わになる。黒い地味なブラジャーが、背の骨がはっきりと浮き上がるほどがりがりに痩せた先輩の胴を、きつく締め付けている。
へびにやられた部分は腫れ上がり、うっすらと血を滲ませている。
先輩は花を手折って、わたしに差し出した。
「すまないけど、患部に擦り込んでくれんか。自分ではちょっと、見えないところだからね」
「いいですよ」
わたしは受け取って、花の中心を傷口に押し当てる。
「うっ」
先輩は一瞬表情を強ばらせた。しかし、そのままめしべの部分を当てつけているうち、すぐに柔和な顔にもどった。
「そう、そんな感じ」
しばらく押し揉んでやるうちに、急速に患部の腫れが引いていくのが、はっきりわかった。
「ああ、いい気持ちだ」目を瞑りながら声を漏らす。「とっても上手だ」
先輩の傷口に薬草を擦り込みながら、わたしは昔のことを思い出していた。
中高時代、わたしは肩や腰を揉むのが上手く、マッサージ名人なんて呼ばれていた。休み時間、お弁当を食べ終わった後の時間とかに、友達から肩揉みを頼まれることもしばしばだった。
一方、先輩の体の具合は高三のとき特に悪化していた。そのころは朝礼のときしょっちゅう倒れていて、保健室に運ばれる姿を高二のほうの列からみとめることもしばしばだった。
そうなるとわたしはどうしても気になってしまって仕方がない。勉強など手につかない。だから、そういうときは一限をすっぽかして保健室までお見舞いに行ったものだ。
「わざわざありがとう。もうはじまってる時間でしょ? いいのかい」
先輩はベッドに横たわったままわたしに尋ねた。
「さぼりは先輩だって同じじゃないですか」
保健室特有の薬品の香りが、鼻腔をくすぐった。
「すまないけど、肩、やってもらっていいかい。どうにもね、睡眠不足と肩こりって、いっしょに来ちゃって」
先輩は掛け布団をぺろっとめくって、うつ伏せにひっくり返った。
「いいですよ」
わたしは、体重をかけないように気をつけながら、先輩の背中にまたがった。
先輩の首はほんとうにガチガチだった。
「夜中までネットばっかやってるからでしょう」
「うるさいな」
やんわりと、けれど力を入れて肉をほぐしていく。
こじれた筋の1本1本がきれいに直って、正しい場所へ置かれていく。まるで、古い木造建築の解体現場のように。
ほのかに汗のにおいがした。制服のシャツがうっすら汗でにじんで、ベージュのブラひもが透けて見えた。
わたしは視線をそらし、無心に肩を揉みつづけた。
先輩の短い髪ばかりを、ずっと見つめて。
われわれは市ヶ谷の外堀まで着ていた。
外堀を右手に見ながら、のんびり、のんびりと進んでいく。堀の中をちらっと覗くと、紫色にぬめった毒沼の中で怪しげな爬虫類がうごめいているのが見えた。
道路の向こう側で、倒壊したビルの跡地にバラックが建っている。
ピンクの楕円に青白ストライプの看板。ジョナサンだ。
店の前に立てられたのぼりに、味気ない書体で
コスパの優れたマヨコーン
と書いてあるのが見える。
「せんぱい、あの、マヨコーン」
「ダメ。後にしろ」
「でも、おなかが空きました」
「アキバについたらなんでも好きなものおごってやるから」
しぶしぶついていくしかなかった。
しばらく歩いていると、どこからともなくひとの声のようなものが聞こえてきた。
われわれは警戒して、しばしの間立ち止まった。
どうやら外堀の向こう岸から聞こえるようだ。透き通った、きれいな歌声だ。
「あれだ」
先輩の指さす方角を見ると、外堀の対岸の石垣部分に、人の大きさほどの魔物が止まっているのが見えた。
遠目では人間のように見えるが、目を凝らしてみると、手は翼に変形し、足が鉤爪になっているのがわかる。
ハープを爪弾くような美声で、だいぶ昔にネットで流行ったポップソングを歌っていた。
「『千本桜』だな」
先輩が言った。
「なんですか、あれ」
「あれはセイレーンだな。あの、エーゲ海でオデュッセウスの船を誘惑したという」
「うーん、それはいいとしても、なんで『千本桜』なんですか」
「だから、あれは右寄りでネット中毒なセイレーンなんだ」
そんな説明で納得できるはずがない。
だがそんなことを気にしていてもなにも解決しない。
「どうしましょう」
「とりあえずこれ」
先輩がジーパンのポケットからなにか取り出した。
耳栓だった。
「これ、つけないでずっと聞いてると、理性、なくなっちゃうからね」
全般的に抜けてるのに、変なところで用意がいいひとだ。
「気づかれないようにそーっと通り抜けよう。」
耳栓を取りつけ、身を低くして、草陰に隠れるように慎重に進む。
「前から気になってたんですけど」気づかれないよう、小声で先輩に耳打ちする。「千本桜って、あれ変な歌詞ですよね」
「なにが?」
「や、ほら、だって、AメロBメロはずっと、風景描写でしょう。日の丸印がどうだとか、環状線がなんだとか。あと、ICBM? ですか。帝都東京、かっこいいなあ、的なニュアンスで」
「そうだよね」
「それがサビになると急に変なとこ行っちゃうじゃないですか。君の声も、届かないよ、でしょう。いったいその『君』って誰なんですか。そんな話してなかったでしょ。唐突すぎませんかね」
先輩はちょっとの間ウーンと唸ってから、
「それは、アレじゃないか。だからその、つまり、作品の中に、君と僕と世界の風景という3つの要素しか存在していないんじゃないか。風景という遠めの要素と君という近めの要素が直結していて、その間の媒介項が存在しないんだよ。そしてそれは、そこに対応する社会領域全体への不信感に対する表明なんだよ。きっとそうだよ。そういうやつだよ」
なんだその理論は。
確かにそういう与太話が大昔にあったらしいということは聞いたことがある。しかし、そんなアンティークな装置を使ってボカロの話をしてる奴なんか金輪際聞いたことがない。
まさかそんな話をこんなところで聞くとはおもわなかった。予想の遥か斜め上だった。
考えているうちになんだかだんだん可笑しくなってきて、しまいにわたしは、
「ブフォッ」
と吹き出してしまった。
すると、
「キェェェエエエ!!!」
「あっやべぇ」
セイレーンに気づかれてしまった。
「おいィー、お前のせいだぞ。なんとかしろよ」
猫を愛撫するようにたおやかだった歌声が、突如とてつもない轟音に変化した。
体全体がぶっとびそうになるほどの衝撃に襲われた。
地震が起きたように大地が震動し、堀の石垣がガラガラと崩れ落ちる。耳栓をしていても、歌声が頭の中にがんがん響いてくる。
「オエーッ、頭割れそう」
「とりあえず黙らせないと。なんでもいいから投げつけろ」
われわれは転がっていた石を手当り次第に投げつけた。
しかし、まったく当たる気配がなかった。
セイレーンの鉤爪が猛スピードで襲いかかってくる。我々は素早く左右に分かれて攻撃を避ける。
「速いですね」
「捉えられないレベルじゃない。次、仕掛けるぞ」
セイレーンが背後で急旋回し、ふたたび私たちの心臓を狙ってくる。
鋭く曲がった鉤爪が先輩の胸に達しようというそのとき、消火器がセイレーンの頭にクリーンヒットした。
そのままセイレーンはグラッとバランスを崩し、2、3回懸命に羽ばたいてから、むなしく地面に落下した。
「殴れ!」
先輩が消火器でセイレーンの頭をボコボコにする。
わたしも続いて足でめっためたに踏みつけまくった。
とどめに、包丁で胸をひと突き。
傷口からドクドクと血が流れる。セイレーンはしばらくの間、苦しそうになんどか奇声を上げていたが、やがてぱたりと事切れてしまった。
「かわいそうに、こいつもまたインターネットの海で溺死したものどもの末路なのだ」
「はぁ」
そうなんですかね。
先輩は、簡単にお堀のまわりの土を掘り返してセイレーンに土を被せた。
「彼女も愛するひとさえいればこんなことにはならなかっただろうに」
わたしは適当なサイズの石を拾ってきて土に挿し、マジックで
「セイレーンのおはか」
と書いた。
先輩はいかにも一仕事したぞという表情で額の汗を拭い、片手を腰にあて、ふぅとため息をひとつつき、それからつぶやいた。
「ごめん、やっぱ、いまのウソ」
先輩にはじめて抱かれたのは、陰気な長雨の降る9月の1日だった。
まだお互いに実家ぐらしだったから、少ないお小遣いを出し合って道玄坂のホテルに入ったのだ。
先輩がわたしの下半身にむしゃぶりついている間、わたしは本当に無力だった。
天井に張られた鉄の板に映る自分の姿を、ただぼんやり眺めていた。
薄い乳房の周りで、わたしのあばら骨はひどく浮き上がっていた。
惨めだった。まるで体毛を丸刈りにされる羊だった。
事が終わってふたりでブランケットにくるまっているとき、なんとなく所在なくて先輩の顔を撫でた。
「なに。やっぱり気になる?」
先輩は今も昔もひどいそばかす持ちだ。
「はい、ちょっと」
「じゃあそんなに見ないでくれよ」
先輩はムスっとしていた。
「いえ、わたしはこれが好きなんです。きっと」
「じゃあ君は好きなだけ眺めてればいい。なんならそばかすで星座でもなんでも編んだら。ギリシャの羊飼いみたいにね」
ひどくきざでかっこわるいことを言うと、後で思い出して笑ったものだ。
けれど。
なにかがほのかに心の中でわだかまった。
丸刈りにされた羊、そして羊飼い。
錆び果てた鉄骨を剥き出しにして、東京ドームが不愛想な表情を見せていた。ところどころに、真っ黒に焦げたあの空気膜が、ひっついたままになっている。
水道橋のあたりまでやってきていた。
慣れ親しんだ土地だった。わたしと先輩がいっしょに通っていた学園はこのあたりにあったのだ。
「懐かしいですね」
「ああ」
右手を見れば、腐臭と瘴気を立ち上らせる神田川を背景に、焼け落ちた芳文社ビルの残骸が小山になって放置されている。
往時を忍ばせる広告看板が、朽ち果てながらもそのままに残っていた。かつては美しく発色していたであろう、はりかものイラストを地に、赤字の極太ゴシック体で煽り文句が踊っている。
4コマはすべてを奪い尽くす。
4コマに、条件なき無制限の自由を。
「よかったな、萌え4コマは」
「ええ、そうですね」
「私も久々に描こうかな」
「まあ、まずダメでしょう。こんな時代ではね」
水道橋を過ぎると御茶ノ水へ続く坂道に出る。少々かったるいが、この丘を避けて通るには神保町のほうに回らなければならない。そっちのほうがずっと遠回りだ。
先輩はしばらく黙って歩いていた。
「ところでこないだアップしたマンガ、どうおもう?」
「いまいちですね。特になにが足りないと、そう言えるわけではないんですが」
「確かにブクマ数も落ちてきている」
「やっぱり今さら東方二次創作はないんじゃないですか。上海の新作、出なくなってもう何年です」
「けれど大事だろう、東方は。読者もサークル数も、別に増えてはないけど、減ってもいないから」
「惰性にしかなってないとおもいますけどね」
「ウーン」
左手にはボロボロに朽ち果てた順天堂大の残骸が見えた。こういった施設跡には、腐ったナースがたくさん巣くっていてとても危ない。どんな液体が入ってるかわからない注射器を手当り次第に投げつけられるのは、あまり気分のいいものではない。
上空からギャッギャと妙な声がする。見上げてみると、小さめの翼竜が2頭、真っ黒な空で無邪気にじゃれあっていた。
「けど、その前に描いてたオリジナルの短編はよかったですよ。なんか、ちゃんと話に落ちがつくようになってきましたよね」
「そうか。あっちのほうは反応よかったんだ」
「ああいうのちゃんと刷ったら50部くらい、すぐ捌けると思うんだけど」
「だよな。私もそうおもう」
しかし、そこで先輩はひとつため息をついた。
「しかしなあ。即売会もなあ」
「大変ですよね」
「変わらないのはネットだけだなあ」
もうすぐ坂を上りきるというところだった。
しかし、なにやら様子がおかしい。前方のほうがなにか騒がしいのだ。
「なんだなんだ」
騒ぎの原因はすぐに判明した。
医科歯科大の前あたりで、数え切れないほどの数の腐乱死体が蠢いていた。どれも若者風の格好をしていて、その中にナースや白衣姿の男性も混じっている。隙間がないほどに密集していて、ほとんど満員電車の様相だ。
みなオロオロと不気味な声を上げながら獲物を探していた。
「あちゃー、浪人生のゾンビだねこりゃ」
そう、御茶ノ水といえばかつての予備校密集地である。
さらに、付近には医大を始め明大や日大など大学が多数立地していた。ちょっと離れてはいるが東大の敷地もある。
「きしょくわるー」
「院生の死体も混じってるかもしれない。やつらは浪人生の3倍くらい動きが早いからな。気をつけろよ」
「あとちょっとで秋葉原なのにぃ」
「1体1体は雑魚だけど、こう集まっちゃうともうどうにもならない。そんな包丁1本じゃ埒が明かないぞ」
しかたなく、私は血みどろになった包丁を捨てた。
ちょうど良く、朽ち果てたガードレールの身、殴りやすそうな鉄パイプが転がっていた。
「一気に薙ぎ払いながら行く」
ゾンビのうち1体がこちらに気づいた。こちらに向かってくる。
1体が気づけば、あとは芋づる式だ。
「行くぞ」
われわれはゾンビの群れめがけて突進した。
その夏、われわれは鎌倉の由比ヶ浜に来ていた。
浪人中の先輩を励ますために部活のみんなを誘って企画したのだ。幸運なことに、久々に全員が集まることになった。
夏の模試を終え、予備校の校舎から出てきた先輩を待ち伏せしてみんなで誘拐した。先に大学へ進学していた矢澤さんがハイエースをレンタルしてくれて、そのまま後部座席に放り込んで鎌倉まで連行した。
そのまま現地の宿で1泊、翌日はみんなで朝6時に起きて徹底的に遊び尽くした。
浜辺に出ても、先輩は決してパラソルで日に当たろうとはしなかった。ベンチに横たわって、ずっと文庫本とにらめっこをしていた。
「本当に紫外線、ダメなんだよ。堪忍しちくり」
しちくりじゃねェだろ。
りこちゃんとえみちゃんが波打ち際でキャッキャと水をかけあっていて、とても眩しかった。けれど、その日はじめて見た先輩のビキニ姿はもっと眩しかった。
「いいのかな、こんな遊んじゃって」
「いいじゃないですか。先輩、4月からずっとがんばってたんですから。1日ぐらい、ね」
「いやいや、ほんとにぜんぜんがんばってない。ぜんぜん、まったく」
砂浜が太陽の光をギラギラと反射していた。小さな蟹が1匹、ベンチの下をよちよちと歩いていった。
「そうだ、飲みなよ」
先輩が、日陰で冷やしておいていたルートビアを1本、渡してくれた。
湿布の臭いがすることで有名な、よりニッチなドクターペッパーみたいな飲み物だ。
「あんまり、美味しくないと思うんですよね」
「いいから、いいから」
言われるままにプルを起こした、そのとき。
勢いよく中身が噴出してわたしの顔を直撃した。
先輩は大声でゲラゲラ笑っていた。
「うわぁ、べちょべちょですよぉ」
「うへぇ、べたべただぁ」
われわれは無事に御茶ノ水の坂を下り、万世橋にたどりついていた。
幸いにしてガブガブやられることはなかったが、すし詰めのゾンビの中を無理矢理突破したので、服や肌が肉片だらけになってしまった。
ぬめぬめしていて最悪に気持ち悪いし、なにより臭いがひどい。
「これ、もう着れないね」
「先輩、夏の日差しであったまった肥だめみたいな臭いします」
「うっさいわ。お前だって2週間常温で放置したしめさばみたいな臭いだわ」
ふたりで顔を見合わせ、笑った。
秋葉原も他の地域と変わらず、建物はみな焼け落ちてしまっていた。あちらこちらにガレキの山が残っている。色褪せた萌えキャラの看板が地面に放置されていて、侘びしさを誘う。
けれど、燃えかすが片づけられた跡にはちらほらと仮設店舗やテントが建っていて、ゲリラ的に電子部品やアニメグッズの販売を再開していた。少しずつだけれど、かつての活気が戻りはじめていた。
しかし、それも昼間の話である。
「いやー、さすがにどこも開いてそうにないね」
「ちゃんと調べてから来ればよかったですね」
バラックはどれもシャッターを下ろし、テントは愛想なく入り口の幌を閉めている。さすがにこんな深夜に営業してそうな店はどこにもない。
「もう、どっかからパクっちゃいましょうか。誰も咎めないでしょ」
「それはイカン。いや、そうするのは簡単だけど、せっかく歩いて来たんだからさ」
かつてコミックジンがあった敷地に差し掛かろうとしていた。
「行ったよな、CUTEG先生のサイン会」
「え、そうでしたっけ? 別の作家じゃない?」
「ウソ、そうだっけ? じゃあ誰だったんだ、あれは」
わたしもまったく思い出せなかった。
「えーっ、だってでも、そうじゃんあれ。日本語あんま、うまくないひとだったよね」
「まあとにかく、裏通りのほうも見れば、もしかしたら違うかもしれませんし――」
わたしが言いかけたそのときだった。
「ヒャアァッ!」
男の悲鳴が聞こえた。
「あっちだ」
むかしのヨドバシカメラの方角だ。
われわれは交差点を右折し、走り出した。
「助けてェ!」
声の発信地はすぐにわかった。山手線・京浜東北線のガード下だ。JR線は真っ先に復旧が進められたが、今も夜間は魔物を追い払う策に苦心している。
ガード前までたどり着いた。
明かりのない陸橋の陰で、男が鳥の大群に襲われていた。
ほとんど全身余すところ鳥に取り囲まれ、全身をついばまれまくっている。
「鳥ですね」
「鳥だな」
「ヒッチコック状態ですね」
「観たことあるのか?」
「ないですけど」
男は猛烈な勢いで顔面を狙われていた。必死に手でガードしていたが、ぜんぜん守りきれていない。あちこちから出血している。
「こういうのエバンゲリオンでもありますね」
「どうする? 助けるか」
「そんな義理はないですよね」
「そうだけどなあ」
ぶつくさ相談していると、男がこちらに気づいた。
「おい、そこなひと! 見てないで助け……ギャアァッ!」
口を開いたばっかりに口腔内をブスリとやられていた。
「野生の鳥とフレンチキスとは感心しない」
「もう助けちゃいましょう。わたしイヤですよ、あんなの見殺しにするの」
「そうだな」
われわれはお互いに獲物を構えて鳥の群に立ち向かった。
「いやー、どうもありがとう。本当に助かったよ」
われわれは助けた男に連れられて、立ち並ぶテントの1軒に招待されていた。
まだ30代に満たないとおもわれる若者である。粗末なツナギを着て体中汚れているが、育ちは悪くなさそうに見える。
顔中をついばまれていたので、傷口をいちいちきちんと消毒して処置したら絆創膏のお化けみたいになってしまった。
「まあ無事でよかったよ」
先輩が適当に応じる。
「にしてもどうしてあんなことに? あなただってこんな危ないとこに住んでるくらいだし、夜間の心得ぐらいあるでしょうに」
男は照れくさそうに応える。
「それが、この夜中なのになんか急にお腹が空いちゃってさ。この辺で深夜営業っていったらマックしかないから、買いに行ったんだけど、途中で襲われちゃって。当然ハンバーガーはぜんぶやられちゃったんだけど、それだけじゃ足りなかったみたいでね。お肉の方まで狙われちゃって。危ないとはわかってたんだけどねー」
なんともおまぬけな話である。
「てか、24時間なんですね、マック」
「すげぇな」
「マックはすごい」
3人で頷いた。
「ところで、なんだけれど」先輩が口火を切る。「さっきから気になってたんだけど、ここパーツ店だよね?」
そうなのだ。
AMD製のCPUにジャンクっぽいマザーボード、メモリに各種ケーブルにPCケース、粗末なテントの中にはパーツが所狭しと並べられていた。ジェット機のエンジンでも冷やすのかというほどゴツいCPUクーラーもあるし、Antec製電源の箱には "Believe it" と印字されている。もちろんプチプチで簡単に包装されたHDDもたくさん積み上げられていた。
「その通り。今は営業時間外だけど、昼間はPCパーツとかを販いでいるよ」
「なんていう店?」
「ツクモex秋葉原店・仮設店舗」
「やっぱり! 場所が同じだったから、そうじゃないかとおもったんだよ」
先輩は感極まって、店員と両手で握手を交わしていた。
そんなこんなで、いつのまにかすっかり打ち解けてしまった。
「いやぁ、昔の常連さんかぁ。巡り合わせだねえ」
「助けた亀に連れられて、とはこのことだな」
「そんなことわざありませんけどね」
「私たち、ちょうどHDDを探しにここまで歩いてきたんだ。この店で買ってもいいかな」
「もちろん。君たちふたりは命の恩人だからね。どのパーツでも半額でお譲りしますよ」
あっそこはタダじゃないんだ。
「それじゃあWDの緑、16TBが半額で4400円です」
「ありがとう」
先輩がお金を渡す。結局、道中の稼ぎを入れればお釣りが来る計算になった。
「しかし、こんな深夜になんでHDDを? 聞いたことないよ、そんな客」
われわれふたりは一瞬顔を見合わせて、吹き出した。
「この人がどうしてもプリキュアが録りたいっていうんで。わたしはイヤだったんだけど、無理矢理引きずり出されちゃいました」
店員はちょっとの間、きょとんとした顔を見せ、それから、堰を切ったように、快活に笑った。
「そりゃあいいや。今年のプリキュア面白いもんね」
「まさか敵のヒロイン挌が性同一性障害とはなあ」
「あいつ、絶対半年後には仲間になってんだぜ」
「最近の性教育は進んでるよなあ」
「あと敵幹部のデザイン、あれ絶対ネオナチだしね」
わたしはプリキュアを知らないので話に入っていけない。気を遣っているのか、店員のほうがわたしに話を振ってくれる。
「けど、アニメ会社は偉いよね。東京がこんなんなっちゃっても、寝ないでプリキュア作ってるんだから」
「もう9割くらいは途上国になってるそうですけどね」
「でも、規模が縮小したとしても忙しさは変わらないからね。それに、こうなっちゃあ、いったいどっちが途上国なのやら」
わたしは、東京を襲った、あのとてつもない大きさの魔物を思い出す。
子どもがデザインしたような雑なフォルム。昔の特撮みたいな、雑なエフェクトを発しながら壊れていく東京。
「ところでおふたりさん、カップルかなにか?」
顔を見合わせて苦笑する。
「うーん、まあ、そんな感じですね」
わたしは溜息をつく。
「倦怠期なんだけどね」
「本人の前でそんなこと言いますか」
「いやあ、冗談冗談」
「いいねぇ。僕はそういうの、もう無理だなって諦めちゃったけど、でもやっぱりカップルとかを見ると、なんだかほっこりするよ」
店員はなんだか妙にうれしそうだ。
「そんなもんかねえ」
「けど、まあ、どっちにしたってつらいことばかりですよ」
わたしが口を挿む。
「そりゃあ、そうだろうね」
店員が肩をすくめる。
「もう楽しいことなんてないかもしれないなんて、そんなことばかり考えちゃいますね」
先輩が付け足した。
「そうだねえ」
店員は上の空で考える。
「けれど、」と、言葉を選んで、ゆっくり喋る。「幸せになろうなんて、そんなことを言ってるんじゃないからね。あるかないかわかんないもののことなんか、知ったこっちゃない。ただ、つらさがあるってことはわかってるわけだから。存在してるってわかってるものは、もしかしたら、先回りしてなくしたり、軽くしたりできるかもしれない。ま、あくまで可能性の話だけど」
われわれは、きょとんとするしかなかった。
「そう考えると、なんかすごいびっくりするんだけどね」
われわれはいまや、ツクモexを発とうとしていた。HDDに衝撃を与えないよう、大事にしまって、荷物をまとめる。
「あ、そうそう、それと最後にもうひとつ聞きたいんだけど」
店員がつけたした。
「君たち、四畳半でくさやパーティーしたみたいな臭いするけど、いったいどうしたの?」
最後に思い出したのは、先輩にプロポーズされたときのことだった。
高校一年生の5月の放課後、わたしは先輩に呼び出しを受けた。
薄暗い階段下にある、小汚いわれわれの部室で、先輩はわたしに妹になってほしいと申し出た。プロポーズというのはそういう意味で、だ。
いまになって考えてみれば、それは、ささやかな儀式の体裁をまとった、単なるごっこ遊びだったのかもしれない。たしか彼女はあのとき、ロザリオを受け取れとも言っていた。
けれど、当時のわたしには、それを冗談として受け止める余裕など、全然なかった。
薄汚れたガラスを通過した夕日が、静かに塵の揺らめきを浮かび上がらせていた。
あのとき、わたしは先輩を拒絶した。
それは、好意がなかったからではない。その反対だ。
姉妹という言葉の中にちらつかされていた有限の響きを、恫喝と見紛ったのだ。
実に愚かなことだった。
月並みな問いと判っていても問いたくなってしまう。あのときもし、頷いていたら、われわれはいま、少しは違う地点にいたのだろうか。
時間を遡る視線が火花となって散らばり、いまや純粋に観念的な直方体と化したあの部室を照らす。
見通せた気がした幻燈の影をひとつひとつ吹き消してゆきながら、わたしはなめらかな微睡みに襲われる。
謎の形而上学を垂訓する店員が切り盛りするツクモexを発つと、鈍い色の朝日が中央通りを覆っていた。朝の訪れとともに、あれほど街に充満していた魔物の気配はすっかり消えていた。
われわれは、24時間営業のマクドナルドに入って各々好きなものを注文する。先輩はフィレオフィッシュにチキンナゲット。わたしはビッグマックセット、ドリンクはファンタグレープ。
狭い掘っ立て小屋の店内にゾンビ臭いアベックが入ってくるので嫌な顔をされたけれど、そんなことは全然気にしない。
マクドナルドから出ると、もうとっくに電車は動き出している時間だった。
中央線の座席に、先輩と肩を並べて座る。
「先輩、おもったんですけど」
「なんだ」
「これ、最初から始発の時間を待って、行きも電車で向かえば十分間に合ったんじゃないですか」
「私も、いまおんなじことを考えていた」
芳文社、ジョナサン、外堀、今日眺めてきた風景が逆巻きに流れていく。
さて、われわれは再び渋谷区松濤のワンルームに帰宅する。汚れた服をみなゴミ袋の中に詰め、シャワーを浴び、パジャマに着替える。その間にコンピュータはドライブをフォーマットし、新たな領域を割り振り、そして8時半からはじまるプリキュアの予約をかける。時刻はすでに7時を回っていて、あたりはすっかり明るくなっている。
疲れきったわれわれはベッドに潜り込むと、間髪容れずに眠り始める。少しもお互いを意識することなく、しかし相手の体温の存在に安心しきって、何ヶ月も得られなかったような深い睡眠へと落ちていく。起きだしてプリキュアを観ることはない。日曜日の世界のことなど気にかけない。次に目覚めるのはいつになるのか、誰も知らない。
こうしてわれわれは、ゆたかな肉体的愉悦に包まれた。




