庭で
真冬になった山は深々と冷えていた。
手水場の水は凍り、その上に茶、赤、黄色の落ち葉が重なり、霜が降り、白く凍らせた。
雪こそ降っていないが曇天の空は重く垂れ込み、霜は毎朝の様に降り、土の道に霜柱を立てた。
歩くたびにザクザクとした感触が足に伝わるのが好きで、小さい頃はあえて霜柱が立つ道を選んでいたと、安は思い出す。
今でもあえて踏みに行っていると、まだ幼子心が残っている自分を笑った。
白い息を吐きながら、安は下宿先の家から神社に向かっていた。
連日、紅野の指示で県内あちこちのお祓いに動いた。
それが一段落し、今日はやっと知華の件に取り掛かれる。
仕事の後や前など、少しの隙間時間を探しては下宿先で何か資料になるものがないかと、ゴソゴソと漁ったものの、これといった収穫は無かった。
残るは一階、北側にある書庫だ。
弟子たちで時折虫干しをしていた事があるが、普段は簡易な鍵がかかっており入室出来ない。
そこには紅野の師が書き残した手記が残されている。
(希望があるとしたら、そこ)
安はずっとそう思っていた。
知華と香西には喫茶店で顔を合わせて以降、会っていない。今はメッセージのやり取りしかできず、声を聞きたい衝動に駆られていた。
知華の穢が良くなっていなかった。
その衝撃がずっと安の中に雷の様に鳴り響き、心をざわつかせている。また、あの時の知華の不安顔が安の瞳の奥に張り付いて消えなかった。
(空き時間ができるのを待ってちゃダメだ。今みたいにズルズル先延ばしになっちゃう……)
修行をこなしながら、最近の安はずっとそう考えていた。
(お師匠と交渉して、時間を作ってもらわなきゃ)
紅野と直接会うのも久々で、霊道封鎖の報告をして以来だった。電話のやり取りが多く、下宿先にいたとしても、神社まで赴く事がなかった。
知華の穢が晴れていないという衝撃の事実は、話を聞いて早々に紅野の耳に電話で入れていた。
紅野はそれを聞き数秒黙っていたが、
「……そうか。難しいな」
と呟いた。その静かな声の中に戸惑いが感じられ、あの紅野でさえ頭を抱える案件になった。
「他の者にも聞いてみよう」と言っていたが、果たしてどうなったのか。
安は本日、これを聞きに来たのもある。
(あれから二週間は経った…。知華にはブレスレットの浄化方法も教えたし、あれ以上穢が増えることは無いと思いたい)
後半は安の願望だ。
あんなにも穢がついてしまったら、きっと色んな怪異に気づかれる。
しかし知華は、おばさん地縛霊以外に襲われてはいなかった。
霊道封鎖の女の子は、香西がきっかけを作ったので所外していいだろうと考えていた。
これが不幸中の幸いか。
普段から身につけてくれているブレスレット、家の対策、入浴による体の定期的な浄化で事なきを得ているのかもしれない。
いづれにしろ、今後も悪霊を凌げるとは思えない。
放って置く分けには行かない。
穢そのものを浄化しなければ安心出来ないのだ。
神社が見え境内に入ると、いつものように社務所に声を掛ける。
そのまま待っていると、神社の庭に来るよう言われた。
庭は日本庭園で、本堂の奥にある。
本堂から本殿へ向かう時に見えるため、安は殆ど見たことがなかった。神聖な場所であるため、滅多なことがない限り、立ち入れない場所。数年に一度行われる開放日に、一週間ほど公開されることがある程度だ。
(そんな場所に呼ばれるなんて、珍しいな)
安は本堂に向かい、内陣に入る。
そこからさらに奥の襖を開けると、立派な庭園が姿を現した。
ここでは神事が行われない。
山をご神体とするこの神社では、この庭が一番それに近い場所にある。
そのため庭は神聖な場所として非公開となっていた。
庭の中心に紅野の姿はあった。
紅野が立っている場所は踏み石の部分で、そこからは手入れされた立派な庭が一望出来た。
苔むした地面に立派な松や椿が幾つも植えられている。
苔は見るからにふかふかで、先ほどから顔を出してきた朝日に霜が溶けて露になり、キラキラと光っていた。
「お師匠。安です」
紅野は背を向けて立っていたが、安は何時ものように頭を下げて挨拶をした。
「来たか」
紅野は自分の隣に来るよう促した。
隣に移動すると、紅野は静かに庭を見つめたまま話しかけた。
「知華さんのことは残念だった。まさか、原因が家族以外にあったとはね。あれから、大事ないか?」
知華に悪霊や怪異の影響がないか、と聞かれているとわかり、安は「はい」と返す。
「ブレスレットの浄化は伝えました。知華が自主的に体を清めてくれているので、助かってます。でもブレスレットは予備でもう一つ、あった方がいいと思います」
「それはもう準備してある。帰る時、受け取るといい」
流石、先読みが得意な紅野だけあって、安の考えはお見通しのようだ。
「穢の件、お師匠の方で何か分かりましたか?」
「いや。人づてに色々と聞いてるが、今の所進展はない」
その言葉に、心の中で落胆した。
やはり前例がないのか。
怪異に遭遇しても穢は付くが、家族と和解後、知華は怪異と出会っていない。
となると、残る可能性は一つ。
「やはり、オマモリサマに触れられた事、でしょうか」
香西も言っていた。
霊感が目覚めたきっかけ。
知華と自分との違いはそれくらいしかないと。
「…どうだろうな。魂を狙わている事を踏まえると、その青年が何か仕掛けたとも考えられる」
「やはり、オマモリサマを調べた方が早いんでしょうか?」
なんの進展もなく、時間だけが過ぎていく。
またオマモリサマがやってきたら、次は何をしてくるのか。霊道開通だけは済まないかもしれない。
「焦ってはいけないよ、安」
紅野の言葉に、うつむいていた顔を上げる。
いつの間にか熟考に入り、下を向いていた。
「気持はわかるがな、今は調べる時だ。相手は強大。後手に回るばかりになりたくなかったら、しっかりと見極めることだ」
「はい」
オマモリサマに会ったことがあるのは知華、香西、安と佐藤さんだけ。
しかし紅野も昔、似たような者を見かけた事があると言っていた。
(お師匠の、さらにお師匠。祓った以外の怪異の事も書いてあれば、手がかりになる)
今いる下宿先は、もともとその人が使っていた家をリフォームしたものだった。
(やっぱり、一階の鍵のかかった書庫を調べるしかない。あそこに何か手がかりがあるかも…)
安は紅野に向き直った。
「お師匠、下宿先の書物を調べてもいいでしょうか?鍵が掛かった書庫の分です」
「あの書き留めかい?」
「はい。何か手がかりがあるかもしれないので」
あの山に手を付けるつもりか、と紅野は合点がいった。
「かまわんが、お師匠は字が独特だったからな。読解は難しいかもしれんよ」
「構いません」
何か出来る事があれば、取り掛かりたい。
そう顔に書いてある。
「なら、やってみなさい」
「ありがとうございます」
あと、もう一人オマモリサマと会ったことがある人物がいる。
「それと、知華にお父さんから何か話を聞けないか、連絡してみたのですが……」
知華の父は幼少期と中学時代、二回オマモリサマに会っている。
特徴を思い出せるだけ聞いてもらったが、知華達から聞いた容姿と相違なかった。間違いは無さそうだ。
「オマモリサマは今と容姿は変わっていないようです。あと、瞬きをしない特徴もあったと。お婆さんの方にも不自然な動きがあって、まるで人間でないようで恐ろしく、知華に介護を押し付ける形になったと言ってました」
「なるほど……」
祖母の動きはオマモリサマの影響か。
しかし祖母とオマモリサマが直接接触したとは言ってかいなかった。
どうにも分からない。
「まだまだ材料が足らんな。少しずつ探っていくしかないか」
思案顔で言う紅野を見て、安は覚悟を決めた。
「あともう一つ、お願いがあります」
改まって言われ、紅野は安を見る。
要望を言われる事が殆ど無いので、珍しいなと思った。
「私に時間を下さい」
真剣な目でそう言われた。
「知華の穢がなぜ晴れないのか、調べたいんです。オマモリサマの事も、手記に書いているかもしれない」
そこまで言うと眉間にシワを寄せ、唇を噛んだ。
「知華の不安な顔が頭から離れません。ずっと瞼の裏で見える。……霊媒師としてじゃなくて、友達として、助けたい」
紅野は表情をほとんど変えなかったが、眉をわずかに動かした。
あの安が、初めて自分から助けたいと言った。
悪霊を祓いたいではなく、誰かを助けたいと。
紅野は安の心境の変化に驚き、喜び、そして安堵した。
(――やっとそう思える様になったか……)
静かに口元を綻ばせた。
霊媒師になりたい言って、両親と共に初めてここを訪れた時、その目は復讐心に燃えていた。
経緯を考えれば無理からぬ事だったが、その思いの強さに紅野は悲しくも痛々しさを覚え、心を悩ませた。
それ以降、安の根本にあるのは常に怒りと復讐だった。お祓いの時もその霊力は冷たく刃のように鋭利で、まさに狂気だった。
そんな安が、助けたいと進んで望んでいる。
その事実が紅野の胸をじわじわと打ち、心を震わせた。
「……そうか、分かった。多少、融通しよう」
その言葉に安は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます」
喜色を浮かべた顔を見て、
「頼りにしているよ、安」
と頭を撫でた。
孫ほどに年の離れた安。ずっと成長を支え、見守ってきたので、もはやただの弟子ではなくなっていた。
それに紅野の年齢を考えると、きっと最後の弟子になる。
そのため、ひとしおに目にかけてきた。
「それとな、これをやろう」
紅野は首にかけていた木珠を外し、安にかける。
「これはな、私がお師匠から譲り受けたものだ。身を護る意味が込められている。軽いし珠も大きくないから、さほど目立たんだろう」
安は首から下げられた木珠をしげしげと眺めた。
紅野とその師が身につけていたという事は、二人の霊力が込められているということだ。
これ以上ない御守りだ。
「ありがとうございます。大事にします」
最期に一礼し、庭を後にした。
その背中を見送ると、どこからともなく佐藤さんがやってきた。
ふわりと紅野の横に立つ。
「あれ、安ちゃんあげたんやな」
紅野の強い守りが、少し薄くなっているのに気がつく。
「宗原の爺さんが使っとったやつやろ?えかったんか?」
その言葉に、紅野はただ笑みを向けた。
佐藤さんは無言になった。
紅野も高齢だ。
そろそろ引退を考えてもおかしくない歳だった。
誰よりもそれを、紅野自身が分かっているのだ。
「歳を取ると、何かを残したくなっていかんな」
この一件が終われば、紅野は神社の宮司をやめる。
安にしてやれる事は、残り少なくなっているのだ。
長年にわたり、その活躍を見きた佐藤さんは目を細めた。
寂しもあるが、また置いていかれるのかと思う。
しかし、そんな風には見せないよう、努めて明るく言った。
「ついに紅野も引退かぁ。感慨深いもんやな。引退したら、ワシと一緒に旅行でも行くか?温泉とか。海が見える所がええなぁ」
紅野は佐藤さんに笑ってみせた。
「それはええかもな」
彼とは長年の戦友みたいなものだ。
弟子たちの事も一緒に見てきた。
もはや兄弟分と言える付き合いだ。
「この一件が終わるまで、しばらくは共に戦おう」
安が無事に独り立ちする、その日までは。




