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クリカゲ  作者: 栢瀬 柚花
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騒音


――1950年冬――

 



 男は薄い布団の中で目を覚ました。

 

 薄い壁の部屋では隙間風が入り込むので、あまり寝付けなかった。

 時計を見ると、六時半を回った所だ。

(起きるにゃ、まだ早い…)

 そう思いもう一度布団に顔を埋めたが、一度感じた寒さに体が震えたので、寝付けなかった。

 微睡んで《まどろんで》いたい気持ちは強いが、リヤカーが来る時間を考えると、そろそろ支度をした方がいい。

 男は自分にそう言い聞かせ、仕方なく這い出し服を着替える。

 黄土色の上下の国民服に袖を通すと、右腕にほつれがあるのを見つけた。

「ちっ」

 舌打ちし、今日は端切れを買うようにしようと頭に刻む。

 

 汗拭きタオルや小銭入れ、失対手帳を準備していると、寒風に窓がガタガタと鳴った。

 外に目をやると、曇天の空が広がっている。

 雨は降りそうにないが、今日は風が強いようだ。

 

 布団をたたみ部屋の隅にまとめると、ちゃぶ台の足を広げた。

 ケバケバと逆だった茶色い畳が素足に刺さる。

 薄い靴下を履くと、簡素な台所に行き、昨夜残った茶をすすった。冷たさで体が冷えた。 

 首にタオルを巻き付け、体に喝を入れるとドアを開ける。思った通り寒風が吹き、頬を打った。

 震えていると「おはよう」と同じ階の田中が挨拶してきた。

「おはようございます」

 会釈を返す。

 

 田中は三十代半ばの復員者で、この男よりよっぽどガタイがよかった。

(軍属時代は重宝されたろう)

 と男は羨んでいた。

 男は貧弱な身なりを昔から気にしており、幼少の頃からよくからかわれた。

「お前は唯一、手先が器用なのが取り柄だ。モノ作りでもしてろ」

 と叔父に揶揄されたことが、今だに引っかかっていた。

 そこから真面目に学び工員になったは良かったが、戦争のため仕事はなくなった。

 今ではいい年なのに独り身で、皆と同じ日雇い仕事を過ごす毎日だ。

 

「これから寄場か?」

 田中は男と肩を並べて歩き出すと、行き先を聞いてきた。

 お互いに吐く息は白く、寒そうに体を縮めて階段を下りる。

「ええ、まぁ」

 と返事を返すのと同時。

 二階の部屋から『ドン』と鈍い音がした。

 二人ともその部屋を見る。

 二階の真ん中の部屋からだ。

「またか」

 田中は眉間にシワを寄せた。

 最近は毎日続いており、時間帯も関係なく音がした。

 同じアパートの住人からは大家に苦情がいっているとも聞くが、改善はなかった。

「あのおっさん、毎日毎日、何かをしよんだか」

 騒音部屋の住人は渡邉という四十過ぎの男性で、外地引き揚げ者だった。

「足が痛むんですかね。寒うなってきたし、上手く動かんのかも」

 渡邉は満州からの引き揚げの時、足を負傷したと聞いた。

 深手で日本への帰還も危ぶまれたらしいが、なんとか生還出来たらしい。

 妻は帰還の最中に命を落とし、一人での帰国となった。

 

 渡邉は負傷した足でびっこを引きながら歩く。

 この寒さでは完治した傷と言えど、堪えるだろう。「まぁ、そうかもしれんが、こうも頻繁に音を立てられちゃかなわんで」

 一階の便所に並びながら、田中は続ける。

「そりゃ痛むかもしれんけどな、杖くらい買うたらええのに。少しはまともに歩けるやろ。仕事はないかもしれんけどな」

 確かに賃金の高い仕事に就くのは難しいだろうが、近所手伝いでも農業手伝いでもやればいい。売血という手段もある。それなら高額な金がもらえるだろう。

「今は皆、その日暮らすのが精一杯ですよ。寒うなったし、布団が一枚増やせれば御の字でしょ」

「そりゃそうだ。一緒に寝てくれるカミさんがおれば、それだけで温かいけどな」

 朝から下品な冗談を言う田中に、苦笑いを向ける。

 お互い独身なのでその手の話をよくするが、朝っぱらからは付き合えなかった。


 便所を済ませた二人は寄場へと向かった。

 破壊された建物が目立つ中を進む。

 大部片付けが進んだが、ここに道を通して商店を建てることを考えると、まだまだ先が長そうだ。

 

 寄場に着くと、すでにリヤカーが何台か止まっている。

 握り飯にうどん、汁粉、パンの屋台が並び、いい匂いがしている。

 屋台の行列はまだ短い。

(少し早めに出てきて正解やった)

 匂いに釣られ、二人揃ってぐぅと腹の虫が鳴り、目を見合わせて笑った。

 人間、どんな時でも空腹になる。

 敗戦後だろうが、金が無かろうが、何を失おうが。

 

 うどんの行列に並び朝食を食べ終わると、男は雑貨屋を覗いて端切れを買った。

 そうしているうちに紹介状を貰う列が長くなり始めた。

 もう五百人は並んでいようか。

 慌てて列に加わる。

 寄場が開く頃には千人くらいが集まっていた。

 

 紹介状を貰うと班に分けられた。

 田中とは別の班になった。

 今日の仕事は百メートル道路の建設現場だ。

 一班六十人余りは、五人ずつに更に分けられた。

 今日はこの五人で一日仕事をする。

 

 男の振り分け班の内訳は男性は二人だけで、残り三人は女性だった。

 一人は赤ん坊を背負い、一人は臨月と見られモッコ姿。もう一人は四十代の女性だ。

 見知らぬメンツだが、人見知りでない男は話をしながら作業した。

 とはいっても、そんな余裕があったのは破壊された建物の瓦礫を撤去するまでだった。

 

 途中から隣の五人組の手伝いに回された。

 問題が起こったらしい。

 隣の班の作業場で、大岩が出たのだ。

 見に行くと、幅二メートル、奥行き一メートルほどの岩石の一部が見えた。

 これを移動させるため、深い穴を掘って持ち上げる重労働が必要らしい。

 男に割り当てられたのは深穴を掘る作業だった。

 掘り進めていると途中、遺骨が出てきたので作業が一時停止した。

 布に包まれて運び出されるのを見届け、手を合わせる。

 こんな状況でも弔意ちょういの念だけは忘れたくなかった。

 

 弔いが終わると穴掘りに戻る。

 ひたすらに穴を掘る男の上の方で、同じ現場の人同士の話し声が聞こえた。

 妻の病気が快方に向かっていると喜ぶ男、ソ連留置から帰ってこない夫を待つ妻、一晩六十円で自分の木賃宿を世話しようとする老婆。

(日雇いの身とは言え、こんな重労働は割合わん……)

 男は真冬の寒空の下、汗をかきながら思った。


 やっと夕方になり、寄場で賃金を受け取ると、露店で夕食を買った。

 この日は三十円のお好み焼きにした。

 熱々の出来立てを食べられることに深く感謝しながら平らげた。

 明日の食材のため、卵やうどん、味噌、醤油を買い家路につく。

 紙袋を抱えて歩いていると、家の無い者が閉められた寄場の事務所をこじ開けているのを見かけた。

 寒さをしのぐため仮眠しようとしているのだろう。

 男はそれを横目で見やる。

(帰る家があるだけ、マシやな)

 朝、布団が欲しいなどと贅沢を考えた事を反省した。


 アパートに着くと早々に二階から『ドンドン』と音がした。

 渡邉のすぐ真下の住人が部屋から出てきて、二階に向かって

「うるせーぞ!!」

 と大声で怒鳴った。

「またやっとんですか、渡邉さん」

 男が、怒鳴った住人に聞いた。

 イライラとしている住人は男を見ると、

「そうじゃ!今日は日雇いにもあぶれるし、渡邉が一日中ドッタンバッタンして、えろう迷惑したんじゃ!!ええことは無かったわ!」

 そう怒り散らしてドアを勢いよく閉めた。

 この調子では、いずれこの場を追い出されるのではなかろうか。

 そんな事を思い渡邉の部屋を見ていると、後ろから肩を叩かれた。

「よう、おかえり」

「田中さんも、おかえりなさい」

 田中は男が見ていたのが渡邉の部屋である事に気がつき、

「そろそろ限界かもなぁ。ここにおれんくなるで」

 と男と同じ感想を漏らした。 

 日に日に渡邉への不満が溜まっている。

 同じアパートに住んでいれば、嫌でもそれを感じた。

 特別親しい訳ではなかったが、それでも入居したての頃は世話になったのだ。

 渡邉の境遇を考えると不憫に思った。 

 男の表情から哀れみを読み取ったのか、田中はポンポンと肩を叩いた。

「このご時世や。簡単に同情はできん。助け合いも必要じゃが、決まりごとが守れんなら仕方ない」

 そう言うと、今度は声の調子を変えた。

「お互い、今日の労働を労おうや」

 そう言ってビール瓶を持ち上げた。大瓶だ。

「一杯やろや」


 そこから田中の部屋で夜遅くまで飲んだ。

 夜中でも渡邉の部屋からは音が聞こえた。音の大小は様々だが、しがな一日何をしているのかと、最後には呆れた。酒が入ったのもあり、渡邉への哀れには薄くなっていた。

(まぁ、明日部屋を覗いてみるか)

 夜半過ぎ。自室に戻り布団に入る頃、男はそう結論づけて床に就いた。


 翌日。

 目覚めると昼前だった。

 流石に失対労働には行けないので、家事をすることにした。

 洗濯が溜まっていたのでブリキのタライと洗濯板を持って、一階の物干し竿まで降りていった。

 心もとないが日差しがあったので多少は慰めなったが、それでも洗濯を始めるとすぐに指は真っ赤になった。

 凍える手に息を吐きかけていると、渡邉の部屋からけたたましい音がした。

 まるで爆弾が部屋の中から発射たかのような爆音だった。

 これまでとは比べ物にならない音だったので、何事かと住人たちがわらわらと部屋から出てきた。

 流石に心配になり、男は洗濯の手を止めて手ぬぐいで濡れた手を拭くと、階段を上がった。

 渡邉の隣の部屋から、田中が顔を出す。

 今まで寝ていたようで、髪には寝癖が見えた。

「なんや、今の音?」

「分かりません。でもなんかあったんかも。ちょっと覗いてみます」

 男は渡邉の部屋の前に立つ。


 部屋は先ほどと打って変わり、静まり返っていた。

 何の物音もしない。

 男は戸を叩き、「渡邉さん、どうしました?」と声をかけた。

 しかし反応はない。

 数度繰り返すが、結果は同じだった。


 男は部屋から顔を出している田中に目線を送る。

 田中は『行け』と手を動かす仕草をした。

 

 今やアパートに残っている全員が部屋から出てきて、男の行動を見守っていた。

 チラッと顔を後ろに振ると大勢の視線を感じたので、このまま引き返すわけには行かず、男は仕方なくノブに手をかけた。

 何故か心臓が跳ねた。

 ノブを握る手に薄っすらと汗をかいている。

 自分でも理由は分からない。

 言いしれぬ緊張を感じだが「大勢の視線のせいではない」と男には確信があった。

 生唾を飲み込みノブを回すと、ゆっくりと軋む音で戸が開く。

 薄暗い室内が見えた。

 渡邉の部屋は北向きなので、昼前でも室内は冷えている。

 部屋からは異臭がした。

 ゴミと腐った食べ物の臭いだ。

 ハエも飛んでおり、羽音がする。

 酷い有様に、眉間にシワを寄せた。

 

 渡邉の姿はない。


 一歩室内に足を踏み入れる。

 そこで、部屋の中央に何か揺れているのが見えた。

 黒い影で分かりにくかったが、目を凝らすと左右にユラユラと揺れている。

 

 不思議に思い更に足を進めようとした時、それが何か合点がいった。

 

 人の足だ。


 一気に心臓が跳ね、体の血の気が引いた。 

 ゆっくりと天井を見上げると渡邉の体があり、頭が天井にめり込んでいた。

 天井からはポタポタと血が垂れている。 

「ひっ……!」

 これまで色々な戦後の惨状を見てきた男だったが、思わず声が出た。

 腰を抜かしてその場にへたり込む。

 渡邉は天井に頭部をめり込ませた状態で絶命していた。


 田中が警察予備隊を呼んでくれた。

 人がわらわらとアパートに押しかけ、渡邉の部屋に入っていった。

 

 彼らにより渡邉の体は天井から引き抜かれたのだが、脚立を使って数人がかりでやっと成功するほど食い込んでいた。

 いくら天井が低いと入っても、二.二メートルはあるのだ。

 足場にしたちゃぶ台もないことを考えると、渡邉が飛び上がって天井に突進したとしか考えられなかった。

 しかも天井をぶち抜くほどの勢いで。


 そんな事が可能なのかと、警察予備隊は口々に話した。

 人間技でない方法で渡邉が死んだと、アパートではその話で持ちきりになった。

 

 困り果てたのは大家で、部屋の修繕に追われた。

 渡邉は天井に突進しただけでなく、部屋のあちこちに傷を残していた。

 壁、床、柱、ガラス戸、襖、襖の中……

 血が所々ついており、しがな一日聞こえていた騒音を考えると、体をぶつけていたようだった。

 中には髪の毛も付着していたと大家が気味悪がっていたので、かなりの力を使ったと思われた。


 部屋がなんとか修繕した後も、大家の苦悩は続いた。

 次の住人が入ってこないのだ。

  空き部屋があればすぐに埋まるのが普通だが、前住人の異様な死に方が噂となっていたからだ。


 結局、男が退去するまでその部屋は空室のままだった。

 そして渡邉の死の真相を知る者も、ついに誰もいなかった。

 

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