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正義を翳すモノたち


   ◇


火。炎。焱。燚。燃、煉。焼。熔。灼。焰。火を以って形を為す文字を全て使用したところで、眼前の光景を完全無欠に形容する事は叶わないだろう。


火は火であり火のごとく火そのままに火として火でしかなかった。豪と爆ぜた音をたてながら、火は炎となり焱となり、燚となった。灼熱は毒蛇のごとく荒れ狂う暴徒と化し、赤く赤い、熱く熱い災いを撒き散らし、破壊者の意義のままに一帯を蹂躙する。


とうの昔に、森を構成していた木々は焼け落ち、家々を構成していた鉄は熔け崩れた。


視界に広がる地獄絵図から、奈落は視線を上空に逸らした。月は出ていない。厚い雲に覆われて、星も見えない。その暗闇の空をさえ呑み尽さんとばかりに、リリストの町は赤々と鮮やかな光を放ちながら燃え尽きようとしていた。


「………精神干渉か」


事の他冷静な自分を、奈落は自嘲する。

鯨による攻撃に違いない。レリーフ上の全生物が一斉に悲鳴を上げたかと思うと、いつの間にか木々に隠れながら滅びゆく故郷を見つめていた。


絶望の王らしい攻撃だ。人生史上最悪の記憶――それはもはや記録に近い――を再現し、精神的な負担を狙ったものか。しかし奈落が慨嘆する事はなかった。もう何度も夢でうなされた光景だし、幼心に刻んだ記憶と比較して、広がる光景は凄惨さが欠如していたのだ。


概して、子供の記憶は誇張されやすい。奈落を苛んできた獄はもっと残酷なものだった。鯨がこちらの脳に干渉して見せる現実の記録は、むしろ奈落に冷静さを取り戻させていた。


奈落は水をすくうように両手を顔の前に掲げる。

小さな手だ。何の力も持たない、家族に依存する事でしか生きられない手だ。――それが当たり前だった。まだ十歳の少年は、その晩まで自立について考えた事など一度たりともなかった。


シルヴィアが側にいてくれて良かったと、奈落は思う。破天荒な彼女だが、その助けがなければ奈落は全く別の人生を歩んでいただろう。あるいはとうの昔に力尽きて故郷の皆と再会していたのかもしれない。


「シルヴィアも、この景色を見てるのかもな……」


バチバチと爆ぜて宙を舞う火の粉に肌を焼かれるのにも頓着せず、奈落は呟く。


「確かもうじき、風が吹くんだったか」


声に応じて、赤い地獄に風が吹き抜けた。少年の焦げ付いた髪を踊らせる程度の風に、ほんの一瞬、災いのカーテンが揺らぐ。真っ赤な光景の向こうに、黒い影が見えた。見紛うはずもない、赤に紛れた黒の一点。

十年前と同じように、奈落は異端の影に目を凝らす。が、凪いだ風に気をよくしたかのように、カーテンが引かれ、両者が隔絶される。


その炎の仕切りをものともせず、彼は歩み寄ってきた。爆ぜる地を踏みしめるブーツは、重い足音を響かせながら、少年へと歩む。引き締まった胴が、厚い胸板が、広い肩が――そして、精悍な顔が露わになる。


彫りの深い顔立ち、射抜くような鋭い眼光。腰まで伸ばした赤髪。右手には赤黒い血に染まってなお銀光を放つ剣。そして――左腕が、なかった。


隻腕の英雄・カルキ・ユーリッツァがそこにいた。


奈落は生唾を飲み込む。精神干渉だとわかっていても、その顔を前にすると腹の底に煮えたぎる憎悪を感じる。激情に任せて殴りかかっていきたいが、徒労に終わる事がわかっていた。


「…………………どうして?」


勝手に口が動き、声帯が震え、奈落は問いを放っていた。奈落は眉間にしわを寄せる。その時に放った疑問は、未だに解明していない。だがイルツォル・エルドラドの言によれば、彼は鯨の祭壇に向かっているらしかった。

もしも鯨を壊せたら――否、壊せないまでも、やり過ごす事が出来たなら。英雄と対峙し、今度こそ解答を聞き出そうと思う。


「………………どうして? カルキ・ユーリッツァ………」


過去の通りに問いを放ちながら、唐突に、奈落は気づく。地獄絵図と同じように、再現されている記録と、誇張された記憶とに不一致が生じている。

奈落の見上げていた英雄は、冷たい双眸を奈落へと向けていた――記憶の中では、確かにそうだったのだ。


しかし記録の中、カルキ・ユーリッツァは奈落の事など見ていなかった。幼い奈落の頭上を越えて、彼の背後にいる誰かに、その鋭い視線は向けられていた。


「―――――ッ!?」


奈落は本能に突き動かされるまま、背後を――。


   ◇


揺らぐ事も交わる事もないはずの正義と悪が入り乱れる混沌に、ヒセツ・ルナは弄ばれる。それを差し置いて、ルードラントは過去を語る。


「十年前、十一権義会議員はある実験を行ったらしーんだな。もちろん記録には残ってねーよ。奴らは都合の悪ぃー事を揉み消すのが、一番簡単な立場にいるからな」

「……実験?」


眩暈さえ覚えながら、ヒセツは問いを返す。


「鯨の召喚だ」

「……ッ!」


絶句する。いま全力を挙げて阻止しようとしている悪事を、世界の頂点とも言うべき場所に立つ権義会議員が、十年も前に行っていた。


「別に発想自体はおかしくねーだろ。奴らは最強の魔術師か、魔法使いだ。その上を目指そうとしたら、それこそ鯨召喚くらいしかやる事がねーんだよ」

「そんな馬鹿げた理由で――」

「奪われたんだよそんなクソみてーな理由でぇえッ!!」


泣き声に近いヒセツの言葉を、ルードラントは怒号で寸断する。


「もしかしたら俺が知らねーだけかもなッ!? んな馬鹿げた理由じゃなく奴らにゃ高尚な目的があってッ! それに従ってやむをえなく召喚したって可能性も零じゃねーよ! だけどよッ!! なら答えてみやがれっつのッ! 予告も何もなく町民を虐殺してそれを不幸な火災の一言で片づけてッ! それでも尚、優先される高尚な理由ってなぁ何だッ!?」

「そんなの……ッ!」


答えられるはずがない。それは刑罰執行軍である自分がよくわかっている。人を傷つける行為自体が犯罪だと糾弾されるのだ。町一つ滅する行為が正当化される理由など――何一つとして存在しない。


「俺は見てねーが、奴らは召喚した鯨の制御に失敗したらしーな。暴走した。まあそりゃそーだろ。でなきゃ、たった一晩で滅びるもんかよ……ッ!」


もう何も考えず、この場に崩れ落ちてしまいたい欲求に駆られる。何が正義で、何が悪で、誰の振りかざすものが正義で、それに断罪される罪は本当に悪なのか。

ヒセツの信念たる正義が揺らぐ。溶け崩れていく。絶対の信頼を寄せていた支えが、そっぽを向いてどこか見えない闇の底へ葬られていく。

それでも立っているのは、一体何のためなのか。自問するが、問いは闇に吸収された。


「それを救ったのが、英雄・カルキ・ユーリッツァだったッ!」

「………え?」


声を張る気力も失われ、ヒセツは小さく呟く。


「鯨を退けた初めての人物なんだよ――英雄はッ! そんで今回だッ! 復讐を誓ってラナとルダでの鯨召喚を計画した矢先だッ! 英雄は俺の前に現われて協力を申し出てきたってわけだッ!! そうして俺らは権義会を討つための盟友になったッ!!」


ヒセツは、思わず後退する。尻餅をつこうとするが、力の抜ける足で何とか踏ん張った。

言葉を失う。ルードラントの言葉が正しいとすれば、真実だとすれば――奈落がこの十年間抱いてきた怨嗟は、一体何だったというのだ。

彼の生きる原動力と言っても過言ではない、その憎悪は、何だったというのだ。



あるいは、ルードラント・ビビスに関わってはいけなかったのかもしれない。


ヒセツは信念に掲げた正義を見失い、奈落は積年の恨みを覆されその行き場を失った。


絶望に顔を歪ませるヒセツは、ルードラントが短刀を構え直すのを見る。しかし、思考が麻痺して、それについて危険を訴えない。切っ先をヒセツへと向けるルードラントに対して、ヒセツは構えを――取らない。


「長話をしちまったな。まぁ――そういうわけだからよ。俺の正義はこんなとこで立ち止まるわけにはいかねーんだよッ!!」


ルードラントが、怒号さえ追い抜かんと猛駆する。


己が正義を阻む悪――ヒセツ・ルナを屠らんとして、猛進する。

ヒセツの視線は、ルードラントに焦点を合わせていなかった。どこを見るでもない視線は、混沌を晴らす解答を求めて右往左往する。そんなものはどこにも落ちてはいなかった。

ルードラントの短刀を紙一重で回避出来たのは、刑罰執行軍としての訓練が身に染み込んでいるためだ。決して集中力などという代物によるものではない。


迷いのないルードラントの猛攻に、ヒセツの対応は防御の一点張りだった。


(何でよ……?)


ヒセツは胸中で、届く事のない疑問をルードラントへ放つ。


(何でアンタは、迷いを捨てられるのよ……ッ!?)


刑罰執行軍という、社会的にも認められた正義を前にして、何故彼は自身の正義を、自信をもって掲げられるのだろうか。間違っているのではないかとか、向こう側が正しいのではないかとか、そういう疑問はないのか。


あったとしたなら、その疑問にどう答え、超越していったのか。


ヒセツにはわからない。答えが見えない。正義と悪の明確な線引きが出来ない以上、解答など出せるはずがないのだ。


だが、答えはある。あるからこそ、ルードラント・ビビスはこの躊躇なき猛攻を可能としているのだ。


(だったら、その答えはどこに――ッ!)


キン――ッと澄んだ音が響くと同時、ヒセツは手中の感触を失った。違和感で我に返ると、ヒセツの警棒は短刀に弾かれ、宙を舞っていた。


「ぁ………」


漏れた声は、自分でも情けなくなるほどか細かった。事態が急激に暗転した事を理解する。だがヒセツは愚かにも、くるくると回転しながら放物線を描く警棒を見つめていた。ルードラントが閃かせた短刀に、気づいていなかった。

武器が床に落ちる渇いた音を聞く前に、彼女の胸には深々と短刀が刺さり、その白刃は先決に染まる事だろう。ルードラントが、下卑た笑みを濃くする。


「ヒセツたんッ!!」


勝負が決したかと思われた瞬間に放たれた、たった五文字の単語は、驚嘆すべき効果を発揮した。場違いな叫びにルードラントの集中力が削がれて態勢が揺らぐ。そして何より、ヒセツ・ルナはその両眼に怒りの意志を宿した。


「言ったら殺すって――」


ヒセツは左腕で胸を覆い、軸足の爪先を浮かせて、あおむけに倒れるように身体を回転させる。ルードラントの攻撃を注視していれば完全な回避となったろうが、対応が遅かった。ルードラントとのすれ違いざま、左腕に短刀が突きささり、鋭い痛みが脳内を駆け巡るが――却って別の事を考える余地がなくなった分、頭が冴えた。


「言ったわよねッ!?」


回転しながら、ヒセツは回し蹴りの要領でルードラントの背中に踵を叩き込む。前のめりになっているところへ蹴撃も加わり、彼は倒れ込む。だが伏せはしない。前転して距離を開け、立ち上がる。


ルードラントは武器を失っていた。当然だ。ヒセツの左腕に深々と突き刺さっているのだから。痛みに顔を歪ませながらも、間一髪危機を脱した事でヒセツは安堵する。


ヒセツはパズを視界に捉える。梟に傷を癒されたパズは生意気そうな笑みで、ブイサインなどしていた。ヒセツは苦笑する。助け方にはどうも納得いかないが、最短の時間で最大限の効果を発揮しただろうと思う。


「ヒセツ」


と呼びかけながら、パズが歩み寄ってくる。仲間の復活に焦るルードラントを尻目に、パズはヒセツの隣に並ぶ。


「思いだしてごらんよ。合言葉」

「……正義を貫け?」


それは奈落から与えられた合言葉で、うんざりするほど繰り返し声に出してきた。

ヒセツは感傷的に首を左右に振る。

それがいま、何の役に立つというのか。

その貫くべき正義に自信が持てないのだ。盲目的に絶対的な正義を信じていた昨日までのヒセツなら奮起して立ち向かえるだけの効果があったかもしれないが――、


「何勘違いしてんのさ」


と、パズは大仰に肩をすくめる。


「何が勘違いなのよ……?」

「だからさ――」


パズは狙いを定めるようにして目を細め、ヒセツに見せつけるようにして緩やかに片手を上げ、正義をかざすルードラント・ビビスを指差した。


「――貫くんだよ、正義を」


ヒセツは、パズの指先をじっと見つめていた。その両眼が、まるで天啓を得たかのように見開かれていく。視界を狭めていた闇が晴れていき、代わって光が差し込む。


パズの助言を得て、ヒセツはようやく理解した――正義を貫く、その意味を。


ヒセツにとって一番必要な言葉だと奈落が言った、その意味を理解する!


「ありがとう」


と、一応パズへ礼を言っておく。戦闘を再開する前に。


「高いよ?」


と茶化すパズは、手を下げる。もう差し示す必要はなくなったのだから。

ヒセツ・ルナは迷いの晴れた眼差しで、ルードラント・ビビスを見る。その向こうに、彼の掲げた正義を認める。


「我、御するは文明の源――」


魔法の詠唱を始めたと見るや、ルードラントは慌てて駆け出す。


彼もまた必死なのだと、ヒセツは認める。彼自身が構築した正義もまた、まさしく正しき義なのだと認める。彼自身の経験に基づき、己が礎とするために掲げた正義なのだ。


だが、例外なく誰もが頷くような――絶対的な正しさなど、存在しない。


だからヒセツの掲げる正義もまた正しい。

刑罰執行軍として罪人を裁く正義も、ヒセツ・ルナ個人が構築した正義も等しく相対的な正しさを有する。

だから正義と悪の衝突も、悪と正義の衝突も、等しく全て互いの正義による衝突だ。


その衝突が起こる時、全ての正義は尊重出来ない。どちらかの正義が勝利者となる。


奈落は言った。正義を貫け――と。


己の正義を覚悟をもって貫徹し、敵の正義を、その覚悟を刃として貫けとッ!


「歪む事なき我が正義、我が剣に宿れッ!」


ルードラントの手は届かない。魔法の詠唱が終わる。手中に炎で形作られた直剣を生みだし、ヒセツはそれを正眼に構える。

阿鼻叫喚を放って、無手で殺到してくるルードラントの正義に、敬意を表して。

ヒセツ・ルナは、敵対する正義を一刀をもって貫き破壊する覚悟を決めた。


「勝手な話だけどさ――」


ルードラントの拳を、ヒセツは腰を落としてかわす。腰溜めに構えた正義の剣を振り上げ、下段から上段へ、流れるような軌道を描いて、ルードラントを斬り伏せた。


「――アンタと出会えて、良かったかもなんて思うのよね」


   ◇


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