黒い影②
陽咲の家は平屋の一軒家で、まだ築浅だった。
見るからに新築と言った風で、床も壁も日焼けはなく、白で統一されたモダンな造りだ。
外壁も汚れがなく、ポスト、置き配用の建付けBOXが見える。
玄関内にはハーバリウムやディフューザーが置かれ、いい香りがした。
陽咲の両親は仕事中で、もう少ししたら母親がパートから帰ってくるという。
母親には香西が家に来ると伝えてある、と陽咲が教えてくれた。
お邪魔します、と足を踏み入れた知華は、早速家の中を探ってみる。
しかし何も感じなかった。
あえて言うなら、体が重いくらいだ。
「こっちがトイレで、向こうがお風呂。いっつも音楽の練習しとるのはテレビの部屋」
陽咲が意気揚々と自宅案内をしてくれる。
どこも清潔で、部屋ごとに違う香りのディフューザーが置かれていた。
インテリアも統一されており、家族のこだわりが見て取れた。
そしてどの部屋にも霊はおらず、平穏だった。
「知華、どうや?」
一通りの案内が終わったところで、香西が尋ねた。
知華は「何もないよ」と全ての部屋に異常がないことを伝えた。
「今はね、影はいないの。練習してたら必ず出てくるけど、してない時にも出てくるんよ」
そう言って陽咲は、リビングにある水槽を指差した。
中にはメダカが十匹ほど泳いでおり、水草が優雅に揺れている。
「あの水槽が揺れるから、出てきたら分かるんよ。水の上がもわもわ〜んてなる」
水面が揺れる、と言いたいのだろう。
「あとはね、クロガネの尻尾がキュッてなる」
そう言うと陽咲は「クロガネ〜」とソファーの上で寝ている犬を掴み、二人に見せた。
黒いトイプードルだった。
毛色が黒いのでクロガネらしい。体格に合わず、仰々しい名前がつけられていた。
起こされたクロガネは目を開け、陽咲を見ると小さく尻尾を振った。
そして来客の二人を見る。
威嚇されないので、大人しい性格のようだ。
「影が出てきたら尻尾がキュッって丸くなって、クロガネがお母さんの所に来るの。抱っこしてって、ぴょんぴょん跳ねるんよ」
クロガネを抱えてながら、軽くジャンプして再現してくれた。
影の存在に怯えて、飼い主に助けを求めているという事だろう。
クロガネは抱っこが嫌なのか、陽咲の腕の中で体をモゾモゾ動かした。
察した陽咲が床に下ろしてやると、香西の元へ来てふんふん匂いを嗅ぐ。
次いで知華に近寄るとピタッと動きを止めて、じっと見つめた。
そしてそそくさと定位置らしいソファーにもどり、クッションに潜り込んだ。
「クロガネのお気に入りの場所なんよ」
ソファーに近づき、ポンポンと背中を叩き、撫でてやる。
今のクロガネの反応からすると、影はいないようだ。
「影を見るようになったのは、いつから?」
知華が床の絨毯に腰を下ろし、陽咲に尋ねた。
「うーん、運動会が終わってから」
……それはいつだろう。
知華が小学生の頃と同じ時期なら、十月くらいのはずだ。
「たしか、俺らの文化祭と被とったはずで。文化祭行きたいって言うから日にち教えたら、運動会と同じってがっかりしとったから」
香西が思い出して教えてくれた。
ということは、かれこれ一ヶ月になるという事だ。
「その影は、初めて見た時から何か変わった?」
知華に聞かれ、陽咲はうーんと人差し指を頬に当てて考え出した。
「大きくなったのと、沢山出てくるようになった。あとね、『助けて』って言うのが増えた」
状況は悪くなっている、という事だろうか。
いずれにしろ、放って置くと住人である陽咲の一家に影響があるかも知れない。
まずは影を見ないことには、情報は増えそうにないと思えた。
しかし、今ここで影を呼び出しても良いものか。
今まで影が直接的な干渉はしてこなかったようだが、穢が多い知華がいる事で、何か影響が出たりしないのだろうか。
知華は香西にその考えを伝えた。
「確かにな。そこまでは考えて無かったわ」
ただ見るだけ、と香西も安易に考えていた。
もし人様の家で何か起これば、責任が取れない。
それに陽咲を巻き込む事態だけは避けなくては。
年上二人が頭を抱えているのを見て、陽咲は何となく状況の困難さを理解したようだ。
「お母さんが帰って来るの待つ?もうすぐだよ」
そう教えてくれた矢先、玄関ドアが開き母親が帰宅した。
お母さんだ、と陽咲は駆けていく。
玄関の方で「誰か来てるの?」と声がした。
「香兄ちゃんだよ。朝、お母さんに話したじゃん」
「あれ?今日だったん?二つ靴があったのは?」
「香兄ちゃんの友達のお姉ちゃん」
親子の会話が終わると、リビングに続くドアが開けられて母親が姿を現した。
二人は「お邪魔してます」と頭を下げる。
「香西くん、ごめんな。陽咲が変な事頼んだんじゃろ?」
買い物をして帰ったようで、大きなマイバックを抱え部屋に入ってきた。
キッチンにそれを運びながら母親が謝罪する。
「いえ、大丈夫ですよ。陽咲から話は聞いてたんで。家族みんな、困っとるんですよね?」
その言葉を聞くと、母親の眉間に少し皺が寄った。
コートを脱ぎながら、
「あんた、どんな話したんよ」
と子供をたしなめている。
小声で陽咲に「人には言っちゃ駄目」と囁くと、知華達をチラッと見た。
なんともぎこちなく、作り笑いと分かる顔で
「いや、大したことじゃないんよ。きっと気のせいじゃし、変な事はないから。心配せんで」
と努めて明るく言った。
手に持っていたコートをさっさとかけ、忙しなく《せわしなく》動きながら多弁に話をする。
「困ったわ、こんなに心配かけてしもうたなんて。家鳴りとかだと思うから、旦那も心配ないって言っとるし。ほんま、気にせんでね。嫌だわ、もう。人様にこんな話を聞かれんなんて。恥ずかしい」
体も口も動きを止めることなく、不自然だ。バツが悪いというには、違和感がある行動だった。
陽咲はいつもと違う事を言っている母親に困惑し、なぜ怒られたのか分かっていなかった。
「お母さんも困っとるじゃん!お父さんが信じてくれんって。また出てきたら嫌じゃなって。香兄ちゃんに話したって言った時も、『そうなん』って笑ってたじゃん」
納得いかない様子で母親にすがりついた。
「陽咲、やめて」
作り笑いを知華達に向けたまま、母親は声だけ静かにトーンを落とし、足元にすがる陽咲をたしなめるように言った。
しかし陽咲は続ける。目に困惑と悲しが沈んでいるが、諦めてはいなかった。
「助けてくれるかもって話したら、『助かる』っていうから、香兄ちゃんに来てもらったのに」
「陽咲、やめて」
話を切り上げたい母親の方は、陽咲の言い分を認めなかった。そして表情なく我が子を見つめ、
「人前で言っちゃダメでしょう」
言い含めるにしては冷たい声で言い放った。
知華と香西は思わず硬直した。陽咲は顔が凍りついている。
それをなかったかのように、ふたたび作り笑いをする。知華と香西を見ると、
「こんな妄想に付き合わせてごめんね。お菓子でも持って帰って。好きなの取っていいから」
そそくさとテーブルにお菓子の袋を何個か置き、困り顔で二人にそう言った。
早く帰ってほしいと暗に言っている。
妄想と言われ、剃刀のような視線を向けられた陽咲は、ショックで泣きそうな顔をしていた。
母親は娘の様子に気付かず、
「さぁ、どれがいい?これは新作なんよ」
と二人を急かしていた。
明らかに様子がおかしい。
いくら超常的な現象の話を娘がしたからといって、あそこまで露骨に態度や表情を変えるだろうかと訝しんだ。
知華が困惑していると、香西がスッと前に出て、静かにテーブルの前に座った。
母親は
「香西くんにはこれかな?あんまり甘くないほうがええよね?」
と指差している。
そんな言葉を無視して、香西は真っ直ぐ母親を見て言った。
「山本さん。黒い影が家の周辺を彷徨くんですよね。見えるようになって、かれこれ一か月になるとか」
ぎこちない母親の笑顔が瞬時に消えた。
「今は体調に影響ないみたいですけど、影が大きくなっとるって陽咲が言ってます。このままやと危ないかもしれません」
直球で勝負に出た香西の作戦は成功し、部屋は静まり返った。
母親はじっと香西を見ている。その顔つきは、知華が見たこともないほどに怒りと困惑に満ちていた。
「そんなおかしな事なんて、起こってません」
これまでの愛想良い声とは違う、低い声だった。
「言いがかりみたいな事、言わんで下さい。ここに越してきて平穏に暮らしてます。それに、あなたには関係ないでしょ?」
冷たい声と白い目つきにも、香西はひるまなかった。
「世間体とかを気にしてなら、心配せんでください。他の人に言いふらそうとか思ってません。陽咲が困っとるから話を聞いて、来たほうがええと判断したんです。それに妄想なんて言わんで下さい。陽咲が泣きそうですよ」
その言葉で初めて母親は娘を見た。
目に一杯涙を溜めた陽咲は、声を出さずに泣いていた。
子供なりに大事な話の邪魔してはいけないと思ったのだろう。
香西はそんな健気な幼心を踏み潰す事はしたくないと思い、母親の説得を続けた。
「知り合いにこういった事案を得意とする者がおります。歳は俺らと同じですけど、経験豊富な上の人達もいます。まずはその人達に相談してみませんか?」
母親は泣いている陽咲を引き寄せ、抱きしめた。
しかしそれでも目つきは険しいままで、陽咲の耳を手で塞ぐと、キツイ口調で言葉を吐いた。
子供には聞かせたくない、という事だろう。
「そんな事言って、お金をとるん?高校生なのに詐欺師の真似事?警察に通報するで!」
脅された香西はしかし、表情一つ変えなかった。
母親の感情が高ぶるにつれて、香西は逆に冷静になっていった。
「詐欺じゃないし、騙そうとも思ってません。あなた達一家に不利になる事は何もありません。今、この家で何が起きてるか分かるだけでも、気持ちは軽くなると思いますけど、どうしますか?」
香西はスマホを取り出した。
安の連絡先を表示させ、母親に見せる。
「知り合いにすぐに連絡して、家の状況を視てもらうことは出来ます。勿論、お金なんて取りません。視てもらった後で、やっぱり不振だと思ったら警察に連絡してくれても構いません。旦那さんに言っても結構です。俺等にやましい事は何もない」
一気にそこまで言うと、香西は最後「どうします?」と母親の判断を仰いだ。
母親は無言で、じっと香西を見た。
その目にわずかに動揺が見て取れた。
抱きしめた娘を一瞥し、また香西を見る。
母親の中で相当なせめぎ合いが行わているのが分かった。
香西はそれ以上は何も言わず、ただ母親の言葉を待った。
後ろで見ていた知華は緊迫なやり取りに、身の置き場が無かった。
全てのやり取りを香西が済ませてしまい、ただ静かに事の顛末を見守ることしか出来なかった。
数分間の熟考の末、母親は「お願いします」と短く言った。
香西はスマホを操作し、安に電話をした。
知華は多忙な安の状況を知っていたので、繋がるかはらはらした。
静まりきった部屋に、電話の呼出音だけが響く。
運良く安は数コールで電話を取った。
『那津?どしたん、急に』
スピーカーにしていなかったが、静まり返った室内には会話が筒抜けだった。
「安井、緊急なんやけど、今ええか?」
『知華になんかあったん?』
急に緊張感を孕んだ安の言葉に、知華は驚いた。
普段から気にかけ、身構えてくれているのだと分かる。
「いや。他の人の事でな。今、問題が起こっとる家に来とって。何が起こって、どんな状況なんか見て欲しいんよ」
数秒の間のあと、『はぁ?!』と驚愕の声がした。
『依頼人の家に入っとるって事?』
「ああ。ちなみに、目の前におる」
『はぁ?!!』
程より大きな声が辺りに響いた。
『あんたな、なんでそんな突拍子も無い事しとん!そういうのは手順があるんよ!勝手に決めて動いて!依頼受ける前に、信頼関係にヒビが入るやろ!!』
「すまん」
反省していなさそうな声で香西は謝罪した。
「ちなみに、この会話も全部聞かれとるからな」
『はぁ!?』
三度目の驚嘆の後、沈黙した。知華は電話の向こうの困り果てた安の顔が浮かぶようだった。
しばしの気まずい沈黙の後、安は接客モードに切り替えた落ち着いた声で、
『そんで、依頼内容は?』
と聞いた。
知華には(後で覚えていろ、那津)という安の言葉聞こえた気がした。
安の反応から事前に打ち合わせをした訳では無いと察したのか、母親の目から懐疑心が薄れた。しかしまだ顔は警戒し、香西を見ている。
香西は事の次第を順に安に説明した。そして最期、泣き止んだ陽咲に「俺が言った事の他に、伝えたい事があるか?」と聞いた。
一番長く現象を見てきたのは陽咲だ。
彼女に聞くのが手っ取り早いし、信憑性もある。
陽咲は母親にすがっていたが、気持は落ち着いたようで、泣いたあとのかすれ声で話してくれた。
「影はな、助けて欲しいんよ。ずっと困っとる。お姉ちゃん、出来る?」
電話の向こうで、安が優しく声をかける。
『大丈夫やで。お姉ちゃん達は皆強いし、ちゃんと影の声を聞ける人もおるからな』
「ほんま?お口がなくても影の言いたいこと、分かる?」
『分かるよ』
陽咲は安心したように笑った。
安は『那津、今度はカメラ付きにしてくれる?』
と頼んだ。
香西が設定すると、全員の顔が見えるようにスマホを調整し、テーブルに立たせた。
久々に見る安は、やはり少し痩せていた。
知華にはカメラ越しでも佐藤さんの姿が確認でき、佐藤さんが知華に向かって手を振られているのが分かった。
不自然になるので頷いて返すにとどめた。
安はここで初めて母親の顔を見ることになった。
いつもと違う丁寧な言葉遣いで、まずは香西の非礼を詫びた。
その後、改めて影の原因を探ることを説明した。
『今出来るのは、影がどんな者が視る事です。もちろん、代金は頂きません。視た者の対処は現地でないと出来ません。本当に視るだけです。それでもよろしいですか?』
母親は了承した。
そしてついに、影を呼び出すことになった。




