十九皿目・前編『ふたつの誓い』
※暴力表現有り
200年前──。
若者は、とある鉱山に目をつけた。
とある国の領地ではあったが、その国が滅んでから久しい。
管理する国や人は居らず、掘れば掘るだけ貴金属や宝石が出てきた。
数週間後には採掘した場所は元に戻り、そこはまさに神の祝福を受け、無限に掘れる鉱山だった。
若者は人を雇い、小さな集落を形成した。
大工、鉱夫、料理人、機織り職人。生活に必要な技術者達を集め、やがては立派な村となっていく。
噂を聞きつけ、移住する者は徐々に増えた。
中には家畜を連れてくる者も現れ、飲食店や酒場、道具店も並び始める。
人口は数百人規模にまで膨れ上がっていた。
「若大将! 大変です!」
鉱夫の一人が慌ただしく駆け込んでくる。
「ん? どうした」
資料を片手に、若大将は顔も上げずに応じる。
「他の連中が……揉めてるみたいで……!」
「揉め事?」
ようやく顔を上げると、軽く肩を回した。
「ったく……どの区画だ」
「第三坑道の手前です!」
資料を机に放り投げ、若大将は立ち上がる。
「案内しろ」
「あ、はい!」
鉱夫が先導し、小走りで現場へ向かう。
──────────
「ふざけんな! そっちばっか軽い作業回しやがって!」
「はぁ!? 危険な掘削は全部こっちがやってんだぞ!」
坑道前では、数人の鉱夫が掴み合いになっていた。
周囲も止めるどころか、口々に不満をぶつけ合っている。
「おいおいおい、仕事放棄して何やってんだお前ら」
低く通る声。
全員の動きが止まる。
「若大将……」
「聞こえたぞ。軽い作業だの、危険作業がどうだの」
ゆっくりと歩み寄り、間に割って入る。
掴み合っていた男の腕を、片手で軽く引き剥がした。
「文句があるなら──」
一瞬だけ間を置き、親指で自分の顔を指す。
「俺に言え」
場が静まる。
「でもよ……実際キツいんだって……!」
ひとりが口を開くと、他も続いた。
「休憩も足りねぇしよ!」
「道具もボロいんだ!」
「順番だっておかしいだろ!」
不満が一斉に噴き出す。
若大将は、それを遮らず最後まで聞いた。
そして──
「……なるほどな」
軽く頷く。
「よし、わかった」
そう言って、振り返る。
「酒を持ってこい」
「……は?」
場が固まる。
「飲み比べだ」
ニヤッと笑う。
「サシで俺に勝ったら、その文句──全部聞いてやる」
一瞬の沈黙。
──そして。
「えぇ!?」
「マジかよ!」
「い、いいのか!?」
一気に空気が弾けた。
「言ったな若大将!」
「あとからやっぱ無理とかはなしですぜ!」
「もちろんだ」
軽く肩を鳴らす。
「かかって来い」
やがて酒が運ばれ、即席の宴が始まる。
「うおおお飲めぇ!!」
「若大将を潰せぇ!!」
木樽が次々と開かれ、杯が打ち鳴らされる。
酒の匂いが一気に広がり、坑道前は完全に別の場所へと変わっていた。
大柄な鉱夫たちが次々と挑むが──
「ンク、ンク……ふっ、余裕だな」
若大将の手は止まらない。
顔色ひとつ変えず、淡々と飲み続ける。
「うぐっ……もう無理……」
「ぢくじょう……強すぎる……」
一人、また一人と崩れ落ちていく。
「……もう終わりなのか?」
静かな声。
「ほらもう一杯!」
「まだやんのかよ!?」
周囲から笑いが起きる。
「お前らも来いよ。文句があるんだろ?」
軽く手招きする。
「かかって来い。全員まとめて相手してやる」
若大将は余裕の笑みを浮かべる。
その一言で──
「やってやるぜ!!」
全員が一斉に乗ってきた。
気がつけば、仕事は完全に止まっていた。
坑道の前は宴会場と化し、笑い声が響き渡る。
「俺の……勝ちだぁーー!!」
酒で顔を少し赤くした若大将が、少年のような笑顔で杯を掲げる。
「ははははっ!! やっぱ若大将は最高だなぁ!!」
「あんたについてきて正解だぜぃ……!」
誰もが笑い、肩を組み、声を張り上げる。
さっきまでの険しい空気は、もうどこにもなかった。
「ボエェ……これ以上はむでぃ〜……」
「頭が……割れる……」
その横では、果敢に挑んだ鉱夫たちが地面に転がっている。
そこへ、ひとりの女性が歩いてきた。
「もう……急に酒樽なんて運び出すから何事かと思えば……真昼間から何やってるんですか」
やれやれと息をつきながら、場を見渡す。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、濡らしたタオルと水の入ったコップ。
「ああ、助かる。ありがとう、リサ」
若大将はそれを受け取ると、乱暴に顔を拭き、水を一気に飲み干した。
空になったコップを軽く振り、おかわりの合図を送る。
「お酒だって、タダじゃないんですからね?」
リサが呆れたように言う。
「分かっている。たまには羽目を外すことも大事さ」
若大将は軽く壁にもたれるように肩をくっつけ、腕を組み、
足をクロスした。
「ま、言わば毒抜きだな」
「毒抜き、つーか……毒入れじゃね?」
「だな……全員ぶっ倒れてるし……」
スパーン!!
乾いた音と共に、タオルが鉱夫の顔面に直撃する。
「ふべっ!!」
「ただ酒飲んどいて毒入れだと〜?」
若大将の顔に影が差し、にやりと笑う。
「そうかそうか……なら、もう一樽いくか〜? ん〜?」
「い、いえ結構です……!」
「もう一樽……ヤバ……想像しただけで……おrrrrrr」
ひとりがその場で吐く。
「バカ! おま、吐いたら俺も……おrrrrrr」
連鎖するようにもう一人。
「おぉい! ここで吐くなバカタレども! ったく……あとで掃除しとけよ」
若大将が呆れたように言う。
そのとき──
「お待たせいたしました、若……」
戻ってきたリサが、光景を見て固まる。
「……うわぁ!?」
地面に転がる男たち、漂う惨状。
「もう、だから言ったじゃないですか……!」
額に手を当て、深くため息をつく。
若大将は気にもせず、手を差し出した。
「リサ、水」
「はいはい……もう」
呆れながらも、コップに水を注ぐ。
若大将はそれを受け取り、また一気に飲み干した。
その様子を見て、リサは小さく笑う。
「……ほんと、いつまでも変わりませんね」
「ん?」
若大将が首を傾げる。
「私がこの村にやってきたのなんて、もう十年も前ですよ?
その頃と、な〜んにも変わってないんですもん」
どこか嬉しそうに言うリサ。
「十年……もうそんなに経つのか」
若大将は少しだけ遠くを見る。
「時が流れるのは早いな」
「ほんとですよ。私なんて、人生の半分近くはこの村で過ごしてるんですから」
「じゃあ、あっという間におばさんだな」
トス、と軽い音。
若大将の足に、迷いのないローキックが入る。
「いって! 蹴ることないだろう」
「知りません」
そっぽを向いたまま、しかしその口元は少しだけ緩んでいる。
「……でも、本当にその通りで──」
ふっと視線を遠くへ向ける。
「知ってます? うちの子、上が7歳で、下の子が3歳ですよ? ふたりとも、この村で生まれて、すくすく育ってます」
指を立てて、年齢を示す。
「もう7歳になったのか」
若大将は目を瞬かせる。
「ついこの間、初めての出産祝いをしたところだろうに」
「それもこれも、ぜ〜んぶ若大将のおかげですよっ」
明るく、まっすぐに言う。
「俺は大したことはしていないさ」
若大将は肩をすくめる。
「人が住める環境を整えたら、あとは勝手に増えていっただけだ」
誇るでもなく、ただ事実を述べる声音。
「それが出来るからすごいんですよ」
リサは即座に返す。
「だから私たちは、この地に安心して腰を据えることができるんです」
一瞬、風が抜ける。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえた。
「あ、今の村の総人口って知ってます?」
「いや?」
若大将は首をかしげる。
「……ざっと200、ってところか?」
日々、鉱山と事務所を行き来するばかりで、細かな数までは把握していない。
リサは、少しだけ得意げに笑った。
「それが……今、588人ですよ!」
「ごひゃ……!?」
思わず声が裏返る。
「おいおい、最初なんて20人も居なかったんだぞ」
周囲を見渡す。
笑っている連中。転がっている連中。遠くで働く者たち。
その全てが、確かに増えている。
「すごいでしょう?」
リサが誇らしげに言う。
「……ああ。すごいな、本当に」
若大将は、短く答えた。
ぽつりと零したその言葉には、どこか安堵と──
ほんのわずかな、責任の重みが混ざっていた。
後日。
人員の配置は見直され、作業の負担は均等に調整された。
道具も補充され、危険な区画には必ず複数人で入るよう取り決められる。
不満は減り、衝突は消え──
鉱山の回転率は、目に見えて上がっていった。
ある日の鉱山内。
「今週中には、目標値に届くかと」
鉱夫が報告する。
「うむ、順調だな」
若大将は頷き、手元の帳面に軽く目を落とした。
採掘は滞りなく進み、坑道の奥からは一定のリズムで音が響いている。
空気は重いが、どこか活気に満ちていた。
──その中で。
「……?」
若大将がふと顔を上げる。
周囲の動きが、どこか落ち着かない。
「そっち、どうしたんだ?」
声をかけると、数人の鉱夫が顔を見合わせる。
「いや……それが……」
ひとりが前に出る。
「うちの家内が……その……」
言い淀む。
「出産が、近いらしくて……」
一瞬の間。
若大将は、迷わなかった。
「わかった。今すぐ行け」
即断。
「え……でも、まだ作業が──」
「いいから行け」
被せるように言う。
「ここは俺が見る」
視線はまっすぐだった。
「……!」
鉱夫の顔が、ぱっと明るくなる。
「恩にきります!! 若大将!!」
深く頭を下げ、踵を返す。
出口へ向かい、走り出すその背に──
「待て」
声が飛ぶ。
鉱夫は足を止め、振り返る。
「一週間の休暇をやる」
静かに言う。
「家族との時間を、大切にな」
「……!」
一瞬、言葉を失う。
「あ、ありがとうごぜぇます!!」
再び深々と頭を下げると、今度こそ全力で駆けていった。
「フッ……早く会いに行ってやれ」
その背を見送り、若大将は小さく笑う。
「……いいなー、俺も休暇欲しいッス」
横からぼやきが飛ぶ。
「おう」
若大将はちらりと見やる。
「その顔で。嫁が出来て。なおかつ子供が出来たら、な」
さらっと煽るように言い放つ。
「なっ!? 言ったっスね〜!?」
周囲から笑いが起きる。
「ほらお前ら!」
若大将が声を張る。
「さっさと仕事終わらせて、アイツに出産祝いでも持って行ってやろうじゃないか!」
「おおっ!!」
「いくぜー!!」
空気が一気に前向きに変わる。
つい先ほどまでの疲労もどこかへ消えていた。
それぞれが持ち場へ戻り、手を動かす。
音が再び整い、坑道は活気を取り戻す。
──数十分後。
坑道の入口に、影が差した。
「若大将!!」
荒い呼吸。
血相を変えた村人が、駆け込んでくる。
その顔は──先ほどまでの空気とは、明らかに違っていた。
「どうした、何事だ?」
若大将は低く問いかける。
声は落ち着いていたが、胸の奥に嫌な感覚が広がっていた。
「村が……村が大変なんです……!」
息も絶え絶えに言う村人。言葉が追いついていない。
その様子だけで、ただ事ではないと理解した。
若大将は手にしていた帳面を放り捨て、地面を蹴る。
「お前たちはここに居ろ!!」
振り返りざまに叫ぶ。
危険が迫っているなら、坑道の中の方がまだ安全だと判断した。
外へ飛び出す。
風の匂いが違う。
焦げた臭いと、土が抉れたような空気。
視界が開け、村が見えた瞬間──足が、止まる。
「……なんだ……これは……」
言葉が、遅れて出た。
建物はほとんどが倒壊していた。
原形を留めているものの方が少ない。
煙が上がり、あちこちで火が燻っている。
それなのに──静かすぎた。
「……」
人の気配が、ほとんどない。
「誰か……誰か居ないのか!!」
声を張る。
しかし返ってくるのは、自分の声だけ。
歩くたび、視界に入るのは破壊された建物と──
大地に穿たれた穴。
不自然に盛り上がった地面。
「……なんだ、これ……」
足元の土を踏む。柔らかい。
(地中のガスの爆発……? いや、それにしては……)
思考がまとまらない。
そのとき、脳裏に蘇る。
『今、588人ですよ!』
リサの声。
(……誰か一人くらい、いてもおかしくない)
それなのに──いない。
違和感が、確信に変わる。
その瞬間──かすかな音が耳に届く。
「……!」
耳を澄ます。
「……ぅ……ぅ……」
子供の泣き声。
「っ、あっちか……!」
迷わず走る。
瓦礫を飛び越え、倒れた梁を踏み越える。
近づくほどに、声ははっきりしていく。
そして──見つけた。
小さな影。
「見つけた……!」
駆け寄り、膝をつく。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
顔を覗き込む。
その顔を見て、わかった。
リサの下の子。
「……っ、ひっ……」
泣きじゃくりながら、しがみついてくる。
「パパとママは?」
周囲を見渡すが、誰もいない。
子供は首を振るだけ。
「……そうか」
一瞬、言葉を飲み込む。
「ここを離れよう。歩けるか?」
小さな手を取る。
震えている。
「大丈夫だ。ついて来い」
ゆっくりと歩き出す。
「くそ……一体なにがあったんだ……」
歯を食いしばる。
(皆、どこかに避難してるはずだ)
そうであってほしい、という願いに近い考えだった。
しばらく歩くと子供の泣き声が、少しずつ収まっていく。
そのとき──視界の先に、もう一つの小さな影が現れる。
「……」
誰かを探すように、周囲を見回している。
(……あれは……)
見覚えがある。
リサの上の子。この子の姉だ。
「……あ、おねえちゃん!」
繋いでいた手が、するりと離れる。
「あっ──」
止める間もなく、駆け出す。
姉も気づく。
顔が、少しだけ明るくなる。
互いに手を伸ばす。
あと数歩で届く距離。
(よかった……)
若大将は、ほんのわずかに息を緩める。
その瞬間。
──それは、現れた。
音もなく。
黒く、視界を埋め尽くすような巨大な影。
それが視界を横切る。
「…………は?」
理解が、追いつかない。
そこにいたはずの小さな体が──消えていた。
若大将と姉の間に、横たわるもの。
それは、大樹よりも遥かに太い。
だが、違う。生きている。
ぬめるような質感。
わずかに、蠢く。
「……なん、だ……?」
言葉が、出ない。
視線が動く。
その“先”を、追う。
そして──
見上げる。
そこにあったのは、地面を割って現れた──巨大な頭部。
黒い鱗。
底の見えない口。
生臭い吐息。
ゆっくりと、開く顎。
「…………」
若大将の思考は、止まっていた。
視線の先。
そこにあるのは、
数十年前、この地の国を滅ぼした存在。
語り継がれる悪夢。
世界級の災厄──大蛇王、バジルグロンド。
「……っ……!」
少女が息を呑む。
顔から、血の気が引く。
目が見開かれ、焦点が合っていない。
ただ一点。
それを見ている。
後ずさろうとして──足が、動かない。
力が抜け、その場に崩れ落ちる。
震えが、止まらない。
腕の擦り傷が、わずかに滲む。
何かを思い出している。
言葉ではなく、体が覚えている。
“それ”が何かは知らない。
けれど、理解している。
──これは、さっきの。
──村をめちゃくちゃにした、皆を食べた黒い影だ。
喉が震える。
声が、出ない。
逃げなければならないのに、体が言うことを聞かない。
“それ”はこちらを、捉えている。
「……ぁ……」
空気が、重くなる。
世界が、止まったように静まる。
その顎が──開き切る。
狙いは、明確だった。
自分。
「……ゃ、だ……」
声にならない声。
ただ、震える。
動けない。
目を逸らすこともできない。
迫る。
その瞬間──視界が、白に塗り潰された。
轟音。
遅れて、衝撃。
空気が弾け、地面が揺れる。
何か巨大なものが、黒いそれに叩きつけられていた。
「……っ!?」
理解が、追いつかない。
ただ、見える。
白く、金色。
巨大な影。
それが、黒い巨体に食らいついている。
咆哮。
大地が震え、空気が裂ける。
黒と白が、ぶつかる。
何が起きているのか、分からない。
ただひとつだけ。
さっきまで自分に向けられていた“それ”の意識が、完全に逸れていた。
少女はその場に座り込んだまま──ただ、その光景を見上げていた。
──────────
「……」
若大将は、酷く疲れていた。
少女の手を引き、生存者を探す。
瓦礫の間を進みながら、何度も拳を振り下ろし、
壁に叩きつける。
鈍い音が響く。
(あの時……俺が手を離さなければ……)
止まらない。
(すぐに追いかけていれば……)
同じ思考が、何度も頭を巡る。
足は止まらない。
止めれば、その場に崩れ落ちそうだった。
「若大将……!」
横から声がかかる。
振り向くと、そこにいたのは村人だった。
煤にまみれ、息も荒い。
「……生存者か……」
かすれた声。
「はい……他の者も、何人か無事です……」
「わかった……案内してくれ」
短く言う。
少女の手を引いたまま、後を追う。
倒壊を免れた倉庫。
中に入ると、空気が違った。
重い。
ざっと見て、70人ほど。
誰もが黙り込み、俯いている。
「……これだけか?」
若大将が問う。
「はい……他は……みな、ヤツに……」
言葉が、続かない。
「食われてしまいました……」
静かに落ちる言葉。
その一言で、すべてが確定する。
「……っ」
視界が揺れ、若大将は近くの木箱に腰を落とした。
頭を抱える。
何も、言えない。
「……鉱山に行って、皆を呼んできてくれ」
絞り出すような声。
いつもの覇気は、もうなかった。
しばらくして、全員が集められる。
生存者は100人弱。
それぞれが、今後を口にし始める。
声は小さく、弱い。
「若大将……これから、どうするんで……?」
ひとりが尋ねる。
若大将は、しばらく答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……お前たちは、どうしたい」
視線を上げないまま。
「状況が状況だ。村を出ることを、止めはせん」
その言葉に、空気が揺れる。
顔を見合わせる者たち。
そして──ひとり、またひとりと、立ち上がる。
足音が、外へと向かう。
「若大将……すみません、あたしも……」
声をかけてきたのは、料理人の女だった。
まだ村が小さかった頃からいた。
店を開き、鉱夫たちに料理を振る舞っていた女だ。
「そうか」
若大将は顔を上げない。
「今まで、ご苦労だったな」
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
「手向け……ではありませんが……残った家畜は、すべて置いていきます」
声が震える。
「牛や豚は……もう……。でも、鶏はほとんど無事です」
「……すまない。助かる」
短い言葉。
それ以上は、出てこない。
「長い間……お世話になりました……」
深く頭を下げる。
顔を上げたとき、その表情は。
申し訳なさと、恐怖が入り混じっていた。
そして、そのまま去っていく。
同じように、何人かが挨拶をし倉庫を後にする。
ふと。
思い出す。
(……そういえば……出産で抜けたやつは……)
倉庫の中を見渡す。
奥の隅。ひとり、蹲る影。
肩が震えている。
顔は上げない。
すすり泣く音だけが、かすかに響く。
(……あの様子だと……)
それ以上、考えない。
考えなくても、わかる。
新しい命すら──残らなかった。
残った村人は50人弱。
現状を立て直すだけでも時間がかかりそうだった。
そのとき、横からタオルが差し出される。
「……どうぞ」
「あぁ……ありがとう、リサ」
何も疑わず、受け取る。
顔を拭く。湿った布の感触。
いつもと、同じ。
そのまま、水を求めようとして──手が、止まる。
「お母さんは……」
静かな声。
「私を庇って、食べられてしまいました……」
そこに居たのは、リサではなく──その娘だった。
「……すまない」
若大将は目を閉じ、絞り出すように言う。
声は低く、短い。
「名前は……たしか、ユリエ。だったか」
記憶を辿る。
「はい……」
小さく頷く。
「なぜこれを?」
手にしたタオルをわずかに持ち上げ、問いかける。
ユリエは一瞬だけ視線を落とし、それから答えた。
「お母さんが、いつもやっていたのを……見てましたから」
「……そうか」
それ以上、言葉が続かない。
わずかな沈黙。
「お父さんは……?」
恐る恐る問いを重ねると、ユリエは静かに首を振った。
「……」
若大将の手に、力がこもる。
拳が、軋む。
「ユリエは……村を出ないのか?」
問いかける。
それに対しユリエは、きょとんとした顔をした。
「どうしてですか?」
迷いのない声。
「ここは、私が生まれた村ですよ」
まっすぐに言う。
「ここを出て、どこへ行くんですか?」
一歩、踏み出す。
「それに……私ひとりじゃ……」
言葉は途中で途切れる。
だが、その意味は十分だった。
若大将は、はっと息を呑む。
(……まだ、生きている)
この村で生まれ、この村で育った命が、ここにある。
失われたものばかりではない。
(……終わっていない)
静かに、息を吐く。
ゆっくりと、立ち上がる。
「……俺が、くよくよしてどうする」
低く、呟く。
「誰が皆を引っ張っていくんだ」
顔を上げる。
その目に、わずかに力が戻る。
完全ではない。
だが、確かに──前を向いている。
「ありがとう、ユリエ」
その言葉は、静かに落ちた。
ユリエは首をかしげる。
「え?」
「一緒に、村を建て直す手伝いをしてくれないか?」
手を差し出す。迷いはなかった。
ユリエは、その手を見つめる。
そして──しっかりと、掴む。
「もちろんです」
まっすぐな瞳で、答える。
(……強い子だ)
若大将は、わずかに目を細める。
(この歳で家族を喪って、それでも前を向けるのか)
その事実が、胸に残る。
この瞬間。
まだ小さくとも、確かに“残ったもの”があった。
──後日。
壊れた村に、再び影が差した。
遠くから響く、低い唸り声。
「……来たか」
若大将が呟く。
視線の先。
灰色の影が、いくつも揺れていた。
体長2メートルほどの魔狼。
群れで獲物を囲い、削り、喰らう。
グライウルフ。
かつてなら、数を揃えて対処する相手。
だが今は違う。
「下がっていろ」
短く言う。
誰も、逆らわない。
地面を蹴り、一瞬で間合いを詰める。
最前列の一体が牙を剥いた、その瞬間。
叩き潰す。
骨が砕け、体が地に沈む。
次が飛びかかるが、躱さない。
掴み、地面に叩きつける。
鈍い音を鳴らし、動かなくなる。
残りが一斉に散り、囲もうとする。
「……遅い」
低く吐き捨てる。
踏み込み、一歩で距離を潰す。
振るう腕でウルフたちは薙ぎ払われる。
地面に転がる灰色の影。
動くものは、もうない。
「……終わりだ」
振り返るが、誰も言葉を発せない。
ただ、見ていた。
さっきまで“脅威”だったものが、一瞬で消えたその光景を。
だが、それで終わりではなかった。
また数日後。
今度は人が来た。
「武器を捨てろ! 逆らえば──こいつがどうなるかわかってるな?」
野盗。数は十数。
粗雑な武装。
だが、その手には──縄で縛られた村人。
「……」
若大将は、何も言わない。
視線だけが、動き、状況を把握する。
配置。
距離。
隙。
すべて、一瞬。
「聞こえてんのか!?」
刃が、村人の首元に押し当てられる。
「いいから武器を──」
言い終わる前に、若大将は動いていた。
踏み込み、距離を潰す。
一人、首を折る。
そして音もなく崩れる。
「なっ──」
反応するより早く、次へ。
腕を槍のように突き出し、体を貫く。
悲鳴。
とどめを刺すように回し蹴り。
野盗が吹き飛ぶ。
「ひ、人質が──!」
遅い。
刃を持つ腕ごと、叩き潰す。
骨が砕け、武器が落ちる。
そのまま、首元へ手を伸ばす。
躊躇はない。
終わった。
残りが逃げようと、背を向ける。
「……」
一歩で詰める。
逃がさない。
一人、また一人。
確実に。
淡々と。
──処理する。
そして最後の一人。
地に伏し、震えている。
「ま、待ってくれ……!」
顔を上げる。
恐怖に歪んだ顔。
「頼む……助けてくれ……!」
若大将は、見下ろす。
何も言わない。
ただ、見ている。
「俺たちはただ──」
言葉を遮る。
足が動く。
顔を踏み砕く。
静寂。
「……奪いに来たのだろう?」
ぽつりと、落とす。
返事はない。
「なら──」
視線を落とす。
動かなくなったそれらへ──。
「何をされても、文句は言えまい」
血の匂いが、風に流れる。
誰も、声を出さない。
この時、若大将の中で、何かが変わっていた。
──野盗の襲撃から数時間後。
夜。
壊れた村の中央に、灯りが集まっていた。
誰かに呼ばれたわけではない。
それでも、人は自然と集まっていた。
残された者たちが、残された場所で、これからを決めるために。
「……やはり、これしかない」
低い声。
「ああ……生き延びるには、それしかねぇ」
小さなざわめきが、やがて一つの方向へと収束していく。
そして──
「……若大将をここへ」
ひとりが、静かに言った。
「こんな時間に何用だ」
やがて現れた若大将は、すでに血も汚れも落としていた。
だが、その目に残るものは消えていない。
「若大将……あっしら、考えました」
鉱夫のひとりが、一歩前に出る。
「どうすれば守られ、生きていけるのかを」
「……なに?」
若大将の視線が集まる。
そして、言葉が落ちる。
「ここに──国を作りましょう」
静寂。
「……国?」
わずかに眉が動く。
「何を言っているんだ、お前たち」
否定ではない。
理解が追いついていない。
「私たちは、ずっとあなたに守られてきました」
別の村人が続ける。
「願わくば、これからも──あなたのもとで生きたい」
「また、一からやり直しましょう」
さらに声が重なる。
「あなたと、私たちで」
誰ひとり、冗談で言っていない。
その場にいる全員が、同じ方向を見ている。
「若大将──いや」
ひとりが、言葉を改める。
「王よ」
「……っ」
わずかに、息が詰まる。
「俺が……王?」
周囲を見渡す。
否定する者はいない。
迷う者もいない。
ただ、当然のように、そこにある。
その時。
そっと、小さな手が触れる。
ユリエだった。
「前の優しい目も好きだったけど」
見上げる。
まっすぐな瞳。
「今の細くて鋭い目は、王子様みたいで……かっこよくて、もっと好きです」
笑う。
あどけない笑顔で。
「……お前たちは」
ゆっくりと口を開く。
「俺に王になれと、そう言うのだな?」
若大将として、最後の確認をする。
「以前、“文句があるなら俺に言え”って言ったじゃないっスか」
鉱夫が笑う。
「今、その文句を言ってるんスよ」
「皆、アンタについて行く」
短く、だが重い言葉。
沈黙と共に、思考が巡る。
過去。
失ったもの。
残ったもの。
そして──今、ここにいる者たち。
「……わかった」
静かに言う。
だが、その声ははっきりと響く。
「お前たちがそう望むのであれば──俺は王となろう」
一瞬の静寂。
そして、歓声が上がる。
「宣言する」
その場の空気が、引き締まる。
「今後、何があっても──俺がお前たちを護る」
誓いをひとつ。
「そして──」
わずかに目を細める。
「誰も泣かない未来を作る」
誓いをふたつ。
胸に手を当てる。
「我が名において、ここに誓う」
歓声が、さらに大きくなる。
「これより俺は──いや」
言葉を選ぶ。
そして、変える。
「私は」
はっきりと。
「──竜王・ヴァルグレアである」
手を掲げる。
「ここに──竜王国・ヴァルグレアの建国を宣言する!」
歓声が夜を満たす。
その中心で。
ひとりの男が、王へと変わった。
十九皿目・前編『ふたつの誓い』
おしまい




