一曲の破滅
舞踏会の夜――。
数週間の日常を経て、再び彼女と顔を合わせる時が訪れた。
煌めくシャンデリアの下、音楽は華やかに響き渡り、貴族たちの笑い声が重なり合う。
だが、その喧騒の中で私の視線はただ一人を探していた。
アメリア=ロシュフォール。
茶会の後、彼女の姿を思い出すたびに胸を締め付ける痛みが蘇り、任務の冷徹さを保つことが難しくなっていた。
そして――彼女はそこにいた。
白銀のドレスに身を包み、父の影からわずかに離れた場所で佇んでいる。
彼女の笑みは相変わらず冷たい。けれど、目の奥の翳りは、以前よりも濃く、深く私を引き寄せる。
私は人々の間をすり抜け、彼女の前に立つ。
「再びお目にかかれるとは、光栄です」
形式的な言葉を選びながらも、声の奥に抑えきれぬ熱が滲む。
アメリアはゆっくりと視線を上げる。
その瞳は氷のように澄んでいるが、ほんの一瞬だけ揺らぎが走った。
「ええ、偶然とは思えませんね」
冷ややかな響きの中に、わずかな痛みが混じる。
私は息を潜める。
任務としては、この再会こそ好機だ。
舞踏会の華やかさに紛れ、彼女の心へさらに近づくことができる。
だが、胸の奥では別の声が囁いていた。
――彼女に、本物の優しさを差し出したい。
音楽が流れ、舞踏の輪が広がっていく。
私は手を差し出す。
「もしよろしければ……一曲だけ」
その仕草は礼儀に則ったもの。だが、指先はわずかに震えていた。
アメリアは沈黙を保ち、視線を逸らす。
けれど、次の瞬間、彼女の指先が私の手に触れる。
微笑を崩さぬまま、彼女はその手を受け入れた。
舞踏会の音楽が、緩やかに波のように広がっていく。
私はその中心で、彼女の手を取っていた。
彼女は優雅な笑みを浮かべながら、静かに舞う。
その笑みは、完璧に整っているのに、どこか壊れかけた線が一本だけ混じっているように見えた。
光を受けて揺れる銀糸のような髪、ドレスの裾が流れるように広がるたび、私は息を呑む。
――綺麗だ。
ただ美しいという言葉では足りない。
彼女の存在そのものが、儚さと痛みを抱えた芸術のように見えた。
少しでも強く触れてしまえば、砕け散ってしまうのではないか。
その危うさが、私の心をさらに深く侵食していく。
任務のために近づいたはずなのに、今この瞬間、私は諜報員ではなくただの男だった。
彼女の指先が私の掌に重なる。冷たいはずのその感触が、胸の奥で熱を呼び起こす。
その一瞬に、私は本気で恋に落ちそうになった。
「……お嬢様の舞は、まるで夢のようです」
声を抑えながら告げる。
形式的な賛辞にすぎないはずなのに、言葉の奥に滲む熱は隠せなかった。
アメリアは何も答えない。
けれど、その沈黙が私を縛る。
彼女はわかっているのだ。私が味方ではないことくらい。
その事実が、私を破滅へと導く。
だが、破滅であっても構わないと思ってしまうほどに、彼女は美しかった。
音楽が終わりに近づく。
私は彼女の手を離すことができない。
この儚さを、少しでも長く抱きしめていたい――そう願ってしまう。
曲が終わり、最後の和音がホールに溶けていく。
私はアメリアの手をそっと離した。だが、その余韻に浸る間もなく、彼女の父が近づいてきた。ロシュフォール家の当主――冷徹な眼差しを持つ男。
「見事な舞でしたな、ヴァレンティン卿」
父の声は礼儀を装いながらも、鋭い刃のように響いた。
その言葉は称賛ではなく、監視の眼差しの延長に過ぎない。娘を誰に託すか、誰に触れさせるか―――その全てを支配する者の声だった。
私は深く一礼し、形式に則った言葉を返す。
「光栄に存じます。お嬢様の舞は、私の拙い足取りをも美しく見せてくださいました」
声は柔らかく、完璧に整えられている。だが、胸の奥では冷ややかな緊張が走っていた。
アメリアは父の隣に立ち、微笑を保っている。
「お父様のお顔を立てられて光栄ですわ」
その言葉は形式的で、彼女自身の感情は一切含まれていない。
彼女の瞳は一瞬だけ揺れ、私に向けられる。だが、すぐに父の影に沈んでいった。
父は満足げに頷き、さらに言葉を重ねる。
「娘はまだ若い。だからこそ、家の名を傷つけぬよう、常に慎みを忘れてはならぬ。……卿なら、その重みを理解しておられることと思う」
その言葉は、警告に近かった。
娘を飾りとして扱いながらも、彼女の一挙一動を監視し、支配する。
その歪さが、私の胸を締め付ける。
「もちろんでございます。ロシュフォール家の御令嬢は、この王国にとっても宝でありましょう」
アメリアはただ父の言葉に従う。
その姿は、絢爛な舞踏会の中で最も痛々しいものだった。
彼女は父の影に立ち続け、令嬢としての笑みを崩さない。
だが、その本心は、私にだけ見えてしまう。
会話は形式的に終わり、父は次の客人へと視線を移す。
アメリアはその影に従い、再び微笑を保ったまま歩み去る。
やはり、この親子は壊れている。
親子でありながら、そこに温もりはない。
娘は家の威光を示すための飾りであり、父はその役割を強いる。
その関係の中で、彼女はどれほどの孤独を抱えているのだろう。
◇
舞踏会の喧騒の中、私は仮面を整えるように呼吸を整えた。
――まだ理性は働いている。
密偵としての冷徹さを失ってはならない。彼女に近づくのは任務のためであり、心を侵されることは許されない。
アメリアが人々の輪から離れ、ひとり静かに佇んでいる。
その姿は儚く、痛々しいほど美しい。だが私はその感情を押し殺し、仮面を貼り付ける。
優しさを装い、彼女の孤独に寄り添うふりをする――それが最も効果的な手段だ。
「お嬢様、先ほどの舞は見事でした。まるで音楽そのものが姿を得たかのように」
言葉は飾りにすぎない。だが、声の温度をわずかに柔らげることで、彼女の心に触れる隙を作る。
「お世辞は慣れておりますわ」
アメリアの返答は形式的で、彼女自身の感情を隠している。
私はさらに一歩近づき、距離を縮める。
「お世辞ではございません。……ただ、あの笑みの奥に、ほんの少しの痛みを感じたのは私の錯覚でしょうか」
彼女の心に触れる言葉を、わざと選ぶ。
諜報員として、精神的な距離を縮めることが最も重要だ。
彼女の瞳がふと揺れ、耽美な笑みの奥に隠された寂しさが垣間見える。
私は胸の奥で痛みを覚えながらも、理性を働かせる。
――これは任務だ。
彼女の心に寄り添うふりをし、精神的な距離を縮めることで、ロシュフォール家の秘密へと近づく。
「もし、少しでも心を休める場所が必要でしたら……私はただの客人ですが、耳を傾けることくらいはできます」
声は柔らかく、偽りの下に隠された冷徹さを覆い隠す。
アメリアは視線を逸らす。
だが、その沈黙こそが、私を彼女の孤独へと引き寄せる。
私は二重の仮面を被っていた。
――アメリアの心を揺さぶるための、柔らかな仮面。
――そして、彼女の父に信用されるための、冷徹な仮面。
その両方を同時に保つことは、まるで細い綱の上を歩くような緊張を伴っていた。
「お嬢様は、舞踏の輪の中にいても、どこか遠くを見ておられるように思えます」
声は柔らかく、彼女の心に触れるように。
だが同時に、周囲にいる父の視線を意識し、礼儀を崩さぬ調子を保った。
アメリアは一瞬だけ視線を揺らし、その笑みを浮かべたまま答える。
「……見透かすのがお上手ですのね」
その言葉は拒絶にも受容にも聞こえる。
だが、彼女の沈黙の奥にある痛みは確かに揺らいでいた。
その瞬間、父が近づいてきた。
「ヴァレンティン卿、娘を退屈させてはおらぬだろうな」
声は冗談めいていたが、鋭い監視の色を帯びている。
私は表情を崩さず、深く一礼した。
「とんでもございません。お嬢様は、この場に咲く最も美しい花。
私のような者が隣に立つことで、その輝きを損なうのではと恐れるほどです」
父は満足げに頷く。
彼女の瞳が一瞬だけ私に向けられる。
私はその視線を受け止めながら、理性ををさらに固く結ぶ。
父の前では忠実な客人として振る舞い、アメリアの前では優しさを装う。
その二重の役割を演じることで、私は彼女の心を揺さぶり、同時に父の信用を得ていく。
それは任務としては申し分ないが、何か腹の底で疼く思いがあるのも事実だった。
舞踏会の熱気が少し落ち着いた頃、私は再びロシュフォール家の当主と向き合っていた。
彼の眼差しは、先ほどまでの監視の色をわずかに和らげ、代わりに計算された探るような光を帯びていた。
「ヴァレンティン卿」
低く響く声に、私は深く一礼する。
「アメリアと踊っていただき、感謝する。……実のところ、娘が、あのように自然な笑みを浮かべるのは久しぶりでしてな」
その言葉に、胸の奥で鋭い痛みが走る。
――自然な笑み。
それは、彼女が仮面を外した一瞬を、父でさえ見逃さなかったということだ。
だが、その言葉に温もりはなく、むしろ「娘をどう扱うか」を値踏みするような響きがあった。
私は柔らかな声で答える。
「お嬢様のご気分を少しでも和らげることができたのであれば、これ以上の光栄はございません」
父は満足げに頷き、グラスを傾ける。
「卿のような方が、娘の傍らにいるのも悪くはない……」
その言葉は、まるで独り言のように低く、しかし確かに私の耳に届いた。
私は息を潜める。
――これは、任務にとって絶好の兆しだ。
父が私を気に入り、娘の相手として考え始めている。
その信頼を得られれば、ロシュフォール家の奥深くにまで入り込むことができる。
だが、同時に胸の奥で別の痛みが広がる。
彼女は父の影に立ち、その微笑を保っている。
その姿は、父の言葉に従うしかない「令嬢」としての仮面に縛られていた。
本当の彼女を知ってしまった今、その光景は耐え難いほど歪んで見える。
「……お父様のお言葉は、私には過分でございます」
私は深く頭を下げ、忠実な客人を演じる。
だが、視線の端でアメリアの瞳がわずかに揺れるのを見逃さなかった。
その揺らぎは、父の言葉に従うしかない痛みと、私に向けられた沈黙の問いかけが交錯していた。




