十四皿目『ミレたん、離さない手』
※今回食べ物の描写はありません。
「ぇうー……」
ベッドの上で、ミレアは完全に身動きが取れなくなっていた。
理由は単純だ。 自分の腕ではなく、横から回された腕が、しっかりと身体を捕まえている。
「……サクラに、こんな抱きつき癖があったなんてね〜」
小さく呟く。
隣──正確には、半分上に乗るような形で、サクラは眠っていた。 呼吸は規則正しく、寝息も静かだ。
意識のない状態で、まるで縋るようにミレアを抱きしめている。
そっと力を抜けば、抜け出すことはできる。力任せに振りほどく必要もない。それくらい、簡単なことだった。
けれど。
服に皺ができるほど、ぎゅっと掴まれた指先を見て、 ミレアは、その選択をしなかった。
「……幼少期から、つい最近まで迫害されてたんだもんね」
視線を落とし、サクラの寝顔を伺う。
起きている時の、落ち着いた表情とは違う。
眉はわずかに緩み、警戒の色がない。
完全に、眠りに身を預けている顔だ。
それなのに、腕だけは離さない。
無意識のまま、逃がすまいとするように。
「性格が歪まなかっただけ、マシ……か」
そう口にしてから、ミレアは小さく首を振る。
「……違うわね」
歪まなかったのではない。 壊れなかったわけでもない。
ただ、壊れたまま、立っているだけだ。
「しっかりしてるけど……まだ、16歳」
その年齢を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ重くなる。
人生の半分以上を、 “背教者の娘”という立場で過ごしてきた少女。
誰にも頼れず、 誰にも縋れず、 それでも生き延びてきた。
──それなのに。
今はこうして、 眠りの中で、誰かに縋っている。
「……」
ミレアは、動かない。
呼吸を乱すこともなく、身じろぎもしない。
ただ、横で眠るサクラの重みと、規則正しい呼吸だけを感じていた。
「……少しくらい、安心できる夜を迎えられるといいわね」
それは独り言に近い、ほとんど祈りだった。
ミレアは、サクラの指先にそっと自分の手を重ねる。
逃げ道を塞ぐようにではなく、
「ここにいるよ」と伝えるための、柔らかな握り方。
指と指が触れ合った瞬間、サクラの手にわずかな力が戻る。
「ん……」
眠りの底で、小さな反応。
だが目は覚めない。
意識は、まだ深いところに沈んでいる。
ミレアは静かに身を寄せ、
サクラの額へ、自分の額を軽く触れさせた。
熱も、圧も、ほとんど感じさせない距離。
「……」
言葉はもう、必要なかった。
ミレアは、サクラの“夢を覗く”。
踏み込むのではない。こじ開けるでもない。
ただ、向こうがこぼしている“縁”に、そっと触れるだけ。
視界が、ゆっくりと切り替わる。
暗い。
だが闇ではない。
重く、湿った空気。
冷たい石の感触。
足元に広がる、終わりの見えない床。
──とん、とん、とん。
乾いた音が、遠くから近づいてくる。
最初は不規則で、切れ切れで、息が追いついていない音。
やがて、それが走る音だと分かる。
「はっ……はっ……あぅっ……」
荒い呼吸。
小さな喉が、必死に空気を求めている。
視界の奥から、ひとつの影が浮かび上がる。
幼いサクラだった。
今よりもずっと小さく、細く、服も身体に合っていない。
足取りは拙く、それでも必死に前へ前へと進んでいる。
彼女は走っている。
逃げているのではない。追いかけていた。
その視線の先にあるのは──一人の女性の背中。
母の背中だった。
距離は近い。
だが、どれだけ走っても縮まらない。
「……っ」
幼いサクラは何度も腕を伸ばす。
指先が空を掻く。
触れそうで、触れない。
追うたびに、表情が変わっていく。
最初は焦り。次に困惑。
そして、じわじわと胸に広がる不安。
眉が下がり、唇が震え、目の奥に水が溜まっていく。
「お母さん……!」
声は、床に吸い込まれていく。
返事はない。
その瞬間。
伸ばされた小さな手を、
横から、そっと別の手が掴んだ。
「……え?」
幼いサクラの足が止まる。
引き止められたわけではない。
ただ、掴まれた。
驚いて振り向く。
そこにいたのは、ミレアだった。
背は高くも低くもない。大きくも小さくもない。
ただ、幼いサクラの目線に合わせて、静かにそこにいる。
「いつまでも過去に引きずられちゃ、勿体ないわ」
声は柔らかく、否定がない。
「新しい夢を見ないとね」
ミレアは、掴んだ手を離さない。
指先を包み込むように、温度を伝える。
強くない。引っ張らない。
ただ、“ここにいる”という感触。
「……こっちよ」
ミレアは、ゆっくりと視線を向ける。
母の背中とは、違う方向。
「大丈夫」
そう言って、幼いサクラを見る。
「わたしは、手を離したりしないから」
約束でも、誓いでもない。
ただの事実のような言い方。
ミレアは一歩、前に往く。
それに合わせて、サクラの手をそっと引く。
「……」
幼いサクラは、しばらく動かない。
母の背中を見る。
遠ざかっていく背中。
そして──自分の手を握る、温かい存在を見る。
迷いは、確かにあった。
それでも。
サクラは、ミレアを見上げた。
涙は、落ちない。
ただ、唇をきゅっと結んで。
そして──ミレアの隣に、並ぶ。
走るのをやめ、歩く速度に、呼吸を合わせて。
二人の足音は、重なっていく。
とん。
とん。
終わりの見えない床の上で、
母の背中は、いつの間にか視界から消えていた。
けれど、
サクラの手は、まだ──
しっかりと、ミレアに握られていた。
「……」
ゆっくりと意識が現実へ戻る。
ミレアが目を開くと、腕の中の重みは先ほどよりもずっと穏やかになっていた。
サクラは、深く、静かな呼吸を繰り返している。
ぎゅっと掴まれていたはずの服の袖は、
今は指先で軽くつままれているだけ。
力は抜け、逃げ場を探す必死さは、そこにはもうない。
(……よしよし)
ミレアは小さく息を吐き、
サクラの頭を抱き寄せるように、そっと手を回した。
指先で、髪を撫でる。
一定のリズムで、何度も、何度も。
「おいしくな〜れ……♡ おいしくな〜れ……♡」
囁きは、眠りを乱さない程度の、かすかな声。
呪文のようでいて、子守唄のようでもある。
サクラの手を包み、頭を抱くその姿は、
確かに“母のよう”だった。
守るための距離。拒まれない温度。
逃げなくていいと、身体に教える抱擁。
──けれど。
その微笑みは、母ならざる者の、
慈しみと、所有と、食欲が、静かに溶け合った笑み。
「……」
ミレアは、何も言わない。
ただ、撫でる。
サクラの呼吸が、さらに深くなる。
夢の底で、追いかける足音はもう鳴っていない。
そして──
朝日が昇る。
淡い光が、窓から差し込む。
夜の名残を溶かすように、部屋を静かに照らしていく。
小鳥の声。
遠くの街の気配。
サクラは、まだ眠っている。
だが、その表情は昨夜とはまるで違っていた。
眉は解け、唇はわずかに緩み、
胸の奥にあった張り詰めたものが、きれいに抜け落ちている。
ミレアは、その寝顔を見下ろしながら、
小さく、満足そうに微笑った。
「……いい朝ね。そうだとは思わない?」
誰に向けるでもなく、ミレアは呟く。
視線は窓の外へ。
世界を照らし始めた“太陽”へと向けられたその目は、
薄く、金色を帯び、刃のように鋭かった。
「……そうね。今日は数百年ぶりに“あの子”が起きる時間ね」
そこには確かに、会話の相手が“いる”かのような間があった。
見えない誰かの返答を待つように、ほんの一拍。
「……ええ、問題ないわ。はなからそのタイミングに被せるつもりだったから」
淡々とした声音。
その間も、ミレアの手は止まらない。
眠るサクラの髪を、額を、頬の輪郭を──
壊れ物に触れるように、しかし確かな存在を確かめるように撫で続けている。
「……大丈夫よ。もし起きなかったら──」
言葉を継ぎ、
「竜王と派手にドンパチやって、目覚ましにしてあげるから」
低く、静かに言い放つ。
冗談めいていながら、どこにも冗談の余地はなかった。
「……ぅ、うん……?」
微かな声。
サクラが、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「お? おはよっ、サクラ」
その瞬間、金色は消え、いつもの紫の瞳がそこにあった。
にっこりと、いつも通りの笑顔。
「ぁ、え……? ミ、ミレア様!?」
息がかかるほど近い距離。
サクラは状況を理解する前に、思わず目を見開く。
「いい、一体これは……!? どうして私はミレア様に抱き枕にされているのでしょう……?」
顔を赤くしながら、必死に問いかける。
「ぇう? 抱き枕にされてたのはわたしの方だよ?」
ミレアは不思議そうに首を傾げる。
「あまりにもガッチリしがみつくもんだから、甘えたいのかなぁ〜、って思って」
そう言いながら、撫でる手を少しだけ早める。
一定だった動きに、柔らかなリズムが生まれる。
「あぅ、あわわわ〜……す、すみません! なにかご迷惑をおかけてしまったようで……」
サクラはふにゃふにゃとした口調で、なんとか謝罪の形を作る。
「サクラはまだ子供なんだから、いっぱい甘えてもいいんだよ?」
その言葉は軽く、逃げ場のないほど優しかった。
サクラはなにか言いかけて、言葉を失う。
理屈として整理しようとすればするほど、
状況の異常さと、自分の動揺が浮き彫りになってしまう。
頭では分かっている。
これは責められるようなことではないし、ミレア様に悪意があるわけでもない。
それでも、胸の奥が落ち着かない。
サクラは視線を彷徨わせる。
言葉にしようとするたび、顔に熱が集まっていくのが自分でも分かる。耳まで赤い。というか熱い。
「……夢にまで、ミレア様が出てこられて……」
声は小さい。
目を閉じたまま、事実だけを零すように言う。
「え〜? サクラったら、わたしのこと好き過ぎじゃな〜い♡」
わざとらしく、甘く弾んだ声。
からかい半分、楽しさ半分。
その軽さが、かえってサクラの逃げ道を塞ぐ。
言葉と同時に、ミレアの腕に力がこもる。
包み込むように、逃がさない距離感。
「ひゃあぁ……!? も……もう、どうにでもなれです……!」
驚きと混乱が入り混じった声。
だが次の瞬間、サクラは観念したように息を吐き──
逃げられないなら。抗っても無駄なら。
いっそ、身を預けて慣れてしまえ。
それは敗北ではなく、切り替えだった。
耐えることをやめ、受け入れて耐性を得るという選択。
それでもどこか不器用で、遠慮がちで、
それがかえって、サクラという少女の性格を如実に表していた。
ミレアは、その反応を咎めない。
ただ、抱きしめたまま、動かずにいる。
朝の光が、二人の輪郭をやわらかく縁取っていた。
(……はぁ。困ったお方です……)
ため息を零す。
(……でも、ここ数年で一番よく眠れた気がする……)
サクラは再び目を閉じ、ミレアに身を預けるのであった。
十四皿目『ミレたん、離さない手』
おしまい




