黒い影①
家の外で、歩く影ある。
それはのっそりのっそりと、まるで家の周囲を見回るように練り歩く。
歩くたびに、水槽の水が揺れた。
飼っている犬が尻尾を丸めた。
いや、ただの影ではないと、最近気がついた。
ちゃんと頭も手も、足もある。
しかし顔は輪郭だけで、目や口はない。
しかし、あまり恐怖心はなかった。
ただ、その影が助けを求めているような気がした。
母はこの影に気がついている。
父は気付かないふりをしている。
少女は気がついて、話を聞いてあげたかった。
だが口がないので話ができない。
誰か、わかる人がいればいいのに――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
公園の片隅、自動販売機の前のベンチに座っている二人分の姿がある。
傍らの花壇には色とりどりのコスモスが咲き、秋風に揺れていた。
近くにある池には、ススキが真っ白な穂を垂らしている。
空は高く、まさに秋晴れだった。
昨日降った雨は日中の快晴ですっかりと渇いている。
昼間の暖かさは午後四時を過ぎたこの時間には無くなり、少し肌寒くなっていた。
知華は放課後、香西と公園で話していた。
珍しく香西から相談がある、と言われたからだ。
両親との一件以来、二人は一緒に帰ることが増えた。
奈海も加わる事があったが、最近は塾の全国模試が近くなったので、帰りは二人になることが多かった。
知華は奢ってもらったホットドリンクで暖を取りながら、香西の話を聞いていた。
マフラーや手袋をするにはまだ早いが、温かいものが恋しくなる寒さだった。
「最初に会った時、近所の女の子の話したの、覚えとるか?」
彼は知華の隣に座り、すでに飲み干した缶をもて遊んでいる。
「うん。小さい子なんやろ?」
ミズチカがいたあの小屋で話していた少女だと思い起こす。
適当にあしらったら付きまとわれ、仕方なく相手をしていたら懐かれたと言っていた。
「小三なんじゃけど。その子が今、困っとるみたいで」
「ちょっと待って。それは小さいんかな?」
話からもっと幼子、保育園児くらいを予想していた知華は、首を傾げた。
「小さいやろ、身長なんて百三十もないんやで」
きょとんとして香西が言う。
身長は個人差があるのでは、と思った。
香西の『小さい』基準は身長らしい。
「そんで、その子が最近変なこと言うんよ」
「変な事?」
「『黒い影がお家の外を歩いとる』って。母親は気がついとって父親に相談しとるみたいなんじゃけど、父親の方は信じたくないちゅーか、信じんようとせんらいし」
そういったことに懐疑的、という事だろうか。
霊感を持っているのは男性よりも女性の方が多いと、安が言っていた。
もともと女性は物音や気配に敏感なので、その影響らしい。
例えば夜寝ていて物音に気が付き目が覚める、といった描写は女性に多い。
男性は肉体的な力はあっても、第六感的な部分では敵わない事が多いそうだ。
そういった事が関係してか、女性の話を信じない男性は多いと傾向にあると聞いた。
特に見えない、感じない物に対する許容性は低いので、お祓いでも男性を説得する方が骨が折れるらしい。
もちろん、場合によるが。
「女の子、陽咲って言うんやけど。最初に影に気がついたのは陽咲で、影も小さかったらしい。だんだんと日が経つにつれて大きゅうなって、メダカ飼っとる水槽が揺れたり、犬が怯えたりするようになったら、母親気がつくようになったんやって。母親は怯えとるみたいじゃけど、陽咲は違ごうて『影が困っとるから助けてあげたい』って言うんよな」
知華は目を丸くした。
話の流れからして、怖いから帰りたくないとか、なんとかして欲しいという相談かと思っていた。
「助けてあげたいって、陽咲ちゃんは影と話が出来るん?」
小さい子は霊感があるとよく聞くが、そのタイプだろうかと思い、尋ねた。
しかし香西は首を振る。
「いや、陽咲はできん。見えるだけらしい。その影の方も顔はあっても口がないから、出来んらしい。じゃけど何となく分かるんやって」
「うーん、なんか感じとるんかな?」
黒い影は良くない者が多いと、以前安から聞いたことがあった。
しかし陽咲が恐怖を感じていないと言うことは、悪い者ではないのかもしれない。
悪霊や良くない者であれば、本能的に恐怖を感じる。
知華の場合、霊の見た目に関わらず、良くない者であれば悪寒がしたり鳥肌が立ったり、心臓が跳ねたりする。
子供大人に関わらず、そう言った本能は感じるものなので、害意は低いと思われた。
「陽咲ちゃんが怖さを感じてないんやったら、あんまり悪い者じゃないんかも……。そんで、あたしは何をすればええん?」
「ちょっと家に行って、その影を見て欲しいんよ。見るだけでええから。知華が危険を感じるものなら、早めに安井に連絡せんといけんし。危険がなくても、連絡はするけどな」
「分かった。ええよ」
そう言うと、香西は立ち上がり缶を自販機横にあるゴミ箱に捨てた。
「んじゃ、行こうか」
二人は公園を出て、香西の家に向けて歩き出した。
道中、香西はさらに事情を説明してくれた。
「十日後、音楽発表会があるらいんじゃけど、本番までになんとかして欲しいらしい」
音楽発表会は、この地域の小学校全てが参加する行事だった。
小学校三年生と四年生が合同で、課題曲と選曲を一つずつ合奏する。
当日は市民会館を貸し切って行われ、地元のケーブルテレビも入り別日に放送されたりもするので、児童たちは気合が入るのだ。
知華の頃にもあった恒例行事だった。
「そんなのあったなぁ。市民会館で発表するやつじゃろ?」
「そうそう。俺らの時はめっちゃ雨降って、会場入る頃にはびしょ濡れになったんよな」
懐かしそうに身を細めているが、同じ日に参加したはずの知華に、その記憶にはない。
「そうやっけ?」
「どの学校の生徒も濡れとったで。翌日風邪で欠席する奴、何人かおったから覚えとる。寒くて鍵盤ハーモニカの鍵盤押せんかったよんよな」
香西は時々、記憶力が凄い。
オマモリサマと対峙した時もそうだったが、よく覚えているなという些細なことを口にする。
「全然覚えてないわ。そんで、発表会が影のオバケとなんで関係してくるん?」
「ああ、話が逸れたな。発表会で陽咲が鍵盤ハーモニカを担当するんじゃけど、家に持って帰って自主練しとるらしい。その度にその影が出てくるんやって。嫌そうにはしてはないらしんじゃけど、気軽に練習出来んで困っとるから、早めに解決して欲しいって頼まれたんよ」
なるほど。事情は分かった。
鍵盤ハーモニカを吹くと出てくる、というのはよくわからないが、見るには都合がいい。
相手のタイミングを待たずして会えるに越したことはない。
陽咲の家は香西のすぐ隣だ。
家の近くになると、道路で待っている女の子の姿があった。
家の外壁に寄りかかり、暇そうにしている。
長袖のパーカにジーンズという格好で、小三にしては細く小柄な子だった。
「あの子が陽咲やで」
知華にそう言うと、香西はおーい、と陽咲に声をかける。
陽咲はこちらを見ると、にこっと笑って手を振った。
二人が陽咲に歩み寄るよりも早く、陽咲の方が駆けて近づいてきた。
「香兄ちゃん!お話出来る人、来てくれた?」
駆け寄って来るなり、そう聞いた。
そして隣の知華に目をやる。
「もしかして、このお姉ちゃんがそう?」
「ああ、そうやで」
返事を聞くと、すぐに自己紹介してくれた。
「山本陽咲です。あんな、あたし黒い影呼べるから、見てほしいの」
確かに人懐こい性格だ。
年上にも尻込みせず話しかけてくる。
体格のいい香西に付きまとうくらいだ。自分と違い、社交性は相当高そうだと知華は思った。
「羽原知華だよ。香西くんとは同じ学校なんよ」
そう言うと、陽咲は顔を輝かせた。
「もしかして、香兄ちゃんがよく話してるお姉ちゃん?」
「よく話してる?」
それを聞くと、香西の耳が赤くなった。
「ほっとけないとか、見てられんってよく言っとる。あとはなぁ、気になるって」
「勝手にペラペラ喋るな!」
香西が慌てて陽咲の口を塞ごうとしたが、陽咲はひょいと掻い潜った。
慣れている動きだ。
「香兄ちゃんはな、こんなに体おっきいのに、よくウジウジすんの。はっきり言えばええのに、『それはー』とか『でもなぁ』とか、言い訳ばっかりなんよ。お父さんと一緒!そう言う男は駄目だって、お母さんが言よった」
何となく家庭の力関係が見え、知華は苦笑いした。
それにしても、香西にウジウジしている印象はない。はっきり発言している姿も学校で見ているので、イメージと合わなかった。
慌てたのは香西で、
「そんな女々しい事ないで。ちょっと話しとった事を勝手にあれこれ言っとるだけじゃけ!」
と、知華に弁明するように言い募った。
知華はというと、顔に手を添えて思案しているようだ。
「香西くん、そんなにウジウジしとらんけどな。いっつも意見ははっきり言うし、怒る時は怒るし。なぁ?」
最後は香西に聞き返すように、顔を見てきた。
香西は慌てて弁明したのが恥ずかしいのか、気まずそうに頭をかいて、
「まぁ、そうやろ?」
とだけ返した。
内心では知華に優柔不断と思われていないことが分かり、安堵した。
それを見た陽咲は、
「そういうとこなんよ、香兄ちゃん。お姉ちゃんにいいとこ見せようとしても、すぐにバレるんよ。お父さん、いっつもお母さんにバレとるもん」
と諭すように指摘した。
その姿はまるで小さな姉のようだと、知華は思った。
「ほんま、最近の子供ってこんな感じなんよな。大人っぽいちゅーか、可愛げないちゅーか…」
呆れ顔で独り言の様に香西がぼやいた。
こんな調子では、あの香西が付きまとわれるのも納得だ。振り払うのも大変だろう。
「そんな事言よったら、影のオバケ見てやらんで」
香西は脅すように言ったが、これが逆効果だった。
「見るのは香兄ちゃんじゃないやろ?自分がする、みたいに言わんの!」
本当にしっかりしている。
香西は面白くないという顔をした。
学校では絶対にされない扱いに知華は笑いを堪えようとしたが、抑えきれず声が漏れた。
くつくつ肩を震わせているのに気がついて、香西はさらに渋い顔をする。
ひとしきり笑うと知華はなんとか感情は鎮まった。
陽咲に、
「お姉ちゃんが見るから、案内してくれる?」
と伝えた。
陽咲は「ええよー」と家へ向けて走り出した。
やれやれと二人は陽咲の後について行った。




