家族旅行
最近父さんと母さんの様子がおかしい。まず、父さんが家にいる時間が増えた。
普段なら、私が学校にいく時間には既に家を出ている父さんが、居間でくつろいでいたりする。
その上、
「勉強? そんなものする必要ないよ。それよりもっと遊びなさい。遊べるのは今のうちだけなんだからな。ははは」
こんなことをいっている。非常に不気味だ。
母さんだって最近滅多に怒らなくなった。妹の由美がどんなにいたずらをしたって
「あらまぁ。だめでしょ、由美ちゃん。でも、元気があるのはいいことよね。うふふ」
なんていってニコニコ笑っている。靴をそろえておかなかっただけで鬼のような形相で怒る母さんは、いったいどこにいったというのか。
それだけじゃない。
最近私と由美が眠ったあとで、ふたりして隠れるようにして泣いていることがあるのだ。
そのときの父さんはとても哀しそうで、でもやさしい目で、すすり泣く母さんを抱きしめている。
正直、かなり怖い。この間までケンカばかりしていたのに……。
私がなんで泣いていたのか尋ねても、二人は笑って微笑むだけで何にもいってはくれない。
由美はおおらかな父さんと、やさしい母さんに満足しているようで、
「わたし、今の父さんと母さん好きだなぁ。こっちの方がいいよ! えへへ」
などと能天気なことをいっているが、私は騙されない。
きっと、何か隠し事をしているに違いない!
@@@
そんなある日。学校に行こうとする私と由美を、父さんが引き止めた。
「おっ、真美、由美。お前たち、今日先生に『明日からしばらく休む』って伝えておきなさい」
いきなり何をいっているのだろう。混乱する私とは逆に、由美は興奮した様子で顔を輝かせた。
「学校休んでいいの!? 本当に!?」
「ああ。でもそれだけじゃないぞ。明日から家族みんなで旅行だ! 楽しみにしておけよ」
「旅行!? うわぁ! やったぁ!!
由美は学校を休めることがそんなに嬉しいのか、妙にはしゃいでいた。
「ちょっと待ってよ! そんないきなりいわれても困るよ」
私は当然反論した。
何故、事前になにも話してくれなかったのか。
私にだって都合があるのに。
「ちょっと、母さん! あんなこと言ってるけど、いいの!?」
こういうときの母さんは頼りになる。言うなれば、我が家のストッパーだ。
母さんに一喝してもらえば、さすがの父さんも、そんな突拍子もない発言を撤回するだろう。
そして、私のそんな期待通り、母さんは父さんたちをたしなめてくれる、——はずだった。
「……真美、わがままは言わないで。もう、決まってることなの」
母さんは、ため息まじりにそう言った。
注意されたのは父さんではなく、私の方だった。
「……え? ちょ、ちょっと、母さん!?」
「諦めなさい。真美」
何故だ。何故母さんは私の方をなだめさせようとしているんだ。
私は納得が出来なくて、文句を言ってやろうと、母さんの方に向き直った。
だけど、母さんの目を直視した瞬間、私の中の反抗心は、困惑とともにすっかりたち消えてしまった。——母さんが、目にいっぱいの涙を浮かべていたからだ。
なんで泣いているのだろう。なんでそんなに哀しそうな顔をしているのだろう。なにか隠しているんじゃないか?
色んな考えが頭を巡り、それ以上何も言うことが出来なかった。
「旅行だぁ! 旅行だぁ!」
「あぁ、旅行だぞ、由美!」
私の後ろで、気がふれた様に騒ぐ父と妹。
私の正面で、涙を溜めたまま微動だにしない母。
そのとき私が感じていたものは、そう、いわゆる、『悪い予感』というやつだったのだろう。
@@@
唐突に企画され、突然に実行された、我が家の家族旅行は、それはそれはすばらしいものだった。
テレビでしか見たことのないような、高級旅館。見たことも聞いたこともないような、高級食材。専属ガイド付きの観光地巡りに、名物づくしのフルコース。庶民の感覚では、ちょっとこれ以上は思いつかないんじゃないか、というぐらいの豪華絢爛な旅。
旅行最後の日には、私は不本意ながら名残惜しさにもう少しこの旅行を続けたい、と思うほどになっていた。
「それでは、お世話になりました」
駐車場で荷物を積み終えた父さんが、旅の間案内をしてくれたガイドさんにお礼を言った。
ガイドさんは温厚そうな顔をコクリと傾けて、にっこりと笑った。
「いえいえ、こちらこそ。是非またお越し下さいませね」
その言葉に、父さんは微笑みを返す。父さんの笑い声は、からからと乾いて聞こえた。
「さぁ、みんな車に乗って。そろそろ、行こうか」
「——なぁ、真美、由美。旅行、楽しかったか……?」
流れる景色を眺めながら、旅行の記憶に思いをはせていた私は、父さんの言葉に振り向いた。
「うん、まぁ、ね。……でもさ」
「うん! すっごく楽しかった! おとうさん、わたしまた行きたい!」
「まぁ、由美ったら。……うふふ」
「そうか! 楽しかったか。……良かった、良かったなぁ……」
「……」
私はそのとき、二人に微妙な違和感を感じていた。
旅行も終わって、これから日常に帰らなくてはいけないのに、父さんと母さんからはどうにも気概が感じられなかった。まるでまだ夢から覚めていないかの様に空虚な表情でいた。二人のこんな顔は見たことがなかった。
私の心は、段々と不安に染まっていった。そうすると、もとから感じていた疑念が、頭をもたれてくる。
そもそも、この旅行は何故企画されたのか。いくら考えても、目的や理由がわからなかった。
その内容も、いま考えるとおかしなことだらけだ。
私の家は、決して貧乏というわけではない。しかしこんなにも贅沢な旅行が出来るほど、裕福なわけでもないのだ。
いったいどうやってお金を工面したのだろう。仮に何とかなったとしても、父さんはそんな行き当たりばったりなお金の使い方をする人ではなかったはずだ。
そうしてしばらく考えていると、頭にあることが浮かんできたのだった。
もしかして、この旅行の目的は、『最後の思い出作り』にあるのではないか。そして、旅行の最後に心中するつもりではないか。
旅行の少し前からおかしな言動の目立つ父さん。
性格が変わってしまった母さん。
度が過ぎた、豪勢な旅行。
私たちの知らないうちに何かが起こっていたのではないだろうか。
何か取り返しのつかないことが。
……いや、もうやめよう。
私は悪い考えを振り払うために、頭を軽く振った。
杞憂だ。こんな心配は。
現に今、車は我が家へと向かって走っているのだ。
明日からまた、いつもとかわらない、平凡な毎日に戻るんだ。
そう思っていた矢先——帰路を急いでいたはずの車が、急に停止した。
「さぁ、着いたぞ」
着いた? どこに着いたというのだろう。
窓から外をのぞいてみると、そこに広がっていたのは、夕日に照らされて赤く色づいた——海だった。
「ほら、みんな降りて」
そういって父さんは、車からゆっくりと、降りていった。
そして、息を吸い込みながらひとしきり景色を眺めると、一言呟いた。
「ここが、最後の目的地だよ」
@@@
そろそろ太陽が水平線に沈もうかというころ。私は父さんと母さんに挟まれる様に砂の上に座っていた。
「きれいな夕日だなぁ、母さん」
「ええ、ほんとうに」
夕日に照らされた砂浜はほんのりとあたたかく、柔らかな砂はまるでクッションのようだった。
「きゃはっ! なみだ、波だ!」
由美はひとり、波打ち際ではしゃいでいる。それを見守る父さんと母さんは、とてもやさしい顔をしていた。
「こうやって、また家族みんなで旅行に来れて、嬉しかったよ……」
「私もよ……、あなた」
二人の手が私の肩に置かれた。そして私を包み込む様に二人は身体を寄せ合った。
「愛してるよ……真美、由美」
幸せな時間だった。とても幸福な、私の家族。生まれ変わっても同じ家族でいたいと、素直に思えるような、不思議な一体感。
出来れば、ずっと。ずっとずっと、この心地いい空間で過ごしたい。そう思った。
「……ね、父さん、母さん」
だけど。
「あのね、二人に聞いておきたいことがあるんだ」
だからこそ。
「……私たちに」
私は知りたかった。……本当の家族で、いたかったんだ。
「——何か、隠してること、あるでしょ」
時間が止まったような気がした。さっきまでの心地よさは、もうすでに消え去っていた。
長い、永い沈黙。由美が遊ぶ音だけが、あたりに響いていた。
——そのまま何分経っただろうか。突然、父さんが口を開いた。
「どうして、わかったんだ……?」
うつむいたまま発せられた父さんの声は、とても弱々しかった。
「わかるよ。……家族だもん」
そんな私の言葉に、父さんと母さんは顔を見合わせ、苦笑した。
「……ごめんな、真美。父さん、全部話すよ」
そうして父さんは顔を上げ、由美の方を見ながら話しだした。
「……少し前のことだけどな、父さんの高校時代の友達がな、借金した、助けてくれって父さんに会いにきたんだ。そいつは父さんと同じクラスで、とても大切な友達だったんだ。だから、保証人になってくれって頼まれて、断りきれなかった。……結局そいつは夜逃げして、今じゃ連絡もつかない。借金は、父さんが払わなくちゃいけなくなったんだ」
父さんはそういって、目を閉じた。
「父さん、裏切られたんだなぁ……」
「そんな……!」
私はあふれてくる涙をこらえながら言った。
「そんな酷いことってないよ! 父さんは何も悪くないよ……! 父さんがかわいそうだよ……! なんで……、どうしてよ! うっく……うう……!」
私は気がつくと父さんに抱きついていた。父さんがかわいそうで、哀しくて、慰めてあげることもできない自分が情けなかったんだ。
泣きじゃくる私をやさしく抱きしめながら、父さんは私の頭を撫でてくれた。父さんはこんなときでもやさしかった。
「ありがとうな、真美」
「でもっ……でもぉ!」
「借金のことは、心配しなくていい。今のまま、頑張って頑張って働けば、決して返しきれない金額じゃないんだ」
私は涙と鼻水で汚れた顔をふいて、顔を上げた。
「……ほんとに?」
「あぁ、ほんとうだ」
父さんは力強く笑った。
「……うん。私、信じるよ」
私はもう一度父さんの胸に顔をうずめた。心の底から安心しきっていた。どんなことも、みんなで頑張れば大丈夫。そう信じて。父さんに抱きついた。
だから私は、そのとき母さんが音もなく由美に近づいていたことに気がつかなかった。——父さんが、さっき見せてくれた笑顔とはほど遠い空虚な表情をしていたことも。
「なんとか、なんとかなるはずだったのに……。仕事があって働ければ、返せない額じゃないんだ……。こんなときに、父さん、会社クビになっちゃったんだよ……」
何かおかしい。
違和感を感じた私が顔を上げたとき、私の目に映ったのは、母さんに首を絞められ両足が宙に浮いている由美の姿と、感情の読めない不気味な無表情で私を見つめる、……父さんの姿だった——。