鬼ごっこ
知華は佐藤さんの後ろを必死に走っていた。
だんだんと少なくなってきた人の脇をかき分け、どんどんと医療系キャンパスを離れていく。
この大学は山の斜面に面して建てられており、上の棟と下の棟の高低差はかなりある。そのため移動にはエスカレータが利用されるが、急いでいる知華は階段を使った。
佐藤さんは社会科学部、心理学部、スポーツ学部の棟をざっくりと確認したが、首を振った。
違うようだ。
さらに駐輪場、グラウンド、学生用駐車場、中庭を確認したが、どこも違う。
途中、安から連絡も来たが、紅野でも対応は困難だと言われた。
やはり、現地にいる二人にしか出来ることはなさそうだった。
『あたしも今からそっちに行くから』
安はそう言ったが、まだ無理をしてほしくなかったので知華は断ろうとした。
しかし『じっとなんかしてられん!』と泣きつかれてしまった。
『知華になんかあったら…。お願いやから、無理はせんで』と涙声で言われ、知華は何と返してよいか分からなかった。
安は宇田の運転でそっちに行く、と言い残し電話を切った。
時計は午後四時を回った。
引き続きどんどん場所を移っていくと、ほぼ平地にある事務所まで降りてきてしまった。
(あと一時間しかない……)
焦っていると、佐藤さんは事務所前の広場で止まった。辺りをしきりに見回し始める。
事務所前には、受験の事や学生寮について質問をしたい人たちで混雑していた。
ここで話しかける訳にはいかないので、傍のベンチに腰掛ける。佐藤さんは知華の傍まで来ると、
「このあたりで気配が強くなっとる」
遠くを見るように目を細め、眉間に皺を寄せた。
「知華ちゃん、大学のパンフレットあるか?地図が見たいんやけど」
そう言われ、重い袋の中から大学案内を引っ張り出した。
四ページにわたる校内図を開くと、佐藤さんが覗き込む。
知華のいる場所から考えると、左手の棟から気配を感じるらしい。この建物は何だろう二人で地図を睨み唸っていると、
「これやな、教育学部」
と佐藤さんが見つけた。
もっと詳細な地図のページに移ると、八階建ての建物で、中はほとんどが講義室であることが分かった。
建物は奈海が通っている塾程の大きさで、それなりに広さがありそうだ。
エレベーターは一基しかなく、探すならやはり階段がよそさそうだ。帰宅する人が増えた今、エレベーターは混雑するし、一基しかないのなら効率も悪い。
「こっちに気配があるんやね?」
小声で聞くと、佐藤さんは頷いた。
「ここまで近くなったら、知華ちゃんにも穢の気配がわかるかもしれん。さっきまで話しとったなら、オマモリサマの気配が分かるやろ。目を閉じて、ちょっと探ってみ」
そう言われ、知華は素直に目を閉じた。
オマモリサマの気配、と佐藤さんは言うが、具体的にどんな感覚なのか、知華には分からなかった。
なので、先程まで見ていたオマモリサマの姿を浮かべた。
傍まできた時の冷たさ、体を固定された時の感覚、『中』を見れた時の恐怖、力を使って足先で波紋を広げた時の寒気…。
するとヘビのようにうねる、煙の様な物を感じた。オマモリサマの周囲に纏わりついている様に思った。
(ひょっとして、これ…?)
安の霊力とは全く違い、重苦しく粘っこい感覚。
目を開け、教育学部の棟を見る。
微かに、地面に黒い煙が見える。今にも消えそうだが、まだたゆたっている。
知華の視線が何かを捉えているのが分かった佐藤さんは、
「見えたな?」
と言った。聞いたのでなく、確認する口調だった。
知華は頷くと、スッと立ち上がり気持ちを奮い立たせた。
そしてその煙を追って、棟の中に入った。
一階から三階は見学者と学生、教員で埋まっていた。
人々の足で煙は見えづらく、知華は焦った。
煙が巻き上げられ見えなかったらどうしようと、こっそり佐藤さんに聞くと、
「あれはちょっと歩いた位で消し飛ばん。人が多くても関係ないで」
と返ってきたので安心した。
そこで知華は煙を辿ろうと一人棒立ちになり、地面を凝視した。
はたから見れば不思議な行動だが、周りは残り少ない時間で説明したり質問したりする人ばかりで、誰も知華を気にする者はいなかった。
集中して凝視を続けると、僅かだが煙が見えた。しかし、もう消え入りそうだ。
「あれは時間が経っとるな。この階やなさそうや」
そう言われ、次の階に移動した。
時計を見ると午後四時二十五分。
四階も見たが、こちらには一切の気配がなかった。
(階層はあと半分……)
そう思い階段を二段飛ばしで駆け上がる。
五階に着くと、すぐに廊下に目をやった。
すでに日が陰り始めていて、廊下は薄暗い。
電気をつけようと壁を見ると、すぐ横にスイッチがあった。
指で押すとパチン、と音ともに灯りがつく。照らし出された廊下に、煙が見えた。
今まで見えたものより、たゆたう姿が大きく、はっきりしている。
「ここで間違いなさそうや」
佐藤さんの緊張した声が聞こえた。
五階はオープンキャンパスの場所ではないので、静まり返っていた。
下階の話し声や足音が遠くから聞こえ、響いている。
煙は廊下に点々と連なり、奥の部屋まで続いている。
知華はゆっくりと歩き出した。
煙を踏んだが、知華の動きとは関係なくたゆたい続けており、まるで干渉出来なかった。
どんどんと煙は濃くなった。
そして、一つの講義室の中に続いていた。扉は閉まっている。
緊張で冷たくなった手をノブに伸ばした時、佐藤さんが
「ちょっと待ち」
と知華を制した。
「前に紅野から渡された木珠、あれを付けとき」
安の搬送の時、首に掛けてもらった木珠の事だと、すぐに分かった。
あれ以降、ずっと持ち歩いている。お見舞いの時返そうとしたが、
「今の知華にこそ持ってて欲しいって、お師匠から伝言」
安からそう言われていた。
知華はカバンから木珠を出し、首に掛けた。
佐藤さんを見ると、目があった。
ゆっくりと頷かれ、知華は頷き返す。
ドアノブを掴み、回した。
ガチャっと扉が開く音が、静寂な講義室内に響く。
灯りはついておらず、様子がよく見えない。
知華はスイッチを探して、パチンと付けた。
細長い机がズラッと二〇ほど並ぶ。百人は優に入る広さだ。最後尾でも最前列にある教卓が見えるように、地面は緩やかな傾斜になっている。
照らされた講義室に、一人の男が立っていた。
こんな薄暗い部屋で一人、灯りもなしに棒立ちになっているのは明らかにおかしい。それに急に付いた電気にも反応せず、知華に背を向けて動かない。
知華は恐怖と緊張で足がすくんだが、ゆっくりと男に足を進めた。
足音が硬い壁に反響し、冷たく無機質に聞こえてくる。
男は講義室の一番近い端っこ、窓の近くに立っていた。
顔を窓に向けており、知華からは後頭部しか見えない。
男の近くに来て全身が見えると、知華は印を探した。
頭から足元へと視線を移動させると、お尻のあたりで何かが動いた。
それはヘビの尻尾のように細く長く、しなやかに動いた。
佐藤さんを見ると、「あれやな」と呟いている。
知華はゴクリとツバを飲んだ。
何とか見つけた。
しかし、この印をどうすればいいのか。
単純に考えると引っ張ればよさそうだが、安易に触れていいものか悩む。
暫し考えていると佐藤さんが助け舟を出した。
「あれならワシでも掴める。現実のものやないからな。隙を見てやるけ、知華ちゃんは下がっとき」
そう言われ、後方に退こうとした時、
「あさちゃん?」
と男が急に喋った。
知華は驚いて男を見た。
その声はまるで人間味がなく、機械のように一定だった。
「来てくれたの?戻ってきてくれた?」
男はゆっくりと振り返った。
眼球がくるくると回っていて、どこも見ていない。
しかし知華の存在には気がついており、手を伸ばしてきた。
まるで徘徊するゾンビを彷彿とさせる疎な動きに、知華は
「……っ!!」
声ならない音を出し、身を引こうとした。
すると、男は
「あさちゃん、どうしたの?そんな顔して。俺だよ」
と急に追いかけてきた。
知華の足は地面に縫い留められたかのように動かなかった。怪異的な力が働いたわけではなく、恐怖からくるものだった。
「知華ちゃん、走り!!」
佐藤さんの声で我に返り、踵を返して足にぐっと力を入れた。
しかし数歩もいかない所で男は追いついた。
尋常でない速さだ。
知華の右手首を掴むと「あさちゃん、あさちゃん、あさちゃん」と繰り返す。
何とか振りほどこうと男の手を掴んだが、残った左手首も掴まれた。両手の自由が利かなくなり、バランスを崩した知華はそのまま机に押し倒された。
驚くほどの力だった。
普段の男性でもこんなに力強いものなのか、怪異の影響なのか、知華には判別つかなかったが、そんな事を考える余裕もなくなっていた。
男は必要に知華に顔を近づけた。
荒い息遣いと生暖かい肌が気持ち悪かった。
男の両眼は変わらずグルグルしており、その目を見ると目が回りそうだった。
「目を見たらアカン!」
佐藤さんからそう言われ、知華は男の額に視線を移した。
男はグイグイと知華に体を押し付けた。上半身に男の重さを感じ、潰されそうだった。
そして下半身を執拗に知華の足に擦り付けた。それが気色悪く、強い嫌悪感を抱くと同時に恐怖を感じた。
男は明らかに性的高揚を感じているようだった。
「やだ!!やめて!!」
知華は必死に声を出した。しかし誰もいない空間に虚しく響いて消えた。
佐藤さんは何とか印を消そうとしたが、尻尾の動きは激しく、また予想がつかなかった。時には男の体の中に引っ込み、見えなくなることもあった。
男は知華の両手首を左手で掴み見直すと、空いた右手で服をいじり始めた。
腹部に手の感触を覚え、知華はいよいよ大声で叫んだ。
足をばたつかせて急所をけり上げようともしたが、全く上手くいかない。
叫び抵抗し、頭突きをしてでも男の顔を逸らそうとした。
生理的にとしか言いようがない嫌悪感で心も頭も一杯になった。
どうしようもなく心が凍りつきそうになった時、体の中で不思議に力を感じた。
急に沸き上がった力を不思議に感じることもなく、知華はその力に「とにかく助けて」と願った。
すると、ぐっと押さえられていた知華の両腕が、男の左手を押し返し始めた。
上半身に感じていた男の重さが軽くなり、知華の足が比較的自由になった。
その隙に腿で急所を蹴り上げた。
「うぐっ……!」
男は背を丸めて急所を庇ったが、一回では安心出来ない知華は数回、思いっきり蹴った。
男は完全に地面に倒れ、うずくまった。
印の尻尾も男と同じようにぐったりとしたので、その隙に佐藤さんが引っこ抜いた。
男の体から離れると、尻尾は霧散して消えた。
それを確認すると、やっと耳に音が帰ってきた。
先ほどまで響いていた知華の悲鳴が、まだ講義室内に反響しているかのようだった。
知華はズルズルと床に滑り落ちた。
腰が抜けて、立てなかった。
全身が震えていた。襲われた恐怖で涙が出た。
「うっ……うっ……」
知華の嗚咽が講義室に響く。
佐藤さんはどう声を掛けるか悩み困惑していると、着信音が響いた。
安だった。
しかし知華は震えてそれどころでなく、とても出られそうにない。
佐藤さんは放り出された荷物に寄ると何とかスマホに近づき、安のもとへ移動した。
通話状態でなくとも、着信がある時点で安とは電波が通じているため、移動出来るのだ。
安は掴んでいたスマホから佐藤さんの気配を感じたため、画面を見た。するとぬぬっと顔が出てきた。
全身でなく首だけで、その異様さに思わず安はスマホを投げた。
「ちょっと、急になによ!」
運転していた宇田もギョッとしたが、流石に慣れているのか、ハンドル操作を誤ることはなかった。
投げられたスマホは足元に転がる。
安は気が急いていたためイライラしており、思わず佐藤さんに強めの文句を言おうとした。
しかし佐藤さんの強く強張った顔を見て言葉をなくした。
「……なんかあった?」
明らかに声色が緊迫感を孕んだため、宇田も眉間にシワを寄せた。
「印を付けた者は見つけた。対処もしたけ、もう大丈や。……じゃけど、知華ちゃんが――。印付けた男に襲われた」
安の目が凍った。
車内に張り詰めた糸のような緊迫感が漂う。
安は張り付いた喉から何とか声を出した。
「……襲わ……れたって……知華は?無事なん?」
佐藤さんは困惑と哀れみが混ざったような表情をした。
「…怪我とかはない。……じゃけど……精神的に応えとる。……乱暴されそうになったんよ」
安はハッと息を飲んだ。
「少し服が乱れとるけど、それ以上の事はなかった。紅野に知り合いの警察官がおるじゃろ?あいつに連絡してもろうてくれ。あと、安ちゃんはできるだけはよう、知華ちゃんの所に来てや。……男のワシじゃ、アカンから」
そう言うと、佐藤さんは知華がいる場所を教え、スマホの中へと消えていった。
車内は静まりかえった。
安は凍りついた心から浮上できず、暫く呆然としていた。
宇田は何と声をかけようか迷った末、紅野に早く連絡をつけるように指示した。
「その男、早く知華ちゃんから引き離したほうがええやろ」
安は指示に通りにした。
紅野に状況を説明すると、すぐに行ってもらうと返事があり、電話は切れた。
重苦しい空気の中、宇田は安に告げた。
「……はよう、行ってあげよな」




