暗渠を進むモノ
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夜陰に沈む旧市街。
見渡す限り、周囲に光はない。
街灯は例外なく損壊してその機能を果たしておらず、天上の光源である月さえもその全容を厚い雲に覆われ、地表への光は遮断されている。
音はあった。
ほんの僅かな衣擦れのごとき音。
それが幾重にも重なり、音源の方向を見失わせていた。
否、そもそも方向が限定された音ではないのだろう。
それは全方位から聞こえているのだ。
はじめは虫や草木の音かと思ったが、違う。
それは息を殺す音だった。
息を殺し、しかし殺しきれずに漏れる息遣いの音。
闇に身を潜ませながら、じっとこちらを窺っている無数の視線があるのだ。
「居心地が悪いわね」
と、歩を重ねるヒセツは嘆息混じりに、率直な感想を漏らした。
まるで劇場の舞台に立っているかのような錯覚に陥る。
自分はいま、周囲を埋め尽くす観客の注目の的だ。
だがこれほど辟易する舞台もあるまい。
視線を集めるための照明もなく、ひたすらに闇が跋扈する劇場で、観客は例外なく定住する事を拒む浮浪者なのだから。
ヒセツの言葉に誰が同意してきたわけでもなかったが、皆同じような感想を抱いているのだろうと思う。
闇に沈んで視認は不可能なものの、目と鼻の先には四人がいるはずだった。
奈落にパズ、シルヴィアにラナ。
とりわけラナは、ヒセツ以上に不快感――というよりも怯えているに違いない。
ヴェンズの街を北上し続けて一時間、暗渠と警戒の気配は歩数に比例して増すばかりだったのだから。
視界を奪われたいまは確認出来ないが、ラナはシルヴィアの袖を掴んで歩いていた。
(私じゃなくてシルヴィアを選んだのは、ルードラントの気配でも残ってるのかしら……)
実際、咽喉の奥にはまだ煙草の灰が詰まっているような気がする。
腹立たしい話だ。
ルードラント破壊の助力を宣言したというのに、実際にはルードラント側の間者を演じてしまっていたのだから。
ヒセツが小さく咳払いするのと同時に、先行する奈落から声が上がる。
「着いたな」
静かな声。
それに応じて、暗中の行軍は停止した。
「ヒセツ」
と、奈落が思い出したような口調で呼ぶのに対し、ヒセツは「何よ」と無愛想に切り返した。
何を言われるのかはわかっていた。
「合言葉」
「正義を貫け」
この一時間で何度交わされたのか、数えるのも面倒なほどに繰り返されたやり取り。
奈落はルードラントを警戒して、口を開けばこの問答を繰り返した。
だが不平を訴えるわけにはいかない。
それが、壊し屋・奈落の提示した条件だった。
時は一時間半前に遡る。
電話を切ったヒセツが振り向くと、案の定、渋面の奈落と目が合った。
「お前、俺の話聞いてたか?」
「アンタこそ、私の通話聞いてなかったの?」
強気に言い返すが、その視線は逸れる。
後ろめたい思いが、まだ残っているのだ。
奈落の視線から、言及から、逃げるようにしてそっぽを向く。
「………お前は、これでいいんだな?」
「これがいいのよ」
これでいい等とは言わない。
この選択は妥協でも投げ遣りなものでもないのだと、自分に言い聞かせるために。
ヒセツは自らに問う。
自分の信じていた正義とは、一体どこにあるのだろう、と。
ヒセツ・ルナの中か、
刑罰執行軍の中か、
それとも――奈落の中なのか。
その解答を見つけ出せないまま、しかし一つだけ納得している事がある。
それは、あるいは聞き分けのない子供の駄々にも似ているのかもしれないが。
――私は、奈落と一緒に行く。
ルードラント破壊という命題の結末を、迎えるために。
それが最も肝要で必要な事なのだと、ヒセツは考える。
根拠の見つからないままに。
頑なな態度を見かねたか、奈落は髪をかき上げて大きく嘆息した。
「お前がいいなら、まあいいさ。俺にとっては、戦力が多いに越した事はないしな」
許可はヒセツに安寧などもたらしはしない。
むしろ、胸裏に沈殿する鈍色の塊が肥大していくのを感じた。
電話口の上官――ラッケン・イヴィス・軍曹といったか――から与えられた許可もまた、ヒセツを苦しめた。
確かに安堵したのも事実だが、それ以上に巨大な負荷は、安らぎを覆い尽くすに充分だった。
ヒセツは強く瞑目する。
視界に広がる闇は、胸裏に沈むものと同じだ。
一切の光明もなく、ただ闇ばかりが広がっている。
だがそれを打破する手段を、ヒセツは知っている。
目を開ければいい。
自分の意志で、自ら責任を負って決意し、行動に移せばいいのだ。
しかし、いまはそのための意志が固まらない。
何に責任を負い、決意の矛先をどこに向けて、どう行動すればいいのかもわからない。
だから、まず出来る事からやってみる。
正面を向く。
開眼すれば、奈落がそこにいる。
まず出来る決意から固めていく。
責任を負って決意し行動していく。
瞳を開けるのに、これ程勇気を必要とした事はなかった。
「見つけるから」
と、ヒセツは奈落と向き合って宣告する。
「私は自分の信じる正義の在り処を見つけて、この選択に間違いはなかったのよって、自信を持ってアンタに答えるから」
奈落はきょとんとして瞬きするが、やがて得心したように笑みを浮かべた。
「一つ条件がある」
「……何よ?」
会話の繋がりが見えずに、ヒセツはオウム返しに尋ねる。
「正義を貫け」
「……はあ?」
「合言葉だ。ルードラントに支配されてないかを判断するためのな。俺が聞いたら、そう答える事」
成程、とヒセツは思う。
関係者である事を確認する、最も古く、容易で、かつ確実な手段だ。
しかしまだ腑に落ちない点があった。
「アンタからそんな言葉が聞けるとはね」
その言葉の目的が何にせよ、やはり奈落の口から放たれるには似合わない文言だった。
「多分、いまのお前に一番必要な言葉だからな」
皮肉を言うヒセツに、奈落は不敵な笑みを返す。
その真意について尋ねたが、彼は答えようとはしなかった。
簡単に解答を提示するような人間ではないのだ、彼は。




