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静寂の中で堕ちていく

舞踏会から幾日も経たぬうちに、私は再び彼らの名を耳にした。

――カントリーハウスで催される親密な集まり。

華やかな宮廷の場とは異なり、限られた者だけが招かれる、家の内奥に触れることのできる場。


その招待状が私の手に届いた時、胸の奥で理性と抑えきれぬ衝動が交錯した。

任務としては、これ以上ない好機だ。

父の信用をさらに買い、ロシュフォール家の秘密へと近づくことができる。

だが同時に、アメリアの孤独に触れることになる。


父は舞踏会での私の振る舞いを高く評価していた。

「ヴァレンティン卿、娘を退屈させぬばかりか、礼儀をも保ち、家の名を損なわなかった。……卿のような者なら、我が家の客人として迎えるに値する」

その言葉は、称賛であると同時に試練でもあった。

彼は私を値踏みし、娘の相手として考え始めている。

その信用を得ることは、任務の成功を意味する。


私は仮面を崩さず、深く一礼した。

「過分なお言葉、恐れ入ります。ご期待に沿えるよう、誠心誠意努めてまいります」

声は整えられていた。だが、胸の奥では熱が滲んでいた。


カントリーハウスパーティーの夜。

広大な庭園に灯火が揺れ、都会の喧騒から離れた空気が漂う。

招かれた客人は限られ、親密な会話が交わされる。

その場に立つアメリアは、どこか緊張を解かれたように見えた。

彼女の横顔は儚く、少しでも触れれば壊れてしまいそうな美しさを帯びていた。


私は父の視線を意識しながら、彼女に近づく。

「このような静かな場でお嬢様とご一緒できること、光栄に存じます」

形式的な言葉を選びながらも、心の奥では彼女に触れたい衝動が膨らんでいた。


父は満足げに頷き、他の客人へと視線を移す。

その瞬間、私は彼女の瞳に揺らぎを見た。

冷たい微笑の奥に潜む本心――それは、私の心を鋭く抉る。


――任務は万事上々。

父の信用を得て、家の奥へと招かれた。


私は諜報員として彼女の隣に歩み寄る。

「お嬢様、都会の喧騒とは違い、ここは静けさが心を和ませますね」

形式的な言葉を選びながらも、声の奥に柔らかさを含ませる。


アメリアはグラスを指先で弄び、しばらく沈黙を保った。

やがて、ほんの少しだけ唇を開く。

「……私は、こうした場があまり得意ではありませんの」

その声は小さく、風に紛れてしまいそうだった。


私は息を潜める。

彼女が初めて、自分のことを語った――それはほんの一言にすぎない。だが、その一言の重みは計り知れなかった。


「得意ではない、と……」

私は問い返すふりをしながら、彼女の沈黙を尊重する。

アメリアは視線を逸らし、庭の奥を見つめる。

「人々の視線に囲まれると、息が詰まるように感じます。……父は誇らしげに私を連れ歩きますけれど、私はただ、役割を果たしているだけ」


その言葉は、氷の奥から漏れ出た痛みだった。

私は胸の奥で鋭い痛みを覚える。

――任務としては、彼女の心を揺さぶる絶好の機会。

だが、心の奥では彼女の核心に触れてしまった事実ばかりが膨らんでいた。


「お嬢様のお気持ち、少しだけ理解できるような気がいたします」

私は声を柔らかくする。

「人々の期待に応えるために微笑みを浮かべることは、時に重荷となるものです」


アメリアはグラスの縁を指でなぞる。

「……けれど、それが私の務めですから」

その言葉は冷たく響いたが、奥にある孤独は隠しきれなかった。



広大なカントリーハウスの夜、客人たちの談笑が柔らかく響く中で、ロシュフォール家の当主はゆっくりと歩みを進め、私の傍らに立つアメリアへと視線を投げた。

その眼差しは冷徹でありながらも、どこか満足げな光を帯びていた。


「ヴァレンティン卿」

低い声が響く。

「娘の相手として、卿ほど相応しい者はそう多くはあるまい。……礼儀も、教養も、気性も備えている。娘も退屈せぬようだ」


その言葉は、まるで公然の承認のようだった。

周囲の客人たちも、わずかに視線を交わし、父の言葉を聞き取っている。

その場の空気が変わる――ルカは、父の言葉によって「相手」として扱われ始めたのだ。


私は深く一礼する。

「過分なお言葉、恐れ入ります」

声は整えられていた。だが、胸の奥では鋭い痛みが広がっていた。


その瞬間、アメリアの瞳が揺れる。

言葉を返すことなく、ただ視線を逸らす。


彼女の瞳は、父の影から逃れるように遠くの灯火へと向けられる。

グラスの縁に指先を添え、わずかに震える。

ただ、痛みを抱えたまま耐える姿だった。


私はそれを見逃さなかった。

――彼女は声を発さない。


任務としては、これ以上ない好機だ。

父の信用を得て、娘の相手として扱われる。

それは諜報員としての成功を意味する。


客人たちの笑い声が遠くに響き、庭園の灯火が揺れていた。私は密偵として振る舞うはずだった。――だが、その視線の先に立つアメリアの姿が、理性を揺さぶり続けていた。


やがて、彼女が人々の輪から離れ、静かなテラスに佇む。

月明かりに照らされたその姿は、孤独そのものだった。


「……お嬢様」

声は低く、柔らかく。

「お嬢様の微笑は、宮廷の華やかさよりも美しい。けれど、その奥にある翳りを、私は見てしまった」

声は震えていた。


アメリアは沈黙のまま、グラスの縁を指でなぞる。

彼女は拒絶しない。だが、受け入れるわけでもない。


任務としては、これは失敗だ。

冷徹さを失い、感情に囚われてしまった。


アメリアは沈黙したまま、グラスを置き、ゆっくりとルカの方へと視線を向ける。

その瞳には理解が宿っていた。――これは一族を陥れるための嘘の優しさ。彼がスパイであることも、仮面を被っていることも、すべて分かっている。

それでも、彼女はその一抹の優しさに縋るように、わずかな仕草で彼を求めた。


言葉はない。

ただ彼女はルカの手を取る。

その指先は冷たく、しかし震えていた。

そして、ゆっくりと自らの腰へと導き、その手を回させる。


ルカの胸の奥で鋭い痛みが走る。

――これは任務ではない。

冷徹を保つはずだったのに、彼女の沈黙と仕草が仮面を剥ぎ取っていく。


アメリアは微笑を崩さない。

だが、その奥に潜む苦悩は、彼にだけ見えていた。

彼女は知っている。彼が敵であることを。

それでも、拒まない。偽物の優しさを受け入れてしまう。


ルカは息を潜め、彼女の腰に添えた手を震わせる。

「……お嬢様」

声は低く、理性を保とうとする。だが、その奥には抗えぬ衝動が滲んでいた。


テラスに漂う月明かりの静けさの中で、アメリアはなおも静寂を破らなかった。

彼女の指先はまだわずかに震えていたが、やがてその手をそっと離し、グラスを置くような仕草で距離を作った。


言葉は一切なく、ただ視線を逸らす。

その瞳は遠くの灯火を見つめ、まるでそこに逃げ場を探すかのようだった。

そして、静かな呼吸のあと、彼女はドレスの裾を揺らしながら人混みへと歩み去っていく。

背筋を伸ばし、令嬢としての仮面を再び纏い直しながら。


私はただ立ち尽くし、彼女の背を見送る。

人々の輪の中へと消えていくその姿は、光に溶けていくように儚かった。

それは私にとって、最も痛ましく、最も美しい光景だった。


広間のざわめきは、まるで波のように押し寄せては引いていく。

私はただその中に立ち尽くしていた。――アメリアの背を追いかけようとしたはずなのに、気づけば人混みの渦に呑まれ、彼女の姿を見失っていた。


ドレスの裾が揺れる白い影を探す。

しかし、煌めく灯火に照らされた人々の輪の中で、彼女はもうどこにも見えない。

笑い声、談笑、グラスの触れ合う音。

そのすべてが私を遠ざけ、彼女を覆い隠してしまう。


白い裾が揺れる影を追うたびに、別の令嬢の背中に行き当たり、振り返ればもう見失っている。人々の輪は彼を拒むように密集し、彼女の痕跡を覆い隠してしまう。

「どこだ」

声にならぬ囁きが喉の奥で途切れる。


やがて、広間の喧騒を抜け出し、夜の庭園へと足を運ぶ。

そこには月明かりと風の音だけがあった。

人混みの中で探し続けても見つからなかった彼女の姿は、静けさの中でもなお影のように残り続ける。



夜更けのロシュフォール家のゲストルーム。

広間の喧騒がすっかり消え、屋敷全体が静けさに沈んでいた。窓の外には月明かりが差し込み、重厚なカーテンの隙間から淡い光が机の上に落ちている。


ルカは机に向かい、羽根ペンを手に取った。インク壺の黒が夜の深さを映すように濃く、紙の白は冷たい光を受けて淡く輝いていた。


手紙の冒頭には、定められた符牒の挨拶が記される。

「閣下へ。任務は順調に進んでおります」

その筆致は迷いなく、冷徹な報告の形式を守っていた。


しかし、文字を重ねるたびに胸の奥で痛みが広がる。

「ロシュフォール家当主は私を信頼し始め、娘アメリアを相手として扱う素振りを見せております。家の内奥に入り込む機会は近いと存じます」

冷静な報告のはずなのに、彼女の余韻が脳裏に蘇る。


ルカは再び筆を走らせる。

「任務は万事上々。障害はございません。今後も慎重に進め、閣下のご期待に沿う所存です」

形式的な言葉を並べる。だが、その裏に潜む矛盾は隠しきれない。


最後に署名を記し、封蝋を落とす。

赤い蝋が固まる瞬間、彼は深く息を吐いた。

――これは任務の報告書。諜報活動としての証。



朝の食堂には、銀器の澄んだ音と控えめな談笑が漂っていた。

だが、ルカの視線は一人の不在に釘付けになっていた。――アメリアの姿が見えない。

彼女の席は整えられているのに、そこに座るべき令嬢は現れなかった。


ルカは仮面を整え、客人としての礼儀を保ちながら、ロシュフォール家の当主に声をかける。

「……お嬢様は、今朝はお見えにならないようですが」


当主はグラスを置き、淡々と答える。

「体調が優れぬらしい。昨夜から少し熱があるようだ。……卿、もしよければ様子を見てやってほしい。娘も卿には心を許しているようだしな」


その言葉は、ルカの胸に二重の衝撃を与えた。

――スパイとしては絶好の機会。

父の信頼を得て、娘の部屋へ足を踏み入れることができる。家の奥へと近づく好機。

だが同時に、彼女に触れた記憶が蘇り、心配の念が胸を締め付ける。


「承知いたしました。……お嬢様の様子を拝見してまいります」

声が揺らぐことはなかった。だが、その奥には抑えきれぬ熱が滲んでいた。


食堂を後にし、廊下を進む。

重厚な絨毯の上を歩くたびに、心の奥で矛盾が膨らんでいく。

――これは任務だ。彼女の弱さを利用する。

だが、昨夜の余韻が胸を抉り、ただ彼女を案じる心が疼いていた。


扉の前に立ち、深く息を吸う。

ノックをする手は欺瞞に満ちた密偵そのもの。

だが、その手は震えていた。


扉を静かに開けると、そこには沈黙の空気が満ちていた。

朝の光が厚いカーテンの隙間から差し込み、柔らかな筋となって床に落ちている。その光の中で、アメリアはベッドの端に腰掛け、静かに一冊の本を手にしていた。


彼女の指先は細く白く、ページをめくる動作は驚くほど緩やかだった。まるで文字を追うことよりも、紙の感触そのものに心を寄せているかのように。

顔色はまだ優れず、頬には淡い影が落ちている。それでも、彼女は令嬢としての静かな微笑を保っていた。


私は一歩踏み出し、声をかけるべきか迷った。


アメリアは視線を上げない。

ただ本のページに目を落とし、ただ時を過ごしている。


「お嬢様、体調が優れぬと伺いました。……少しでもお力になれることがあれば」

声は柔らかく、だが意図を隠していた。


アメリアは視線を逸らす。

本を閉じる仕草は淡々としている。だが、その沈黙は「何もない」のではなく「言えない」の色をしていた。


ルカはさらに言葉を重ねる。

「お嬢様は、家の誇りでございます。……ですが、無理をなさらぬように」

任務としては、彼女を「弱さを抱えた令嬢」として描き出し、利用するための言葉。


アメリアは沈黙のまま、わずかに視線を上げる。


――これは利用だ。任務のための言葉だ。

だが、彼女の視線に触れるたび、感情が抑えきれずに滲み出てしまう。


「……どうか、ご自身を大切になさってください」

その一言は、本心から零れ落ちたものだった。


部屋は静まり返っていた。

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、埃の粒が金色に舞っていた。アメリアはベッドの端に腰掛け、閉じた本を膝に置いたまま静寂を保っていた。彼女の横顔は儚く、微笑を崩さぬまま、しかしその奥に苦悩を隠しきれない。


ルカは一歩踏み出し、平静を必死に保とうとした。

――これは任務だ。彼女の弱さを利用し、心を揺さぶり、家の奥へと近づく。

そう言い聞かせる。だが、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。昨夜の沈黙、視線の余韻、そして今目の前にある孤独な姿。


「……お嬢様」

声は低く、柔らかく。本来の意図を隠しながらも、熱が滲んでしまう。

アメリアは視線を逸らし、ただひっそりと彼の言葉を受け止めていた。


その仕草のひとつひとつが、ルカの本能に働きかける。

言葉を持たないその態度こそ、彼女の唯一の告白であり、彼を破滅へと導く囁きでもあった。


気づけば、ルカは距離を詰めていた。

仮面は剥がれ落ち、男としての衝動が支配する。

「……お許しください」


そして彼は感情を制御しきれずにアメリアへと身を寄せ、唇を重ねた。


アメリアはその行為を拒まなかった。

「まだ、このままでいて」

それだけ言って、彼女はゆっくりと目を閉じた。



昼の光が高く昇り、カントリーハウス全体が静けさに包まれていた。

しかし、その一室だけは異様な空気を保ち続けていた。――アメリアの部屋。朝食の席を欠席したまま、昼を過ぎても彼女は姿を見せない。ルカもまた、そこから出てこなかった。


廊下を歩く使用人たちは、次第に不安を募らせていた。令嬢が病を理由に部屋に籠ることは珍しくない。だが、昼を過ぎても音沙汰がないのは異例だった。控えめな忠誠心と心配が入り混じり、ついに一人の使用人が扉の前に立つ。


扉の前で小さくノックが響く。

「お嬢様……体調はいかがでしょうか。……お食事をお持ちいたしました」

声は柔らかく、しかし緊張を帯びていた。


部屋の中では、ルカとアメリアが互いを求め合った余韻に囚われていた。

言葉はなく、ただ呼吸と視線が交錯する。


ノックは再び響く。

「お嬢様……失礼いたします。扉を開けてもよろしいでしょうか」


昼下がりの静けさの中、アメリアの部屋の前には使用人が控えめに立ち尽くしていた。ノックの音が二度、三度と響き、返答を待つ沈黙が続く。やがて、内側から微かな気配が動いた。


ドアがほんの少しだけ開く。そこに現れたのはルカの姿だった。彼は熱った頬を隠すように、無意識に髪をかきあげる。その仕草は体裁を保とうとするものの、余韻を覆い隠すための防御でもあった。


扉の隙間から覗く彼の瞳は、冷静さを装いながらも揺らぎを帯びていた。

「お嬢様はまだ万全ではないようだ。私がついていますから、ご心配なく」

低く抑えた声が響く。形式的な言葉のはずなのに、そこには抑えきれない熱が滲んでいた。


使用人は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに深く頭を下げる。

「かしこまりました。……お食事は後ほど改めてお持ちいたします」

その声には、令嬢の体調を案じる忠誠心と、部屋に留まるルカへの微かな違和が混じっていた。


扉は再び閉じられる。重厚な木の音が廊下に響き、静けさが戻る。


昼下がりの光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中は柔らかな陰影に包まれていた。

アメリアはベッドの端に腰掛け、閉じた本を膝に置いたまま、静かにうつむいている。ルカは扉を閉め、その木肌に背を預けた。二人の間には言葉もなく、交わるのは呼吸の気配だけだった。


――いけないことだ。

互いに、それだけは分かっていた。彼女は敵を知っている。彼は密偵としての仮面を被っている。

それでも、滲み出る痛みが、二人を否応なく惹き寄せてしまう。


アメリアの沈黙は拒絶ではなく、微かな揺らぎを孕んでいる。

ルカは理性を保とうとするが、胸の奥で熱が膨らみ、感情が抑えきれずに滲み出す。


彼女の指先が本の表紙を撫でる。

それは淡々としているが、わずかな震えが見えた。


ルカは一歩近づく。

瞳の奥には抑えきれぬ熱が宿っていた。

「お嬢様」

声は低く、理性を装っていたが、隠しきれない感情が滲んでいた。


「何を読まれているのですか」

低く抑えた声が、静けさを震わせる。


アメリアは蚊の鳴くような声で、かすかに言葉を漏らした。

「……いけません」


その声は震えを帯びていた。令嬢としての冷静さを保とうとする必死の抵抗。しかし、その小さな声は、彼女自身の揺らぎを隠しきれない告白でもあった。


「無理な話だ」

低く、抑えきれぬ熱を帯びた声が彼の唇から零れる。


その言葉と同時に、ルカはさらに距離を詰めた。

彼女の肩に影を落とし、互いの呼吸が絡み合う。


彼女の指先が本の表紙を強く握る。

拒絶の意思を示すはずの仕草が、震えを帯びてしまう。


その瞬間、ルカはゆっくりと手を伸ばした。理性は「触れてはならない」と鈍く告げていたが、抑えが効くはずもなく彼女の手の上にそっと自分の手を重ねてしまう。


二人の指先が触れ合う。

アメリアは驚いたようにわずかに肩を震わせ、すぐに視線を逸らす。ただ、耐えるように呼吸を整えていた。


ルカの指先は控えめに動き、彼女の指に絡む。強く握るのではなく、逃げ道を残すような優しさで。


沈黙の中で、二人の呼吸が重なり合う。

視線は交わらない。アメリアは必死に逸らし、ルカはその横顔を見つめ続ける。

だが、重ねられた手と絡んだ指が、言葉以上に雄弁に二人の矛盾を語っていた。


ルカはゆっくりと近づき、彼女の頬へ手を寄せた。指先が触れるか触れないかの距離で止まる。


「僕を見て」

低く、抑えきれぬ熱を帯びた声が静けさを震わせる。


アメリアは一瞬、呼吸を止めた。

視線を逸らそうとする。だが、頬に寄せられた手がその動きを遮る。

彼の瞳は真っ直ぐで、仮面を剥ぎ取ったように熱を宿していた。

その瞳に捕らえられれば、彼女の必死の防壁は崩れてしまう。


「……本気なの」

蚊の鳴くような声で、彼女はかすかに囁く。

ただ零れ落ちたような問いだった。


ルカは答えなかった代わりに、指先で彼女の頬をそっと撫でた。



昼下がりの部屋は、重たい静けさに包まれていた。

アメリアは膝に置いた本を閉じたまま、令嬢としての仮面を崩さぬよう必死に冷静を保っていたが、その胸の奥では、抑えきれぬ揺らぎが広がっていた。


――このままでは、私は家のお飾りとして消耗されるだけ。

父の意向に従い、形式的な婚姻や社交の場で笑みを浮かべ、心を削られていく。

誰にも本当の自分を見せられず、ただ「令嬢」として消えていく。


その未来を思うと、胸が締め付けられる。

そして目の前にいる男――ルカ=ヴァレンティン。

彼はスパイであり、嘘の優しさを纏っている。騙されてはいけない。

それでも、彼の瞳の熱、頬に寄せられた手の温もりは、凍った感情を溶かすように甘美で、抗えない。


――もし、このまま家のお飾りとして消耗されるだけなら。

――せめて、この男に溺れてしまいたい。


指先に絡む温もり、頬に寄せられた手、呼吸の重なり。

そのすべてが、彼女の冷静さを崩し、誘惑へと引きずり込んでいく。



ルカは彼女の指の震え、頬に残る冷たい影、呼吸の浅さを見つめる。


「……僕に任せて。君に悪いようにはしない」

囁きは、扉の隙間から漏れる風のように、静かで、しかし抗えない熱を孕んでいた。


アメリアの肩がわずかに揺れる。

彼の手は強くは触れない。逃げ道を残す位置で、ただ温度を供え続ける。

その優しさは計算のはずなのに、計算で生まれたものではない温かさを帯びていた。

アメリアは視線を合わせようとせず、しかし完全には背けない。


「君に全て合わせるよ」

ルカの声は低く、硬質な約束ではなく、壊れ物に触れる時の誓いのようだ。

「僕は、君を悪い形に使わない。絶対にだ。約束する」


その言葉は、彼自身の矛盾を焼き付ける刻印だった。

一人の男と諜報員が同時に存在しうるはずがないのに、彼は両方を抱えたまま前へ進もうとしている。


アメリアは蚊の鳴くような声で、喉の奥に言葉を探す。

「……やくそく」

それ以上は言えない。

その一語を落とすことで、彼の囁きに触れた事実だけが空気に残る。


ルカは、絡めた指をさらに固くはしない。

ただ、彼女の指先が逃げるなら離す、と伝える力加減で、そっと支える。

「そうだ。約束。」

その言葉は、密偵としては致命的な躊躇いであり、男としては唯一の真実だった。


静寂が戻る。

だが、さっきまでと違うのは、それがひどく柔らかいことだ。

重ねた手の温度、頬へ寄る距離、囁かれた約束――それらが、薄く柔らかな膜のように二人を包み込み、壊れやすい安心を作っていた。


ルカはアメリアの顔を見据え、指先の温度が伝わるほどの距離で息を潜める。声は低く、しかし確信に満ちていた。

「君、家の中であまり良い思いをしていないだろう?」


その一言は矢のように静寂を貫いた。言葉は既に彼女の胸の奥に刺さっていた。彼は図星を突くことで、盾を崩し、そこにある痛みを露わにしようとしたのだ。


ルカの瞳には責めも同情も混ざらない。ただ事実を読み取る探求者の冷たさがある。だがその冷たさの縁には、守りたいという緩い温度が滲んでいた。

アメリアは視線をそらし、本の背をぎゅっと握る。声は出さない。唇の震えだけが、内側で燃える疲労と抵抗を告げていた。


「誰かに見せるために笑ってばかりいるのだろう」

彼の声はさらに低く、部屋の空気が振動するほどの優しさを帯びる。そこには非難も同情も混ざらない。事実を指摘する者の淡々とした優しさだ。だがその指摘は、彼女の内側にある裂け目を深く覗き込む。


アメリアの肩が小さく震える。言葉で抗うことができない疲労が、胸を押し潰しかける。頭の中では「騙されてはいけない」という警告が叫ぶが、身体は別の声音に反応していた。誰にも見せられない顔を、ただ一度でいいから誰かの前で崩してしまいたいという欲求が、静かに、しかし確かに立ち上る。


ルカは静かに指を彼女の顎に添え、強制することなく視線を引き寄せる。声は囁きになり、言葉の端に約束を載せた。

「僕は、君の仮面を壊すためにここにいるわけじゃない。君を消耗させるものから離れる手伝いがしたいだけだ」


その瞬間、アメリアの中の防御はひび割れる。怒りでも裏切りでもなく、長年の疲労が溶け出すように涙が薄く滲んだ。彼女は口を結び、言葉を探す代わりに小さく首を縦に振る。騙されないための理知が、優しさの実態を確かめるために一歩だけ許しを与えたのだ。


アメリアは必死に冷静を装っていたが、その胸の奥では揺らぎが広がり、ついに耐えきれずに一筋の涙が頬を伝って落ちていった。


ルカはその涙を見た瞬間、胸の奥でなにかが崩れた。密偵としては利用すべき弱さ。だが本心は、ただ守りたい衝動に突き動かされる。彼はゆっくりと手を伸ばし、指先でその涙を拭った。


「泣かないで」

囁きは低く、抑えきれぬ熱を帯びていた。


アメリアは視線を逸らす。だが、頬に触れる指先の温もりに、気丈さは薄くひび割れていく。涙を拭われるその仕草は、彼女にとって甘美であり、同時に危うい誘惑だった。


ルカの指先は強くは触れない。逃げ道を残すように、ただ優しく涙を拭う。

それこそが、彼の本気を雄弁に語っていた。

――利用ではなく、守りたい。

――任務ではなく、衝動。

密偵としてならば「利用すべき弱さ」として処理すべき瞬間だった。だが、彼の胸に走ったのは計算ではなく、鋭い痛みだった。


涙を拭われたアメリアは、視線を逸らそうとした。だが、次の瞬間、彼女は耐えきれずにその瞳をルカへと向けてしまう。ただ、泣き顔のまま視線を合わせてしまった。

その瞳には、令嬢としての仮面を崩さぬ強さと、孤独に押し潰されそうな弱さが同居していた。


ルカはその泣き顔に心を揺さぶられる。

彼女の涙は「弱さ」ではなく「真実」として彼の心に響く。


「……君を、傷つけたくはない」

低く、抑えきれぬ熱を帯びた声が零れる。


アメリアは沈黙のまま、その言葉を受け止める。

止まらない涙だけが、彼の熱に応えるように頬を伝っていた。

しかしその奥には「この男を信用してはいけない」という固い壁が残っていた。


ルカはその壁を感じ取った。

――全くもって信用されていない。

彼女の沈黙は、心を開くものではなく、ただやり過ごすための沈黙。

それでも、彼はその奥に潜む孤独と疲労を読み取ってしまう。


胸の奥で警告が鳴る。

彼女の泣き顔に心を揺さぶられ、理性は剥がれ落ちていく。


「これは啓蒙じゃない」

低く、抑えきれぬ熱を帯びた声が、静けさそのものを揺らがせる。

「僕がしたいのは、君を救うことじゃない。君の隣を歩くことだ」


それは密偵としては致命的な告白だった。

利用でも、救済でもなく、ただ「隣にいたい」という思い。

それは彼女の信用を得るための計算ではなく、感情が先走った瞬間だった。


アメリアはそのまま頬を伝う涙を拭われ、ルカの胸に顔を埋めていた。ただ耐えるように彼の温もりに身を委ねていた。彼女の震える肩を支えるルカの手は、彼の平静を裏切るように優しかった。


その瞬間、重厚な扉が軋む音を立てて開いた。

アメリアの父――ロシュフォール家の当主が、静かに部屋へ足を踏み入れる。

沈黙は一瞬にして緊張へと変わり、空気が凍りついた。


ルカは胸に顔を埋めるアメリアを抱えたまま、振り返ることもできずに息を詰める。

――最悪だ。

任務としては、父の信頼を得る好機にもなり得る。だが、男として「見られてはならない」と叫んでいた。


アメリアの父は、冷徹な眼差しで二人を見据える。

その瞳には怒りも驚きもなく、ただ「娘を家の象徴として扱う者」としての冷たい計算が宿っていた。

「アメリア」

低く響く声が、部屋の空気をさらに重くする。


アメリアは顔を上げられない。涙を拭われたばかりの瞳は赤く、令嬢としての仮面を崩した姿を父に見せることはできなかった。

彼女は沈黙のまま、ルカの胸に顔を埋め続ける。


ルカは理性を必死に立て直す。

「まだ熱が下がらないようですから、情緒不安定にもなりましょう。」

ルカは低く告げる。言葉を選びながらも、声の奥には抑えきれぬ熱が滲んでいた。


父は沈黙のまま二人を見つめる。

その視線は冷徹でありながら、どこか試すようでもあった。

「まだ熱が下がらないか。……むべなるかな」

「それにしても、ヴァレンティン卿。娘の傍にいてくれることは、悪くはない」


その言葉は、まるで認めるような響きを持っていた。

しかし、その声音には温もりも信頼もなく、ただ形式的な響きだけがあった。


ルカはその言葉を聞きながら、胸の奥で冷たい痛みを覚える。

――こんなに急に。これは建前だ。

父は娘を象徴として扱い、家の体面を守るために「相手」を必要としているだけ。

その視線には、娘の幸福を願う父の温度はなく、ただ家の威信を保つ緻密な計算が宿っていた。


アメリアもその言葉の虚ろさを感じ取っていた。

――父は私を娘としてではなく、家の飾りとして見ている。

――ルカを認める素振りも、私のためではなく、家のため。

その矛盾が胸を抉り、涙の余韻をさらに深くしていく。


ルカは父の言葉に応じるべきか迷った。

任務において、この建前を利用すべきだ。父の信頼を得るこれ以上ない好機。

だが、心臓は「彼女のために隣にいたい」と叫んでいた。

その矛盾が胸を締め付け、沈黙の中で彼を揺らぎへと引きずり込む。


「ありがとうございます。私には勿体ないほどのお言葉でございます」

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