雷雨と老犬②
オマモリサマが、不機嫌そうに二人を見ていた。
明らかに面倒くさそうな顔で、香西を見下ろすように立っている。
「昨日、俺も行くって言ったやろ」
その視線に負けじと、先ほどまでとは打って変わった強気な声で言い返す。
見下ろされるのが癪なのか、香西は立ち上がりオマモリサマと視線を合わせた。
彼が反発心を露わにした事が面白くないのか、オマモリサマは眉間にシワを寄せた。明らかに苛立ちを感じているようだ。
オマモリサマは渋い顔で深くため息をつくと、手をしっしっと動かしながら
「お前はいらん。帰れ」
と冷たく言い放った。
「帰らんわ。お前の方こそ、一人で用事終わらせて早う帰れ。そんでもう近づいてくるな」
負けじと言い返す。
オマモリサマはもう一度香西を一瞥する。
鋭く値踏みするような視線は不快で、香西は顔をしかめた。
オマモリサマは暫く無言で何か考えていたが、無視することにしたようだ。
フッと香西から視線を外し、知華に顔を向け
「知華、そっちの奥に行くぞ」
と声を掛ける。
香西は行くことない、と手で知華の進路を塞いだ。
オマモリサマは構わず
「昨日は奥まで行かんかったからな。もう少し見て回りたい。雨もくるし、じき暗くなる」
と喋りながらこちらに近づいてくる。
そして知華の腕に手を伸ばした所で、その腕を香西にギリっと掴まれた。
しかし全く意に介さず、それをいとも簡単に振りほどくと、小屋から知華を連れ出した。
その力の強さにバランスを崩した知華は香西にぶつかり、「わぁ!」と声を上げたが、それにも構わず進む。
「おい!待てや!」
目の前に立ちふさがったが、オマモリサマは気にせず歩き続けた。
知華は地面から出た木の根に足を取られまいと、下を見ながら歩こうとした。が、いかせんオマモリサマの足取りが早く、つんのめりそうになる。
「ちょっと、待って。足もとが……」
聞こえているのかいないのか、オマモリサマは歩き続ける。
何とか転びそうになるのを回避しながら歩くと、視界に小さな川が映る。
昨日香西が言っていた、水くみをする川だろうか。
そんな事を考えていると、香西が何とか二人の前に出てきて、再び立ち塞がった。
「待て、言うとるじゃろ!!」
胸ぐらを掴みそうな威勢だったが、オマモリサマは面倒くさそうな顔をして
「五月蝿いガキじゃな。なんじゃ。お前、知華の男なんか?」
と香西を見た。
一瞬呆気にとられたが、すぐに「違うわ!」と言い返した。
「だったら、なんじゃ。関係ないならいいじゃろ。早う帰れ」
「いいわけないやろ。羽原はクラスメイトじゃ!そんな乱暴な事する不審者男に連れてかれる所見て、黙っとけんわ!」
遠くから響く雷鳴を掻き消す大きさで、香西が言う。
ぽつ、と雨が降り出した。
冷たい風が頬を撫でる。
しかし、それ以上に冷たい声で、オマモリサマは香西を見据えて言った。
「ガキ。わしは興味がない奴は、どうでもええ。消えろ」
すっと知華の心臓が冷えた。
オマモリサマに掴まれた腕が痛んだのもあるが、それ以上に嫌な予感がした。
はっきりと威嚇された香西は何をされるのかと身構える。
オマモリサマはすっと腕を肩まで上げると、手をぎゅっと握る仕草をした。
すると、香西の動きが止まった。
見る見る顔色が赤くなり、胸を押さえた。
息ができないのか、声も出せていない。
口をパクパクさせているが息を吸えた様子はなく、赤黒い顔色に変わっていく。
それがさらに土色になり、喉あたりに手を当ててかなり苦しそうに見えた。
見たこともない顔色に恐怖した知華は慌てて
「止めて!」
とオマモリサマを見たが、彼は香西をじっと見たまま、視線を外さなかった。
今度は握った手を自分の方に引き寄せ始めた。
すると香西の足が震えだし、ついには立っていられないくらい震え、両膝を地面に突いた。
今や真っ青で目が上転し、意識を失いそうだった。
「お願いします!止めて!!何でもするから!!」
すがるようにオマモリサマに泣きついた。
するとチラッと知華を見て、すっと腕を下げる。
同時に香西が激しくむせ、肩が上下に動くほど荒く息をした。
泥まみれになるのも構わず四つんばいになり、両腕を地面について、何とか崩折れまいと踏ん張っている。
呼吸が出来た様子を見て安堵し、知華は香西に駆け寄ろうとした。
が、ぐいっとオマモリサマに引き寄せられた。
反動で地面に尻もちを着いた知華の耳に
「何でもするんじゃな?」
と嬉しそうな声が聞こえた。
顔のかなり近く、鼻と鼻が触れそうな距離にオマモリサマの顔があった。
生きている人間であれば感じる呼吸や肌の温かさが全くない。
「なら、お前の魂をくれ」
無邪気な子供のような笑顔で、そう言った。
「えっ……」
「知華の魂が欲しい。お前の魂しかいらん」
目が嬉しそうに笑っている。本当に欲しい物をねだる子供のような目だった。
「喰わせろ」
言われた途端、オマモリサマの目に視線が固定され、そこしか見えなくなった。
体なのか意識なのか、ずずっと引き込まれるような感覚に襲われる。
このままではまずい、と本能的に思ったが、引っ張られる感覚は強くなっていく。自分の体を感じることが次第にできなくなり、音も消えた。
何も聞こえない。頭もぼーっとして視界がぼやけ始めた。
その時。
べしゃっと音がして、オマモリサマの目が知華から離れた。
はっと意識が戻ったと当時に、周りの音が一気に耳に入ってくる。
いつの間にか本降りになった雨の音、草木が濡れた匂い。
視界もハッキリとしたので、周りの様子が見えた。
前方に息を切らした香西が立っており、その手には泥が付いていた。オマモリサマは目についた泥を袖で拭っている。
香西が泥を投げつけたようだ。
「大丈夫か?」
香西は心配そうに知華を見ている。
それはこっちのセリフだと返そうとした時、冷たい空気を感じた。
「邪魔、邪魔、邪魔、邪魔、邪魔や」
ブツブツと呟くその声は、荒げているわけでもないのに威圧感があった。
オマモリサマはつり上がった両目で二人を凝視している。
その眼光の鋭さに寒気がし、全身が強張った。
怒りを宿りしたオマモリサマの形相が、見る見る変わっていく。
その目は白目がなく真っ黒になり、口が耳に届きそうなほど裂けていく。
両手は地面につきそうなほど伸び、陽炎のように全身が判然としない。
しかも雨の中にも関わらず、服も髪も濡れていなかった。
「昨日からうざったい。せっかくの馳走の前に……!」
冷たい怒りがビリビリと伝わってきて、二人は硬直した。
「腹が立つ。この一帯、喰い尽くしてやろうか」
オマモリサマが一歩、足を動かした。
すると地震が起きたかのように地面が揺れる。
一歩、もう一歩。
歩みに合わせて、まるで大地がその怒りに怯えているかのように、震える。
すると今度は重力が逆に働いているような感覚に襲われた。見えない手で体を押さえつけられているようで、二人はへたり込んだ。
下に、下に、下に……
体が吸い付いていく。地面に手がつき、腕がつき、上半身がつき、倒れ込んだ。
地面に全て奪われるような感覚。意識も沈み込んでしまいそうだ――
その時。
「そこまでにしておけ」
静かな声がした。
押さえつける力に何とか反抗して、地面から顔を上げる。
二人の前に、小屋にいた老犬が立っていた。
ヨボヨボとした立ち方ではなく、しゃんと足も首も伸ばしている。
老犬はオマモリサマの方をじっと見つめていた。
「久しいな。百年ぶりか」
老犬から発せられたらしい声に、オマモリサマは「その声、ミズチカか?」と返した。
すっと目と口が元に戻り、形相が青年の自然な表情になった。
同時に地面の揺れも、吸い付くような感覚も消え、二人は体が解放され上体を起こすことができた。
ミズチカと呼ばれた老犬は、オマモリサマと知華達の間に立っていた。
まるで二人を庇うかのようだ。
雨の中だというのに、まるでミズチカの体がそこにないかのように、地面だけが濡れて、その体は乾いていた。
一方のオマモリサマは、まじまじとミズチカを見ている。
「その姿、どしたんなら」
「お前と同じだな。長年いすぎたらしい」
「何でその姿を選んどんじゃ」
「お前、犬が苦手だろう。もしまた会えた時に、面白い顔が見れると思ってな。それに、こういう姿のほうが人間に馴染みやすい」
「相変わらず、いい性格しとるな」
どうやら昔からの知り合いのようで、軽口を叩きあっている。
二人は呆然とその会話を聞いていた。
「所でミヅチカ、なんで止めた?お前まで邪魔をするんか?」
「この少年には日頃世話になっていてな。少女にも、どこぞの輩に石をぶつけられていた所を、庇ってもらった。その礼だ」
輩呼ばわりされたオマモリサマは、眉をひそめた。
面白くない、という顔をしている。
「相変わらず、律儀な奴じゃな」
ミズチカをねめつけたが、そんな視線を軽く受け流し
「その面白くない奴に、わざわざ会いに来たのだろう?」
と楽しそうにクツクツ笑っている。
考えていた通りの顔を拝めて満足、といった様子だ。
気分が晴れたのか、表情を変えて今度は静かにオマモリサマを見た。
「私はそろそろこの一帯から離れ、旅にでも出ようかと考えていた所だ。一処に情がつくのも悪くはないが、今は他の景色も見てみたい」
そう言うと
「お前もどうだ、一緒に」
とオマモリサマに声をかけた。
誘われたことが意外だったようで、驚きの顔を見せた。
一瞬の間の後、首を振った。
「いや、まだやりたい事があってな。遠慮する」
「そうか」
ミズチカ短く返事を返すとはくるりと向きを変え、静観していた二人に話しかけた。
「お前たちもあまりおかしな輩に関わるなよ。次は庇えん」
そう言い残すとスタスタ歩き、森の奥に姿を消した。
静かになり、川の流れや雨の音が響く。
オマモリサマはやれやれ、と言いながらへたり込んでいる泥だらけの二人を見た。
「興が冷めた。ミズチカにしてやられた」
そう言うと踵を返し、暗がりに消えていった。
残された二人は呆然とオマモリサマが消えた闇を見ていた。
いつの間にか雨はやみ、雲の間から夕日が差している。
急に寒さを感じ、体を震わせた。
お互いの姿を見ると酷い有様で、制服が泥まみれな上、髪も靴も濡れていた。
家路に向けて歩きながら、二人は短く会話した。
しかし知華の頭にその内容は入ってこなかった。
香西は近くまで送ってくれたが、知華は寒さに震え、歯がカチカチ鳴っていたことしか記憶にない。
運良く両親はまだ帰宅しておらず、散々たる格好は見られずに済んだ。
何とか風呂に入り制服を洗い、鞄に付いた泥を落とした。
すべてが終わると、とにかくその日は倒れ込むように眠った。




