その罪は罪とは異なり――
刑罰執行軍の少女、ヒセツ・ルナ。
彼女は非合法の壊し屋・奈落への刑罰執行を任とする、新米の下士官だ。
奈落への夜襲を計画していた彼女は、
偶然にも、マフィアと名高いルードラントと、標的である奈落との戦闘に巻き込まれることとなる。
注目を集める事をお互いに嫌う両者の戦いは、
野次馬が集まって来た事で一時は収束を見たが――
欠伸を噛み殺しながら時計を見ると、短針は七を、長針は一を示していた。
ヒセツ・ルナは嘆息を漏らす。
帰宅したのは午前三時で、就寝したのが午前四時。
三十分前に起床したため、睡眠時間は三時間に満たなかった。
それでもしっかりとついた寝癖を、ヒセツは忌々しく見つめた。
簡単に朝食を済ませてから洗面台に向かい、顔を洗うついでに髪を濡らす。
鏡を見ながら寝癖を直そうと奮闘する。
それにしても、鏡に映る自分はひどい顔をしていた。
寝不足と、やりきれなさとも言うべき懸念が、専らの原因である。
昨夜の一件が、彼女の思考を占拠していた。
結論から言うと、
奈落は正気を取り戻し、
双子の少女は完治し、
男はもう一方の少女と共に逃走し、
野次馬は時間の経過と比例するように散り散りになっていった。
公園での事件の真相を知るものは奈落と男以外にはおらず、ヒセツですら蚊帳の外だ。
一歩も動けなかったヒセツに対し、奈落が取った行動は一つだけだった。
今日の事は口外するなと、そう耳打ちしただけなのだ。
そして少女と梟を連れて、助けようともせずに逃げていった。
その態度には業腹したが、しかし追いかける体力もなく、
文句を言う事も、事情を説明してもらう事も出来なかった。
奈落。
彼は何者なのだろうか。
状況を打開するために彼を呼んだのは、他の誰でもないヒセツ自身だ。
だが、彼は事態の当事者であるかのように振舞っていた。
それに何より、無視できない名前がいくつか挙がっていた。
カルキ・ユーリッツァ、
そしてルードラント。
前者は知らぬ者のない英雄の名であり、そして奈落を凍てつかせた名だった。
理由は不明だが、奈落の弱点にも成り得る事項として、今後調査する必要があるだろう。
だが問題は後者である。
ルードラントといえば、いま刑軍内部で最も関心の高い人物の一人だ。
先日のルードラント製薬会社炎上事件。
大規模な火事でありながら死傷者なしという奇妙な事件で、現在調査中である。
当初は放火という見解が支持されたが、その後の調査で自作自演を思わせるような状況証拠が、いくつも発見されている。
そして肝心のルードラントは社員含め現在も行方不明。
もしかして、とヒセツは思い、知らず、声に出していた。
「私を襲ったあの男は、ルードラントの関係者……?
だとしたら、奈落もそれに関わってる可能性が高いわね。
そして中心にいるのが、なぜか双子の女の子……」
曖昧ながらも、その三者は繋がるだろうという手応えがある。
水面下で、魚が疑似餌を掴むように。
ヒセツは寝癖を直すのも忘れて、思考に集中する。
「もしかして……奈落の近くが、一番ルードラントに近い場所なんじゃ――」
そこで思考は遮断された。
小刻みに鳴る鈴の音が耳朶を打ち、ヒセツを現実に呼び戻したのだ。
探らずともわかる、鳴っているのは電話の呼び鈴だった。
ヒセツは慌てて時計を見る。
時刻は七時半を五分過ぎていた。
それはつまり、刑軍本部への定期報告時刻を五分過ぎている事と同義だった。
時間に厳粛な上司の事だ、痺れを切らして向こうから電話をかけてきたのだろう。
「あちゃあ……やっちゃったわ」
鏡の前を離れ、早く出ろと急かす電話機のもとへ急ぐ。
渋面しながら受話器を持ち上げると、通話口から聞こえた声は予想に違わなかった。
「定期報告時刻を述べよ」
「……七時半です」
「現在時刻を述べよ」
「……………………………七時三十五分です」
「やる気がないなら荷物をまとめたまえ」
やる気があるから寝不足になり、
やる気があるから思考に没頭していたというのに、相手はそれを知らない。
理不尽と思わざるを得なかったが、報告が遅れたのも事実だった。
「申し訳ありませんでした……。やる気はあります」
「ほう。それならば、どうして壊し屋・奈落に罪を重ねさせたのかね」
「……………は?」
思わず、ヒセツは間の抜けた反応を返してしまう。
彼の言葉の意味が、まるで掴めなかった。
彼女の知っている限り、奈落は罪を重ねるような行為はしていない。
昨夜だって、罪を犯すどころか、人助けまでしてみせた。
――まさか、私が帰ってから問題を起こしたんじゃ!
だが、紡がれた言葉は想像もしなかったもので、彼女の推測を見事に裏切った。
「昨夜、君が呆けていた午前二時半頃、公園で火柱が目撃された」
受話器を落とさなかっただけ、僥倖といえるだろう。
それだけ、ヒセツ・ルナの全身を走りぬけた悪寒は強烈なものだった。
開いた口は、一向に塞がろうとしない。
いま、彼は何と言ったか。
確かめるように、胸中で何度も反芻するが、結果は変わらない。
彼の声音は聞き取りやすく、それだけに彼女には残酷ですらあった。
思い出すのは昨夜の、否、つい先程の一件。
疲労困憊したヒセツを、魔法使いの男から救ってくれた奈落の顔を思い出す。
あの、余裕の表情を。
電話口の相手はその一件を語りながら、しかし語ってはいない。
まさに青天の霹靂というべきその言葉を、ヒセツは理解したのだ。
電話口でこれから紡がれる言葉を、もはや聞くまでもなく理解していたのだ。
すなわち――奈落の罪を。
「容疑者は壊し屋・奈落。火柱に叩き起こされた近隣住民が公園に押し寄せたようでね。
男と争っていた彼の姿を、多数の人間が目撃している」
だが、それは、違う。
全く、見当外れだ。
的外れだ。
なぜならばヒセツは真実を知っている。
事情を知らない目撃者が、捻じ曲げてしまった真実を。
その火柱の犯人が自分であり、
駆けつけてくれたのが奈落であるという事を。
誰もが犯人は奈落だと言っている。
見当違いの犯人像を、あの状況が作り出してしまったのだ。
裁かれるべきは自分なのに。
その罪は、ヒセツ・ルナが背負うべきなのに。
それを彼は、人々は、奈落が背負うべきものだと言う。
彼女の思考は幾重にも重なり、そして飛躍していく。
もしも、彼の罪が全てそういった誤解から生じたものだとしたら。
ヒセツは問う。
それは罪なのか、と。
正しいのは誤解なのか、と。
支持される誤解が正しく、支持されぬ真実は葬られるというのか。
誰に知られる事もなく、ただひっそりと。
正義をかざす誤解は、真実に罪をなすりつける権利を持つとでも言うのか!
――違う、違う、違う、違う、違う!
ヒセツは叫ぶ。
言葉にできない、胸中でしか叫べぬ否定の概念を叫ぶ。
そして、電話口の向こうで叱り付ける上司は、思わず顔をしかめる事となる。
聞こえてきたのが部下の謝罪ではなく、
がしゃんという落下音だったからだ。
走り出していた。
ヒセツ・ルナは、意志に任せるがまま受話器を放り、
玄関の扉を開け放ち、
駆け出していたのだ。
そうするほかなかった。
余計な思考の介入を許さぬ速さで、最短距離を疾駆する。
目指すは否定を肯く場。
埋められた真実を掘り返すために、行かねばならなかった。
「――聞いているのかね。返事をしたまえ、ヒセツ・ルナ・下士官。応答せよ!」
次回、ヒセツの衝動を受け止める場所とは、
そして、奈落の仕事は急転を迎え…
それぞれがそれぞれの歩き方を決めて行く――。
続きを気にしてくれる方、偶然ここに辿りついた方、
いらっしゃいましたら、評価いただけましたら幸いです。




