影の中に君を返す
ルカとアメリアが少しの間、会えなくなった。
理由は些細なものだった――父の命令、兄の監視、そしてルカ自身の任務上の制約。だが、その「少しの間」はアメリアにとって永遠にも似た時間となった。彼女は沈黙の中で、父や兄からの圧力に耐え続けるしかなかった。
「家のために耐えろ」
「感情は二の次だ」
冷徹な言葉が日々重なり、彼女の心を削り、身体を蝕んでいった。
食卓に並ぶ料理を前にしても、アメリアはカトラリーを持つ手を止めてしまう。
食べることが「自分のため」になると、罪悪感が胸を締め付ける。
父や兄の視線の中で、彼女は「象徴」としての姿を保つことを強いられ、心から食べることを許されなかった。
やがて、頬はこけ、肩は細くなり、ドレスの布地が余るようになった。
鏡に映る自分の姿を見ても、彼女は何も言わない。
沈黙のまま、ただ耐える。
ルカがいない間、彼女は笑うこともできなかった。
彼の前でだけ零れていた笑みは消え、日々は冷徹な微笑の仮面に覆われた。
「アメリア様は少し痩せられたようです」
ルカは遠くから報告を受けるだけだった。
やがて、二人は再び会うことになる。
だが、その時、ルカの目に映るのは以前よりも細くなったアメリアの姿だった。
彼女は沈黙のまま微笑を湛えていたが、その微笑は冷徹な仮面であり、心からの笑みではなかった。
夜更けの部屋は静まり返り、窓辺から差す月光がアメリアの横顔を淡く照らしていた。
彼女の瞳は、かつて見せた柔らかな揺らぎではなく、どこか諦めを含んだ深い影を宿していた。
その目は、未来を拒むでもなく、希望を求めるでもなく、ただ「耐えることしかできない」という諦念を映していた。
アメリアは細くなった手を伸ばし、ルカの頬をそっと包み込む。
その指先はかつてよりも軽く、骨ばっていて、触れられる側に「消耗」を伝えるほどだった。
彼女は何も言わない。ただ、その手の温度で「ここにいる」という事実だけを示していた。
ルカはその瞬間、胸の奥で説明のつかない衝撃に襲われた。
――なぜだ。
彼女の手は優しい。彼女の眼差しは静かだ。
それなのに、心臓は急に早鐘を打ち、呼吸は浅くなり、恐怖が全身を駆け巡る。
その恐怖は、彼女が「諦めている」ことを悟ったからだった。
彼女は未来を信じていない。彼の隣にいることを選びながらも、同時に「終わり」を受け入れている。
その矛盾が、ルカの胸を締め付け、理由のわからない焦りと恐怖へと変わっていった。
ルカは彼女の手を強く握り返すことができなかった。
強くすれば壊れてしまう。
弱くすれば離れてしまう。
その狭間で、ただ頬に添えられた手を受け止めるしかなかった。
「……アメリア」
声は震え、言葉は続かない。
彼女の諦めの眼差しが、彼の理性を崩し、男としての衝動を揺さぶる。
アメリアは沈黙のまま、彼の頬を包み続ける。
その沈黙は拒絶でも承認でもなく、ただ「耐える」ための沈黙。
だが、その沈黙こそが、彼にとって最も雄弁な告白だった。
◇
夜更け、薄い月光が室内の輪郭だけを残していた。
アメリアは痩せた指でカップの縁をなぞり、いつもの微笑の下に、決意の影を置いた。彼女は静かに息を整え、言葉を選ぶ気配を漂わせる。
「もうお父様もお兄様もあなたを認めてる。だからもう良いの。もう一族は十分繁栄した。そろそろ、手を引くべき時なの」
その声音は柔らかいのに、刃のようにまっすぐだった。許す言葉の形をしていながら、まるで彼を遠くへ送り出すための合図のように響いた。
ルカの胸に、説明のつかない焦りが立ち上がる。喉が急に乾いて、指先が無意味に震える。任務を遂行せよ――そう告げる声が、はるか後方から冷たい規律を思い出させるのに、目の前の彼女は、それを「やってもいい」と言っている。違和感が、皮膚の内側でざわめいた。
「それは、君が望んでいる結末なのか?」
声は低く、慎重で、しかし間に合わない叫びの端を滲ませる。
アメリアは微笑をたたえたまま、目を伏せる。赦しの形でしか言えない本音を、建前の包装紙に包んで差し出す。彼女の育ちがそうさせる――愛情も拒絶も、家のための言い回しに変換してしまう癖。その癖が、彼女自身を傷つけていることを、彼女はもう知っているのに。
「私の望みは、家の望みに吸い込まれてしまうの。だから、望まないまま、正しい形だけを残すの」
ルカはその一言の密度に息を呑み、焦りを深くしていく。正しい形――彼の任務の完了も、家の退き際も、彼女の犠牲を前提に成立する「正しさ」だ。
彼はテーブルの端に置いた自分の手を、半歩だけ動かす。触れたい。止めたい。けれど、触れれば壊してしまう距離を、二人はまだ守っている。焦りは、触れられない指先で形を失い、沈黙のなかへ落ちる。
「君は、僕に終わりを任せようとしている」
言ってから、その言葉の重さに自分でたじろぐ。任務の終わり、関係の終わり、家の終わり方――いずれにしても、彼女が自分を外へ押し出している事実が、刃物のように冷たい。
アメリアは首をわずかに振る。
「終わりじゃないの。『続けないという選択』も、続けるための形のひとつ。私は、誰かが私の代わりに、正しい手続きを踏むなら、それでいいの」
彼女の諦念は清潔すぎて、痛い。ルカはその清潔さのなかに、彼女が自分の感情を最後まで置き去りにする未来を見てしまう。焦りは恐怖に近づき、胸の内側で音を立てる。
「僕に任せないでくれ」
囁きは頼みではなく、制止だ。彼は密偵であり、任務の終わり方を知っている。だからこそ、彼女の心を置き去りにしたまま終わらせることの残酷さを、誰よりも痛感している。
沈黙が一拍長くなる。アメリアは視線だけで彼の顔を辿り、痩せた指をカップの縁から離す。言葉で自分を守ることに疲れていて、それでも言葉しか手段がない。
ルカの声は低く、しかし抑えきれない怒りが滲んでいた。
「君は僕がなんで君に近づいたのか分かってる。分かった上でそんなことを言うなんて……君は、立場を失ってもいいと言っているのと同じだ。君は、生きていられないかもしれない。それを、受け入れているのと同じだ」
その言葉は、彼自身の矛盾を暴露するような響きを持っていた。任務と衝動の狭間で揺れながらも、彼女の諦めを認めることはできない。怒りは彼女を責めるためではなく、彼女が自分を犠牲にしようとしている事実に対する痛みから生まれていた。
アメリアはその怒りを真正面から受け止めることなく、淡々とした声で返す。
「でも、本当のことでしょう。あなたがヴァルメーニュに雇われているのも、私たちを陥れようと近づいたのも」
その声音には感情の揺らぎがなかった。まるで事実を確認するだけのように、冷静に、静かに。彼女は怒りを煽るでもなく、涙を見せるでもなく、ただ「真実」を置いた。
ルカはその淡々とした告白に胸を抉られる。
――彼女は分かっている。
――分かった上で、なお自分を受け入れている。
「……君は、それでも僕を隣に置こうとするのか?」
声は震え、怒りと恐怖と焦燥が混じっていた。
アメリアの声は、夜の静けさに溶けるように淡く響いた。
「だって、あなたは私を地獄から救ってくれる騎士に見えた。たとえそれが敵陣の騎士であろうとも、私にはそれが光だったの」
その言葉は、彼女の境遇を「地獄」と呼ぶほどの重さを帯びていた。父や兄からの圧力、家の象徴として消耗される日々、笑うことさえ許されない育ち。彼女はそれを淡々と告げながら、ルカの存在を「光」として語った。
その事実が、ルカの心を鋭く突き刺した。任務として近づいたはずの彼女が、自分を「救いの騎士」と見ている。しかも、それが敵陣の騎士であろうとも構わないと。
彼は理由のわからない焦りと恐怖に襲われたあの時以上に、深い悲しみに囚われる。
「地獄、だと……」
声は震え、言葉は途切れる。彼女の境遇をそう例えざるを得なかったことが、彼にとって耐え難い痛みだった。
ルカは自分の立場を思い出す。
――ヴァルメーニュに雇われ、彼女の一族を陥れるために近づいた。
彼は怒りを滲ませながらも、悲しみに囚われていた。
「……君がそんな言葉を口にするなんて、僕は、どうしたらいい……」
声は震え、言葉は続かない。
夜の空気は澄み、窓の外で風が低く鳴った。アメリアは薄い声で、まっすぐに言葉を置いた。
「私はこの家で光を見たことがなかったの。だから、初めての温もりを手放すことができなかった。
それに、あなたは優しかった。私が生きてきた中で1番。でも、もういいの。
全てのことには潮時があるわ。ロシュフォールは、ただ潰れる番が来ただけ。あなたはそこに立ち会った勇者に過ぎない。歴史はいつも、どちらかが倒れるだけでできているの。
ほんの少し、ロマンチックに見えただけよ」
その口調は淡々としていて、涙よりも遠い場所から届いた。言葉のどれもが彼女自身を慰めるためではなく、終わりを整えるために選ばれているのが分かった。
ルカは息を飲み、すぐに言葉を返せなかった。喉の奥で熱が渦を巻き、掌に汗が滲む。
――潮時。
彼女は自分の物語を、自分の重さで終わらせようとしている。自分を中心にせず、家の背骨のように並び直して、静かに退く。彼はそれが「賢い終わり方」だと分かるほどに、この世界の冷たさを知っている。だからこそ、痛い。
「君は、物語の最後まで一人で持っていくつもりなのか」
低く問う声に、怒りはなく、ただ傷の輪郭が滲んだ。
アメリアは視線を落とし、痩せた指先で椅子の肘を軽く撫でる。
「温もりは、短くても温もりよ。長さは関係ないの」
彼女なりの救いの言い方だった。慰めを期待せず、記憶だけを整える。その上で、先へ進む。
「あなたが優しかったことは、終わりを変えないの。私が楽になっただけ」
ルカは、その「楽になっただけ」に、ひどく揺さぶられる。楽にする、だけ。救う、と言わない。生かす、と言わない。彼女は自分の生に関して、希望の動詞を選ばない。
「勇者じゃない」
ルカは首を振る。
「僕は雇われた男だ。君の物語の中に混ぜないでくれ」
言い切りながら、視線は逃げ場を失う。雇われた男が、勇気の位置へ押し出される矛盾――それが彼の焦りを焼く。
「任務を遂行することは、君の言う『当たり前』と同じにはならない。誰かの呼吸を踏み越えるのは、歴史の定義で済ませたくない」
アメリアは微笑を薄く保つ。
「定義で済ませるの。そうしないと、倒れた側は立ち直れないから」
その冷たさは残酷ではなく、知恵のように静かだった。
月光は細く、影は長い。
アメリアは静かに机に向かい、細くなった指で紙束を整え始めた。ペン先が走る音だけが部屋に響く。彼女の横顔は淡々としていて、まるで自分の運命を既に受け入れているかのようだった。
「それでも、あなたの飼い主には顔を立てないとね」
その言葉は柔らかい響きを持ちながらも、冷徹な現実を突きつけるものだった。彼女はルカの任務完了に都合のいい書類を用意し始めていた。家の財務状況、兄の署名を偽装できる文面、父の承認を模した印影――それらを整える手際は、まるで自分の存在を証拠として差し出すようなものだった。
「アメリア……やめろ」
声は震え、怒りと悲しみが混じっていた。だが、彼女は手を止めない。
「あなたが任務を果たせば、飼い主も満足するでしょう。私たちの一族はもう十分繁栄した。潮時なのよ」
淡々とした声が、彼の心を抉る。
アメリアの筆跡は整っていた。震えも迷いもなく、ただ「終わり」を形にするための文字が並んでいく。彼女は自分の存在を証拠として差し出すように、冷静に書類を整えていた。
その姿は、彼女が自分の未来を諦めていることを雄弁に語っていた。
――光を見つけたはずの彼女が、再び闇に身を委ねようとしている。
ルカはその姿に耐えられなかった。
「君は……自分を差し出してまで、僕を救おうとしているのか」
声は震え、言葉は途切れる。
アメリアは微笑を湛えたまま、淡々と答える。
「救うんじゃないわ。あなたが任務を遂行できるように、整えているだけ。何も特別なことじゃない」
ルカは机に並べられた書類を見て、強く首を振った。
「こんなものは受け取らない。君を犠牲にしてまで任務を果たすつもりはない」
声には怒りが滲み、彼女を守ろうとする衝動が露わになっていた。
しかしアメリアは静かに微笑み、淡々と告げる。
「どちらかが倒れなければならないの。それは、ロシュフォールに相応しい」
その言葉は冷徹な理屈ではなく、長い沈黙の果てに辿り着いた諦念の響きを持っていた。
ルカはその言葉に胸を抉られる。
「……一族共々死ぬ覚悟があるってことか」
声は低く、怒りと恐怖が混じっていた。彼女が自分の命だけでなく、一族の滅びをも受け入れていることが、彼の理性を揺さぶった。
アメリアはその怒りを真正面から受け止めることなく、静かに頷いた。
「そう。本当はお父様もお兄様も分かっているの。もう長くはないってね」
彼女の声は淡々としていた。
「血縁同士で圧力を掛け合うようになると、遅かれ早かれ潰れるのよ。今まで倒れた家はみんなそうだった」
その言葉は、彼女が自分の家の宿命を受け入れていることを雄弁に語っていた。
彼女は未来を拒むでもなく、希望を求めるでもなく、ただ「終わり」を整えるために言葉を選んでいた。
「君は……それでも僕を光だと言った」
声は震え、言葉は途切れる。
アメリアは、これまで見せたことのない笑みを浮かべた。
それは儚く、けれど確かに温度を持つ笑みだった。
「ええ。確かに。あなたは、私の最初で最後の一筋の光。いい夢だったわ」
その言葉は、彼女の人生の中で唯一の救いを認める告白でありながら、同時に終わりを受け入れる宣言でもあった。
ルカはその笑みに息を呑む。胸の奥で痛みが広がり、理由のわからない恐怖が再び押し寄せる。彼女が「夢だった」と過去形で語ることが、彼にとって耐え難い刃となった。
アメリアは微笑を保ったまま、淡々と続ける。
「さあ早く。あなたの飼い主にとっておきの餌をあげないとね。玄関に馬車をつけてあるから。いい子で帰るのよ。じゃあね」
その声音は優しさを装いながらも、突き放すように冷静だった。彼女は自分を差し出すことで、ルカの任務を完遂させようとしていた。まるで自分の存在を「餌」と呼ぶように。
ルカの声は震えていた。怒りでも冷静さでもなく、必死さが滲んでいた。
「嫌だ、君は死ぬつもりなんだろ。いつもは『またね』と言うじゃないか。でも今は『じゃあね』と言った。共存が無理なら、君だけでも僕と一緒に来るんだ。君だって僕の気持ちを知ってるはずだ。僕は雇われてるだけだ。ヴァルメーニュの人間じゃない。野良なんだよ、だからお願いだよ、僕と一緒に来て」
その言葉は、任務の仮面を剥ぎ取った男の心そのものだった。彼は自分の立場を投げ捨て、ただ彼女を救いたいと懇願していた。
アメリアはその声を聞きながら、微笑を湛えたまま沈黙していた。
ルカはその沈黙に耐えられなかった。
「君は……僕の気持ちを知っているんだろう。頼むよ、僕と一緒に来て」
声は震え、言葉は途切れる。怒りと悲しみが混じり、胸を抉る。
窓の外で風が細く鳴り、灯りは一本の線のように長く伸びていた。アメリアは、ルカの言葉を飲み込むように目を閉じ、次の瞬間、苦しそうに顔を歪めた。いつもの微笑では覆えない痛みが、ほんの一瞬、表面に露出する。
「ダメよ、今綻びを出したら必ず誰かが嗅ぎつけてくる。これも運命なのよ、もう私のことは忘れて。きっと素敵な人がいるわ。ね、お願いよ」
声は低く、震えず、決意の重さだけが落ちた。綻び――その言葉は、二人の間にある温もりさえ「危険物」として扱わねばならない現実を突きつける。
ルカは一歩踏み出しかけて、足を止める。近づけば壊す。離れれば失う。彼の両手は宙に浮き、どこにも置けないまま震えを覚える。息が浅くなり、言葉が喉に引っかかる。
「運命なんて、君がひとりで背負うものじゃないだろう」
言い切れない。彼女がその瞬間に見せた「歪み」が、真っ直ぐに彼を縫い止める。彼女は理屈ではなく経験で知っている――綻びは必ず嗅ぎつけられる。それは警鐘ではなく、既に何度も見てきた結末の記憶だ。
「忘れて」――その音の優しさは、残酷だ。忘れることを命じられるほどの温度を、彼女は彼の中に残してしまったから。アメリアは目を逸らさず、微笑を薄く整えて続ける。
「あなたには未来があるの。私を連れて行く未来じゃなくても、温かい誰かと並ぶ未来が。私の役目は、あなたの未来を壊さないこと」
役目、と彼女は言った。愛ではなく、保護ではなく。役目。彼女自身の生き方に刻まれた硬い言葉が、彼女の柔らかさを包んでしまう。
ルカは息を吸い、吐き、声を低く落とす。
「忘れることが君への侮辱になる世界で、どうやって忘れろと言うんだ」
問いは刃ではなく、祈りに近い。アメリアは短く目を閉じ、言葉を足す。
「侮辱じゃないわ。生きるための手続き」
彼女は痛みを語らない。語れば崩れるから。代わりに、手続きという冷たい語を自分に塗る。綻びを出さないための、最後の鎧。
沈黙が落ちる。長いが、見捨てるためではない長さ。アメリアは椅子から立つと、玄関の方角へ視線だけを向ける。馬車が待つ音はしないのに、待っている気配だけが室内の空気を細くする。
「ね、お願いよ」
彼女は命じない。頼む。頼むしかない。自分の重さを彼の腕に置かないために。
ルカは頷けないまま、視線を落とす。頷かないことが、彼の唯一の抵抗に見えてしまうほどに、彼女は整っている。整いすぎて、痛い。
最後に、アメリアはほんの微細な揺らぎで笑う。綻びではない。揺らぎ。
「あなたが野良だというなら、野良の未来へ戻って。鎖のない場所へ」
それは追い出しではなく、逃がす言葉だった。ルカは口を開き、閉じ、短い息で返す。
「鎖を君から外したかっただけなんだ」
その一行は、約束にも救いにもならない。けれど、嘘ではない。
アメリアは首を横に小さく振る。
「外せない鎖を、最後まで見届けるのも、生の一部よ」
風がもう一度鳴る。彼女の目はまっすぐで、涙はない。泣けない育ちが、彼女の強さに見える刹那。玄関の方向へ、見えない道筋が伸びている。綻びは作らない。愛も叫ばない。ただ、彼を生かすために、彼女は自分の物語を留めた。
「ね、お願い」
その優しさの重さが、別れの合図になった。
静まり返った屋敷の廊下に、遠くから微かな足音が響いた。規則正しく、重く、近づいてくる気配。アメリアはその音に敏感に反応し、顔をわずかに強張らせた。彼女の瞳に浮かんだのは恐怖ではなく、決意の影だった。
「……行って」
声は低く、急かすように震えていた。
ルカはその声に戸惑い、足を止める。だが次の瞬間、アメリアの細くなった手が彼の背に触れ、強く押した。
その手は弱々しいはずなのに、彼を前へ進ませる力を持っていた。背中に伝わる温度は、拒絶ではなく必死の願いだった。
「早く。今は立ち止まってはいけないの」
アメリアは微笑を湛えながらも、声の端に焦燥を滲ませていた。
ルカは振り返ろうとしたが、彼女の瞳がそれを許さなかった。
――綻びを見せれば、必ず嗅ぎつけられる。
その言葉が彼女の顔に刻まれていた。
足音は次第に近づき、廊下の奥で響きを強める。誰かが確かにこちらへ向かっている。アメリアはその音を聞きながら、さらに強くルカの背を押した。
「玄関に馬車をつけてあるから。いい子で帰るのよ」
その言葉は優しさを装いながらも、突き放す冷徹さを含んでいた。彼女は自分を犠牲にしてでも、彼を外へ送り出そうとしていた。
ルカはその背を押す力に抗えなかった。
「アメリア……!」
声は震え、言葉は途切れる。怒りと悲しみが混じり、胸を抉る。
玄関の扉が近づく。足音は背後で響き続ける。アメリアは急かすように彼の背を押し、家から出す。
夜の空気は張り詰め、ルカが家の外で立ち止まった瞬間、背後から重い気配が迫ってきた。振り返ろうとしたその刹那、廊下の奥から伸びる影が地面を覆い、アメリアの兄の存在を告げていた。影は長く、冷たく、まるで彼女の決意を試すかのようにルカの足元へと伸びていく。
ルカの胸に恐怖と焦燥が走る。――彼女を置いていけない。振り返れば、彼女の姿をもう一度確かめられるはずだ。だが、その瞬間、アメリアがこれまでにない力で彼の背を押した。
細くなったはずの手が、驚くほど強く彼を前へと突き動かす。
「行って!」
その声は震えず、鋭く、切り裂くように夜へ響いた。
ルカは抵抗しようとした。だが、彼女の手は必死に彼を押し続け、振り返る余地を与えなかった。背中に伝わる温度は、拒絶ではなく、命を守るための必死の願いだった。
玄関の外に待つ馬車の影が、彼を飲み込むように近づいていた。アメリアはその背を押し、無理やり乗せる。彼女の顔は苦しげで、しかし決意に満ちていた。
「早く……もう時間がないの」
その声は冷静さを装いながらも、焦燥と悲しみが滲んでいた。
ルカは振り返ろうと必死に足を踏ん張るが、アメリアの力はそれを許さない。彼女は自分の存在を犠牲にしてでも、彼を外へ送り出そうとしていた。
背後で兄の影がさらに伸び、家の中から重い足音が響く。アメリアはその音を聞きながら、最後の力でルカを馬車へ押し込んだ。
「お願い……もう行って」
その声は祈りにも似ていた。
ルカは馬車の中で息を荒げ、胸を抉られるような痛みに囚われる。彼女の手の温度がまだ背に残っている。振り返れば彼女がいるはずなのに、影がそれを許さない。
馬車の扉が閉じられる。外の空気が遮断され、ルカはただ沈黙の中で彼女の声を思い返すしかなかった。
夜風が窓枠を撫で、馬車は一定のリズムで揺れ続けた。ルカは座席の端を握りしめ、指先が白くなるまで力を込める。視界の隅に、玄関先で彼の背を押したアメリアの手の輪郭が、何度も何度も立ち上がる。あの瞬間、彼は振り返れなかった。振り返れば、影が彼女を覆うのを見てしまう気がしたから――逃げたのではない、そう言い訳を並べても、胸の内側に広がる鈍い痛みは、何も擁護してくれない。
彼女の「お願い」が耳に残る。祈りに似た拒絶。あれは彼のための言葉だったはずなのに、彼の内側では、彼女を置いてきた合図として鳴り続ける。揺れのたびに、心が浅い水面のように軋み、彼は自分の呼吸を数えては、数え損ねる。
ヴァルメーニュ家の当主の前で、ルカは整えられた書類を差し出す。紙の匂い、蝋の印、乾いた布の擦れる音――すべてが任務の段取り通りに進む。手は震えない。声も淀まない。訓練された仕草で、報告は完璧に結ばれる。
「見事だ」当主の口角が上がり、満足のしるしが部屋に落ちる。重厚な机の向こうで喜色が広がる。だが、その「見事」の中身は、彼女の筆跡だった。アメリアの整った文字、彼のために用意された文言――それを「成果」と呼ぶ瞬間、彼の内側で何かが静かに崩れる。
喜びの言葉が続く間、ルカの視線は机の端に置かれた封筒の影を追い、思考は玄関の影へ戻る。彼女の兄の足音、伸びた影、押し込まれる背中。任務完遂の印が重ねられるほど、彼は彼女から遠ざかる。距離ではない。言葉の重さの分だけ離れていく。拍手にも似た満足の気配が室内に満ちるたびに、彼の胸の中の空洞は、静かに、確実に広がる。
「以上です」言えば終わる。終わりが形になる。だが、その形には彼女の呼吸が含まれていない。
扉が閉まる音が、やけに大きい。灯りを落としても寝台は冷たく、外套を椅子に掛けても重さだけが残る。彼は床に座り込み、額を膝に乗せる。騎士ではない。野良だ、と言った自分の言葉が、今はただ虚ろに響く。鎖は彼の手首ではなく、胸の内側に絡みついている。
自室の静けさは救いにならない。静けさは、彼女の沈黙をそっくりそのまま連れてくるから。彼女が「綻びを出さない」と言った意味を、彼は今さらのように理解する。綻びとは、温もりのことだ。温もりは嗅ぎつけられる。だから、彼女は彼を押した。彼を生かすために、自分の物語を留めた。
彼は拳を開く。指の間に何もない。爪の下に紙の感触だけが残っている。それは成果ではない。彼女の残滓だ。任務の段取りの中で、彼女が自分を削って作った道筋の痕跡。彼はその薄さに耐えられず、目を閉じる。
「置いてきた」という事実は短い。短いのに、終わらない。
それでも、まだ「終わった」とは言えない余白だけが、胸のどこかで静かに疼いていた。




