十五皿目・後編『ミレたん、溶けるまで』
やってきたのは、城下町の中心にある広場だった。
道が交差し、人が溜まり、また散っていく場所。
道を歩く人。
買い物袋を提げた人。
ペットを連れて歩く人。
ベンチで腰を下ろし、何もせず空を眺めるご老人。
芝生の上を転げ回り、笑い声を上げる子供たち。
誰もがここにいて、誰もが主役ではない。
それぞれの生活の途中が、たまたま重なっているだけの場所。
そんな広場の中で、ミレアが迷いなく向かった先は──
日当たりのいい、木陰に近いベンチだった。
「うんしょっ」
軽い声とともに、ミレアは腰を下ろす。
足を少し前に投げ出し、背もたれに体重を預ける。
それだけ。
周囲を見渡すわけでもなく、誰かを探すでもなく。
本当に、何もしていない。
「……」
サクラは、立ったまま様子を伺う。
何か指示があるのかと思ったが、ミレアはただ──
「んぁー……」
喉の奥で、小さく音を鳴らしただけだった。
溶けるように、目を細める。
日差しを顔に受け、風を頬に受けている。
「あの……ミレア様……?」
遠慮がちに声をかける。
「ぇうー?」
返ってきたのは、間の抜けた声。
焦点の合っていない目が、ゆっくりとサクラを見る。
「今は……何をなさっているのでしょう?」
慎重に言葉を選んだ問い。
「日光浴だよ〜」
少し蕩けた笑みで、ミレアは答えた。
「……日、光浴……?」
サクラは思わず空を見上げる。
確かに、先ほどよりも日差しが強くなっている。
じわり、と肌に伝わる熱。
照らされている、という感覚。
(言われてみれば……今まで、こうして“日を浴びる”こと自体、考えたことがなかったかもしれません)
仕事の移動。
目的地へ向かう途中。
合間の食事。
太陽はいつも“背景”でしかなかった。
「……お隣、失礼しますね」
サクラは小さく言ってから、ミレアの隣に腰を下ろす。
背筋を伸ばす癖が出かけたが、ミレアの姿を見て、少し力を抜く。
同じように、背もたれに体重を預ける。
「うん」
ミレアは、目を閉じたまま言った。
「今はね、あれこれ考えるんじゃなくて……感じるんだよ」
サクラは、真似るようにゆっくりと目を閉じる。
最初に耳に届くのは、人の声。
遠くで誰かが笑っている。
誰かが呼び止める声。
足音が重なり、ほどけていく。
次に、風の音。
芝生を揺らす、さらさらという音。
木の葉が擦れる、乾いた音。
肌には、太陽の温もり。
直接的ではない、包むような熱。
じんわりと、体の内側まで届いてくる。
サクラは、思う。
今この瞬間、自分は何も背負っていない。
判断も、決断も、責任も、求められていない。
ただ、ここに座っているだけ。
(……こんな時間が、あってもいいのでしょうか)
そう思った瞬間、その問い自体が少しずつ溶けていく。
ミレアの肩が、すぐ隣にある。
触れてはいないが、確かな距離。
逃げなくていい距離。
張り詰めなくていい距離。
サクラは、静かに息を吐いた。
そして、初めて気づく。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなっていることに。
日光は、変わらず降り注いでいた。
それは劇的な変化ではない。
何かが解決したわけでも、答えが出たわけでもない。
ただ、常に張り詰めていた糸が、ほんの一段階だけ緩んだ。
そんな感覚だった。
肩の位置が、わずかに下がる。
背中に入っていた力が抜け、呼吸が深くなる。
日光の温度が、肌の上に「ある」と分かる。
(……気持ち、いい……)
サクラは、そこでふと、不安になる。
(こんなふうに、何も考えずにいて……本当に、いいのでしょうか)
責任。
役目。
やるべきこと。
頭の奥で、それらが再び顔を出しかけた瞬間──
「ねぇ」
隣から、柔らかな声が落ちてくる。
「今、サクラは“楽”でしょ?」
ミレアは、サクラを見ずに言った。
空を仰いだまま、眩しそうに目を細めている。
「……はい」
小さな返事。
「それでいいの」
即答だった。
「力を抜くことに、理由なんていらないよ」
サクラは言葉を探す。
だが、探す前に次の言葉が続いた。
「サクラはさ、他人の機嫌を気にしすぎ」
ミレアは、どこか呆れたように、でも責める調子ではなく言う。
「相手がどう思うか、迷惑じゃないか、怒られないか……全部、先回りして考えてる」
図星だった。
サクラの指先が、膝の上でわずかに強張る。
「でもね」
ミレアは、少しだけ声を落とす。
「大人なら、機嫌くらい自分で取らなきゃ」
その言葉は、強くも厳しくもない。
当たり前のことを、当たり前の温度で言うだけ。
「自分の機嫌は、自分でコントロールするものよ。
誰かに預けるものでも、犠牲にするものでもない」
その一言一言が、サクラの中に静かに沈んでいく。
押し付けられる感覚はない。否定も、命令もない。
ただ、「そういう考え方もあるよ」と差し出されただけ。
サクラは、目を閉じる。
(私は、ずっと……誰かの機嫌を取ることで、自分の居場所を作ってきたのかもしれません)
風が吹く。
木々が揺れる。
遠くで子供の笑い声が弾ける。
それらを「聞こう」としなくても、勝手に耳に届く。
肩の力が、さらに抜ける。
背もたれに預けていた身体が、自然とミレアの方へ傾く。
(……このままで、本当に……)
一瞬、また同じ疑問が浮かぶ。
──いいのだろうか。
──怠けていないか。
──間違っていないか。
けれど。
(……ミレア様が、いいって言っているし)
その思考のあとに、続く言葉が変わっていた。
(……まあ、いいか)
自分でも驚くほど、あっさりと。
胸の奥で、何かが「ほどける」音がした気がした。
考える前に、身体が先に緩む。
ミレアは、その変化を見逃さない。
「よしよし」
小さくそう言って、サクラの肩に触れる。
引き寄せるのではなく、導くように。
「ほら、力、抜けてきた」
サクラは抵抗しない。
そのまま、ミレアの方へ身体を預ける。
ミレアはゆっくりと体勢を変え、
サクラの頭を、自然な流れで自分の膝の上へと運ぶ。
急がない。驚かせない。
ただ、「そこが一番楽でしょう?」と言わんばかりに。
膝枕。
サクラの視界には、空と、ミレアの輪郭。
髪を撫でる手が、一定のリズムで動く。
「……」
サクラは、もう何も言わない。
言葉を探す必要がない。
(……ああ。今は……これでいいんですね……)
目を閉じる。
日光と、温度と、撫でる手。
それだけで、世界は十分だった。
「サクラはね、ずっと“大人”であり続けてきたんだと思う」
ミレアは、サクラの髪を撫でながら、静かに言った。
「周りを見て、空気を読んで、先回りして……ちゃんとしなきゃ、迷惑をかけちゃいけないって」
その指先は、絡まった思考をほどくみたいに、一定のリズムで動く。
「でもね」
少しだけ、声が柔らぐ。
「今は、少しだけでいいから。子供に戻ってもいいんだよ?」
(……子供……)
サクラは、そっと目を開く。
視界の先では、子供たちが走り回っていた。
転んでも、笑って、また立ち上がる。
誰かの顔色を窺うこともなく、怒られるかもしれない未来を想像することもなく。ただ、今この瞬間を生きている。
自由で、無遠慮で、無防備で。
だからこそ──平和だ。
(……子供が、誰かの機嫌を損ねないように生きなきゃいけない世界なんて)
そんな世界は、きっと、どこかが間違っている。
(ミレア様が……)
その言葉が、胸の奥で自然と形になる。
(……神様が、そう仰るのなら)
それが正しいのだと、サクラは初めて疑いなく思えた。
静かに、息を吐く。
胸の奥に残っていた、最後の緊張が──
すうっと、溶けていく。
「ふふっ……」
ミレアは、その変化を確かめるように微笑んだ。
「いい感じに、力が抜けたね。えらいえらい」
撫でる手が、少しだけ優しくなる。
「それじゃあ、ご褒美」
ミレアは、どこからか小さな包みを取り出した。
「はい、あ〜んっ♪」
「え……」
一瞬、戸惑い。
けれど、逆らう理由は見つからなかった。
「あ、あーん……」
口を開けると、柔らかな甘さが舌の上に落ちる。
「昨日、サクラがカレーを買ってたでしょ?」
ミレアは、楽しそうに言う。
「その時にね、わたしもお菓子買ってたんだ〜」
包みを軽く振る。
「不二家の《ミルキー》」
ミレアは、文字をなぞるように眺めながら呟いた。
「“ミルキーはママの味”なんだって。
どんな味なんだろうって、ちょっと気になっちゃってさ」
その言葉を聞いた瞬間──
サクラの中で、何かが静かにほどけた。
(……あ)
記憶が、浮かび上がる。
まだ、世界が怖くなかった頃。
母の隣で、小さな手に包みを握っていた日。
甘くて、やわらかくて、噛まなくても溶けていく、あの味。
忘れていたわけじゃない。
ただ、思い出す余裕がなかっただけ。
口の中で、ミルキーがゆっくりと溶けていく。
甘さは、強くない。
押し付けがましくもない。
ただ、包む。
胸の奥まで、静かに届く。
サクラは、何も言えなかった。
言葉にしたら、壊れてしまいそうで。
代わりに、そっと目を閉じる。
膝の上。
撫でる手。
甘い余韻。
(……子供に、戻るって)
こういうことなのかもしれない、と。
ミレアは、そんなサクラを見下ろしながら、
小さく、満足そうに笑っていた。
「……わたしも食べてみよっと」
袋から一粒取り出す。
包み紙をひねった瞬間から、もう準備運動は終わっている。
指先に伝わる、少しだけ粘りを感じさせる感触。
乾いていない。かといって溶けてもいない。
ミルキーは生きていると、錯覚させる独特の手応え。
口に含ませた瞬間、まず驚くのは温度。
口内の熱に対して、ミルキーは一瞬だけ踏ん張る。
すぐには崩れない。だが拒まない。
この“間”がすごい。
キャンディというより、濃縮された乳の塊が、
ゆっくりと本来の形を取り戻していく感じ。
最初に立ち上がるのは、はっきりした甘さじゃない。
練乳の奥にある、乳脂肪のコク。
砂糖が前に出てこない。
舌で軽く押すと、表面がきゅっと抵抗してから、
内部がねっとりとほどける。
ゆっくり噛み進めると、世界が変わる。
ミルキーの味の層が、段階的に広がる。
最初はミルクの丸さ。次に練乳特有の深い甘み。
そして遅れてやってくる、ほんのわずかな塩味と、
遅れてくるコクが強い。
後味が薄いどころか、時間が経つほど濃くなる。
噛んでいないのに、味が増していく感覚。
舌に絡みつく感じも独特で、ただ溶けるのではなく、
口内に居座る。余韻が異様に長い。
飲み込んだあと、口の中はすぐに空にならない。
甘さが消えるというより、形を失ったまま残る。
舌の上、歯の裏、頬の内側──どこか一箇所ではなく、
全体に薄く広がっている。
強く主張しないのに、離れない。
後味が「余る」のではなく、静かに居座る感じ。
キャンディにありがちな、切れ味のいい終わり方じゃない。
終わったと思った瞬間に、もう一度だけ、
ふっと甘さが戻ってくる。
しかも、さっきより少し丸い。
急いで次に行かせない設計。
満足した、と言い切るには少し早く、
でも欲張るほど軽くもない。
だから手は止まる。一瞬だけ、考える。
そして、また一つ開ける。
《不二家 ミルキー》は、
間を置いた分だけ、次の一粒がちゃんと美味しい。
勢いで食べる菓子じゃない。
一粒ごとに、間を作らせるお菓子だった。
「ん〜♪ これはこれは……♡」
ミルキーを口の中で転がしながら、ミレアは無防備に声を漏らした。
甘さがほどけるのを楽しむように、頬を緩め、すぐにもう一粒を指先で摘まむ。
その様子を、サクラはぼんやりと見つめていた。
「……ミレア様」
呼ぶ声は、小さい。
「少しだけ……泣いても、いいですか?」
問いかけは、許可を求める形をしていた。
けれどその実、答えを必要としていないことをミレアはすぐに理解した。
返事はしない。
ただ、サクラの背に回した手を、ゆっくりと動かす。
一定のリズムで、優しく叩く。
トントン、トントン、と。
慰めるでも、励ますでもない。
サクラは、その沈黙に甘えるようにミレアの腹部へと顔を埋めた。
声は出ない。
嗚咽もない。
ただ、呼吸だけが少し乱れる。
「……今日は、いい天気だね〜」
ミレアが、独り言のように呟く。
誰かを気遣う言葉でも、話題を逸らすためでもない。
ただ、今そこにあるものを、そのまま口にしただけ。
それでいい。
それがいい。
サクラは、何も言わなかった。
言葉を返さなくていいことが、こんなにも楽だと初めて知った。
何も聞かれない。
理由も、説明も、整理も求められない。
ただ、受け止められている。
それだけで胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ溶けていく。
ミレアはそのまましばらくの間、ミルキーを味わっていた。
ひと粒、またひと粒。
甘さは強いのに、押しつけがましくない。
舌に残るのは、柔らかさと、安心だけ。
“ママの味”。
そう呼ばれる理由が、少しだけ分かった気がした。
甘いからじゃない。
懐かしいからでもない。
考えなくていい。
頑張らなくていい。
このままでいい。
そう言われているような味。
ミレアは、静かに息を吐く。
今日この時間、
彼女が味わっている“ママの味”は、ひとつだけじゃなかった。
口の中に広がる、ミルキーの甘さ。
そして──
腕の中で、何も言わずに縋ってくる少女の温もり。
守ることを選び、受け止めることを選び、
何も求めず、ただそこにいる。
その在り方そのものが、
もうひとつの“ママの味”だった。
十五皿目・後編『ミレたん、溶けるまで』
おしまい
※本作に登場する
「ミルキー」
の名称および関連表現については、株式会社不二家様より正式に使用許諾・監修をいただいております。




