十五皿目・前編『ミレたん、ほどけるまで』
サクラはまだ、ミレアの胸の中にいた。
腕に抱かれ、身を預け、呼吸のたびに上下する感触をそのまま受け取っている。
逃げ場のない距離。けれど、息苦しさはなかった。
むしろ、思考の輪郭がゆっくりとほどけていく。
「……ミレア様」
サクラは、胸元に顔を埋めたまま、静かに切り出した。
「昨日は、出所明けということで一日お休みをいただきましたが……本日は、出勤すべきかと」
言葉は整っている。理屈も通っている。
“正しい判断”としての形をしている。
「ふふっ……」
ミレアは、優しく笑った。
「ウソね、サクラ」
腕の力を少しだけ強める。
逃がさない、というより──包むように。
「本当は、仕事に行きたくないって思ってる」
その声に、責める響きは一切なかった。
ただ、事実をそのまま拾い上げただけの声。
感情の匂いを、細かく嗅ぎ分ける彼女に、サクラの本音が隠しきれるはずもなかった。
「それは……」
サクラは一瞬、言葉を探し、やがて観念したように息を吐く。
「……まぁ。違うと言えば、嘘になります」
本当は、行きたくない。それ以上に──
一緒に、ゆっくりしたい。
その気持ちを、自分でもはっきり意識してしまい、サクラは視線を落とした。
「それじゃあ、いいじゃない」
ミレアは、あっさりと言う。
「大丈夫だよ。一日くらい余分に休んだって。だから今日はお休み」
にこっと、無邪気な笑顔。
「っ……」
サクラの脳裏に、次々と計算が浮かぶ。
ミレア様は本日、この国の王──竜王・ヴァルグレア様に招かれている。正確には、昨日のはずでしたが……。
その事情がある以上、ミレア様自身は休暇扱いになるだろう。 だが自分は違う。
フェリシアさんの計らいで、共に休みをもらったに過ぎない。
アークリンク配達連盟は、常に人手不足だ。
在国者が増えれば増えるほど、業務量は跳ね上がる。
稼ぎ頭であるミレア様が不在なだけでも、 現場への影響は大きい。そこへ、さらに一人欠けるとなれば──
(……)
サクラの思考は、自然と重くなっていく。
「……また。小難しいこと、いっぱい考えてるでしょ〜?」
ミレアが、くすっと笑った。
図星だった。
「わたしがお休みって言ったら、お休みなの」
ミレアは、当たり前のことのように言う。
「サクラは、わたしの従者でしょ?」
それは命令ではない。主従関係を盾にした強制でもない。
“一緒に休む前提”を置いた言い方だった。
「……そこまで仰るなら」
サクラは、ようやく力を抜いた。
「は〜い、いい子いい子♪」
ミレアの手が、サクラの頭を撫でる。一定のリズム。
思考を止めるための速度。
「うぅ……」
サクラは、小さく唸った。
「ミレア様に甘やかされ続けると……ダメ人間になってしまいそうです……」
それは冗談めかした言葉だったが、根の部分は、決して軽くない。
「いいんじゃない?」
ミレアは即答した。
「少しくらい、ダメになっちゃっても」
否定もしない。 修正もしない。
ただ、そのまま受け取る。
「サクラは、いつも気を張りすぎだよ」
撫でる手が、少しだけゆっくりになる。
「もっと、肩の力を抜いてもいいのに」
「……」
サクラは黙り込んだ。
甘えること。妥協すること。
それらは、彼女にとって“危険な行為”だった。
油断すれば、足元を掬われる。
緩めれば、責められる。
許されれば、後で必ず代償が来る。
そんな世界で、長く生きてきた。
「完璧である必要なんて、ないんだから」
ミレアは、静かに言う。
「失敗なんて、誰でもするし。誰だって、間違えちゃう」
その言葉は、 サクラの過去を否定もしなければ、 無理に上書きもしない。
ただ──
“今は違う”と示す言葉だった。
サクラは胸の中で、そっと息を吐いた。
考えるより先に、身体がミレアの胸に少しだけ寄り添っていた。
「だからね、そんなに難しく考えなくていいんだよ」
ミレアは胸元に残る温もりをそのままに、穏やかに言った。
理屈を並べない。ただ、力を抜く方法の言葉。
サクラは、その声を聞きながら、ふと考えてしまう。
──もし、何も考えず。
──何も背負わず。
──気負わずに生きてこられたら。
どれだけ楽だっただろう。
間違えないように。怒られないように。役に立つように。
そんなことを一つも考えずに生きていれば、
“終わらせてほしい”なんて、思わずに済んだのかもしれない。
「……」
その思考は、重い。だが、今は沈み切らない。
腕の中が、あまりにも温かかったから。
「ミレア様は……」
サクラは、そっと問いかけた。
「なにか、悩むことはないのですか?」
その質問は、“答え”を求めるものではなかった。
ただ、同じ場所に立てる可能性があるのかを、確かめたかった。
「うーん」
ミレアは少しだけ考える素振りを見せてから、笑う。
「結構、毎日悩んでるよ?」
意外そうな言葉。だが、すぐに続く。
「といってもね、サクラが思うようなことでは悩まないわ」
指先で、サクラの髪を軽く梳きながら、
「わたしが悩むのは、今日は何を食べようか、とかね。
甘いのにするか、しょっぱいのにするか、
それとも両方いっちゃう? とか」
そんな調子で、並べていく。
「……」
サクラは一瞬、呆気に取られ、
次の瞬間、小さく笑ってしまった。
「ミレア様らしいですね」
肩の力が、ほんの少し抜ける。
「えへへ」
ミレアは得意げに微笑む。
「……」
そして、サクラは一歩踏み込む。
「……どうすれば」
声が、少しだけ震える。
「どうすれば、そんな風に生きられますか?」
ミレアは、その問いを聞いても、すぐには答えなかった。
しばらく考え──
「あー……どうすれば、って言われると難しいけど……」
少し間を置いて、
「そうだ!」
明るく言った。
「普段わたしがやってる、休みの日の過ごし方を一緒にやってみよっか?」
「……ミレア様の、普段の過ごし方……?」
サクラは、聞き返す。
それは修行でもなく、教えでもなく、矯正でもない。
ただの“過ごし方”。
「うん!」
ミレアは即答する。
「というわけで──」
腕の力がふっと緩み、
「早速、お出かけだね!」
その一言で、サクラはようやく解放された。
身体が離れた瞬間、 胸の奥に、ほんの小さな違和感が残る。
(……?)
立ち上がりながら、サクラは首を傾げた。
(どうして……少し、残念な気持ちになっているのでしょう……)
理由は分からない。 言葉にもならない。
ただ、確かなのは──
離れたことより、離れた瞬間を意識してしまったという事実だけだった。
──────────
城下町の大通り。
朝の光はすでに高く、通りは人で溢れていた。
出勤途中の人々。
店先で暖簾を整える店主。
子供の背中を押して送り出す母親。
夜勤明けなのだろう、目の下に影を残したまま歩く男。
ほんの数歩進むだけで、
視界の中に、いくつもの人生が流れ込んでくる。
忙しなく、慌ただしく、
誰もが自分の行き先を持っている。
「人、たくさんいるでしょ?」
前を向いたまま、ミレアが言う。
「……はい」
サクラは頷きながら、無意識に背筋を伸ばしていた。
この中で“浮いてはいけない”という癖が、まだ抜けない。
「ねえ」
ミレアは歩調を変えずに続ける。
「みんな、何してると思う?」
「それは……」
サクラは少し考える。
「人によって、様々です。仕事に向かう方、準備をする方、帰宅する方……」
模範的で、正しい答え。
「そうだね」
ミレアは否定しない。
「でもね……みんな、自分のことで手一杯なの」
少しだけ声の調子を落とす。
「……」
ミレアはサクラの手を軽く引き寄せる。
「他人からどう見られてるかなんて、実はほとんど気にしてないんだよ」
その言葉に、サクラの視線が揺れる。
改めて、周囲を見る。
通りの端。
影になった路地では、昨夜の酒が抜けきらず、路地に座り込む男。
露店の裏で、小声で品物をやり取りする二人組。
店の裏口から、無造作にゴミ袋を運び出す店主。
誰も、誰かを気に留めていない。
評価もしない。
正しさを測らない。
ただ、それぞれの“今”を生きている。
サクラの胸の奥で、何かがゆっくりと、ずれていく。
「私は……」
思わず、声が漏れた。
「……間違っているのでしょうか」
誰に向けた問いでもない。
ただ、長い間、自分に貼り付いていた疑問。
同じ人間のはずなのに。
同じ街に立っているはずなのに。
どうして、自分だけが──
こんなにも“浮いている”ように感じてしまうのか。
ミレアは、すぐには答えない。
数歩、歩いてから穏やかに言う。
「ううん、間違ってないよ」
サクラの手を引く力は、そのまま。
「ただね」
少しだけ、間を置いて。
「色々抱え込むには、サクラはちょっと若すぎただけ」
その言葉には、
責めも、同情も、慰めもない。
過去を悔やむ響きでもない。
未来を急かす響きでもない。
ただの事実。
「……」
サクラは、息を吸う。
──若すぎた。
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちる。
それは「弱かった」という意味ではない。
「間違えた」という意味でもない。
ただ──
背負わなくていいものまで、早く背負ってしまったというだけの話。
「サクラには、何が見えるかな?」
問いかけは、試すためではなかった。
導くためでもない。ただ、“一緒に見る”ための言葉。
ミレアは歩き出す。サクラの手を引いたまま。
静かに人の流れの中へ。
評価も、役目も、正解もない場所へ。
「急がなくていいよ」
ミレアの声が、雑踏に溶ける。
「今日はただ、歩くだけ。考えなくていい。頑張らなくていい。見えるものだけ、見ていこうね」
サクラは、その背中を見つめながら、
ゆっくりと歩調を合わせる。
握られた手は、まだ少し緊張している。
けれど──離れない。
その事実だけが、今のサクラを確かに支えていた。
「……サクラは真面目だから」
手を引いたまま、ミレアは前を見て言う。
「少しだけ、力を抜くコツを教えてあげる」
「コツ……ですか?」
サクラは戸惑いながらも、その言葉を受け取る。
「うん」
ミレアは歩調を緩めない。
「人ってね、サクラが思ってるほど、賢い生き物じゃないよ」
その声には、冷笑も嘲りもなかった。
ただ、長い時間を見てきた者の、淡々とした実感だけがある。
「自分が思ってるほど、他人は自分のことを見てないし」
一歩。
「他人に、そこまで興味もない」
もう一歩。
「……だからね」
ミレアは少しだけ、サクラの手を引く力を強めた。
「動物とか、子供を見る目で接すればいいよ」
「……」
サクラは思わず、街ゆく人々を見つめる。
「みーんな同じ」
ミレアは続ける。
「頭の中は大して何も詰まってなくて、やってることは単純。
でも文句は一丁前」
その言い方は少しだけ楽しそうで、少しだけ呆れていて、
どこか優しかった。
「どうしてだと思う?」
問いは、試すものではない。
サクラは少し考え、言葉を選ぶ。
「……上手く、いかないから?」
「半分正解」
ミレアは即座に返す。
「正解はね」
歩きながら、静かに告げる。
「──自分で責任を負いたくないから」
「責任……」
「無理したくない。楽したい」
ミレアの声は、一定だった。
「そんな中で、適当にやって、失敗したら」
少しだけ肩をすくめる。
「──そんなの知らない。聞いてない。やれって言われてない。
とか言って、責任から逃げようとするの」
サクラの胸の奥が、きゅっと縮む。
それは“非難”ではない。
ただ、あまりにも現実的な言葉だった。
「みんなね」
ミレアは続ける。
「分からないなら誰かに聞く、より先に──
誰かが何とかするでしょ、って考えちゃうの。
やれって言われてないから。まあいっか。し〜らない」
言葉の端々に、軽さがある。
「……」
サクラは、何も言えなかった。
今まで自分が背負ってきたもの。
自分が“背負わなければならない”と思い込んできたもの。
その多くが──本当は、誰も引き受けるつもりのなかった責任だったのだと、初めて気づいてしまったから。
「そんなのばっかりだよ」
ミレアは言い切る。
「ほら」
手を引かれ、階段を上る。
数段上がった先は、広場を見下ろせる場所だった。
眼下に広がる景色。
笑い声。怒鳴り声。商人の呼び込み。
子供の泣き声。馬のいななき。
雑多で、統一感がなく、
それでも確かに“生きている音”。
「これだけの人がいて」
ミレアは広場を指す。
「みんな、適度に力を抜いて生きてる。誰も彼もが、サクラみたいに完璧にこなそうなんてしてない」
「っ……」
サクラの手に、無意識に力が入る。
今まで、自分が“当たり前”だと思っていた基準が、
少しずつ、ずれていく。
「それなのにね」
ミレアは、どこか楽しげに続けた。
「人は幾千の夢を持ち、幾万の罪を抱える。
できないことは山ほどあるのに、欲しいものは無限にあって。
文句を言いながら、難癖をつけながら。
結局は、欲望のままに生きてる」
少しだけ、声が低くなる。
「……これってさ」
ミレアはサクラを見る。
「すごく子供のわがままみたいで、動物的だとは思わない?」
その言葉は、責めでも、突き放しでもない。
「だからね」
最後に、そっと付け加える。
「サクラだけが、そんなに大人になる必要はないんだよ」
その瞬間。
サクラの中で、先ほどの言葉が、静かに、綺麗に落ちた。
──人は、思っているほど立派じゃない。
──だからこそ、完璧である必要もない。
胸の奥に、重く積み上がっていたものが、
ほんの少し、崩れ落ちる。
息が、少しだけ、楽になる。
サクラはまだ、答えを見つけていない。
けれど──
「……」
手を引かれたまま、もう一度、広場を見下ろす。
今までとは、違う目で。
人々は、相変わらず騒がしく、無秩序で、勝手だ。
「覚えてる?」
ミレアは広場を見下ろしたまま言った。
「わたしと出会って、間もない頃」
視線だけをサクラに向ける。
「茶屋の娘が、猪の魔獣に襲われてた時」
その言葉で、サクラの中に情景が鮮明に蘇る。
(……覚えてる)
土埃。悲鳴。
魔獣の唸り声。
(その時、私は……)
竜車の揺れ。
反射的に短刀へ伸ばした手。
そして──考えるより先に、身体が動いた。
(助けないと、って……)
理由も、勝算も、考えなかった。
ただ、“見捨てられなかった”。
「サクラ」
ミレアの声が、現実へ引き戻す。
「危険を省みず、魔獣の前に飛び出したよね」
「……はい」
サクラは小さく頷く。
「ミレア様が、居なければ……」
言葉が詰まる。
「私は、きっと……」
続きを言えず、視線を落とす。
繋いでいない方の手で、無意識に服の端をぎゅっと掴む。
あの時、自分一人だったら──結果は、考えるまでもない。
「ほら」
ミレアは責めるでもなく、淡々と言う。
「自分ではどうすることも出来ないのに、なんでも背負い込もうとする」
「……」
サクラは俯いた。
胸の中で、同じ問いがぐるぐると回り始める。
(私のしたことは……間違いだったのだろうか)
ミレア様は、きっと──あの娘を、見捨てただろう。
私が飛び出したから、
“仕方なく”手を差し伸べてくださっただけで。
(……でも)
考えが、絡まる。
私だけでは、どうにもならなかった。
それは、間違いない。
(でも、私が動いたから……)
ミレア様も、動いた。
結果として、あの娘は助かった。
(それなら……)
正しかったのか。間違っていたのか。
自分では、もう分からない。
「……また」
ミレアの声が、思考の渦を断ち切る。
「小難しいこと、考えてるでしょ?」
「……」
図星だった。
「わかりません……」
サクラは、正直に言った。
「何が、正しくて……何が、間違っているのか……」
ミレアは、すぐには答えなかった。
一拍。
ほんの短い沈黙。
それは、考えるための間ではなく、
“噛み砕くため”の間だった。
「……そうね」
ミレアは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「分かりやすく言うなら」
さらに、一拍。
「負うべきものが、責任」
サクラを見る。
「これはね、自分が“できる範囲”のことよ」
「……自分が、できる範囲……」
サクラは、その言葉を反芻する。
「そう」
ミレアは頷く。
「できることを引き受ける。できないことは、できないと分かる。それが、責任」
一呼吸。
「そしてね」
声が、少しだけ低くなる。
「負わなくていいものまで負いたがるのは──」
言葉を区切り、はっきりと告げる。
「責任感」
「……責任感……?」
サクラは、困惑したように繰り返す。
「ええ」
ミレアは、視線を再び広場へ向けた。
「自分じゃどうすることもできない。手に余る。結果を制御できない。そういうことにまで手を伸ばすのはね──」
静かに、だが迷いなく。
「ただの無責任よ」
「……っ」
サクラは、息を詰める。否定された、と思ったわけではない。
突き放されたわけでもない。
ただ、今まで“美徳”だと思っていたものが、
別の角度から照らされただけだ。
「助けたいと思う気持ちは、悪くない」
ミレアは続ける。
「でもね──“助けられる”と“助けたい”は、違う」
サクラの手を、軽く握り直す。
「サクラは、助けたい気持ちだけで飛び出した。
結果的に助かったから、よかったように見える。
でもそれは、わたしが居たから成立した話」
少しだけ、声が柔らぐ。
「もし、わたしが居なかったら?」
答えは、言わない。
言わなくても、分かるから。
「だからね」
ミレアは、はっきりと言う。
「サクラがやったことは、間違いでも、正解でもない。
ただ、“サクラの癖”が出ただけ」
「……癖……」
「そう」
ミレアは微笑む。
「なんでも自分が背負わなきゃ、って思っちゃう癖。
それは優しさでもあるし、危うさでもある」
広場の喧騒が、風に乗って届く。
「だから」
最後に、静かに言葉を落とす。
「これからはね、自分一人で抱えなくていいか。
誰かに任せてもいいか。そもそも、自分が手を出すべきか。
それを、考えられるようになろ?」
サクラは、しばらく黙っていた。
街の音。
人の気配。
繋がれた手の温度。
全部が、今は少しだけ違って感じられる。
「……」
そして、小さく息を吸い。
「……はい」
短く、けれど今までよりも軽い声で、サクラはそう答えた。
答えは、まだ途中。
でも──
“一人で背負わなくていい”という選択肢が、静かに生まれていた。
「……わたしはね」
ミレアは、人混みをゆっくりと眺めながら言った。
「こうやって、人をたくさん眺めるの」
声は穏やかで、講釈めいた重さはない。
ただ“昔からそうしてきた”という自然さがあった。
「人によって、その人なりの“癖”があるから」
「癖……」
サクラは、改めて周囲を見渡す。
行き交う人々は、皆どこか忙しそうで、無表情で、目的地へ向かって歩いている。だが、よく見ると──
歩幅が妙に一定な人。
肩をすぼめる人。
視線を合わせない人。
無意味に懐を確かめる人。
確かに、動きはまちまちだった。
「そしてね」
ミレアは続ける。
「その癖を見てると、その人がどんな人生を歩いてきたのか、なんとなく分かるようになる」
風が吹き、ミレアの髪が揺れる。
「……全部を理解する必要はないの。ただ、“重さ”だけを感じ取るの」
ミレアは人混みの中の一人を指さした。
「……ほら。あそこのおじさん」
サクラの視線が、自然とそちらへ向く。
年の頃は四、五十代。背は低く、少し猫背。粗末ではないが、決して派手でもない服装。荷を抱え、せかせかと歩いている。
ミレアは、少しだけ目を細める。
「今は真面目に働いてるけど……昔は盗賊だったみたいね」
「え……?」
サクラは思わず声を漏らす。
どう見ても、そんな雰囲気はない。むしろ、気弱そうにすら見える。
「……ふ〜ん」
ミレアは、独り言のように続ける。
「商人を襲っては、金や物を奪ってたみたい。でも……」
一拍。
「ある時、奪った荷の中に……子供が居たのね」
サクラの指が、きゅっと握られる。
「……両親に売られて、身寄りのない子だった」
ミレアの声には、評価も感情もない。 ただ、事実を並べているだけだ。
「不憫に思ったのか、その日を境に盗賊をやめて、その子を引き取って、今はああやって真面目に働いてる。ってところね」
「……」
サクラは言葉を失った。
内容に、ではない。そこまで“見えている”ミレアの感覚に、だ。
「そんな……過去が……」
指を下ろす。
「何も、そこまで読み取れって言ってるんじゃないの。そもそも、わたしは人間じゃないからね」
サクラの方を見る。
「真面目に働いてる人でも、必ずどこかで力を抜いてる。ほら、さっきのおじさん」
視線を追うと、件の男は角を曲がる前、ほんの一瞬だけ空を見上げていた。それは、誰にも気づかれないほど短い。
「たった一瞬、空を見る。それだけで呼吸が変わる」
ミレアは言う。
「サクラが見るべきなのは、人の“立派さ”でも“罪”でもない。癖と……力の抜きどころ」
サクラは、黙って頷く。
「……わたしもね」
ミレアは、少しだけ声を落とす。
「そうやって、“人らしい形を保ってる”の」
その言葉は、さらりとしていたが──どこか、擦り切れた響きを含んでいた。
人であること。
人であろうとすること。
それが、簡単でない者だけが持つ重み。
「……」
サクラは、胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じていた。
「……やってみます」
短い返事だった。だが、逃げでも遠慮でもない。
“変わろうとする”という意思が、はっきりと宿っていた。
「うん」
ミレアは、満足そうに微笑む。
「それでいいよ」
そして、何でもないことのように言う。
「じゃあ、次に行こっか」
再び、サクラの手を取る。
今度は、引っ張らない。歩調を合わせるように、自然に。
人混みに溶け込む二人。肩が触れ、服が揺れ、周囲の音が混ざる。
サクラは気づく。
──さっきより、人の流れが怖くない。
誰も、自分を見ていない。誰も、自分を裁いていない。
ただ、それぞれの人生を生きているだけ。
(……少しだけ、私も)
ミレアの手の温度が、それを肯定するように変わらずそこにあった。
十五皿目・前編『ミレたん、ほどけるまで』
おしまい




