黒い影③
陽咲は鍵盤ハーモニカを準備した。
香西では何も見えないかもしれないので、スマホは知華に持たせた。
陽咲によると、影は大抵庭から出てくるという。
毎回ではないらしいが、一番多いのがこの場所らしい。
知華は庭が見える近くの窓にスタンバイした。
「準備できたよ」
安にそう言うと、安の画面にはもう一人女性が映っていた。
二十代後半から三十代前半に見えるその女性は、知華も香西も面識がなかった。
『この方は私の先輩霊媒師で、土地の浄化が得意な片山さんです』
片山は頭を下げた。
『御紹介にあづかりました、片山圓です。安井から話を聞きまして、私の専門分野とお見受けしましたので、同席させていただきます』
これで双方の準備が整った。
陽咲に合図し、鍵盤ハーモニカの演奏を始めてもらう。
陽咲が息を吸い、鍵盤を押す。
明るく華やかな音色が家に響いた。
陽咲は影を呼び出すという大事な役割を当てられ、緊張していた。
音がたどたどしく途切れる事があったが、指の動きを止める事なく演奏を続ける。
一曲では出てこず、同じ曲を引き直す。
それを三回続けた頃、知華の視界に変化があった。
あたりが暗くなり、家の空気がどんよりと重くなった。
クロガネがソファーから母親の膝に飛び乗り、尻尾を丸めた。
母親はギュッと愛犬を抱き、体を強張らせる。
陽咲から聞いていた反応をクロガネが示したので、香西はハッとして水槽を見る。
水槽の水面が細かく揺れている。まるで地震が起こった時のようだった。
知華の耳では耳鳴りがしていた。高音ではなく、低いボーっとした音だった。
庭にスマホを向けたまま耐えていると、ぬうっと地面から黒い影が頭を出した。
その影はずんずんと出てきて、全身が現れると優に三メートルを越していた。
流石にここまで大きいとは思っていなかった。もっと人並みの大きさを想像していたので、知華はカメラに全容が入っているかと心配になった。
せっかく安や片山が視てくれているのだ。少しでも判断材料になる物を届けないと、という使命感を感じた。
全身が現れた影はのっそりと姿勢を整えると、ゆっくり歩き出した。
陽咲の言う通り、家の外周を回り始める。
庭を出るとキッチンの方向に行き、小窓にチラッと姿が映った。
影を追って廊下に走る。今度は廊下の窓に映り、玄関のガラスに透け、また庭へと戻った。
それを順繰りに繰り返す。
聞いていた通り、室内に入ろうとする様子はなく、家の外周をただ練り歩くだけだった。
影が歩く振動で水槽の水面は揺れ、ガラス食器やコップなどがチャリチャリと鳴る。
五周もすると影は立ち止まり、西の方向を向いて動かなくなった。
そこで『もうええよ』と安の声がした。
知華がカメラをインカメに切り替え、自分たちを映す。
全員が安と片山を見ていた。
陽咲は
「どうだった?影の言葉、わかった?」
と一番に口を開いた。
『その前に、皆さんにはどう映ったか伺ってもいいですか?』
片山がまず、母親を指名した。
オドオドしながらも、母親は答える。
「影のようなモノは、ぼんやりとしか見えませんでした…。クロガネが飛びついてくるので、それを宥めるのが必死で。私ははっきりと見た事はないんです」
頷いて聞くと、片山は
『次は香西くん』
と指名した。
「えっ、俺も?」
家人だけが振られると思っていた香西は油断していた。
『そうです。その場にいた貴重な人間ですから。見えないと聞いていますが、どうでしたか?』
「いや、俺には何も。クロガネが震えて、水槽の水面が揺れとったから、来たんやなと思っただけです」
香西の答えに片山は頷く。
『じゃあ、陽咲ちゃんはどうだった?前と違うことがあった?』
陽咲はぶんぶんと首を振った。
「なかったよ。大きさも変わらんし、ぐるぐる回るのも一緒」
ふんふんと聞くと、『最期に知華さんは?』と振られた。
「影が出てくる前、あたりが暗くなりました。部屋の中も重苦しい空気になって、そしたらクロガネが反応してました。影は頭からゆっくり庭の中心から出てきて、全身が出ると三メートルはありました。そのままゆっくり反時計回りに家の外を五周したら、今いる位置で止まりました。室内に入ってくる様子はなかったです」
仔細に返答した知華を見て、母親も陽咲も驚いた。
「お姉ちゃん、凄いね!そんなに見えてるの?」
にっこり笑うと、「でも声は聞こえなかったよ」と教えた。
「確かに影には口も鼻も目もなかった。歩く時は腕?みたいなものをゆっくり振ってたけど、動きに合わせて揺れてる感じで、人間みたいに動かしてるって訳じゃなさそうだった」
そう言うと、片山は知華に礼を言った。
『知華さんのおかげでわかりました。あれは土地神です』
「土地神?」
片山は頷くと、説明を始めた。
ここで言う土地神は地主神の事で、その土地に代々宿る神、あるいはその土地の自然そのものを神格化した存在を指すらしい。
普段は地中にいるが、今回は自分が守護する土地が穢され、自身も黒くなったそうだ。
時折地上に姿を現し、黒い影として家の周りを見回り、穢を自身に取り込んで土地を守ろうとしていると教えてくれた。
『助けを求めているというのは、自身に取り込む穢が限界に達しそうなので、土地が危ないと訴えたかったようです』
影に恐怖を抱かなかったのは悪意がなく、土地を護ろうとしていたから、という訳だ。
解説されると母親は納得したようで、すっかり警戒心は無くっていた。表情も穏やかなものに戻っている。
「土地を穢しとる原因は分かったんですか?」
『それは現地でないと、分かりません。家の周囲を見てみないと、何とも言えないので。ただこのままにしておくと、ご家族に害が出てきます。抑えられなくなった穢が湧き出して、体調を崩したり仕事が上手くいかなくなったり、霊を呼び込む事にもなるでしょう。家の中でも影を見たり、音がしたりすると思います』
事態は室内にも及んでくる、という事らしい。
それから母親は正式にお祓いの依頼をした。
懐疑的な夫には知られたくないので、日にちを選びたいと詳細な話をすることになった。
母親と片山が連絡先を交換すると、その日は終了した。
電話を切る前、安は母親に『香西くんに、家に着いたらわたしに電話をするように伝えて頂けますか?』と伝言を残した。
「今日はありがとうね、香西くん」
玄関先で二人を見送る時、謝罪と感謝をされた。
「疑心暗鬼になって、嫌な事を言ってしもうたわ。本当にごめんなさい。二人が来てくれんかったら、家族内で喧嘩になっとったと思う。このお礼はまたさせてな」
笑顔で親子に見送られ、知華と香西は家路についた。
問題はここからだった。
安への電話だ。
「気がすすまんなぁ」
山本家を出た二人は、道端で立ち尽くしていた。
香西は充電が少なくなったスマホを片手に、渋い顔をした。
安への折り返し電話を躊躇しているのだ。
あの状況では仕方なかったとは言え、どんな仕打ちが待っていることやら。
覚悟を決めあぐねる香西を見て、知華は「ウチで電話する?」と提案した。
「知華の家?」
気軽に相談にのったのは知華だ。
あの場に一緒にいた者として、お咎めを受ける必要があると述べた。
「お互いスマホの充電少ないし、途中で切れても困るやろ?お母さん帰って来とるけど、何にも言わんと思うからさ」
香西は考えあぐねたが、知華の案が最良だと思ったようで、二人で羽原家に行くことにした。




