記憶と境遇
非合法の壊し屋・奈落。
彼はルードラント製薬会社の破壊を、依頼人・トキナスより請け負う。
謎を多く残す依頼人だったが、
その報酬に釣られた奈落は、
謎の失踪を遂げたルードラントの足取りを掴むべく、
調査を開始する。
そこで床一面に描かれた何万もの文字群――魔紋陣を発見するが、
その真意を掴めぬまま、調査は中断を余儀なくされる。
一方、火中から救われて以来昏倒を続けていた少女、
ラナが、ようやく意識を取り戻す。
しかし彼女は、一切の記憶を失っていると言う――。
「実を申しますと、ご帰宅前、ラナ様には私がいくつかを問うておきました。
そしてそれらに対する回答は驚いた事に全て同様――
何も覚えていない、との事でした」
「――――――――何だと?」
◆
夕日の差し込む居間には、まだ破壊の跡が色濃かった。
先日の刑軍との戦闘による壁の損壊。
シルヴィアによる無駄な天井の大穴は、適当な木板で応急処置を施してあるのみ。
カーペットにも細かな瓦礫が残っている。
その空間に無理矢理しつらえたテーブルと椅子に、奈落とパズ、シルヴィアは座していた。
二人はシルヴィアの話に傾注していた。
訥々とした口調は、一切の無駄を省いた事務的かつ理想的な説明を展開した。
一部始終についての説明は、喫茶・アウトロウからの帰宅から始まる。
帰宅したシルヴィアは、背負っていたラナをベッドに寝かせた。
間もなく暇を持て余し、本を取りに居間へ移動した。
目を放したのはほんの一分程度だろう。
寝室へ戻ってくると、ラナは目覚めていた。
あたりを見回して、ここが見慣れない場所だと気付いた彼女は、シルヴィアに説明を求めた。
彼女は取り乱す事なく冷静であったという。
シルヴィアは返答として事の経緯を話し、その後彼女に事情聴取をした。
トキナスとは何者か、なぜルードラントに捕まったのか。
しかし、ラナの回答は「何も覚えていない」の一点張りで、申し訳なさそうに項垂れるばかりだった。
黙秘をしているのか本当に覚えていないのかは判然としない。
聴取したシルヴィアの私見も頼りにならないもので、ラナの真意は分かりかねるようだ。
結局、話に進展が見られないまま時間がいたずらに過ぎていき、
やがて二人と一匹が帰宅した。
ラナが目覚めたのだから、様々な謎が解ける――
少なくとも手がかりにはなるだろうと思っていたのだが、当てが外れた。
記憶喪失だと聞き、奈落はさすがに溜め息を禁じえなかった。
「こんなところですね」
シルヴィアが話を締めくくると奈落はご苦労、と短く応じてから重い腰を上げた。
「さて……仕方ねえ。とりあえず、俺もラナと話してみるか。パズも来るか?」
椅子に座して足組みしていたパズに視線を落とすと、彼はすぐに首肯した。
席を立ったパズ、それから首をぐりんぐりんと回す梟と共に、奈落は居間を後にした。
残されたシルヴィアは、乱れたイスの位置を丁寧に直し、満足げに、
「嗚呼―――完璧な自分が憎い……」
と自己陶酔してから一同を追った。
◇
ラナはベッドに腰掛けていた。
大きな瞳は手にした文庫本を見つめている。
よほど熱中しているのか、こちらへ気付いた様子もない。
奈落はベッドへ歩み寄った。
「何を読んでるんだ?」
声をかけると、ラナはビクッと肩を震わせた。
その際に、本が手中から滑り落ちる。
ベッドに投げ出された本へ目をやると、タイトルには『レタスへの耽溺』とあった。
成程、と奈落は思う。
シルヴィアには教育が足りないのだと。
「―――――誰?」
問われ、ラナがこちらを注視していた事に気付く。
向けられる瞳には、怯えの色が濃い。
奈落の外見は、あまり親しげな印象を与えないのだろう。
着替えるべきだったかと後悔しつつ、奈落はなるべく穏和になるよう努めて答えた。
「ああ……壊し屋をやってる、奈落だ」
「奈落? ……変な名前」
「放っとけ」
と、棘が含まれがちな口調に、内心で舌打ちする。
「ああっと……、一応こいつの――シルヴィアと暮らしてる。詳しい話は後でしてやるから、今は俺の質問に答えてくれるか」
努力の割にはいたわりも何もないぶしつけな口調だったが、ラナはしばらく迷った末に小さく肯いた。
「よし。まず、そうだな……名前は?」
既知の事実だが、奈落はあえてそう尋ねた。
基本的にまずは自己紹介から始めるべきだし、万が一とはいえ、彼女がラナではなくルダである可能性も捨てきれないからだ。
「名前? ボクの?」
「他に誰がいるんだよ?」
問いを受け、少女は周囲をぐるりと見渡す。
全員の視線が自分に向いている事に、彼女は僅かに身を固くした。
シーツを握る手に力がこもるのが見て取れた。
「……ラナです。ボクの名前は」
奈落は頷く。
頷きながら、ラナを怯えさせる悪趣味なコートを脱いだ。
シャツも同様の色調だったため、彼女の緊張を解くには至らなかったが。
「ラナ――記憶がねえってのは本当か?」
記憶。
その単語に、ラナは過剰に反応を示す。
目を逸らしてうつむいてしまう。
彼女は怯えた眼の端に涙さえ浮かべながら、蚊のなくような声で
「はい」
と肯定した。
その涙は記憶を失った不安によるものか。
あるいは騙すための嘘に対しての良心の呵責か。
残念ながら判別する術はない。
が、嗚咽を洩らす彼女は、無条件に信用してやりたくなるほどに弱々しく見えた。
「どんなに細かい事でもいい。――覚えている事は?」
しかし、彼女は細い首を左右に振るばかりだった。
「ごめんなさい……ボク、覚えてないんです。何も、何も……思い出せないんです」
シーツを固く握り締めて、そう繰り返す彼女に、これ以上の追求は出来なかった。
だが記憶喪失は一時的なものかもしれない。
何日か落ち着かせておけば、あるいはあっさりと戻る事もあるかも知れない。
ラナの境遇を鑑みれば、それが思い出したくない記憶であるのは、想像に難くないが。
「そうか、まあ、仕方ねえな。何か思い出したら、また教えてくれ」
「はい……きっと、きっと話します」
奈落は仕事に関する問いを諦め、別の事を尋ねる。
「――ラナ。君は、これからどうするつもりだ?」
恐らく、トキナスは彼女の親ではないのだろう。
つまり、彼女には身寄りがいないのだ。
行く当てもないだろう。
公的な場所ならば託児所や刑軍があるが――
「奈落様」
おもむろに、シルヴィアが思考に割り込んできた。
振り向くと、彼女は無表情のまま腰に手を当てて胸を張っていた。
なんとなく、自信の溢れているように見えなくもない。
不審も露に、奈落は続きを促した。
「狂喜乱舞しながら驚きください。その件で、私に名案があります」
「………………………………………………試しに言うてみ」
「ラナ様は刑軍支部の玄関に放――」
無視した。
「ほけほけ。ん、ん、んー? 身寄りのない小童かね。外は寒い。段ボールが必需品――」
無視した。
馬鹿は放っておいて話を戻そう。
なおも言い寄るシルヴィアと梟を無視して、ラナへ向き直る。
戯言のせいで、彼女は下される審判にすっかり恐怖していた。
奈落はふっと口元を緩め、肩をすくめた。
外野を容赦なく指差しながら。
「こんな性悪使い魔だったら別だがな。行く所がなければ、しばらく家にいてもいい」
「奈落様、幼女監禁ですね」
「まあ、お前の境遇には同情するところもあるしな」
「ほほほけ。この老いぼれも流石にロリコンには目を覆うな」
「もちろん、お前がそうしたければ、だけどな」
「甘い言葉で騙して――」
「って、やっかましいわああああああっ!!」
後ろで根も葉もない事を列挙する同居人と使い魔に、奈落は裏拳を繰り出した。
が、彼らは軽く身をひねるだけで難なくそれをかわす。
「さっきから人を犯罪者扱いしやがって! マジで壊してやろうかテメエらっ!?」
啖呵を切る奈落の脇で、パズが小さく
「非合法だから犯罪者には違いないけどね」
と呟くが無視する。
対するシルヴィアは嘆くように天を仰いだ。
「嗚呼、これも宿命なのですね………分かりました。忍者・シルヴィア、堂々とお相手いたしましょう。――闇討ちで」
「堂々の気配が一切感じられねえよ!」
「残念ですが奈落様、堂々の定義は改訂されました」
「いつだよっ!」
「さっき」
「曖昧だなオイっ!」
「ほけほけ。真理は境界の間、つまり曖昧の中にこそあるでな」
「意味が分からんっ!」
「ひっく………ぐすっ………」
「泣くなっ!」
「いえ、今のは私ではありません」
「―――――あ?」
言われてみれば、シルヴィアの声音にしては幼過ぎる気がする。
我に返ると、その正体は――
いや、探すまでもなかった。
ラナの目尻から溢れ流れる涙が、ベッドのシーツを濡らしていた。
彼女は唇を噛んで、声を押し殺して泣いていた。
奈落たちの喧騒が、自然に収まる。
ラナの嗚咽だけが部屋を満たした。
ぽたぽたと溢れる涙は、とどまる事を知らず。
涙の理由は、すぐに知れた。
唇を震わせながら、嗚咽に混じって、声にならない声で。
彼女は静かに、何度も何度も繰り返していた。
――ありがとう、と。
それを聞いて、奈落はバツの悪そうな顔になり、しかし、安堵の息をついた。
と、その場で背を向け、出口へと足を進めようとする者がいた。
パズだ。
奈落はシルヴィアにラナを任せて、彼の後を追った。
「帰るのか」
「うん。調べたい事もあるし。――奈落さん、見送りをお願いできるかな?」
パズの言葉に、奈落は首を傾げる。
何度も家に足を運んでいるパズだが、そんな事を要求してきたのは初めてだった。
無言で頷き、両者は玄関へと向かう。
玄関まで戻り、靴を履き、扉を開ける。
そこまで済ませて、ようやくパズは振り返った。
「どう思う?」
向けられた問いは、唐突だった。
「どうって……ラナの事か? まあ嘘ついてるようには見えねえけど」
「あまり信用しない方がいい」
パズの言葉を理解するのに、数秒を要した。
彼は笑みで顔をゆがませながら、何でもない事のように言ってのけた。
だがそれは、容認し難い言葉だった。
「………どういう事だ?」
「別に根拠があるわけじゃない。
ただの勘ってやつ。
まあ用心するに越した事はないからね。
――それじゃ、また何かわかったら連絡するよ」
そう言って、パズは奈落邸を後にする。
扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
次回、一つの疑惑が確信へと変わり、物語は前進する――。
続きを気にしてくれる方、偶然ここに辿りついた方、
いらっしゃいましたら、評価いただけましたら幸いです。