登山
――1998年夏――
男の趣味は登山だった。
仕事を始めてから出来た趣味で、友人を誘って週末によく登っていた。
軽い山なら一人でも登った。
山頂から見る景色と空気のや良さ画気に入っていて、もっぱら夏の山が好きだった。
この日も男は一人で山に登っていた。
横瀬の低山で、簡単なロープワークがある山だった。
人気が少なく穴場の山と友人から聞き、楽しみにしていた。
現地に着くと確かに登山者は少なく、キャンプ目的の若者が多いようだった。
登山口にはロープワークがある山道だという注意喚起が書かれており、服装や水分補給に関する注意事項が列挙されている。
男はロープワーク初心者だったが、絶壁ではない斜面登りと聞いていたので、意気揚々と山道を進んだ。
暫くはなだらかな道が続いた。
夏の日差し、木々の緑、爽やかな風を心地よく感じながら楽しく登った。
他の登山者と会う事が無かったので、
(本当に穴場なんだな)
と、この場所を紹介してくれた友人に感謝した。
三十分ほど登り続けると、少し開けた場所に出た。
その斜面にロープワークが見えた。
一見すると緩やかな坂だが、木の根やゴツゴツした岩があり、確かにロープがあれば女性でも安全に登れそうな場所だった。
男は若く体力にも自信があったので、難なく登り切ると先へ進んだ。
そこからはやや難所で、岩肌ばかりが目に付く道となった。
周りの景色も変わり、木々が減り険しい岩肌が織りなす景色となった。
遠くの周囲の山々も見渡せたので、
(低山と言ってもそれなりに絶景じゃないか)
と嬉しくなった。
やはり、山は登って見ないと分からない。
この時点で少し満足感があった。
ただ、頂上に到達していないので男はさらに先へと足を伸ばす事にした。
しかし、ここからが大変だった。
厄介なのが道の狭さだった。
最初は大人四人が横一列になっても十分な広さがあったのだが、だんだんと狭まり二人がすれ違うのがやっと、という幅になった。
景色を楽しむ余裕は徐々になくなり、男の顔から笑顔が消えた。
足場を確認しながら慎重に進む必要があったため、男は体力を消耗した。
(これだから、山は油断出来ない……)
ハァハァと荒く息を繰り返し、やはり下山しようかと考えていた頃、先を進む登山者の姿が見えた。
ここに来て、始めての登山仲間だった。
こんな頂上付近で出会うとは思っていなかったので、男は少し驚いた。
登山者は二人で、どうやら夫婦のようだった。
やや年配で五十代と見える夫婦は、色違いのアウターレイヤーに長ズボンという格好だった。
二人で手を取り合い、仲睦まじくも懸命に足を進める姿に励まされ、男は再びやる気を出した。
足取りがゆっくりだったので「お先に失礼します」と会釈しながら追い越した。
夫婦は男に会釈を返した。
そのまま進むと、頂上が見えた。
頂上直下の登りは、低山とは思えないほど急で、そこには最期のロープワークが待ち構えていた。
絶望に似た気持ちが芽生えたが、これが最期と自身を奮い立たせ、ロープをつかんだ。
何度か足を滑らせたが、力技で何とか登りきった。
見渡すと、青い空に広々とした雄大な景色が一望出来た。これまでの疲れを吹き飛ばす光景に、男は感無量の思いで見入った。
暫く深呼吸して絶景を楽しんでいると、下で道を進む夫婦を見た。
どうやら奥さんの方が先に進んでいるらしく、夫と十メートルほど距離があいていた。
(あの細身の奥さん、意外にも体力があるんだな)
と感心していると、奥さんが急に落ち着きなく辺りを見回し始めた。
足場に難儀しているのかと思ったが、頂上にいる男は何も手伝ってやれないので、見守る事にした。
大丈夫だろうかと見ていると、奥さんが不意に上を見て、男と目が合った。
男はその表情にゾッとした。
真顔だった。
難儀して苦しそうでも、困った様子も無かった。
ただじっと男を感情のない目で見ている。
不気味だった。
しかし何故か目を離すことが出来なかった。
奥さんと暫く見つめ合うと、無表情のまま、奥さんは後ろを振り返った。
夫が懸命に足を動かし、妻に追いつこうと四苦八苦していた。
戻って手助けてもするのかと思っていると、急に奥さんの腕が伸びた。
ぐーんと十メートルは伸びたのだ。
そして夫の体をポン、と押した。
まるで軽いものを机から落とすように。
夫の体は岩の峰の奥へ消えた。
一瞬の出来事で、男は何が起こったか理解できなかった。目の前で起きたことが信じられず、呆然と夫がいた位置を見つめた。
そうしていると、奥さんの腕がすすーっ縮み、もとに戻った。
そして振り返り、男に笑いかけた。
とても満足そうな笑顔だった。
全身に鳥肌が立った。
恐怖で体が震え出した。
奥さんはゆっくり立ち上がると、下山し始めた。
まるで何事も無かったかのように。
その姿を見て、男は現実に引き戻された。
夫の安否を確かめなければ。
ここで起こったことは、男しか見ていない。
慌てて頂上から降り、慎重に足場を確認して道を戻る。
ちょうど夫が落ちたであろう場所にくると、ゆっくりと屈み、下を見た。
人の姿は確認できず、絶壁が広がるのみだった。
(これは助からない……)
そう思ったが、救助要請をしないわけにはいかない。
男はさらに下山した。
道幅が大人二人の広さから四人が横一列になっても通れる広さになった頃、前方を歩く奥さんの姿が見えた。
男は緊張した。
声をかけるべきか。
かけるにしても、なんと言えば?
奥さんの足取りは遅く、男はあっという間に追いついてしまった。
追い抜かないほうが嫌だったので、サッと隣を歩いてそそくさと立ち去ろうとした。
しかし「あの」と声をかけられてしまった。
振り返ろうか悩んだが、ゆっくりと顔を動かした。
奥さんは普通の顔だった。
まるで男と目が合ったことなど、無かったかのように。
奥さんは口を開く。
「夫が崖から落ちてしましたした。救助要請をしたいのですが、どうしたらいいんでしょう」
全く焦りも動揺もない言い方に、男は絶句した。
表情も一つも変わらなかった。
「……焦ってないんですか?」
思わず聞いてしまい、しまったと思った。
奥さんは抑揚のない声で「焦ってますよ」と返した。
「あなたが他の人に喋らないか、焦ってます」
男は登山を辞めた。
それ以降、二度と山には近づかなかった。




