軍属の少女
「契約成立だ」
言い終わらないうちに、奈落は駆け出していた。
逃走者の軌跡を追うように。滑り込むように身を縮めて、店外へ続く大穴を通過した。
時刻は八時を二分過ぎていた。
今はまだ、街が賑わうには早い時間だ。
人通りの少ない道は逃走者の足を進めるが、人込みで見失う危険性が少ない。
とはいえ、一度は見つけなければ意味がない。
周囲を見渡すが、既に逃走者の影はなかった。
奈落は舌打ちし、その場で静かに瞑目する。
閉じた視界に、地平線もない無窮の暗闇が広がる。現世とは隔絶された暗闇の中で、見えるものはない。
だが感覚として、奈落は息吹を感じ取る。
闇中に息衝くもの達の息吹を。それも数百の息吹を。
彼の内に眠る者達の中から、奈落は一つを選出する。
イメージとしては、手を差し伸べる行為に近い。
数百の手から一つを選び、闇から常世へと現出する。
ゆっくりと両手を胸の前に掲げ、開眼した。
「蒼の中、仰ぎの展開、先人の憧憬!」
その詠唱に応じて、彼の両手の先が淡い緑色の光を発する。
続いてその緑淡色から、選出された息吹の持ち主が顕現した。
それは生物だった。
扁平な円形をしていて、硬質な体表面は甲殻類を思わせる。
現出したのは二体。しかし別個の生命を宿しているのではない。一対で一体。
そのような特異な存在さえ珍しくはない生物群。
それこそ、魔術師・奈落の内に眠る者――使い魔である。
「飛ぶぞ」
奈落が素早く両足をそれぞれの個体に乗せると、使い魔は上昇を開始した。
使い魔は砲口のような器官から風を巻き起こし、大気をかき乱す。
奈落は往来を見渡せる高さにまで上昇するよう指示を飛ばした。
それこそ足の延長のように使い魔を乗りこなす奈落は、滑空しながら目標を視線を方々へと飛ばす。
やがて細い路地裏に逃走者を発見する。
彼は周囲を警戒していたが、さすがに上空にまでは気を配れなかったようだ。
奈落は斜面を下るようにして急降下していった。
しかし使い魔が乱した大気が、不自然な風となって逃走者の頬を撫でた。
「うわっ」
「――チッ」
空に追跡者を発見した逃走者の悲鳴と、奈落が舌打ちするのとは同時だった。
追跡が続いていると知るや、逃走者は再び走り出す。
狭隘な路地を飛行するのは骨が折れる。
奈落は意思一つで使い魔を光の結晶へと戻して、両足で重力を確かめながら大地を蹴った。
余裕の笑みを浮かべる。逃走者と追跡者、彼我の距離は見る間に縮まっていった。
しかし、あと数歩で追いつくという、その時だった。
「危ねえ!」
思わず叫んだのは奈落。
疾駆する逃走者が、まさに通り過ぎようとした、その左手側の店の扉が開いたのだ。
出てきたのは紙袋を片手に提げた少女。
その視界に、迫ってくる男は入っていない。
奈落が干渉する余裕はなかった。逃走者と少女の距離は半歩もなかったのだから。
次の瞬間には、少女は男に激突されるだろう。
だが、少女は驚くべき行動に出た。
勢いに任せて突き飛ばそうとした逃走者の腕を、少女は空いた手の一本で受け流し、
あまつさえ足を払って豪快に転倒させたのだ。
逃走者は一切の抵抗も叶わず、うつむけになって、その場に突っ伏した。
「な……ッ」
流石の奈落も、驚きを隠せない。
全くの無防備に見えた少女が見せた芸当は、例え示し合わせていても成功するとは限らない。
それほどの瞬時の攻防だった。
剣呑な表情の少女は息を弾ませて、逃走者のもとへと歩み寄った。
「ちょっとおじさん!? 急に飛び出したら危ないでしょうが!」
「い、痛え、痛えなあ……っ。ついてねぇ!」
声を震わせながら、逃走者が身を翻して立ち上がる。
鼻っ面を激しく打ったようで、手で押さえている鼻からは、どくどくと血が流れていた。
「うわひどい怪我。自業自得ね。これからは気をつけなさいよ?」
「な、だ、誰のせいだと思って……ッ! この、わ、我、御するは文明の源!」
逃走者の眼前で、大気がざわつき始める。先刻と同じ言葉の並び。
まずい。
奈落がそう判じた頃には、事態は収束していた。
「げふっ……」
続く逃走者の言葉は詠唱ではなく、そんな、間抜けなものだった。
それもそのはず、少女が咄嗟に紙袋から取り出したパンを、彼の口に詰め込んだのだ。
「ったく、危ないわね。こんな街中で魔法なんて使うんじゃないわよ!」
少女の機転が、逃走者の企みを霧散させた。
「せっかく買ったパンが台無しじゃないの。あーあ、期間限定の抹茶蜂蜜コロネが……。
今日は大事な仕事もあるっていうのに、幸先悪いわねー」
残念そうにうめく少女は、年の頃十代後半、肩までの栗色の髪を、後頭部の銀色のバレッタで留めている。
美しいというよりは、可愛らしいといった顔立ち。
紺のジャケットにロングスカートという出で立ちは、どうにも先刻の見事な足払いとはちぐはぐな印象を受ける。
彼女は思い出したように「そうそう」とついでのように呟いた。
それからジャケットの胸ポケットから小さな手帳を取り出して、笑顔で逃走者の眼前に突きつける。
「こう見えても私、刑罰執行軍です。これ以上の抵抗は認めません。
おじさん了解?」
見る見るうちに、逃走者の顔から血の気が引いていく。
彼は観念して力無く頷いた。
少女は満足そうに頷いて、男から奈落へと視線を転じる。
非合法の壊し屋である奈落はといえば、相手が刑罰執行軍だと知って、気まずそうに視線を逸らしていた。
「そこのあなた、事情を聞かせてもらえるかしら」
「あー……要はアレだ。窃盗。喫茶店での犯行で、盗まれたのがその鞄。
店に大穴開けて逃走したこいつを、俺が盗品を取り戻しに追いかけてきた」
成程、と少女は頷いた。それから犯人を半眼でじろりと睨みつける。
「窃盗罪に器物損壊罪、それから街頭魔法行為罪か。思ったより重いわね」
「まァ俺には関係ないけどな。それじゃあ俺は盗品を持ち主に届けるから――」
「却下よ。盗品を易々と民間人に渡せるわけがないでしょ」
鞄へ差し伸べた手が、少女の手で妨げられる。
「俺は壊し屋でね。逃走者の破壊と鞄の奪還を依頼されたんだ。つまり正当な権利なんだ」
非合法なのは棚上げするも、これは奈落の言の通りだった。
職業的契約を結んでいる以上、刑罰執行軍といえども簡単には干渉出来ない。
万が一にでも盗品が拾得物扱いにでもなれば、奈落は報酬を失ってしまうのだ。
「――アンタ、何考えてんのッ? 盗まれて困ってる人に対して、お金を要求したの!?」
「………は?」
「そんなの無償で取り戻してあげるのが人情でしょう! 全く信じられないわ!」
「お前……。んな事言ってたら壊し屋なんざ成り立たねえだろ!」
「時と場所をわきまえなさいよ! 困ってる弱みに付け込んで請求するなんて最低よ!」
「やかましい! 俺は食っていくのに必死だぞ!」
などと口論を始める二人に、割って入る声があった。
「あの、すみません」
と遠慮がちな口調は、逃走者のものだった。
逮捕されたために謙虚になっているのであろう。
パンは食べるわけにもいかず、口から取り出している。
彼は奈落に向けて、一通の封筒を差し出した。
「これを受け取ってもらえん、すか……」
「何だ、これ?」
疑問符を浮かべながら受け取った封筒には、しかし宛名も差出人も書いてはいなかった。
「それが……俺にも解らねえんです」
「どういう事だ? アンタのものだろう?」
少女も、奈落と同様の疑問を抱く。
二人で逃走者の言葉を促すと、彼は言い難そうにしながらも、やがてゆっくりと口を開いた。
彼自身ですら首を傾げながら。
「それが妙でよ――でして。もう全部喋っちまいますけど、今日の窃盗、計画的なもんでした。あの女は結構な金持ちで、アウトロウの常連だって事も知ってやした」
アウトロウを知らない少女に、奈落が喫茶の名称であると注釈を加える。
「計画したのは三日前で。だけどよ、俺はこの事、誰にも言っちゃいねえんです。親友にも、もちろん家族にも。なのに――今日、家を出たら、変な男に会って……」
「変な男ですって?」
職業柄なのか、少女が熱心な表情で聞き返す。
「ああ。そいつが、見破ってたんすよ、俺が窃盗を計画してた事を。
『貴方は今日窃盗をしますね』って言ってきて……。もちろんとぼけたさ。
当たり前っすよ。けどその男、全然聞かねえで言うんすよ、『頼みがある』って。
口止め料でも要求されんだろうって思ったけど、違ったっす。
『この封筒を渡してほしい』って言うんすよ。――そう、その封筒です」
奈落と少女が封筒を凝視する。
少女は気持ちが素直に表情に出るらしく、眉をひそめて、気持ち悪いものでも見るかのような視線を向けていた。
「だが、どうして俺に?」
「それが……これが一番妙でよ。その男はこう言ったんだ。
『逃走した貴方を捕まえた男に、この封筒を渡してくれ』って!」
「………何だと?」
人気の少ない通りに、一陣の風が吹く。
一同が凝視する封筒は、まるで存在を主張するかのように、ぱたぱたと風に揺れていた。
続きを気にしてくれる方、偶然ここに辿りついた方、
いらっしゃいましたら、評価いただけましたら幸いです。




