悪霊退治
翌日の早朝。
安は取ったばかりの原付き免許を握りしめて、下宿先からバイクを走らせた。
県北の朝は濃霧となることが多く、視界は不良だ。
この日もその例に漏れず、荷物を背負って朝霧の中を走っていた。
まだ公道を走るのは少し緊張する。
早朝で対向車がないのが救いだ。
安は昨日の香西とのやり取りを、まだ考えていた。
あの場では話がつき、香西も心の整理をつけたようだが、安の中ではしこりの様に残っていた。
夜は頭の中で何度も除霊のイメージを繰り返した。
呪物への封印が成功した場合と失敗した場合のパターンを反芻し、他のトラブル発生の想定もした。
それでも不安は尽きない。
やはり知華の身の安全の確保が一番の気がかりだった。
安にとって、誰かを巻き込んで除霊に挑むのは初めてだ。それも同じ霊媒師ではない、一般人を。
自分が失敗すれば知華の命に関わる。
そのプレッシャーは十代の安の心に大きく、とても重くのしかかっていた。
(初めての除霊でも、こんなに緊張せんかった…)
今もバイクのハンドルを握る手が緊張で冷えている。
心が重く、息もし辛いように感じる。
このプレッシャーから解放されたい。逃げ出したいような気持ちにも似た思いを抱え、安は羽原家を目指した。
朝七時に羽原家についた。事前に連絡しておいたので、知華と佐藤さんが家の前で待っていてくれた。
「おはよ。早くからごめんな」
ヘルメットをとり、二人に声を掛ける。
「おはよ。早速行く?」
知華に除霊の舞台となる空き地まで案内してもらう。
そこは徒歩で五分。
森の中にある空き地だった。
ここでオマモリサマと対峙したのかと考える。
安は空き地を見回す。広さは十分。聞いていた通り、周りは森で外からの視界もない。
人目につくことは無さそうだ。
「大丈夫そう?」
知華に問われ、安は頷いた。
「理想的。あたしはこのまま下準備するから、知華は佐藤さんと戻っておいて。終わったら連絡する」
バックパックの中身を出しながら、一人黙々と作業をした。
体を動かしていた方が頭で考えなくて済むので、気が晴れる。
準備中、霧が出てきて小雨が降った。
悪霊退治の時にはよくある事で、霊媒師の除霊を阻もうと天候不良や渋滞などのトラブルが引き起こる。
今回の天候不良も安にとっては想定内なので、気にもとめなかった。
ただ十二月ともなると寒さが身に沁みて、手が悴む《かじかむ》のが辛い。
冷えすぎた指先が痛い。
ダウンを着てマフラーをしていても、体が凍えた。
時々指に息を吐きかけて、ささやかな暖を取る。
(十時までには終わらせんと)
一人の準備には時間がかかる。
まして、今日の呪物作戦は安もやったことが無い。
不測の事態に備え、この除霊場だけは万全にしておかなくては。
せっせと体を動かしていると、ふと人の気配がした。
顔を上げると、香西が立っていた。
「こんな朝早くから始めとんか」
パーカーにジャケットを着て、寒そうに両手はポケットに入れている。
「おはよ」
挨拶をして、作業の手を止める。
昨日の今日で、バツが悪かった。何となく、顔を見づらい。
今日の除霊で一番落ち着かないのは、香西だろうと安は思っていた。
好きな人と大事な形見を危険にさらすのだ。心中、穏やかなはずがない。
「ほれ、そんな暗い顔すんなや」
そう言って香西はホットドリンクを安の目前に出してきた。
自販機で買ってきてくれたらしい。
「ありがと」
受け取って、かじかんだ手を温める。
「今日は、ホンマによろしく頼むで」
安の横に立ち、自分の缶の蓋を開ける。
プシュと小さな音が鳴り、珈琲のいい香りがした。
中身を一口飲むと、香西は安を見た。
「知華も俺も覚悟は出来とる。悪霊と戦う覚悟やで。一人だけで挑むと思うなよ。あとな、全部自分が背負っとるっちゅー顔もやめい」
香西は残りの珈琲を飲み干すと、空き缶を地面に置いた。
「お前がそんな顔しとったら、俺らまで不安になるやろ。一緒に考えて立てた作戦なんやから、三人で成功させるんじゃ」
そう言うと、屈んでバックパックに入っている残りの荷物を出し始めた。
「除霊はできんでも、こういう単純な作業はできる」
がさがさと荷物を地面に並べていく。
わざわざ手伝いに来てくれたらしい。
安は友人の姿を見ながら、缶を握り締めた。
「実を言うと、めちゃくちゃ緊張しとる」
香西はその言葉を聞き、手を止めた。
「友達二人の命預かるんやもん。当然やん。あたしが失敗したら、二人とも死ぬかもしれん。やったことない呪物使ったお祓いやし、上手くいくか分からん。不安しかない」
安の手は小さく震えていた。
「那津の形見もある。知華を囮にするのも、嫌や。だけどそれしか手段がない。全部上手くいかんかもって考えが、頭から離れん」
初めて聞く、安の弱気な言葉だった。
(今まで強気な表情しか見てこんかったけど、やっばり同じ歳の女子なんやな)
香西は立ち上がり、安の頭を撫でた。
「お前なら大丈夫や。出来る」
安は撫でられた事を意外に感じ、その言葉にも驚いた。
「なんでそう思うん?」
こんなにも弱気な所を見せたのに。
「俺が、お前なら出来るって思うから」
「は?」
香西は撫でていた手を止めた。
「知華から聞いとる。正確には佐藤さんからな。キツイ修行沢山してきたんやろ。紅野師匠の最期の弟子なんやってな。手塩にかけて修行つけられて、ビシバシやられとるって聞いた。弟子の中じゃ一番若いけど、悪霊退治においては右に出るものはないって、佐藤さんが評価しとったで」
初耳な評価だ。
そこまで言ってもらえるとは考えていなかったので、嬉しいよりは拍子抜けだった。
「じゃから、大丈夫や。今まで自分がしてきたことを信じろ」
安は目が潤みそうになった。
(今までの修行、何にも見てないくせに…)
そう思いつつも心が温まり、口元がほころんだ。
「何にも知らん那津に言われても、嬉しいもんやな」
安は笑った。
「なんか出来る気がしてきた。ありがとな、那津。やっぱり、ちょっとええヤツやな」
「まだ『ちょっと』なんか」
「そうや」
二人は笑い合った。
それから二時間後。
家で待機していた知華は、ずっとスマホを見ていた。
連絡が入らないか、今か今かと待ち受けていた。
「そんなに気張りなや。緊張しすぎると体力奪われるで」
佐藤さんに言われたが、こればかりはどうしょうもなかった。
「だって、何にも手につかん。外に出ちゃダメ出し、宿題なんかしてる気分じゃないもん」
気持ちは分かると佐藤さんも思う。
佐藤さんも心中は穏やかではなかったからだ。
呪物を使う除霊方法を教えたのは佐藤さんだが、紅野が好んでやらなかったのには理由がある。
呪物に触れるリスクがある、除霊後に器を祓う手間があるのもそうだが、他にも理由があった。
それは術者の体力と霊力の消耗が激しいことだ。
通常の除霊よりもはるかに力を使う。
安の場合、オマモリサマと遭遇した時以上に消耗するだろう。
しかし、状況を考えれば今回の方法がベストだった。
皆、成功するかしないかで気を張っているが、佐藤さんの見立てでは、成功すると思っていた。
だから、余計に除霊後の安が気がかりだった。
「知華ちゃん、ちょっとええか?相談なんやけど。」
スマホを見つめ続ける知華に、佐藤さんは声を掛ける。
「除霊した後、安ちゃんをここで休ませてやって欲しい」
数回瞬きをして、知華は話しを飲み込もうとした。
「それって、除霊は成功するって佐藤さんは思ってるって事?」
「そうや。出来るとワシは思っとる。ワシが心配しとるのはその後や」
「あと?」
佐藤さんは頷いた。
「前、オマモリサマと遭遇した後のこと、覚えとるか?」
「安ちゃんが熱を出したこと?」
フラフラでまっすぐ歩けず、翌日には高熱を出した。穢に当てられたと言っていた。
「今回はかなり体力と霊力を消費するやり方なんよ。特に経験が浅い術者なら、尚の事な。安ちゃんは悪霊退治の経験は豊富やけど、年月が浅い。きっと今までにないくらい、消耗するはずや。下手すると二、三日は意識が戻らんかもしれん」
その言葉に知華は驚愕した。
「そんな!」
「やから、除霊が終わったらすぐに紅野に連絡して欲しい。安ちゃんのスマホに連絡先があるけ。倒れてしもうた後のケアがワシには分からん。紅野なら対処法が分かるはずやから」
また違った問題が発覚し、知華は戸惑った。
しかし、今から他の方法を考える訳にはいかない。
もう準備が始まっていている。香西に相談する時間もない。
「このこと、安ちゃんは?」
佐藤さんは首を振る。
「知らん。除霊の事で精一杯やろうから、言ってない」
それも当然だと、知華は思った。
昨日あんなにも思い詰めた顔をしていたのだ。
知華を囮にすること、香西の形見を使う背徳感に押しつぶされそうだった。
これ以上、安の不安を煽りたくない。
「分かった。まかせて」
そう返事をした時、安から連絡が入った。
いよいよ決行だ。
霊道封鎖の時の様に、羽原家の前には結果が張られた。
とは言っても範囲は小さく、簡易的な物だ。器に悪霊が入る間、保てばよいからだ。
和輝には、午前中は外に出ていてもらっている。
大事な約束があり、家のリビングを使いたいと適当な理由を付けていた。
玄関の内側で待機している知華は、鎖に通した指輪を首から下げた。
安は除霊のため、現地で待機中だ。
香西がスマホで安に状況を伝える係だった。
「霊障で電話切れるかもしれんけど、焦らんでええ。知華が走り出したら、教えて」
そう言われた。
通話はつけっぱなしだ。佐藤さんの声が安に届くからだ。
知華は右手に握りしめたお札を見た。
指輪に悪霊が入れば、これを貼って一時的な封印をする。
「知華ちゃんの準備が出来たら、いつでもええよ」
佐藤さんが知華に声を掛けた。
成功すると、佐藤さんは言っていた。
今の安の実力なら出来ると。
(それでもあたしが誘導に失敗したら……)
そう考えると震えた。
自分のせいで全てが無駄になるかもしれない。
そう考えると、どうしても緊張で体が強張る。
「知華」
ブレスレットを受け取るため知華の横に待機している香西が、見かねて声を掛けた。
「大丈夫。成功するから」
皆がそう言う。成功すると。
「……そう、なんかな。出来るかな、あたし」
不安そうな顔と、震える言葉に香西はたまらず知華を抱きしめた。
知華は思ってもいない行動に、目を見開いた。
「大丈夫や。俺も佐藤さんも安井もおる。なんかあっても、皆おるから。気負うな」
香西の暖かさが知華を包む。
その暖かさが心地よく、安心した。
「うん」
知華は背中に手を回し、服をギュッと掴んだ。
(大丈夫。皆一緒だから出来る)
数秒抱き合った後、二人は体を離した。
覚悟が決まった知華はブレスレットを外す。
「行ってくる」
差し出した香西のその手に預けた。
知華から受け取ったブレスレットを握りしめる。
「向こうで会おうな」
香西は知華に微笑んだ。
戸を開けると、悪霊の霊気で家の前はひんやりしていた。
ブレスレットを外しただけでこんなにも冷気が違うのかと、知華は慄いた。
(随分と守られとったんじゃな)
その効果の高さを身を持って感じた。
屋根を見上げると、悪霊女がのっそりと動いたのが分かった。
焦れるほどゆっくりとした動きで屋根の縁からこちらを覗き込み、知華を見る。
暫くじっと凝視した後、にたぁと笑った。
全身に悪寒が走る。
逃げ出したい気持ちで足が震えた。
しかし知華は何とか動かずに、じっと悪霊の動きを待った。
ゆっくり、ゆっくりと、悪霊は屋根から降りる。
頭を下にして、まるで壁を這う虫のような動きは到底人には見えず、気持ち悪かった。
地面に音もなく降り立つと、のっそりと上体を起こす。
顔が見えるかと言う所で、動きが止まった。
すると女の姿が溶け、姿が変わり始める。
人の体だった部分はムカデのような胴体になり、長
い尾を引いた。
胴体の各体節からは一対ずつ人間の腕が生える。
頭は人のままだ。
カサカサ音を立てるその動きに嫌悪感が湧き、思わず一歩足が下がる。
人以外の姿になるとは、想定外だ。
「動揺したらアカンで」
後ろから佐藤さんの声がする。
「もう一歩、前に出や」
その言葉に息を飲んだ。
震える足を出し、一歩進む。
女の目が知華を捕らえた。
ビシッと全身が金縛りにあう。
そのまま動けずにいると、ムカデ女は体をくねらせ手をカサコソ巧みに動かし、近づいてきた。
目の前まで来ると上体を上げて知華の顔を覗く。
女と目が合った。その瞬間、息が止まる。
冷気が顔にかかった。吐息とは別の冷たい感覚に、肌が震えた。
暫くそうしていると、ムカデ女が今度は指輪を見た。
じっと凝視している。
すると、口角を上げて笑った。
瞬間、フッと指輪に姿が吸い込まれた。
否。
自ら入ったのだ。
すると唐突に金縛りが溶け、体が自由になった。
一気に全身の力が抜け、知華はハァハァと荒く息をした。
胸元を見る。
指輪から禍々しい気が出ている。
それを確認すると、右手に持っていたお札を貼った。
少し抵抗があっが、貼り付けると禍々しい気が少し弱くなったので、成功したと分かった。
そして全速力で走り出す。
後ろから佐藤さんがついてくる。
「成功したな」
香西が「知華が向かった」と報告する声が聞こえた。
「このまま空き地までダッシュや」
言葉を返す余裕はないので、そのまま足を動かし続けた。
電信柱を越えて角を曲がる。
途中、何人か通行人とすれ違う。
何を慌てて走っているのかと、不思議そうに見ている。
さらに後ろから香西がかけてくるので、余計に不思議そうな顔をした。
しかしそんな事お構い無しに、二人は走った。
町を抜けて、稲刈りが済んだ田んぼを突っ切り農道を進む。脇道に咲いていた彼岸花は枯れ、茶色く変色していた。
農道から伸びる小道に入ると、今度は森の入り口に入る。
森の中独特の湿気と涼しさを感じつつ、薄暗い道を走る。喉が熱いくらいに痛い。
「アカン、思ったより悪霊が強い!器が持たんかもしれん!」
佐藤さんが慌てて言った。
確かに、さっきから胸元が熱い。
(これが壊れてたら、那津くんの形見が……!)
知華も焦った。足をもっと早く動かそうとした時、湿った地面に足を取られ、バランスを崩した。
片ひざをついたが、なんとか転ばずに済む。
雨が降っていないのにぬかるんでいる個所がある。
石がゴロゴロとむき出しで、木の根もボコボコと見えているので走りにくい。
わき腹が痛いが、それを無視して走り続けた。
大分近くまで来ている。
(ここを抜ければ、あと少し!)
道が整い、ならされている場所に出た。
近くにベニヤとトタンで作られた簡素な小屋があり、農具が置かれている。ミズチカがいたあの小屋だ。
そこまで来ると、指輪の熱は無視できないほどになっていた。
どんどんと熱くなる。火傷しそうだった。
「悪霊が祓われる気配を感じとる。抵抗して、中から出ようともがいとる!あと少しで安ちゃんがおる所や!走れ!」
知華は自分の体ではないと思うくらい、足を動かした。
ザッと視界が開ける。
小川が見えた。
(着いた!)
そう思うと同時。
待ち構えていた安の姿が目に入る。
その体は薄い青色を纏っていて、霊力を集中させていることが分かった。
安は香西が敷地に入るのを見届けると、安が柏手を打つ。
パン、と鳴り響いた音を合図に安の御経がこだました。
事前に仕掛けていた厳重な結界が張られる。
「知華ちゃん、指輪を!」
知華が鎖を外して、和紙がのった三方の上に置く。
安の近くに置かれた指輪は抵抗して細かく震えていた。
「剥がしてええで」
佐藤さんに言われ、知華がお札に手をかける。
お札の文字も模様も滲んでいた。
悪霊が自ら剥がそうと、お札を穢した跡だった。
知華がピッとお札を剥がすと、黒いモヤが立ち昇る。
吸ってはいけない気がして、知華は香西がいる後方まで下がった。
佐藤さんもそれに倣う。
強力な結界内の真ん中に、安と指輪から出てきた悪霊が残された。
安は白衣に浅葱色の袴姿で待ち受けていた。
神職としての力を一番発揮できる装いだった。
悪霊は今、安が一番狼狽える姿を探している。
安もそれが分かっているので、身構えた。
ゆっくりと黒いモヤが晴れていく。
徐々に悪霊の新たな姿が見えてきた。
ピンクのスニーカー。
柔らかそうなジーパンに、星柄の長袖シャツ。
肩まで伸びた黒い髪。
お気に入りだったうさぎのヘアピンを付けている。
その姿を見て、安は絶句した。
「……圭ちゃん」




