十七皿目『ミレたん、火種を落とす』
竜王は、静かにティーカップを受け皿へ戻した。
磁器の触れ合う小さな音が、執務室の空気に溶ける。
それからゆっくりと視線を上げと、黄金の瞳がふたりを順に捉えた。
「名乗りがまだだったな」
落ち着いた声だった。
威圧ではない。
だが、この場の主が誰であるかを疑わせない声音。
「……改めて名乗ろう」
わずかに背筋を伸ばす。
「我が名はヴァルグレア」
短く、しかし堂々とした名乗り。
「この国を統べる竜である」
それは自己紹介というより、
この場の秩序を宣言する言葉だった。
王都の中心。
竜王殿の最上層。
そして、この執務室。
すべては自分の支配圏であると。
その静かな威厳が部屋を満たす。
だが──
「うにゃっ」
場違いな声が、ぽつりと落ちた。
もぐもぐ。
チョコレートを頬張ったまま、ミレアが片手をぴっと挙げる。
まるで授業中の返事のような仕草だった。
ヴァルグレアは一瞬だけ視線を向ける。
……そして、何も言わない。
小さく息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「フッ……」
軽い笑みを浮かべ、ミレアを一瞥する。
だが、その視線にはすでに評価が含まれていた。
──天然。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして次の瞬間、
黄金の瞳が静かにサクラへ移る。
言葉はない。だが、十分だった。
“名乗れ”
王の視線がそう告げている。
サクラはすぐに理解し、椅子から立ち上がる。
一歩下がり、姿勢を整える。
背筋を伸ばし、両手を揃え、静かに頭を下げた。
その所作は、王宮の礼式に劣らないほど整っている。
「サクラ・ミナヅキです」
声は落ち着いていた。
「お目にかかれて光栄に存じます」
深く、綺麗な礼。
静かに顔を上げる。
その姿を見て、ヴァルグレアの目がわずかに細くなった。
(……ほう)
思った以上に、よく出来ている。
礼の角度。
視線の下げ方。
声の落とし方。
どれも訓練された者の動きだった。
配達員の従者にしておくには、あまりにも整いすぎている。
「ふむ」
ヴァルグレアは軽く頷く。
「サクラ・ミナヅキ、か」
ゆっくりと言葉を繰り返す。
その口調は柔らかい。
まるで世間話でも始めるかのような穏やかさ。
だが──その視線は、確かに探っていた。
隙間を。
関係の距離を。
「君は」
わずかに首を傾ける。
「彼女とは、どれほどの付き合いなのかな?」
問いは自然だ。何気ない雑談のように聞こえる。
だが、その実──それは探りだった。
ミレアとの関係性。
主従か。
護衛か。
それとも──頭脳か。
ヴァルグレアの黄金の瞳が、静かに光る。
その視線を正面から受けながら、サクラは一切動じない。
ほんの一瞬だけ思考し、答える。
「いえ」
声は淡々としている。
「まだ、さほど月日は経っておりません」
簡潔な答え。
余計な説明はない。それで十分だった。
「ほう……」
ヴァルグレアの目が、ゆっくりと細くなる。
その返答を、舌の上で転がすように味わう。
まだ長くはない。
つまり──
“引き離せる可能性”がある。
黄金の瞳の奥で、静かに思考が巡る。
そして、口元に薄い笑みが浮かんだ。
「それはそれは……」
穏やかな声。
だが、その響きには、
新しい駒を見つけた棋士のような興味が混じっていた。
ヴァルグレアはゆっくりと背もたれへ身を預け、
黄金の瞳が改めてサクラを観察する。
「まだ長い付き合いではない、と」
指先でティーカップの縁をなぞる。
静かな仕草だったが、その視線は鋭い。
「それにしては随分と落ち着いている」
わずかに目を細める。
「礼式も整っている。言葉選びも慎重だ」
まるで感心しているかのような口調だった。
「配達員の従者にしておくには、少々惜しいな」
その言葉に、サクラは表情を変えない。
ただ静かに耳を傾けている。
その横では──
「もぐもぐ」
ミレアが相変わらずチョコレートを食べていた。
カリッ。
アーモンドが砕ける軽い音が、妙に室内に響く。
ヴァルグレアの視線が一瞬だけそちらへ向く。
だが、すぐに戻った。
「サクラ・ミナヅキ」
静かに名を呼ぶ。
「竜王殿で働く気はないか?」
唐突な提案だった。
しかしサクラは瞬きひとつしない。
「竜王殿、でございますか」
「うむ」
ヴァルグレアは頷く。
「この国は建国からまだ二百年ほどだ。歴史としてはまだまだ若い」
窓の外へ目を向ける。
王都の屋根が陽光を受けて輝いていた。
「優秀な人材はいくらあっても足りない」
再びサクラを見る。
「その若さで礼儀、思考、落ち着き。君はすでにそれを備えている」
少し間を置く。
「足りないのは、必要な知識と作法くらいだろう」
声は穏やかだった。
だが、その内容は明確な引き抜きだった。
「配達員の補佐ではなく」
ゆっくりと言葉を区切る。
「国家に仕えるという道もある」
沈黙が落ちる。
サクラは静かにカップへ手を伸ばした。
紅茶をひと口。
香りを確かめるように、ゆっくりと飲む。
「……ありがたいお話ですが」
声は穏やかだった。
「私は、今の立場に満足しております」
短い答え。
拒絶ではない。
だが、乗る気もない。
ヴァルグレアの口元がわずかに動く。
(即答か)
そして、その横で。
「サクラ」
ミレアが口をもぐもぐさせながら言う。
「これ美味しいよ。はい、あ〜ん♪」
マカダミアチョコレートを差し出す。
サクラは一瞬だけ視線を向けた。
「っ、あ……あーん……」
心理戦の最中とは思えない光景だった。
ヴァルグレアは数秒だけ黙る。
それから、小さく笑った。
次の一手。
「だが」
指を組む。
「将来のことは考えているか?」
サクラの瞳が、ほんのわずかに動く。
「王宮勤めなら、待遇は保証される」
静かに続ける。
「給金。住居。身分」
言葉がゆっくりと積み重なる。
「望むなら、貴族との縁談も用意しよう」
その瞬間。
サクラの眉が、ほんのわずかに動いた。
ヴァルグレアは見逃さない。
「……美男子の貴族も多い」
軽く肩をすくめる。
「竜王国の未来を担う若者たちだ」
「……」
ヴァルグレアは続ける。
「配達員の従者では、将来が不安定だろう?」
ここで、ようやくサクラが口を開いた。
「ご心配には及びません」
声は静か。
「私は……」
一瞬だけミレアを見る。
そして言う。
「自分の意思で、このお方の隣におります」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
ヴァルグレアの黄金の瞳が細くなる。
「……ふむ、忠誠心もあるらしい」
やはり、鍵はこの少女だ。
ミレアは天然。
だが、このサクラ・ミナヅキは違う。
思考が早い。
状況を読む。
感情を見せない。
(……なかなかに厄介だな)
執務室の空気が、わずかに張り詰める。
その間に、サクラの思考が走る。
……この方、私をミレア様から遠ざけようとしていますね。
狙いは私ではなく、ミレア様。
聞いていた通り、“どこから入り込めるか”を探る方のようです。
おそらく──
ミレア様をコントロールしているのは私だと勘違いしている。
私を引き剥がし、ミレア様を傀儡にでもするつもりでしょうか。
ヴァルグレアは完全に黙っていた。
そして思う。
(……天真爛漫の竜と、それを支える参謀)
面白い組み合わせだ。
だが──このままでは、本題に入れない。
ヴァルグレアはカップを持ち上げる。
紅茶をひと口。
ヴァルグレアの黄金の瞳が、ゆっくりとミレアへ向く。
さきほどまでサクラを観察していた視線とは違う。
今度は、明確に“対象”として捉える目だった。
「ミレア・ノワール」
改めて名を呼ぶ。
ミレアはチョコレートを口に入れたまま顔を上げた。
「……ぇう?」
頬がまだ少し膨らんでいる。
ヴァルグレアは小さく笑った。
「その菓子は気に入ったか?」
「うん。うまうま♡」
迷いのない返事。
ヴァルグレアは満足げに頷く。
「それは何よりだ」
指先で菓子箱を軽く叩く。
「竜王殿には、まだ多くの種類の菓子がある」
ミレアの耳がぴくりと動く。
「そうなの?」
「もちろんだ」
ヴァルグレアは淡々と続ける。
「菓子だけではない。紅茶も、果物も、料理も。王都で手に入るものなら、全て揃う」
少し肩をすくめる。
「王とはそういうものだ」
ミレアは真面目な顔になる。
「へ〜」
サクラが横目で見る。
ヴァルグレアはさらに言葉を重ねた。
「配達員という仕事は忙しいだろう」
「まあねー」
「竜王殿なら、働く必要もない」
ヴァルグレアはゆっくりと言う。
「好きな時に食べ、好きな時に休み、好きな様に過ごす」
黄金の瞳が細くなる。
「菓子も、料理も、好きなだけ用意しよう。望むなら専属の料理人も付ける」
その言葉は穏やかだった。
だが、はっきりとした誘惑だった。
その瞬間、サクラの視線がわずかに鋭くなると、頭の中で結論が出る。
──この方は、ミレア様を自分の手元に置いておきたいのだろう。
私を引き剥がし、甘い待遇で囲い込み、
自由を与える代わりに、支配する。
あわよくば……妃にでもするつもりか。
サクラの胸がわずかに強張る。
隣を見ると、ミレアはいつもの顔だ。
ヴァルグレアはサクラの僅かな反応に気付く。
──さてはこの娘、私の狙いに気付いたか。
中々に頭の回る娘だ。
サクラは念のため声をかけようとした。
その時、ミレアが先に口を開く。
「サクラ」
「っ……はい」
ミレアはアーモンドチョコレートを一粒口に入れる。
それから、ヴァルグレアをちらりと見る。
そして、あっさりと言った。
「大丈夫だよ」
サクラが目を瞬かせると、ミレアは肩をすくめた。
「わたしが、こんな童如きに、なびくわけないでしょ?」
──沈黙。
執務室の空気が凍る。
メイドの表情がひきつり、サクラの目が一瞬見開かれる。
そして──ヴァルグレアの黄金の瞳が、ゆっくりと細くなった。
ブチッ。
音がしたわけではない。
だが、確かに──何かが切れた。
竜王の指先が、静かに机を叩く。
トン。
小さな音。
だが、その場の温度が確実に下がる。
ヴァルグレアはゆっくりと立ち上がった。
「……そうか」
声は静かだった。だが先ほどまでとは違う。
黄金の瞳がまっすぐミレアを捉える。
「力ずく、という方法もあるのだぞ?」
その言葉には確かな怒気が込められていた。
「あはは。出来もしないことは言うもんじゃないわ。竜としての格が下がるだけよ?」
ミレアは軽く笑い、さらに煽る。
「……」
ヴァルグレアは何も言わない。ただ、刺すような視線でミレアを見据えていた。
その沈黙を楽しむかのように、ミレアは余裕の笑みを浮かべる。
黄金の瞳と、紫の瞳が真っ向からぶつかる。
「竜王だからって、なんでも手に入るなんて思わないことね」
そう言うと、ミレアはすっと立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
「……さ、帰りましょうサクラ。こんな小竜と話していても仕方ないわ」
サクラは思わずふたりの顔を見比べた。
張り詰めた空気の中、恐る恐る口を開く。
「ミ、ミレア様がよいのであれば……」
サクラもゆっくりと立ち上がる。
ミレアはそのまま扉の前まで歩き、手をかける。
そして、振り返らずに言った。
「……ああ、そうそう」
一拍置く。
「王都で手に入るものならなんでも揃う、って言ってたけど」
ミレアは淡々と言い切った。
「こんなつまらない国で、何を揃えても価値なんてありはしないわ」
──次の瞬間。
ドゴォォン!!
凄まじい音が執務室に響き渡る。
ヴァルグレアの拳が、机を叩き割っていた。
砕けた木片が床に散る。
静まり返る室内で、竜王はゆっくりと顔を上げた。
黄金の瞳が、怒りを宿して光る。
「……ここまで愚弄されたのは、久方ぶりだ」
低く、押し殺した声だった。
だが、その奥に潜む怒りは、もはや隠しきれなかった。
「ここではなんだ。竜同士、外で語り合おうではないか」
十七皿目『ミレたん、火種を落とす』
おしまい




