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殊絶に賢きモノ(下)

「ほけけ。『未到達の空域、作物、オウレンゼブの蒐集』。――そう言ったのだよ」


金属質な音が響いた。梟が振り返ると、ヒセツの握っていた短刀はコンクリートの床に落下していた。言うまでもない事だが、血に濡れる事なく、だ。

意識を失ったヒセツは、眠るようにその場に倒れ伏した。


制限時間を二十七秒残して、放蕩の賢者は最悪の状況を見事切り抜けて見せたのだ。


一息をつく梟の視界の中で、飛び起きた影があった。


年の頃三十前半、金色の短髪に、光を遮る濃いサングラス。赤いジャケットに包まれた身体は中肉中背で猫背ぎみ。両手の五指には派手な指輪。

梟から見てもやはり趣味の悪い格好の男――ルードラント・ビビス本人である。


彼は中空を掴むように両手を忙しなく伸ばし、右往左往し始めた。何事かを夢中で叫んでいるが、それらはほとんど言語的な意味を為していなかった。サングラス越しにも滲み出て来る驚愕と失望は、もはや滑稽ですらある。


ルードラントが掴もうとしているのは、彼自身から放出される緑淡色の光の筋だった。しかしそれを物理的に掴む事は出来ない。彼の汗にまみれた手は空しくも空を切る。


光の筋は休む事なく連続して放出されていった。それは既に決定された事項の如く、一切の躊躇いも感じさせずに天空へと伸び、消えていった。その光の群れに対して、ルードラントは、全くの無力だった。


だが、足元に倒れるヒセツとラナには目もくれず、無駄とわかっていても尚、彼は一心不乱に手を伸ばし続けた。その手に手応え等返ってこないと、わかっていながら。


梟はじっとその光景を見つめていた。最後の一本だけは天ではなく、地下二階へと消えた。そこまで確認すると、梟は小さく嘆息する。賢き者の姿ではないな、と。

最終的に放出された光の筋は百二十六。その数は同時に、ルードラントの手が空を切った回数でもあった。

しばらくの間光の消えていった天上を見上げていていたルードラントは、やがて緩慢とした動作で視線を落としていき、梟へと固定した。彼の顔からは、いままでの短気や憤怒が嘘のようにかき消えていた。それこそ、どこか達観したように遠くを見るような眼でをしていた。驚嘆のあまり自我を失ったかと思ったが、違う。


彼の怒気は失われていなどいなかった。ただ、内側に秘めただけの事だ。だってルードラント・ビビスの目は、遥か遠くを見つめる事で、底知れない深みを体現していたから。その計り知れぬ底には沈殿したのは、きっと怒りや憎悪を越えた――怨恨だ。


「テメー、どうしてくれんだよ、なあ……?」


ルードラントは右手を掲げて、淡々と魔術を詠唱する。


「雲中の演奏会、高楼、ビダルクスの血日」


しかし、何も起こらなかった。ルードラント自身はもちろん、梟もそれを良く承知していた。なぜなら、紙飛行機に書かれた文書を頼りに梟が詠唱したのは、ルードラントと使い魔との契約呪文だったのだから。他人に契約呪文を唱えられれば、それは解約呪文となる。彼から放出された光は、その一つ一つがルードラントと契約していた使い魔を表す。

だから最後の一本は、ルダのいる地下二階へと伸びていったのだ。


百二十六の光条が虚空に消え切った瞬間、ルードラント・ビビスは魔術師ではなくなっていたのだ。


ルードラントは、力なく掲げていた右手を降ろす。


「……何でわかった?」


当然の疑問だと、梟は思う。魔術師は例外なく、使い魔との契約を秘密裏に行う。契約呪文を他人に聞かれるわけにはいかないからだ。だから契約呪文が解約呪文として作用する等、本来は有り得ない事象なのだ。


だが、今回は事情が異なっていた。もちろん梟がルードラントの契約呪文を知っていたわけではない。探り当て、言い当てたのだ。

梟は両手に持っていた紙片を、ルードラントへ向けて広げて見せた。


「ほっほけ。これが何だかわかるかね、賢き猫背なる小童。ん、ん、んー?」

「俺の、魔術のリストか……」


梟は頷く。パズが握っていて、彼が満身創痍の体で届けた情報。それは十一権義会から購入した、ルードラントが使用する魔術の一覧だった。それには各魔術について、召喚呪文、効力、召喚維持時間が書かれていた。


「だが流石に、契約呪文は載ってないはずだ………」


彼の言葉の通りだった。個々人が厳重に秘匿する契約呪文についての記述は、その紙片にはなかった。しかし――この一覧表と、とある情報を照合する事によって、彼の契約呪文は明らかとなったのである。とある情報とはすなわち、奈落から授かった知恵だ。


梟は咳払いを一つ。それから首をぐりんぐりんと奇妙に回す。


「ほけほけ。ツンツン小童――奈落からの伝言でな。『まさか同郷が生き残ってるとは思わなかった』だそうだ」


ルードラントの顔色が、変わる。彼が様々に見せてきた表情の中でも、一番の変わり種であろうと思う。とても器用で、複雑な表情だった。寂寥を隠しきれぬ顔で――どこか嬉しそうな、だがそれを喜んでいいのかわからず、結果的に寂寥として表出されたような顔で――、彼は目尻に涙さえ浮かべたのである。


「そうか……そうか………。あの壊し屋、俺と同じ、リリストの出身だったのかよ……」


ルードラントは顔を左手で覆い、表情を隠した。梟は詳細こそ知らないが、彼が故郷を大事に思い、また同郷は誰一人残っていないと諦めていたという事実は、わかっていた。


「ほけ。故郷を失い、天涯孤独になった――だから、故郷にしか伝わっていなかった寓話の登場人物達を、呪文に選んだのであろう? ん?」

「………ああ」


と、ルードラントは嗚咽を混じらせながら、短く答えた。


「ほほけ。奈落はお主の詠唱を聞いた瞬間、寓話の通りだと思い至ったようでな。余程印象深い寓話だったのじゃろォ、のォ。その中でも、オゥレンゼブが契約呪文に選ばれているであろう事はすぐに察したらしい。だが、問題があった。三拍子の魔術の詠唱を、お主は人物名、登場する章の題、住む国の名前で割り振っていたのであろう? ん、ん?」


「但し、ランダムに入れ替えてな………」


「ほほけけ。そこよォ、のォ。オゥレンゼブである事はわかったが、残りの二拍子が解明しなかった。ちなみに本来は廃屋の算段、日照り雨、オゥレンゼブの蒐集だったそうでな。だからケルトの眷族の持つ一覧と照会して、お主の契約呪文を割り出したというわけでな。とはいえ、まさか百二十六体全ての契約呪文が同じだとは、驚きだったがな」


「ミドロク寓話を知ってる人間は、世界中に俺一人だと思ってたからな……」


ルードラントは、顔を覆っていた両手を降ろした。そしてその両拳を、闘争心を掻きたてるように胸の前で打ち鳴らしたのだ。

彼は涙の後も渇ききらぬうちに、下卑た笑みをその口元に復活させていた。魔術を失って決着かと期待していたが、そうはならなかったようだ。むしろ両眼に宿した怨恨の分だけ、その威圧感は増加している節すらある。


「あー、謎が解けてすっきりしたぜ」


言いながら、ルードラントは歩を進め、ヒセツに握らせていた短刀を左手で拾い上げる。手に馴染ませるように柄を振り回し、上空に放り投げ、改めて掴む。


「さあ、覚悟はいいか、クソ梟? ここまで舐めた真似してくれたんだ――きっちりッ!落とし前つけてやろーじゃねーかッ!! 使い魔いねーからって油断すんじゃねーぞッ!!」


ルードラントは怒りに身を震わせて疾駆する。梟を八つ裂きにするために。その勢いには、手負いである事を感じさせない覇気があった。


だが梟は慌てる様子もなく、その場に立ち尽くしていた。移動する必要などなかった。彼の攻撃がここまで届かない事を、承知していたからである。


なぜなら、ルードラントの背中越しに、立ち上がる人影を見つけたからである。人影もまた手負いではあるが、ルードラントと同じく、それを感じさせない立ち居振る舞いを見せた。警棒を拾い上げ、感触を確かめるように素振りを行い、正眼に構える。


そして深く息を吸い、彼女は魔法を詠唱した。


「我、御するは文明の源――炎の裁断、愚者に裁定を!」


その叫びはルードラントの耳朶を打つ。彼は舌打ちして背後を振り返り、迫り来る炎の塊を横っ飛びに交わした。行き場を失った炎は梟の肩すれすれの位置を通過していき――壁面にぶつかり轟音を上げながら鎮火した。


梟が心臓の止まる思いをしているその時、既に相対する二人はお互いへの敵意しか認識していなかった。梟への怨恨は、そちらへ転嫁していったようだ。

警棒を構える彼女は、満身創痍の体でありながら自信に満ちた笑みを漏らした。


「さあ、第四ラウンドね。いい加減、この辺で最終ラウンドにしたくはないかしら?」


問いというよりは呼びかけに、ルードラントは浅く頷く。


「同感だな。鯨を拝むまでのウォーミングアップにしちゃ、時間をかけ過ぎた」


刑罰執行軍・ヒセツ・ルナと、ルードラント・ビビス。


互いに最終と認め合った戦場の――幕が、開く。


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