五皿目 メインディッシュ『満腹。ミレたん、今日もとろける』
器をそっと地面に置いたミレアは、満ち足りたように小さく息を吐いた。
「ほっ……ごちそうさまでした♡」
その声音には、熱も、焦りもない。ただ、温度のある満腹の声。
静かに立ち上がり、衣の裾を軽く払う。
森の空気はまだ濁っていた。黒い蛇──バジルグロンドは、地を這いながら森を毒で塗り潰そうとしている。
「食材を届けてくれたんだから、お礼くらいしないとね」
視線を上げる。
巨躯の魔物を見つめるその目に、恐れはない。
あるのは、淡い興味と、ほんのすこしの──甘味への期待。
「でもその前に……メインディッシュね!」
風が動いた。
ミレアは、ゆっくりと手を伸ばした。
──頭のティアラを外す。愛らしさの象徴は、もう不要。
次に、束ねていた髪を解いた。ふわりと広がる桃色髪が、風に揺れる。
そして、背中を覆っていた配達員のマントを脱ぎ捨てる。
ひらりと舞ったその布は、彼女の“日常”を覆っていた仮面のよう。
すべてを脱ぎ去ったその姿は、もはや──
いつもの愛され配達員・ミレたんではなかった。
そこにいたのは──“終焉の神”ミレア・ノワール。
微笑みだけはそのままに、彼女は静かに一歩を踏み出す。
ゆっくりと、静かなる旨みに向かって。
足を踏み出す音はしない。けれど確かに、ミレアは前へ進む。
走らず、跳ねず。
ただ一歩ずつ──静かなる旨みに向かって歩いていく。
その背には、沈黙と満腹の余韻だけがついてきていた。
静かに歩を進めるミレアに、誰かが気づく。
「っ……おい! 何やってる! 危ないぞ!! 早く逃げろ!!」
男の冒険者が必死に叫ぶ。だが──ミレアの足は止まらない。
小さなその背は、恐怖も焦りもなく、ただ淡々と黒蛇へと歩を進める。
その異様さに、森を這う大蛇王──バジルグロンドの視線が、ミレアを捉えた。
(……何だ?)
内心に、かすかな疑念が走る。
(なぜ恐れぬ。なぜ逃げぬ。煌竜でも神竜でもない、小娘風情が──)
怒りに似たざわめきが、蛇の巨体を走った。
誰もが悲鳴を上げ、膝を屈するはずだった。だが──この少女だけは違った。
なぜなら。
──ミレアにとって、バジルグロンドは「敵」たりえない。
そこにあるのは、ただ魂の香気。舌が疼き、喉が鳴る。
よだれが落ちそうなほどの“上質な旨み”を前に、何を恐れる必要がある?
「…………んふっ♡」
ごくり──
一歩。
そして、また一歩。
踏みしめるたび、地の鼓動が響く。
ミレアが見つめているのは“味わい”。
殺すためでも、勝つためでもない。
──ただ、喰らうため。
ついに、バジルグロンドの怒りが爆ぜた。
(黙して歩くなァアアアア!!)
咆哮と共に、巨躯が唸り、地が裂ける。
殺意剥き出しに飛びかかり、その巨口でミレアを丸呑みにしようとした──その瞬間。
ズドォンッ!!!
雷鳴すら霞む轟音。
閃光にも似た破壊が、大蛇を包み込んだ。
頭部と胴体の半ばが、霧散する。
黒い大森林が爆風で吹き飛び、風穴が空く。
森だけでない。ミレアが歩んできた岩山すら──痕跡も残らず、消えていた。
一撃。完全粉砕。
風が止まり、空気が凍る。
そこにただ一人、拳を突き出したまま、涼やかな顔で立つ少女がいた。
ミレア・ノワール。
その笑みには、ほんの少し──スープの満足感と、次への“メインディッシュ”を待つ期待が混ざっていた。
「……ふふっ♡」
ミレアが静かに微笑むと、まるで空気そのものが震えたように周囲がざわめいた。
目を閉じて、息を吸う。
──すぅ……。
何も見えないはずのその瞬間、彼女の世界だけが“彩り”を得た。
黒蛇が散らした魂の核。
冒険者たちから発せられた、恐怖・驚愕・怒り・畏怖・絶望──。
それらは空気の粒となり、香りとなり、音となり、彼女の元へと吸い込まれてゆく。
(……ああ、熟してる。これは、いいものが作れそう♡)
唇から縫って出る舌が、彼女の渇望を表していた。
ミレアはそっと、一歩前へ。
感情はすでに、ただの「感情」ではない。
“素材”だ。
魂は──“肉”そのもの。
まず最初に凝縮されたのは、三百年ものの魂。
黒く輝く核が、濃厚なゼラチン質のように滑らかに形を変え、彼女の掌の前に浮かび上がる。
それは熟成されたフォアグラそのもの──火を入れずとも濃密な香りが脳を痺れさせる。
表面には一筋の光が差し、脂がわずかにとろけてゆく。
これが、本日のメインディッシュ。
次に、トッピングたちが集束を始める。
──恐怖。
冒険者達が大蛇王に身を縮こませた、その一瞬の怯え。
それが、ピリッと刺激的な柚子胡椒の泡に変わる。
見えざるスパイスが、空間の端で淡く発泡し、フワリと香気だけを残して皿の端に落ちていった。
──驚愕。
誰かが見た「現実」の否定、思考の崩壊。
それは、弾けるバルサミコのエスプーマへと変わる。
軽く、だが鋭く弾ける泡が、次の層に重ねられていく。
──怒り。
あの蛇が死ぬ直前に湧き上がった、傲慢への怒り。
これは、深紅の赤ワイン&チリのグレーズに。
艶やかな液体が、フォアグラの下にじゅわっと広がり、器に血のような光を宿した。
──畏怖。
誰かの目が、彼女を「それ」と見なした瞬間。
それは、イカ墨と黒オリーブのピュレに溶け込んだ。
ざらりとした微粒子のような漆黒が、フォアグラの上に薄く広がり、深い闇の幕をかける。
──絶望。
「確実に死ぬ」と思った時、人は抵抗をやめる。
それは、黒にんにくの熟成ペーストとして浮かび上がった。
ほのかに甘く、だがどこか発酵寸前の香りが、料理全体を包み込むように滲み出る。
──すべてが揃った。
ミレアの両手がゆっくりと下ろされると同時に、
虚空に、完璧な“皿”が浮かび上がった。
漆黒の皿に乗せられた、フォアグラのソテー。
その上にスライスされた黒トリュフが宝石のように散らされ、
周囲には五つの“感情由来”のトッピングが円を描くように配置されている。
赤ワインのソースは、まるで“血”を思わせる照り。
泡立つ柚子胡椒は、刺激の名残。
エスプーマは、見る者の錯覚を誘う。
イカ墨の幕が、理解不能な“沈黙”をまとわせ──
黒にんにくのペーストは、全ての終わりを告げる。
そして中央には──
まるで“魔物の記憶”を蒸留したかのような、魂のフォアグラが鎮座していた。
周囲の者たちは、その料理を“視認”していた。
だが、あまりの現実離れした光景の数々に言葉は出るが、心がついてこない。
だがミレアは、にっこりと笑う。
「ああ……すっごく、おいしそう……♡」
料理は、確かにそこにあった。
感情を溶かし、魂を焼き、
それらすべてを“おいしい”に変える──悪魔的な完成品。
それこそが、ミレア・ノワールの“お料理”。
──誰かの絶望は、彼女にとって、最高のスパイスなのだ。
「……うふふっ♡」
ミレアは両手をゆっくり下ろし、唇にうっすらと笑みを乗せた。
まさに、極上の逸品。
ミレアは静かに、ナイフとフォークを手に取る。
その所作は丁寧で、まるで大切な誰かに触れるようだった。
ふわりと香る黒トリュフの芳香。
温かく立ち昇る脂の甘み。
皿の上に広がる、静かな世界。
「……いただきます♡」
ナイフでフォアグラをそっと切り分けると、外はパリッと香ばしく、内側はとろりと崩れる。
まるで熟した脂のように、芯から熱と香りを放っていた。
それを──口に運ぶ。
「っ……♡」
舌に触れた瞬間、ミレアのまつ毛がわずかに震える。
頬が熱を帯び、微かに紅潮する。
フォアグラがとろける。濃密な脂の旨味が舌に絡みつき、コクン……と音を立てるように喉奥へ甘く滑り落ちていく。
「ん……ふぅ……♡」
小さな吐息が、自然と漏れた。
熱いものが胃の奥へと沈み、じわりと内側から身体が温まっていく。
赤ワインソースの酸味とチリの刺激が、喉を焦がしながら余韻を残す。
イカ墨のピュレが、静かに沈むような深みを加え、
黒にんにくのペーストが、まるで“諦め”のような甘さで後を引く。
口の中で広がる、複雑な“感情の余韻”。
ミレアの目がとろりと細まり、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「あっ…♡ ……すごい……」
吐息のような声とともに、彼女はフォークを再び皿へと伸ばす。
もう夢中だった。
その指先に迷いはない。
一切れごとに、喉が鳴り、身体がわずかに震え、
呼吸は深く、甘く、熱を含んでいく。
「……んっ♡ ……しみるっ……」
唇がほんのり濡れて、うっとりと笑う。
その笑みは、心から“満たされてゆくこと”に酔っている者の表情。
瞳を閉じて咀嚼するたび、ミレアはまるで──愛された後のような表情を浮かべていた。
五つのトッピングを一つずつ味わいながら、
身体の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。
「……あぁ…たまらない……♡」
そう呟いたときには、皿の上にはもう何も残っていなかった。
完食。
ミレアはそっと両手を合わせる。
「……ごちそうさまでしたっ♡」
ゆっくりと目を開けるその顔には、恍惚とした光が宿っていた。
小さく伸びをして、喉元に手を当てる。
今もそこに残っている温もりを、じんわりと確かめるように。
「……んっ……おなかの奥が、幸せ……♡」
その声は、甘く、柔らかく、
そしてどこか──満たされた獣のようだった。
静寂の中。
誰も何も言えないまま、ただ一人の少女だけが、
食の悦びに身を沈め、
誰よりも静かに、誰よりも満たされ、
──誰よりもとろけていた。
五皿目 メインディッシュ『満腹。ミレたん、今日もとろける』
おしまい




