Phase2-5:人殺し
放たれた言葉は、ジョイの疑問を解消するには至らない。
彼は、砕けた椅子とアングの顔を、交互に見回し続けた。
「虫一匹のために椅子を犠牲に?」
常軌を逸した言い訳だ。ジョイは苦笑いを浮かべるしかない。
「いややり過ぎでしょ。アング、これから空気椅子で勉強するの?」
至極もっともな意見だ。同調したい。
しかしアングはできなかった。
動いているのは、自分ではないからだ。
視界は遠く、唯一見える小さな穴から状況を認識する。
完全なる蚊帳の外。闇に閉じ込められ、一切の制御が効かない。
だからこそ、主導権を持つユージーンは、好き勝手に吐き捨てられる。
「嘘だろ。ろくな脳味噌持ってないやつが、そんな心配するなよ!!」
「な、なんだよ突然! さすがにヒドくないか?」
「そっちこそ何しに来やがった? 人が一人で楽しんでる時にズカズカと!」
あまりにも乱暴な流れだ。ジョイはたまらず側頭部を擦る。
「いや、僕もさっき帰ってきたばかりだからまだなんだけどさ、先にシャワー浴びたら? っていう」
これも、アングの意識であれば、真っ先に乗っていた提案だ。
しかし『今のアング・リー』は、自身の顎を持ち上げ、嘲笑った。
「ははーん? それって何だよ? お誘いってことか?」
「え」
「すぐに否定しないんだ! その気はあるってことじゃねえか!」
この会話の流れを聞いていたアングは、最初は何のことを言っているのか分からなかった。
ジョイの顔が赤みを増していくにつれ、ようやくそういうことかと理解した。
「き、君が嫌がるから一人ずつにしてたんだろ!」
「それがキモいって言ってるんだよ! 許可さえ下りればヤるってことじゃん!! いつもオレが座った後の便器にキスしてんだろ、なぁ!?」
「そんな変態じみたことす――」
空気が一変した。
挑発で尖らせていた唇が引っ込み、気配にも尖りが生まれる。
遠目から見ているアングにも分かった。
ジョイを見下すような視線でいる。
無言のまま近づく。
何か良からぬ気配を察したのか、ジョイは一歩だけ後退った。
必死に記憶を呼び起こす。
この男は、スタジアムで何と言っていた。
明確な言葉はなかった。だが、確実なことは一つだけある。
アングに対する恨み。
それを深き根にするための絶好の手段がここにはある。
ただの自傷よりも深く、強い苦しみとなるだろう。
両腕が上がる。
同じ身体だ。殺気という鋭さが脳裏に伝わってくる。
『おい、よせ!』
叫んだところで、宿主の決断を止めることはできない。
両手が、ジョイの頭部を狙う。
『やめろォォォ!!』
接触したのは指先だけだった。
ジョイの頬を摘み、おもいっきり外側へ引っ張る。
鍛えているがために細マッチョ体質だが、童顔という利点はここにも作用したのか。思いのほかよく伸びる。
更にユージーンは、その頬を逆に押し込んだりもした。釣られて唇が縦に伸びる。
このタイミングでユージーンは笑みを消し、顔を近づけた。
僅かに感覚を共有できている。ジョイの頬に熱がこもるのをこちらも感じる。
何の勘違いか、ジョイはうっとりとし、目を閉じ始める。
全てを委ねるような構えを取った。
ユージーン側の緊張など、微塵も感じられなかった。
「ぶふっ!」
アングの肉体は噴き出し、腹を抱えて震えた。
「期待してんじゃねえよバカが! ハハハハハ!!」
高笑いを見せつけながら部屋を出ていく。
残されたのは、キス待ちから、固まった顔に変化した哀れなジョイだけである。
*
シャワールームにて鼻歌が反響する。
豪快な勢いで衣服を脱ぎ捨てたユージーンは、最初からシャワーを出しっぱなしにし、泡立てたスポンジを使って元友人の身体を赤くなるまでこすり続ける。
アングの危惧は全て水泡に帰したのか。
ジョイに対して向けられていた殺気は、まるで存在しなかったかののように体内から消えている。
代わりに聞こえるこのズレた音程が実に耳障りだ。
アングは意識の奥から声を押し出す。
『……上機嫌だな』
「久しぶりに生身でこうやってシャワーを浴びれて、他人の身体だとしても嬉しいもんは嬉しいね!」
『俺の身体を使って何するつもりだ!!』
流石に脳に響いたのか、ユージーンは手の動きを止めた。
しかしすぐに「ククッ」と歯で息を立てる。
「焦るなよアングー」
また身体洗いが再開される。
「そーいうのは、実際に行動を見て理解するものだよ」
『それまで待ってろとでも? 聞きたいことは山程ある!』
「オマエの母親のことなら話さない」
必ず聞こうと思っていたことの一つだ。
いきなり釘を刺された。
『なんだと!?』
「オレはずっとキューブの中にいたわけだし、当然あの女、リリアン・リーが死ぬまで会話も聞こえてた。知らないなんて言ったら流石に嘘になるよな?」
『だから先にだんまりを決め込むだと? どんな理屈だ!!』
「聞いたって拍子抜けする、意味のないことばっかりなんだよー!」
ユージーンは顔の前でスポンジを両手で挟み、片目を閉じる。
「代わりに別のこと教えてやるから! な?」
信用できない。
この男は、意図的に何かの事実に蓋をしようとしている。
しかし、母のことについてこれ以上引き出せそうにない。アングは荒らげていた口を閉じた。
満足げに頷いたユージーンは、今度はシャンプーを掌の上に載せ、両手で擦って泡立てる。
「さっきあのカザミとかいう女に、どうやってレッドを起動するのか聞かれて躊躇したろ?」
この男、約束は守るようだ。
たしかにアングはその時、『知らない』と嘘をついた。
泡を髪に塗りたくりながら、ユージーンは続ける。
「正しい判断だったぜ? ああいう、血と悲鳴が入り乱れた場所にいるとなぁ……やけに気分が良くなるんだ」
恍惚と目を閉じた後、シャワーホースを手に取り、全身の全ての泡を流し始める。
「だから、あの子をそんなところに行かせられない、もしくは殺らせられないって思った……」
鏡に映る自分は、歯茎をむき出しにして笑っていた。
「殊勝な考えだな! もう恋してんのかよ!」
すると左手が、下腹部より下へと伸びる。
見下ろし、触って確かめた。
「こっちの調子は? あれれ、シナシナだぁ〜!!」
『その下品な口調をいつになったら止められるんだ!!』
「そうそう! その感情もだよ!!」
ユージーンは舌を出し、唇の周りをレロリと舐め上げた。
「随分と素養があるじゃねえか! オマエがブチギレてくれたおかげで、オレはこの身体を乗っ取ることが出来たッ!」
さらりと、重大な事実を吐き捨てられた。
『じゃあ出ようと思えば、さっきも出てこれたってことか!?』
衝動的な怒りなら、アングはカザミのマンション内で存分に出していた。
ユージーンは否定しない。自分のこめかみを人差し指で二度突く。
「この馴染んでない身体で、人だって平気で殺せる機械相手に丸腰で立ち会おうなんて、無謀にも程があるだろ!」
もういい。
聞きたいことはある程度聞けた。アングはどうにかここから出ようとする。
意識の奥、闇の中に閉じ込められてはいるが、身振り手振りはできる。肉体には連動しない。
ゆえに自由に動ける。どこかに壁があるのでは。そう信じて虚空を叩く。
どこへ照準を定めても衝突がない。
ユージーンは見せつけるように、鏡越しでで目を見開いた。
「アッハッハッハ! ムダムダ〜! 抱えてきた年月、信念が違うんだよ!!」
一瞬、意識が立ち眩みを覚えた。
まさか本当に、これから一生、この男に身体を乗っ取られたままなのか。
「そんなんでオレを追い出せると思うな!! これからオレが何をするか、指咥えて見ているといい!!」
*
フルーレ家の三人は、もはや自分たちの食事どころではなくなっていた。
アング・リーという男の奇行を目の当たりにしたからだ。
昨日も十分に豪華なディナーだったが、今日はジョイの宣誓式成功を兼ねて、牛のトマホークステーキが披露された。
その貴重な料理を、アング……いや、ユージーンは、素手で掴んだ。
もう片方の手にはサラダを掴んだ。入り切るまで乱暴に肉を詰め込んだ。
上体に捻りまで入れて噛み切る。服にソースが飛び散る。それをレタスで掬ってまた口にねじ込む。
オレンジジュースで流し込む最中にフランスパンを掴む。皿に残ったソースをべったりと塗りつけた。
「ぷはー! うんめ、うんめ!」
大声と共に、唾と混じったソースが飛ぶ。
口の周りにも目元にも赤茶色のベトベト。この周りだけテーブルまでもが汚くなる。
ダンが、対面の人物を見て、コップを持ったまま固まっている。
「アング君……。食は細いほうだと思っていたが」
豪快さという点では、ダンですら一歩遅れを取る事態となった。
そして食欲という点でもだが、バレリーは逆にテンションが上がっていた。
「それだけ疲れてるってことよ!」
何故か自分のステーキ皿を、アングの方へスライドさせた。
「さあアング君。私の分も食べて食べて! 生存祝いよ!」
ユージーンはバレリーを直視し、満面の笑みを浮かべた。
「いぃんでふか!? ラッキー!」
そして限界まで前のめりになり、分厚い肉へとかぶりつく。
アングは心底軽蔑した。
信じられない。犬か?
仮に意識を取り戻せたとして、今後、どのような顔で食卓に着けというのか。
とんだ頭痛の種だ。頼むから肉体本体も頭痛になってくれと願う。
下品な話題も出すような性格ではなかった。本当に人が変わってしまったのか。
すると、警察にしては遅すぎるくらいだ。
「にしても、人が変わり過ぎじゃないか? なあ、ジョイ?」
この異変についてダンがようやく言及する。彼以上にアングとの付き合いが長い、息子に話を振る。
彼はジト目でアングを見据え、口元に指の付け根を添えた。
「この荒っぽい、無理矢理な感じ……。うーん……」
途端にうっとりと頬を染め、首を傾げる。
「あれぇ……? 意外と僕ってそっち派なのかなぁ?」
話にならない。
証明する手立てこそ薄かったが、完全に終わった。
しかも波乱は止まってくれない。
「あぁ、でもぉ……。もっと色んな味を楽しみたいかも~……」
肉の喉越しを終えた身体がゆらりと立ち上がる。すぐに焦点は冷蔵庫へ。
ニヤケ面のまま早歩きを始める。背中に、家族からの視線が痛いほど突き刺さる。
到達してすぐに扉を開け、中を物色。
『おいおいおい冗談じゃないぞ!!』
アングの精神は制止の呼びかけをするも、その最中に手は伸びている。無意味だ。
マヨネーズ瓶のキャップを回して外し、上を向く。
指で掻き、直接喉へと流し込んだ。
「まぁ!」
後ろから、バレリーの感嘆が聞こえる。
「流石にそれは……」
ジョイの引いた声も聞こえる。
次に狙いを定めたのは、ラップのかかった皿。デザート用と思われるイチゴが載っている。
まだマヨネーズが溜まった口内に彩りを与えてしまう。
イチゴマヨという未知の共演が、アングの五感をじわりと侵す。
『ふざけるな……! 俺の家での立場を、地に落とすつもりか!?』
文句は耳に入っていないらしい。
他にもありとあらゆる食べ物、飲み物、調味料へ手を伸ばし、胃袋の中に招く。
有頂天の彼は、混ざりあった飛沫をぶち撒けながら高らかに叫んだ。
「四年のブランクをぉ感じさせない、みごとぉな食らいっぷりィィィー!!」
*
「ウボェエエェ……」
満腹という概念すら忘れていたのか。
胃袋の限界を超えて食物を放り込み続けた結果、便器に顔を埋めることとなった。情けない地鳴り声が密室に響く。
あらかたを終えた後、服の肩口で口の周りを拭いた。
「一日に……二度吐くなんて……情けないやつ」
『全部お前のせいだ!!』
結局、彼が身体を乗っ取ってからの行動は全てに品がない。
ジョイをからかい、鼻歌交じりにシャワーを浴び、限界まで食って戻す。
混沌から這い上がってきた者としてはあるまじき姿だ。アングの文句も勢いを増す。
『これがお前のやりたいことだっていうのならとんだお笑い草だな!!』
「あくまで前菜だって。どうしたんだよアングー。ビビッてるのを必死に隠そうとしてない?」
『誰が……!』
冷ややかな視線――。
こちらに向けられているわけでもないのに、全神経を伝ってそう感じた。
吐き気がようやく引いたところで、ユージーンはカフを起動し、ニュースアプリを開く。『イレギュラー事案』の項目をタップする。
並べられていた記事を見て、ユージーンはニヤリと笑った。
「『俺に恨みがあるから、やりたいことやったらすぐに首を掻っ切って自害する……』」
絶句する。
「なんて、思ってるんだろう?」
いま最も恐れている展開を言い当てられた。
身の毛がよだつ程の感覚なのに、肉体はそうはならない。そのズレがより気味の悪さを助長する。
しかしユージーンは、諦めの言葉を述べた。
「そうしてやりたいさ。けどできないんだなぁ、これが」
立ち上がってトイレを出る。
何事もなかったのように悠々と歩き、リビングへ顔を覗かせた。
扉が開けられた冷蔵庫の前で、バレリーが「うーん」と悩ましげにしていた。
それもこれも全部自分のせいだと言うのに。
「バレリーさーん」
ユージーンはだらけた声色で彼女を振り向かせた。
「材料が失くなって大変でしょう? オレが買ってきてあげますよー」
普段のバレリーならば、厚意に甘えて「お願い」と言ったかもしれない。
しかし今回は、少し視線を逸らし、慎重であった。
「またワシントンで強化イレギュラーが出たってニュースになってるわよ?」
アング達もつい先ほど目にした情報だ。
バレリーは、リビングの上にかけられている時計を見上げる。短い針が8の数字を指し示す。
「夜ももう遅いし……。明日私が買いに行くから、アング君は気にしないで――」
彼女の声は、後半から遠ざかって聞こえた。
既に家の外に出てしまったからだ。返事すらしてやらなかった。
ユージーンが述べた提案は、善意からではない。
単に欲しかっただけだ。
外に出るための、『メインディッシュ』を迎えるための口実が。




