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クリカゲ  作者: 栢瀬 柚花
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笑顔の女



――1954年初夏――


 女は憂鬱そうにトイレットの中でため息をついた。


 今日もやってしまった。


 いつものように上司から書類のタイピングを依頼され、内容を打ち込んでいた。

 内容に誤りがあったので指摘したら、酷く嫌な顔をされた。

「職業婦人め」

 と舌打ちをされ、毒づかれた。

 仕事上では必要なことだったが、男性上司の目は冷ややかで、非難がましい。

 独り言のような言葉しか何も言われなかったので、女は訂正した方がいいのか、しない方がいいのか分からなかった。

 指示が欲しかったのでそう聞くと、

「無能な上司の尻拭いをしてもらえるか?」

 と嫌味に言われた。

 睨まれるような視線を背に受け、トボトボと自席に戻ると、隣の席からじとりと見られた。

 向かいの席からも視線を感じたが、誰も話しかける者はいなかった。

 

 女は職場で肩身が狭かった。

 入社した頃はよかったのだ。

 女性憧れのタイピスト。

 正確性と高度な専門スキルが必要なこの仕事は、どこへ行っても引く手数多だったからだ。

 

 しかし二年、三年と年を経るに従って、空気が変わってきた。

 同時期に入社した女性達が次々と結婚していく中で、女は残り続けた。

 今年で二十四になり、いい加減相手を見つけて退職しなくては立つ瀬がない。


 そもそもタイピストになったのは、父の意向だった。

 女学校を卒業後、父の強い働きかけでタイピスト養成学校に入った。

 母は花形のデパートガールやエレベーターガールにさせたかったようだが、先進的な考えの父の意向でオフィスガールへの道に決まった。


 卒業した頃は職業婦人になったと、近所では評判だった。

 同年代の娘たちが工員としてメリヤス工場、刺繍工場、缶詰工場、マッチ製造工場などで働く中で、一人職業婦人となったのは注目の的だった。

「羨ましいわ」「女性の憧れの仕事ね」とちやほやもされた。

 

 しかし、実際に一人暮らしを始めてみると世間の目は半々で、

「独身の女性が満員電車に揺られるなんて」

「男と机を並べて働くとは」

 と、旧来の保守的な価値観の者たちからは冷ややかな目で見られた。

 アパートではそんな陰口を叩かれているのを知っていたので、近所付き合いは少なかった。

 ただ、小さい頃から父に「女は愛想よくいろ」と躾けられたので、笑顔だけは絶やさないようにしていた。


 女は仕事先でも、その方針を守った。

 しかし皆、女が笑うと眉間にシワを寄せた。

 何故かは分からない。

 もともと内向的な女には、理由を聞く勇気はなかった。


 仕事を片付け、退社時間になると女は帰路につく。

 周りが居酒屋に寄る話をしてるが、誘われたことはなかった。

 会社を出て、駅までの道をトボトボと歩く。

(いつまでこんな肩身の狭い思いをして勤めなくちゃいけないの?)

 内心では不満しかなかった。

 女の人生において、自分自身で決めたことはほとんどなかった。

 全て両親の言われた通りにしてきた。

 だから、せめて結婚相手だけは自分で選びたかった。


 両親からは幾度も見合いを勧められた。

 写真を持ってアパートに押しかけられた事もあった。

 なんだかんだと言い訳をつけて、今日まで逃れてきたが、そろそろその手も限界だった。

(次はどう言って断ろうか……)

 

 俯いて歩いていたのが悪かった。

 前から歩いてきた人とぶつかったのだ。

 反動で尻もちをついたが、いつもの癖で女は謝った。

「申し訳ありません。私が不注意でした」

 叱られるか罵倒されるか。

 そんな言葉を覚悟していたがしかし、何も言われなかった。

 不思議に思い女が顔を上げると、一人の青年が立っていた。

 

 年の頃は女よりも少し下。

 二十歳前で小顔な青年だった。

 くせ毛に上がった眉と目、小さい口。

 その顔立ちは少し無機質な印象を受けた。

「大丈夫か?」

 いきなり馴れ馴れしい口調で話しかけられ、驚いた。

 年下から敬語無しで話しかけられたことがなかったので、女は少しムッとした。

 その様子に気がついたのか、青年は改めて

「すまない。よそ見をしていた。怪我はないか?」

 と優しく手を差し出してきた。

 それを掴むと立たせてくれる。

「大丈夫です」

 と返すと、そうかと笑った。しかし手は繋いだままだ。

 立ち上がってもなお手を離してくれない事に違和感を持ち、

「あの……」

 とオドオドしていると、

「ああ、失礼」

 と笑って解放してくれた。

 その笑顔が先ほどの無機質な印象と違い、とても爽やかに見え、女はどきりとした。

 歳の割には落ち着きのある話し方で、妙な色気もある。細身の体に格好良さを感じた。

 恋に落ちそうだった。

 自分の中に以外な感情が生まれた事に動揺し、女は下を向いて慌ててその場を後にした。


 そこから急いでアパートに帰った。

 戸を閉めると、まだ鼓動が早く駆けていた。

 走ったせいだけではないと自覚があったので、女は顔を赤らめた。


 落ち着こうと水道を捻り水を飲んでいると、戸が叩かれた。

 夜分に誰だろうと思い戸を開けると、大家が立っている。

「今月分の家賃」

 と無愛想に言われる。

 

 大家は年配の男性で、いつも他の住人より早く女の元に家賃請求にやってくる。

 独身女性が一人暮らしをする事を快く思っていないので、少しでも支払い遅れがあれば追い出そうという腹づもりがあることを、女は知っていた。

 しかし滞納をしたことがなかったので、それが更に大家の癪に障っていたのだ。

 今回も例に漏れずきっちりと家賃を支払ったので、大家は面白くないという顔をした。

 そして礼も言わず、バタンと戸を閉めた。



 その日行以降、女の気持は少しそわそわしていた。

 またあの青年に会えないかと思い、ぶつかった場所に意味もなく足を向ける事が増えた。

 会えることは無かったが、それでもささやかな楽しみが出来たので嬉しかった。

 そんな行動がおかしく映ったのか、職場では以前よりも陰口が増えた。

 あからさまに避ける者、口を聞いてくれない者が増えたのだ。

 仕方なく会話をしなくてはいけない時も、皆目を合わせない。

 笑うと怯えたような顔になり、去っていく。

 中には明らかに「ひっ」と悲鳴を上げる者さえいた。

 会話は仕事上の最低限になり、より孤立した。

 

 青年と出会った場所は普通の道なので、何もおかしな事は無いはずだった。

(そんなにも私を邪険にしたいのか)

 腹も立ったし、唯一の楽しみを邪魔されているような気がして嫌だった。

 

 結婚しないことがそんなにも罪なのか。

 仕事をして稼ぎ、給料を貰って自活するのが悪いのか。

 女の不満は日に日に溜まっていったが、笑顔だけは絶やさないように努めた。


 そんな日々を一ヶ月ほど過ごしたある日。

 本日は休日だったので、自室でのんびりしていた。

 念願だったテレビを買ったので、毎日のように眺めていた。特に見たい番組があるわ毛でもなかったが、意味もなく付けて、音を聞くだけでも楽しかった。

 

 この日もいつものように番組を色々と見ていると、戸が叩かれた。

 面倒に思いながらもテレビを消し、戸を開ける。

 そにいたのは大家だった。

 家賃は先日支払ったばかりだったので、女は訝しんだ。

「何か御用ですか?」

 あからさまに嫌な声が出たと思ったが、これまでの仕打ちを考えると可愛い反撃としか思えず、心は痛まなかった。

「あんた、最近どうした?」

 いきなりそう言われ、さらに不審に思った。

 女の生活は至って変わっていなかった。

 青年と出会ったあの道を歩いて帰る事が、日課に加わった程度だ。

 なんのことか分からず、女は

「どういう意味ですか?」

と眉間にシワを寄せた。

 その反応に驚いたのは大家で、

「気づいとらんのか?」

 と目を丸くした。

 全く意味がからず、「はい?」と返すと、大家は小声になり声を潜めた。

「苦情が入っとる。不気味な女がいるから何とかしてくれと」

 余りにも失礼な言葉に女は絶句した。

 自分が何をしたというのか。

 なりたくもないタイピストになり、働いて稼げば嫌な顔をされ、陰口を言われる。

 女は憤慨するとともに絶望した。

 なぜ、ここまで言われながら働かなくてはいけない。

 なぜ、放って置いてくれない。

 なんのために働いている。

 なんのために生きているのか。

 女の中で何かが弾けた。


「そうですか。それはどうも」

 嫌味たっぷりにそう言うと、女は満面の笑みを大家に見せた。

 すると、大家は叫び声を上げて脱兎のごとく逃げていった。

 途中、足がもつれてつんのめり、思い切り頭をぶつけていた。

 それでも逃げることに必死で、フラフラしながら角を曲がり、視界から消えた。

 

 残された女は呆然とした。

 一体なんだというのか。

 皆、女が笑うと嫌な顔をする。逃げる。叫ぶ。

 

 訝しんだ女は、玄関にある姿見鏡を見た。

 そして絶叫した。

 女の口は異様に大きくなっており、まるで裂けたようだった。

 そして笑うと耳に届くかと言うほどに広がり、その異様さは、人間とは思えなかった。

 女はパニックになった。

 絶叫しながらフラフラと部屋に戻り、ダンスやちゃぶ台にぶつかった。拍子でバランスをくずしてテレビの前に倒れる。

 顔を上げると消したテレビに自分が映った。

 裂けた口で笑う女がそこにいた。

 大絶叫し、女はそのまま窓から身を投げた。

  

 


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