4話 定
「一希っ!」
息を切らせて1人の男がこちらに向かってくる。
影が暗い。月光を浴びない人間が二人の間に立ち止まると、丁度良いタイミングで月が現れる。
その男は、しなやかな彼より遥かに筋肉質で同じくスーツを身に纏っていたが、彼とは違い、その顔つきは実にがっちりとしていた。
スーツが少しキツそうだな、と微かに確認できる着こなし方だ。よく見れば整っている顔だったが、その目つきは鋭いもので気味が悪かった。女性の様な美しい顔をしている彼とは違っていた。彼を女の様と例えるならば、突然現れたこの男は雄々しいと呼べる。
男は一瞬ノドカにやるもすぐに視線の方向先を彼の方にやった。
(…いっき……彼の……)
そう言えば、さっきも公園であの4人が同じ名を呼んでいた事に気がついた。
『いっき』という名を叫ばれ、反応を見せる彼に、ノドカはここで初めてそれがこの人の、名だと気づく。
「一希さん…貴方、自分が凡人だとでも思ってるんですか?」
「ストーカーかよおまえは」
「何でも結構です。一刻も早く社に帰りますよ」
どう見ても、そこらへんにいる人間ではない男二人にを前に、ノドカは呼吸の音も惜しみ、じっと二人を見つめる。
帰ろうと怒鳴り声で彼を睨んでいる男は、非常に腹を立てていた。
可愛らしい笑顔を零していた彼は何処へいってしまったのか。さっきまでずっと浮かべていた笑みを消し去り、やってきた男を凝視する。彼はその男にすぐに言葉を返すも、男は一歩を譲らず、ふいっと顎で公園の出口を指し彼が歩き出すのを待っていた。
彼は片方の足に身を預けると、先ほどとは打って変わって引き攣った笑みで、断固とこの場を動く気はないと態度に示した。
「悪いが——」
「一希さんっ!頼みます!あの4人の夜遊びより貴方が探しに行った事の方が、問題になってます。本部は今大騒ぎですよ」
3人は今、線で直径三角形が描ける位置に立っている。誰が真ん中という訳でもなく、その中の1人至って目立つ事もなかった。ただ端から見れば、男二人に女子高生が1人という妙な組み合わせに違いない。
二人が口論する中、ノドカはなんとなく顔を逸らしたものの、耳から入ってくる会話はしっかり聞き取ってゆく。
聞こえてくるのは『一希さん』や『本部』という部分的な単語ばかりだ。突然やって来た男が口にする言葉の一つ一つに聞き覚えがあった。
それはノドカが、忘れずに心に止めていたものだった——
転校早々、ノドカはある噂を耳にしていた。それを真に受ける子ではなかったが、心の隅では隠しきれない恐れが宿し始める。しばらくしてノドカが噂の4人の仲に加わると、噂は事実に変わる。
公平含むあの4人はヤクザの家の子供達だと、本人らが認めたのだ。
真実を聞いた所でノドカには構いはしなかった。
それが理由で現在に至までに自分が危害に会う事はなかったからだ。
しかし、やはりヤクザの子、ヤクザの血というのだろうか。この中での未成年飲酒、喫煙は日常的に行われていて、それだけでも充分抵抗がある光景だったが、そういう軽罪とは比べ物にならない程の話を聞いた。何処まで真実なのかは分からなかったが、その4人から聞く極道話は聞き苦しく身の毛が弥立った事を覚えている。
公平は詳細は決して口にはしないと前提に述べると、『ある組』という暴力団で、花札という代表的な賭博を声に上げ、『ヤクザは物賭けを的に挑戦する者の生き様』だと誇りを持って語っていた。世間から見ると、ヤクザというのは、苦労を知らない者の集まり、と思われているのはその通りだった。犯罪を平気で犯し、牢屋に投げ込まれる事を出世の第一歩とし、重犯罪を生計し出来れば生業にと目指している。
公平がよく口にする『一希さん』という人は驚く程、上手に悪事を行い、その職業に誇りを持っているというのだ。
尾籠な場所というイメージから、掛け離れているとても美しい人を目の前に、この人がとても極道とは思えない。欠片も通称『ヤクザ』とは言いがたく、敢えて言うならば、この人は、日本ではない自然の豊かな一等地で絵描きでもしてそうなイメージを思わせる。
フッと微笑み、サングラス越しのはっきりしない彼の視線がノドカの瞳と重なると同時にノドカは思考を切らした。
彼は、彼女に薄い笑いを見せるとすぐにあちらを向く。
ノドカは、まるで彼との瞳が繋がっているかのように、繋がった視線に続き一緒の行動に誘われた。
視線の先の男はまさにヤクザという匂いを漂わせながら、気味が悪い目つきをしながら不満な息を深く吸い吐き出した。
公園の奥にある木々が風に擦れ合う音がする。真夏の太陽がコンクリートに当たり灼熱し、人間の目でも充分確認出来る程、地面から這い上がる湯気が上がっていた昼間とは違い、夜中の蒸し暑さに流れる風は心地良く感じられる。
3人が、無音の風を受けていた。
男たちは、未だに訳が分からない会話を繰り返していたが、その男は、彼を帰そうとしている事だけはわかった。
頑張って彼を説得しているその人を見ていると不憫に思えて来て、ひょっとしたら自分がここに立ち止まっているせいなのか、とノドカは変に焦りだす。
月が再び顔を出すのを信号に、ノドカは、もう少し彼と話をしてみたいという感情を抑え、複雑で様々な感情が張りつめているこの場から静かに去ろうと決める。
最後に少しでも彼と眼を合わせたくて、長い髪が振動で動くくらいに視線を上げた。
彼は瞬時にこちらに気付き、そして、こちらを向いてくれた。
彼は柔らかい動作でサングラスを取ると、ノドカを疑問そうに見る。
ノドカは眉間にシワを作り穏やかに見入った。
きっとテレビでもそうそう見る事のない美しい風貌をした人が、噂に聞くヤクザの幹部だとは信じがたい話だ。
そして、この一瞬に自分の心を小刻みに突かれるこの情操。
彼の顔を、その美しい表情を再び目にしたら、心のどこかが、この数分に感じた奇妙な想いに諦めと、なぜか満ち足りたという感情が交差に行き交う。
遠くで度を超している猫の喧嘩だろう鳴き声を3人が耳にした。これはノドカが去るには絶好のタイミングで、早々と目配せで軽くお辞儀をし、彼にだけ、一希さんには分かる様に、帰りますと小さく呟いた。相手の反応も応答も聞かずに速やかに出口に向かった。
小さな公園であることから、ノドカはすぐにその場を離れてしまう。2人はノドカを追いかける様子もない。
きっと2度と彼に会えないと覚悟をし、人生で初めてしたこの恋。
帰り道にノドカは涙が溢れ出すのを止められなかった。拭いても拭いても零れて来た。
この庶民の自分に希望や見込みも些かないと確信し、諦める前に忘れようと、馬鹿げた想いを押し殺しながら一歩、また一歩と前に出して行く。
全てが一瞬で終わりを迎えた夢幻だと気づいたのは、蒸し暑い4帖あまりの小さな部屋で、恵が放った言葉だった。
「一希さん?ノドカ勘違いしてるんじゃないの?あれは何度も言った通り、ただのおとぎ話だって!公平は嘘つきなのよ…うちの組は未だに火車だし。一希さんなんて人…存在しないし」