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絶望に抗うモノ


「な………ッ」


仰ぎ見る奈落の視界、床の緑淡色が照らす天井には亀裂が走っている。空間を裁断したようなそれは、数分前に見た時と比すれば差異は明白だった。


亀裂が、大きく広がっていたのだ。

刀傷のようであったそれは、今や満月に酷似するといって過言でない程拡大していた。


「冗談じゃ……ねえぞ!」


動揺を隠せない奈落は己の誤算に舌打ちした。

魔術師である彼の見解ならば鯨が召喚されるまでに、まだ充分な時間があるはずだった。そしてそれは実際、正しかったはずなのだ。


亀裂は、召喚呪文によって拡大したのではない。にもかかわらず、鯨はその醜悪なる顔を現世に覗かせている。その原因は、亀裂の縁にかかった鯨の両腕が雄弁に物語っていた。


「亀裂を、自分で広げたのか……ッ!?」


鯨は遅々たる召喚呪文に業を煮やしたのか、強引に自ら扉を広げた。絶大なる力を保有する鯨ならば、その程度の芸当は数のうちにも入らないのかもしれない。


亀裂から顔を覗かせる鯨は、両腕に力を込めて身を乗り出していく。赤子のように、見る見るうちに肩、胸、腹とその姿を顕現させていった。


最も醜悪にして、最も望まれぬ誕生。


その落下点には、空虚な瞳を見せるルダの姿があった。奈落は舌打ちを重ね、鯨に気を配りながら彼女へ駆け寄った。両者が肉薄する。二歩、一歩、ようやく――届いた。


奈落は一瞬でルダを抱えあげ、魔紋陣から引き剥がした。


その際、魔術の中核を取り上げようというのに魔紋陣からの抵抗は皆無だった。それはつまり、強引な手腕によってルダの役目はもう終了したという事だ。

奈落はルダを小脇に抱えて、少しでも安全なところをと模索し、そんな場所などない事に思い至った。鯨が顕現されれば、地上に安全地帯など有り得ない。


三度目の舌打ち。とりあえず奈落は、シルヴィアにルダの身を預けた。


「勝てる相手なのか……ッ!?」


誰に向けるでもない問いは、しかし解答を求めるまでもなく明晰だ。絶対に勝てない。それは史実が証明している。ましてやこの祭壇に置いて、戦えるのは奈落一人だ。太古の昔、国を挙げても勝てなかった相手に、個人の力が及ぶものか。


劇場一帯に風が吹き荒れる。鯨を中心とした、台風の如き強風だ。その風に乗って輝くのは魔紋陣の緑淡色の光。広大な劇場を縦横無尽に逆巻く突風は轟音を伴い、まるで拍手喝采でも巻き起こっているかのような騒ぎだった。鯨を囲い込むように漂う緑淡色の光は、まるで鯨の誕生を祝福しているかのようだった。


環境に歓迎されて、鯨はその全身を露わにする。やけに緩慢とした動作は、膨らませた綿毛や風船を想起させる。中空に漂うように誕生した鯨は、全く重さを感じさせない動作で頭をぐるりと回転させ、両足からふわりと着地する。


穏やかな着地だが、刹那、その地点から暴風が吹き荒れた。鯨の両足を中心に全方位展開した暴風は、奈落の赤黒いコートを激しく叩き、たなびかせた。

思わず両手で顔を覆い、両椀の隙間から鯨を凝視する。

四肢は人間のそれに酷似している。だが体表面はやけにのっぺりとして、皺のない粘土細工を思わせる。両手足は細く、長い。まるで出来の悪い人形のような体躯は、首までの身長だけで二メートルを越えていた。


だがそこまでは、人間としてのバランスをかろうじて保っている。


異彩を放っているのは、頭部に当たる部位だった。


首から上に、それは頭部の代替として浮かんでいた。端的に言えば、それは円形のレリーフだった。直径三メートルほどの巨大なレリーフが、首の上数センチの位置に浮かんでいるのだ。広範な表面に浮き彫りになっている模様を目にして、奈落は吐き気を覚えた。

レリーフの中央には人間の顔が彫られており、その周囲を埋め尽くすように、あらゆる生物が描かれていた。犬や猫をはじめとする哺乳類、蛇や鰐といった爬虫類、鳥類、魚類、昆虫と、図鑑に記載された全ての動物を凝縮したのではないかと思えるほど、円盤に彫刻された生物の種類は膨大だった。


そのどれもが、悲嘆に暮れた表情を浮かべていた。絶望に苦悶していた。まるで死の際から切り取ってきたかのような表情に、全ての動物が彩られているのだ。魚類や昆虫にも絶望の顔という者があるのだと、この時奈落は初めて理解した。悪趣味な芸術――否、そんな比喩では優しすぎる。このレリーフは、もっと本能的で本質的なものだ。


もう一秒だって直視していたくはなかったが、その欲求は満たしてはならない。


なぜなら、この冗談のように巨大なレリーフこそが、鯨の顔なのだから。


――我、絶望の王。


その言葉がどこから聞こえてきたかを理解して、奈落は戦慄する。レリーフに刻まれた人間の顔が、苦悶の表情をそのままに、口を動かしていた。


――名を、ワースティヌシン(Worst‐in‐U‐Sin/二十一番目の最悪の罪悪)


絶大にして絶対の存在が、静かに名を告げる。


その異形は、使い魔の王。人間などという矮小な存在には、決して恭順しない存在。人間などという矮小な存在には、決して敗北しない存在。


にもかかわらず――悪趣味な赤黒いコートを翻し、奈落はその絶対存在に対峙する。対峙するが、本能が告げている。無理だ、と。


これは予感でも予測でもない。


あらかじめ決められた、確固たる事実に過ぎない。例えば上流から下流へ川が流れるのと同じように、過去から未来へと時が刻まれるように、親から子が生まれるように――それは、遥か昔から決められた上位連鎖のピラミッドだった。


「だけどまあ、そんな泣き言――通用しないよな」


奈落は己を奮い立たせて、未だやまぬ突風の中を漸進する。少しずつ、しかし確実に、絶望の王へと近づいていく。勝てる見込みなどありはしない。だが、少なくとも挑まねば勝機も見出せない事は確実なのだから――せめて、挑んでみる。


史実から伝説へと昇華した、その存在へと。


奈落は歩きながら素早く瞑目し、探査――鯨へと両手を掲げた。


「栄華の栄光、示すは具現、振るうは奔流!」


唱えると同時、掲げた両手の先から光条が走る。鯨目掛けて一直線に放たれる光線は一度に留まらず、無数のそれを次々に発射した。

その間、奈落は間断なく使い魔へ現出を命じていく。


「風の精、嵐の喝采、暴風の舞い!」


不可視の使い魔が鯨に暴風を叩き付ける。


「深緑の猛攻、巨木の根、歪曲した暴徒!」


歪な大樹の形状をした複数の使い魔が殺到していく。


「海底に汲み上げる者、逆さの潤沢、飽かぬ炭水!」


銃口の如き器官を持つ使い魔が、刃よりも鋭利な水流を高速で射る。


「汚れなき暴力の具現、果て無き慟哭を刻み、欲望喰らい我に仕えよ!」


人間とサイの体躯を混合したような怪異が四体現われ、四方に展開する。


「刹那の雷同、果てなき付和、折れ得ぬ矛ッ!」


稲妻で構成された矛が灼熱の痛苦をもたらす。

奈落の攻撃は止まない。契約した二百二十六の使い魔を、彼は次々に召喚していった。


百、二体目………ッ。


連続して召喚し、繰り出される攻撃の中で、しかし奈落の表情は晴れない――それどころか次第に深刻なそれへと歪んでいった。

奈落が秒単位で召喚しているにもかかわらず、使い魔の数は一向に増加しないのだ。それはつまり――召喚され、鯨に一撃を加えた使い魔たちが、次の瞬間には消滅しているからに相違ない。


ワースティヌシンは、一歩たりとも動いてはいなかった。攻撃に身を仰け反る事もなく、両足の踵を揃え、両手を浅く開き、その姿勢のままぴくりとも動かない。


対照的に、不気味なレリーフは過剰なまでの反応を見せた。

使い魔の攻撃が加わると、レリーフに刻まれた動物のいずれかが悲鳴を上げるのだ。絶望に歪んだ顔を更に苦渋を上塗り、聴衆が痛々しさを感じる程の悲痛の声を上げる。厄介なのは、それがそのまま攻撃に転換される事だ。人間の魔法に酷似して、悲鳴はそのまま詠唱となり、衝撃波を生んだ。並大抵の威力ではない。衝撃波の直撃を受けた使い魔は、次の刹那には肉塊も残らずに消滅した。


殺到する使い魔の攻撃を受け、哺乳類が、あるいは爬虫類が、あるいは鳥類が、あるいは魚類や昆虫が、分け隔てなく絶望の叫びを上げた。その絶望の数だけ、使い魔が失われていった。


しかも悲鳴を上げていながら、レリーフそのものには一切の傷がついていなかった。焦げ目一つ、曇り一つなく光沢を維持している。鯨は苦しんでいるかもしれないが、総体として少しもダメージを受けてなどいない。


「何なんだよ、こいつは……ッ!?」


絶対的な力を誇る鯨にとって、ただの使い魔など恐れるに全く足りていない。彼らの攻勢など児戯に等しい。微々たるものでしかない。歯牙にすらかける必要もない。その絶対的な差を、断続的に攻撃を加えられているにもかかわらず傷一つ負っていない巨躯が如実に、また皮肉に証左していた。


対し、奈落は肩を上下させ息を切らせていた。汗にまみれた顔には疲労と焦燥の色が濃く、使い魔を召喚するペースも確実に遅くなっていた。

使い魔の召喚には精神的疲労が伴う。その程度は個人差での差異が激しく、そして優秀な魔術師である奈落は、疲れ知らずと形容しても過言でない程度の疲労しか被らない。


それでも――百体以上の使い魔を召喚すれば個人差など問題にならなくなるのは想像に難くない。精神的疲労はやがて肉体的疲労すらも併発させ始める。そして例外なく誰もが蝕まれ疲労困憊し、休息を訴える。誰あろうと、それは免れ得ない。

そもそも連続して百体もの召喚をなすことが、既に奇跡だ。


が、その奇跡を起こしたところで――鯨の前では無力でしかない。


奈落が鯨を睨みつけ、百二十七体目の使い魔の召喚を試みた時だった。


「闇の奔流……ッ、黒の夜明け……ッ、・……が……ッ」


蓄積した疲労に耐えかねて、奈落が膝をついたのは。前のめりに倒れそうになる身体を、両手を突っ張って支える。狭窄した瞳孔で地面を見つめていると、幾つもの水滴に濡れていった。大粒の汗が、とめどなく流れている。


「何て、無様だ……ッ」


奇しくも、鯨に跪き、頭を下げる格好となっている。奈落は膝に力を込める。休んでいる暇などない。だが――動けない。全く。情けない。立てない。


現在のところ、鯨は全く動いていない。こちらの攻撃に対する、あくまでも受動的な反応しか示していない。にもかかわらず、奈落はもう膝を折っている。


鯨の超然とした、余裕ともいうべき態度が、奈落の精神を深く蝕んでいた。それこそ扱いは虫と同様だ。わざわざ自分から追いかけるような真似はしないが、近くで目障りな羽音を立てれば潰す。その反応と、何ら変わりはない。


絶対に勝てない存在。太古から連綿と継がれてきた伝承は、間違いのない事実だった。


「………ッ」


それでも。顔を上げる。視線を、絶望に塗れた醜悪なるレリーフへと固定する。中央に刻まれた悲痛に歪む人間の顔が、自分を映す鏡のように思えてくる。


――調子に乗るなよ……ッ。


立て。


奈落は折れそうになる意志を覚悟で補い、自らに命ずる。己を律する限界など、超越してもみせる。限界に屈するなど、そんなものは甘えでしかない。


限界などというものは――越えるためにこそあるのだ。


立て。立て立て立て立て立て立て立て立てッ!


がくがくと痙攣する膝に喝を入れる。地面についた手を伸ばし、上体を起こしていく。弛緩した筋肉を叱咤し、強引に力を取り戻させていく。


立て……る。


そうして、奈落は杭を突き立てるように、その両足で再び大地を踏みしめた。


立った。――ならば次はどうする。


戦え。戦って闘って勝って勝利し勝利しろ。


まだ、終わっていない。

まだ、戦える。

奈落が引きずるようにして、痙攣する足で一歩を踏み出す。


その時――ワースティヌシンは初めて能動的な動きを見せた。



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