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忘却を破る者

ルカが渡した書類、彼が報告した些細な情報、彼が仕掛けた小さな綻び――それらは一つひとつは取るに足らぬものに見えた。だが、積み重なった瞬間、ロシュフォール家の基盤は音もなく揺らぎ始めた。


市場での信用は少しずつ削られ、同盟者たちは距離を置き、父と兄の強硬な姿勢は逆に周囲を遠ざけていった。家の繁栄を誇るはずの宴は次第に縮小され、招待状は返事もなく捨てられるようになった。


皮肉なことに、その傾きを生み出したのは、ほかならぬルカ自身の諜報活動だった。

「任務」として仕込んだはずの小さな裂け目は、やがて大きな亀裂へと育ち、家の権力を静かに食い崩していく。



アメリアはその傾きを誰よりも敏感に感じ取っていた。

父と兄が互いに圧力を掛け合い、家の中で冷たい言葉が飛び交う。廊下に響く足音は重く、食卓に並ぶ料理は冷え切っていた。彼女は沈黙のまま座り、痩せた指でカップの縁をなぞる。


「もう長くはない」――彼女がかつて口にした言葉は、現実となりつつあった。血縁同士で圧力を掛け合う家は、遅かれ早かれ潰れる。彼女はその宿命を淡々と受け入れていた。


ルカはその様子を遠くから見聞きし、胸を抉られるような痛みに囚われていた。

――彼女を守りたいと願った。

――だが、自分の活動こそが家を傾けている。


皮肉にも、彼の存在は彼女にとって「光」でありながら、同時に「滅びの影」でもあった。彼女が「騎士」と呼んだその姿は、敵陣から放たれた刃そのものだった。


「僕が……僕がこの家を壊している」

口にした途端、その言葉は、言い訳ではなく“事実”の重さで喉に絡みついた。


ロシュフォール家の権力は、かつての輝きを失っていった。

領地の管理は乱れ、商人たちは背を向け、兵士たちは忠誠を疑い始める。父の威厳は空虚な言葉に変わり、兄の強硬さは孤立を深めるだけだった。


家の繁栄を誇るはずの屋敷は、今や沈黙と冷たい影に覆われていた。アメリアはその沈黙の中で、ただ「潮時」を受け入れていた。



ロシュフォール家が傾き、権力を失っていく一方で、ルカはヴァルメーニュ家から「大変いい働きをした」と称賛されていた。任務は完遂、報告は完璧、書類は揃い、結果は揺るぎない。彼の働きは組織にとって理想的な成果であり、ヴァルメーニュ家当主は満足げに笑みを浮かべ、大量の報酬を彼に手渡した。


金貨の重みは確かだった。契約満了の証として、彼の手の中に積み上げられる。だが、その重みは彼にとって救いではなく、罪の象徴だった。


ルカは報酬を抱え、組織へ戻る道を歩んだ。仲間たちは彼を称え、上層部は「見事な成果だ」と口々に褒めた。契約満了の言葉は、彼の耳に冷たく響く。

「よくやった。これでヴァルメーニュとの関係は盤石だ」

その声は彼の胸を抉る。盤石になったのはヴァルメーニュであり、傾いたのはアメリアの家だった。


組織の空気は祝福に満ちていた。酒が注がれ、笑い声が響く。だが、ルカの心は沈黙のまま、アメリアの微笑を思い出していた。


報酬を受け取る手は震えていた。契約満了の言葉は、彼にとって「彼女を置いてきた」という事実を突きつけるものだった。

――かつて彼女は自分を光と呼んだ。

――だが、自分は彼女を闇に残した。


その矛盾が胸を締め付け、理由のわからない焦燥と恐怖へと変わっていく。彼は組織に戻り、称賛を受けながらも、心の中では罪悪感に苛まれていた。


ルカは自室に戻り、報酬の金貨を机に置いた。金貨の輝きは冷たく、彼女の微笑の温度を思い出させるものではなかった。

「……アメリア」

声は震え、言葉は途切れる。



屋敷は騒ぎに満ちていた。命令と反論が廊下でぶつかり、扉は荒く開閉され、怒声が階段を上下する。道理のない指示書が机から机へ渡り、誰もが誰かの責任を探している。

そんな中で、アメリアはひとり、書斎で本を読んでいた。背筋をまっすぐに、椅子に深くはもたれず、ランプの光を弱くしたまま。周囲の混乱を遮断するのではなく、その上に薄紙を重ねるみたいに、静けさを置いた。


彼女の指は痩せているが、震えない。ページをめくる速さは一定で、行間を滑る視線は、意味を拾い上げるというより、記憶の棚に並べ直す動作に近い。

今この家で「意味」は危険だ。意味は誰かに嗅ぎつけられる。だから、言葉の温度を下げる。紙の匂い、インクの艶、糸綴じの段差――そうした物理だけを見つめることで、心の深いところへ下る速度を緩める。


書斎の扉の外で、兄の声が一度高くなり、父の沈んだ調子が押し返す。執事が名前を呼ぶが、返事はない。アメリアは耳を塞がない。塞げば、綻びになる。ただ、音を数える。三歩、ため息、紙の擦れる音、鍵の挿さる音。音を数え終えるたびに、ページをひとつ進める。世界が壊れていくリズムに、自分のリズムを重ねないための、小さな儀式。


棚から選んだのは歴史書――勝者の名前が整然と並び、敗者の家名が注脚で小さく記される本。

アメリアは、本文ではなく注脚だけを追う。

本文は熱すぎるが、注脚は冷たい。倒れた家の理由が、ひっそりと書かれている。

「血縁間の圧力」「同盟の逸脱」「信用の微細な崩落」――行間に、自分の家の姿が滲む。

だからこそ、注脚だけを読む。自分の家を救うためではなく、その終わりを静かに見届けるために。


本を読むときの姿勢は、医術の教本の挿絵のように正しい。正しさは、痛みを鈍くする。椅子の肘に指を置く角度、ランプを目線から少し外す高さ、足の甲に重ねる布の軽さ。

彼女は自分を整えることで、家の乱れに流されないようにする。整えること自体が、この家で生き延びる術だったから。整えられた彼女は、見過ごされやすい。見過ごされることは、今は救いに似ている。


「綻びを出さない」――その決まり文句は、祈りの形をしていない。けれど、祈りだ。彼女はページの余白に何も書かない。万年筆を持たない。書けば、残る。残れば、嗅がれる。


混乱の声は、夜が深くなるほど質量を増す。書斎の窓の外で風が鳴り、ランプの炎が小さく揺れる。

アメリアは本を閉じない。閉じることは結論で、結論は嗅ぎつけられる。

代わりに、栞を半分だけ挿す。半分――終わりでも途中でもない印。彼女の生の今夜の形は、その半分に似ている。


彼女は椅子から立たない。立つことは目立つ。目立てば、誰かの怒りの矛先がこちらへ向く。向けさせない。向けさせずに、進ませる。進むのは崩壊で、止まるのは綻び。


混乱は家を包み、家は歴史に傾く。アメリアは静けさの中央に座り続ける。痛みは、形にならないまま、息の数に溶ける。呼吸は浅くない。深くない。ちょうど、本の行間の深さだけ。


彼女は本を開いたまま、目を閉じないまま、夜を待つ。待つことは敗北ではない。

待つことは、見届ける力だ。彼女はその力だけを手放さない。温もりを綺麗に畳んで、余白に置いたまま、誰にも嗅ぎつけられないように、家の崩れ方を最後まで読むために。


ロシュフォール家の混乱は頂点に達し、父も兄も、そして家臣たちも、各々の逃げ道を選んで屋敷を後にした。誰もが自分の命と立場を守ることに必死で、アメリアの存在など忘れたかのように振り返りもしなかった。かつて権力の象徴だった広い屋敷は、皮肉にもその繁栄の証を失い、空洞のように静まり返った。


廊下には人の声が消え、扉の開閉音も途絶え、残されたのは家具の軋みと風の音だけ。広間に並んでいた絢爛な装飾は、今や空虚さを強調するだけの影となり、屋敷全体が廃墟のように見えた。


その広い屋敷に、アメリアただ一人が残された。彼女は逃げなかった。逃げる理由も、逃げる場所も、もう持っていなかった。家族に忘れられたように、彼女は書斎に座り続けた。


「忘れられることは、軽くなることでもあるのね」

彼女は小さく呟き、痩せた指で本のページをめくる。誰も彼女を呼ばない。誰も彼女を探さない。屋敷の広さが、彼女の孤独をさらに際立たせていた。


屋敷の静けさは、彼女にとって安らぎではなく重荷だった。広間の壁に掛けられた肖像画は、彼女を見下ろすように沈黙し、廊下に並ぶ彫像は冷たい眼差しを向けていた。かつては誇りだったものが、今は彼女を責める証人のように立ち尽くしている。


アメリアはその視線を受け止めながらも、背筋を伸ばし、椅子に座り続けた。逃げた者たちの足音が遠ざかった後の静けさは、彼女の呼吸だけを際立たせる。


「私はここにいる」

彼女は声に出さず、心の中でそう言った。忘れられた者として、置き去りにされた者として、それでも屋敷に残ることを選んだ。


彼女にとってそれは敗北ではなく、誇りだった。逃げることは簡単だが、残ることは痛みを伴う。痛みを伴うからこそ、彼女は残ることを選んだ。


市場の片隅、酒場の低い声、郵便局の列に並ぶ背中――どこでも同じ屋敷の噂が囁かれ始めた。

ロシュフォールの屋敷に、女がひとり残っている。

扉は開かず、灯りは夜まで途切れない。訪ねれば返事はない。けれど、窓辺に影が動く。

ひとりで、ずっと、ひとりで。噂は形を持たないのに、妙に具体的だった。

誰も本当を知らないのに、みんな知っている顔をした。


ルカはそれを二度目の手紙の受け渡しで聞き、三度目の荷の点検で聞き、四度目の閉店間際の酒場で、はっきりと耳に落とした。「あの屋敷、もう空っぽだよ。いや――女が一人いるって話だ」「名前は?」「知らない。ただ、静かな人らしい」。不確かな言葉の端に、確かな輪郭が浮かぶ。静か――それは彼女の在り方の別名だった。


言葉は刃ではなかった。刃より遅く、刃より深く、彼の胸に沈んでいく。報酬の重さが、急に軽くなる。軽くなった分だけ、心の底が重くなる。


彼は最初、耳を閉じた。関係のない話だ、と仕切り直す。

契約は満了した、任務は終わった、と書類の文言で自分を覆う。だが、覆えば覆うほど、余白に彼女の横顔が滲む。書斎の灯り、背中に残る手の温度、「綻びを出さない」という、冷たい祈りのかたち。忘れろと言われたのに、噂は忘却の上から湿った指でなぞってくる。


「ひとりで?」誰にともなく問う。返事はない。ないはずなのに、心の中で「ひとりで」と繰り返される。彼女は選んだのだ。残ること、見届けること、速度だけを遅くすること。


夜が降りて、街灯の影が伸びる。野良だ、と自分で名乗ったその言葉が、今夜だけは鎖を外す合図に聞こえる。組織の祝杯の音は遠い。金貨の冷たさは机に置いたまま。

彼は外套を掴み、靴の紐を強く引き、呼吸を整える。戻るための理屈はない。戻らないための理屈ばかりが整っている。それでも足は動く。理屈より先に、噂が身体を引く。


道を選ぶたび、噂が目印になる。逃げ仰せた人々の影が、街角の壁に薄く残っている。

誰もが忘れたふりをして、忘れた実感に耐えられずにいる。

その忘却の真ん中に、彼女がいる――そう思うと、世界の音量が少し下がる。彼は手袋を外し、掌の熱を確かめる。もう一度背を押されるためではない。今度は、押さないために。


門の近くで立ち止まり、空気の匂いを嗅ぐ。風が紙の匂いを運ぶ。書斎の余白の匂いだ。彼は呼吸の数を減らす。焦らない。急がない。急げば、綻びになる。彼女の祈りに従うために、彼の祈りは遅い。


噂は嘘半分、真実半分。その半分の真実が、今夜だけは告白に見える。「一人でいる」。その文が、彼に向けて書かれた最後の手紙のように感じられる。

彼は頷く。誰にでもなく、彼女にだけ届く頷きだ。夜の端で、彼は決める。任務は終わったふりをしている。物語は終わったふりをしている。ふりの中に、余白を差し込むのが自分の役目だ。


彼は門へ向かう。ゆっくりと。綺麗に。嗅ぎつけられない速度で。

彼女が選んだ孤独を、彼女の選んだ速度で、見届けに行くために。噂が風にほどける。ほどけた風が、彼の背を押す。今度は、彼が押されて進む。誰にも見えない力で、まっすぐ。屋敷の方角へ。


屋敷の廊下は、空虚な広さを持ちながらも、どこか息を潜めていた。ルカは慎重に歩を進めた。だがその慎重さは、迷いではなく確信に近かった。――彼女はここにいる。そうわかりきっていたかのように、彼の足は自然と書斎へ向かっていた。


扉の前で一瞬だけ呼吸を整える。指先が冷たくなり、心臓の鼓動が耳に響く。だが、扉を押し開けた瞬間、その予感は現実となった。


ランプの灯りが柔らかく広がる書斎の中央に、アメリアは座っていた。背筋を伸ばし、膝の上に本を置き、ページをめくる指は淡々と動いている。屋敷が混乱に沈んでも、彼女の周囲だけは別の時間を流しているようだった。


ルカの姿を認めても、彼女は驚かなかった。まるで、彼が来ることを最初から知っていたかのように。


アメリアは顔を上げ、ほんの少しだけ口元を緩めた。

懐かしい笑み――それは彼がかつて見たことのない種類の微笑だった。冷徹な仮面でも、諦めの影でもなく、記憶の奥から呼び戻されたような温度を帯びていた。


「忘れてって言ったのに」

責めるでも、詫びるでもない。言葉だけが、過去と現在をそっと繋ぎ直す。

けれど、その淡さの中に、彼女の心の奥底に沈んでいた柔らかさが滲んでいた。


ルカはその笑みに胸を抉られる。彼女が「忘れて」と言ったのは、自分を守るためだった。だが今、彼女はその言葉を懐かしむように口にしている。まるで、忘れられることさえも彼女の物語の一部であるかのように。


彼は言葉を失い、ただ彼女を見つめる。書斎の静けさが、二人の間に沈黙を置く。だがその沈黙は拒絶ではなく、再会の余白だった。


アメリアは本を閉じず、ページをめくる手を止めない。ルカはその音を聞きながら、胸の奥で何度も言葉を探す。だが、彼女の笑みがすべてを語っていた。


扉が閉まる音のあと、書斎の空気は少しだけ重くなった。ルカは、組織の制服の帽子を深く被り、顔を影で覆ったまま、アメリアの隣に静かに腰を下ろす。肩がわずかに震え、喉の奥で押し殺した呼吸が擦れる。


「無理な話だ」

言い切る声は低く、ひどく震える。忘れることも、離れることも、終わることも――どれも無理だと、やっと言葉になった。


アメリアはためらわない。痩せた指で帽子の庇をつまみ、するりと彼の頭から取り上げる。影が外れると、彼の涙は空気に触れて、静かに光る。


「もう、泣かないで。また会えたじゃない」

声は深くは揺れず、優しさの芯だけを残していた。慰めるための飾りはない。ただ、事実の温度で支える。


彼女の指は痩せて、骨ばっている。最後に会った時よりも、削られた輪郭がはっきりしている。

それでも、その指が頬に触れると、動きは驚くほど丁寧だ。かつてルカが彼女にしたように、頬を伝う涙の筋をたどり、布ではなく指先で拭う。皮膚の温度、涙の塩気、呼吸の速さ――すべてを乱さない力加減で。


「こうやって、あなたが拭ってくれたの。覚えてるわ」

言葉は短い。短いのに、十分だ。


ルカは視線を落とし、拭われるたびに息を整えようとするが、うまくいかない。悔しさでもなく、敗北でもなく、間に合わなかった時間の重さが、涙のかたちでこぼれる。


「忘れるなんて、君に対して嘘になる」

帽子のない顔で告げるその一文は、告白ではなく、報告に近い。彼は野良だと自分で言った。今、その野良の誇りは、彼女の隣に座ることだけに使われている。


アメリアは頷かない。否定もしない。ただ、もう一度指で涙の筋を拭う。仕草だけが、彼の言葉を受け止める。


「ねえ、顔を上げて」

強制の響きがない呼びかけ。ルカが少しだけ顔を上げると、アメリアの眼差しは正面から彼を受け止める。涙は止まらない。それでも、止めさせようとしない。止めないまま、拭う。


取り上げた帽子は机の端に、庇が彼の方へ向くように置かれる。逃げ場を否定しない置き方で。

必要なら手を伸ばせば届く。けれど今は、届かないままでいい。


「また会えたのなら、それで一度息をして」

アメリアの声は、祈りではなく行動の指示に近い。彼女は泣くことを罰しない。泣くことを整える。


「あなたが光だって言ったのは、間違いじゃなかった」

アメリアは目を伏せない。彼の頬から最後の涙の雫を拭い、指先に乗った塩の重みを、そっと自分の親指でなぞる。温度の記憶を手放さないために。


ルカは息を吸い、短く吐く。

「無理な話だ、って言ったけど……来てよかった」

彼の言葉に、彼女は小さく笑う。懐かしい笑みが、今度は現在形になる。


屋敷の外で歴史は傾き続ける。書斎の中では、二人の速度だけが守られる。忘れてと言われて、忘れられなくて、戻ってきて――それを責めない再会が、静かに形を持つ。


ルカは涙を止めない。止めずに、言葉だけを整える。

「僕と一緒に来て。絶対に君がロシュフォールだとわからないようにするから。君に不自由はさせないから、僕と一緒に来て、生きて」

声は震えているのに、文の骨格は真っ直ぐだった。懇願ではあるが、約束でもある。逃避ではなく、生存の提案だ。


彼の手は膝の上で強く結ばれ、涙は頬に途切れなく落ちる。恥じない。彼女の前でだけ、泣くことを選んだ。


アメリアは彼の顔をまっすぐ見る。視線は逸らさない。

「野良の世界は、あなたに似合うわ」

一度だけ、彼を確認するように微笑む。だがそれは褒め言葉ではない。

彼女の目の奥で、慎重な計算が細く回り始める。名を消す方法、痕跡を隠す方法、歩幅を合わせる方法――考えれば考えるほど、どれも綻びに繋がる危険を含んでいる。


「あなたが不自由はさせないって言うなら、私の不自由は“過去”だと思って」

言葉は乾いて、しかし優しい。彼の提案に、自分の重さをそっと乗せ替える。


ルカは頷きを乱発しない。ひとつ、ゆっくり、深く。

「君の過去は、僕の影にしまおう」

短い文の中に、彼の野良としての手際の良さが滲む。身元の切り方、名の薄め方、顔の光の拾わせ方――彼の生の技術が、今はひとりの女性を生かすための道具に置き換えられている。


「今日は、連れ出す夜にできる」

言い切らない。彼女の速度が最優先だと知っているから。

「もし、今が早すぎるなら、準備を“遅く”する。いつまでも、君のペースで」


アメリアは彼の涙をもう一度拭う。指先の力は弱く、しかし仕事は正確だ。

「あなたの速さは、私を切ってしまうことがあるの」

彼女は静かに告げる。

「でも、あなたの遅さは、私を持っていける」


ルカは呼吸を整え、涙の上から小さく笑う。自嘲ではない、合意の印だ。

「君の“いつも通り”の中に、僕を忍ばせる」

彼は指で机の端の帽子を示し、すぐに目を戻す。

「制服を脱いで、僕が“見知らぬ男”になる。扉は使わない、風の通り道を使う。馬車は派手だから歩こう。灯りは君が消さないなら、僕も消さない」


彼は手短に、しかし乱さず言う。段取りは彼の祈りだ。祈りを手順に変えることで、恐怖を動線にする。


アメリアはすぐに「行く」と言わない。言えば速くなる。

「今、怖いのは“発見”じゃなく、“追憶”なの」

彼女は自分の胸の中を短く指差す仕草をする。

「出てしまえば、私はあなたの隣で、自分が誰だったかを思い出してしまう。それが綻びになる」


彼女はそれでも、彼のとなりを離れない。

「だから、私が迷う時間を、あなたの隣で許して」

迷いを罪にしないで――それが彼女の条件だ。


ルカは目を閉じ、ひと呼吸。開いた目は濡れているが、澄んでいる。

「もちろん。迷う時間を、君のペースで」

約束は短く、重い。彼は手を伸ばしかけて、引っ込める。触れたい欲を、彼女の条件の外側に置く。


「僕は、全て君に合わせる。名は呼ばない。名は捨てる。呼びかけは、君の合図にしよう」

彼は自分を小さくし、彼女の余白を大きくする。それが救いになると、今は信じられる。


ルカは帽子に触れず、影のない顔で頷く。

「君の“生きる”を、僕だけに見えるように運ぶよ」

泣き止まない。泣き止めない。涙のまま、段取りだけが静かに進む。


二人は立たないまま、夜を少し動かす。外の世界が壊れていく速度より遅く、嗅ぎつけられない温度で。

生きる準備という名の祈りを、今夜、並んで始める。

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