十三皿目『ミレたん、暮らしの味』
陽はすっかり落ち、街の喧騒も昼の名残を失っていた。
二人が辿り着いたのは、アークリンク配達連盟が管理する宿舎の一角だった。
石造りの建物は質実剛健で、華美さはない。
必要なものだけが揃えられ、長居することを前提にしていない造りだ。
「……宿舎って、初めて来たけど」
ミレアは建物を見上げ、率直に言った。
「思ったより、小さいのね〜」
「共同宿舎でしたら、もう少し大きいですよ」
サクラが答える。
アークリンク配達連盟の宿舎には、三つの区分がある。
大勢で暮らす共同宿舎。
最低限の個室を持つ、小部屋。
そして、比較的広さに余裕のある個人大部屋。
家賃は、共同・小部屋・大部屋の順に高くなる。
サクラが借りているのは、その中間にあたる小部屋だった。
「私は……共同でも良かったのですが」
扉を開けながら、サクラは少しだけ言葉を選ぶ。
「もし、ミレア様が静かにお話しできる場所を必要とされるなら……その時に、お使いいただけるかと思いまして」
その声音には、実務的な理由が添えられていた。
だが、それだけではないことも、ミレアには分かってしまう。
「そんなことのために、わざわざ?」
ミレアは半眼でサクラを見る。
そして返事を待たず続けた。
「お母さんと暮らすんでしょ?」
何気ない口調だったが、その一言はまっすぐだった。
「もっと、いいところに住みなさいな」
それは命令でも忠告でもない。
ただの、率直な感想。
「……」
サクラは、一瞬だけ動きを止めた。
母と暮らす予定。
それは事実だ。
だが、その言葉の裏にある本音──
自分が、ここを選んだ理由は、別のところにあった。
それを口にすることはできない。
説明すればするほど、歪んで聞こえてしまう気がした。
「……ありがとうございます」
サクラは、静かに頭を下げる。
「ですが、ここで十分です。母も……このくらいの場所の方が、落ち着くと思いますので」
それは半分、本当で、半分は逃げだった。
ミレアはそれ以上、踏み込まなかった。
踏み込まないという選択を、あえて取った。
「そう」
短く答え、部屋の中へ視線を移す。
小さな室内。
簡素な寝台と机、最低限の調理具。
静かで、余計な気配がない。
「……中は悪くないわね」
ミレアはそう言って、肩の力を抜いた。
サクラはその横顔を見て、胸の奥で小さく息をつく。
(──ここで、良かった)
理由は、言葉にしない。
言葉にした瞬間、壊れてしまう気がしたから。
「……さ、夕飯の準備を致しましょう」
サクラはそう言って、話題をすっと切り替えた。
それ以上、宿舎の話に踏み込む気配はない。
「お、カレーね!」
ミレアはすぐに反応する。
「すぐに出来るカレーね!?」
その声には、疑いよりも期待が勝っていた。
サクラが何を買ってきたのか、どんな手順で作るのか。
それを知ろうとする素振りすら、ミレアは見せない。
──“出てくるものを、そのまま楽しむ”。
それが、彼女の自然なスタンスだった。
「はい」
サクラはにこやかに頷く。
「すぐにご用意しますね」
そう言って、エプロンを身につける。
動作は迷いがなく、流れるようだ。
「なにかな? なにかな〜♪」
ミレアは椅子に腰掛け、足をぷらぷらと揺らす。
視線はキッチンに釘付けで、まるで出来上がる前から味を想像しているかのようだった。
サクラはキッチンに立つと、まず小ぶりの鍋を棚から取り出した。
大きすぎず、小さすぎない、扱い慣れたサイズ。
迷いなく水を張り、火にかける。
鍋底に水が当たる音。
火を点ける音。
それだけを見ると、これから煮込みでも始めるように見えた。
だがサクラは、包丁も、まな板も出さない。
代わりに取り出したのは──
銀色の、少し厚みのある小袋だった。
それを、沸き始めた湯の中へ、静かに沈める。
ちゃぷん。
袋は水面に一瞬浮き、すぐに鍋底へ沈んだ。
サクラは箸で軽く位置を整えると、それ以上は触れない。
蓋もしない。
火加減をいじることもない。
ただ、時間を計るように視線を落とすだけだった。
「……ぇう?」
ミレアは、思わず声を漏らす。
鍋はある。
火も使っている。
だが、知っている“カレーの準備”とは、あまりにも違う。
その疑問をよそに、サクラは手際よく別の作業に移る。
フライパンで卵を溶き、火にかける。
焼き色を付けすぎない、ふんわりとした卵焼き。
隣では、葉物を洗い、刻み、簡単なサラダを整える。
どれも簡素。
だが、動きに無駄がない。
「料理をする」というより「日常を回している」所作だった。
やがて、卓に皿が並ぶ。
卵焼き。
サラダ。
そして、大皿にこんもりと盛られた白米。
「お待たせしました、ミレア様」
「……」
ミレアは一瞬、言葉を失う。
「……カレー……」
カレーを所望したはずだ。
だが目の前にあるのは、どう見ても“普通の夕飯”。
期待が膨らんでいた分、視線が揺れる。
「サクラ……?」
うるうるとした目で見上げる。
責めるというより、純粋な困惑。
「そんな泣きそうな顔をなさらないでください……」
サクラは少し困ったように微笑む。
「ちゃんと、ありますよ。カレー」
そう言って、キッチンへ戻る。
「まだ少し熱かったので、冷ましていたんです」
戻ってきたサクラの手には、
先ほど湯に沈めていた、あの銀色の小袋。
湯で温められ、ほんのり膨らんだそれは、
確かに“中身がある”存在感を放っている。
「……なぁに、それ?」
ミレアは小首を傾げる。
「これはですね」
サクラは、少しだけ誇らしげに言った。
「温めるだけで食べられる、“レトルト”というものです。
そして今回ご用意したのは──」
一拍。
「ハウス食品さんのレトルト《バーモントカレー》の中辛です!」
「お〜……!」
ミレアはよく分からないながらも頷く。
「その中に、もうカレーが入っているのね?」
「はい。こちらは“パウチ”と呼ばれる袋で、出来上がった料理を長期保存できる容器です」
サクラは淡々と説明する。
「つまり……」
ミレアは理解を整理する。
「お湯を入れて完成させるんじゃなくて、もう出来てるものを、温めるだけ?」
「その通りです。ご自分で完成させてみますか?」
サクラはパウチをミレアに差し出す。
「うん!」
ミレアは“レトルト”というものをよく観察する。
開ける前から、もう匂いで分かる。
刺激はないのに、はっきり「カレーだ」と伝わる、あの安心する匂い。甘さが先に立ち、りんごとハチミツの丸みが、スパイスの角をきれいに撫でている。嗅いだ瞬間に身構えなくていいと分かる匂いだ。
パウチを開き、皿一面に敷かれた白米の上にかける。
いわゆる“全がけ”と言う盛り付け。
じゃがいもと人参が、白米の上に落ちる度、
カレーの香りが沸き立つ。
目の前で完成されてゆく姿と相まって、食欲が強く刺激される。
皿を見ると、具が多い。
じゃがいもと人参が主役で、サイズを残したままゴロゴロ入っている。肉はちらほらあり、勢いよく食べても喉を詰める心配がなさそうな設計だ。
「……いただきます」
手を合わせ、スプーンを手に取る。
スプーンを入れると、抵抗がある。
しゃばしゃばではない。
とろみが重く、ルウと具が完全に一体化して、そのままスプーンに乗ってくる。
そのまますくい上げ、ひと口目の瞬間──香りが鼻腔を突き抜け、舌よりも先に味を感じ取る。
甘く、コクのある香り。
「っ……はむ」
ひと口目で最初に来るのは、やっぱり甘さ。
でも、お菓子みたいな甘さじゃない。
煮込まれた玉ねぎのコクと、りんごの甘みが完全に溶けきった、丸くて柔らかい甘さが口に広がる。
その直後、スパイスが静かに追いかけてくる。
辛さは主張しない。
喉を刺さず、奥で温度を少しだけ上げるタイプ。
辛さを探すと、確かに奥の方にわずかな輪郭がある。
でも、主役を張るほどじゃない。
中辛でも「辛い?」と首を傾げるくらいで、本当に辛いのが苦手な人が、やっと気づく程度。
身構える必要は一切ない。
ただひたすらに美味しい流れが続く。
具に歯を当てる前に、食感が消える。
じゃがいもも人参も、噛もうとした瞬間にほどけていく。
肉ですら、噛むという行為をほとんど要求してこない。
すべてが柔らかく、味にも食感にも引っかかりがない。
癖を作らないことを、ここまで徹底している。
「誰でも美味しくいただける、いい一品ね。そして……」
ご飯と合わせると完成度が跳ね上がる。
白米の淡さが、ルウの濃さをきれいに受け止め、
口の中でバランスが取れる。
濃厚なのに重くない。最初から最後まで、
同じテンションで食べ切れる設計だ。
「……どこまでも完璧なカレー」
これは刺激で押すカレーじゃない。
尖らせない、疲れさせない、迷わせない。
大人も子供も、体調がいい日もそうじゃない日も、同じ距離感で差し出せる。
スプーンを置いたあと、「ちゃんと満たされたな」
そう思わせる逸品だった。
《ハウス バーモントカレー》は
“誰でも美味しく食べられる”という言葉を、
味でちゃんと成立させている。
安心できる濃さを、最後まで崩さないカレーだった。
美味しそうに食べるミレアの様子を、サクラは横目でそっと見ていた。
頬が緩み、匙を運ぶ手が自然と軽くなる。
特別な反応を示すわけでもないのに、ただ静かに、当たり前のように食べている。
それだけで、胸の奥に、じんわりとした温度が広がった。
(……気に入っていただけたようで、なによりです)
息を吸い、内側で言葉を整える。
(やっぱり……このまま、ミレア様と……)
そこまで考えて、サクラは小さく頭を振った。
余計な思考を、意識的に切り捨てる。
今は“ここ”にいるべきだ。
止まっていた手を、もう一度動かす。
スプーンを取り、口へと運ぶ。
「……」
そんなサクラの様子を、ミレアは見逃さなかった。
ほんのわずかな間。
噛む速度が、自然と落ちる。
相手に合わせる、というより──
同じ時間を、同じ速さで過ごそうとするように。
「……おいしいね」
ふと、零れた一言。
「っ……はい」
サクラは、思わず返事をしていた。
少し驚いたように、目を瞬かせる。
ミレア様は、食事中に独り言を言うことはあっても、
誰かに向けて感想を投げかけることは、ほとんどない。
ましてや、こうして“同じ卓にいる相手”へ向けて言葉を置くことは、なおさらだ。
(……今日は少しだけ、特別な夕飯ですね)
その小さな違和感が、サクラの中で静かに“特別”へと変わっていく。
「……そういえば」
サクラは、言葉を選びながら切り出した。
「ミレア様と、こうして並んで食卓を囲むのは……なんだか、久しぶりな気がします」
「そうね」
ミレアも、少し考えるように視線を宙へ向ける。
「確かに、そんな気がするわ」
それ以上、深掘りはしない。
理由を探すでもなく、ただ事実として受け取るだけ。
「こっちでの仕事は……もう慣れた?」
「はい」
サクラは小さく頷く。
「受付嬢の皆さんも優しくて……むしろ、こちらの方がやりやすいですね」
それは、飾りのない本音だった。
サクラの故郷、燈霞宸では、
“背教者の娘”という肩書きが先に立ち、
人として扱われることの方が少なかった。
ここでは、名前で呼ばれる。役割で評価される。
それだけのことが、驚くほど心を軽くしていた。
「そっか」
ミレアは、それ以上を問わなかった。
知っていても、知らなくても、
今は踏み込む必要がないと判断したのだろう。
やがて、最後の一口が消える。
ほぼ同時に、サクラの皿も空になった。
「それでは……」
サクラは皿を重ねながら、穏やかに言う。
「次は、デザートですね」
「……デザートもあるの!?」
ミレアの声が、ぱっと弾む。
「はい」
サクラは、自然な笑みを浮かべる。
「すぐに、ご用意いたしますね」
そう言って、サクラは立ち上がった。
動きに無駄はなく、食後の片付けと並行するように、次の準備へと移る。
取り出したのは、大きめのボウル。
それから、牛乳の入った瓶。
最後に、見慣れない細長いパウチ。
「……?」
ミレアは首を傾げる。
「今から……作るの?」
「はい」
サクラは当然のように頷いた。
「ですが、すぐにできますよ。今から作るのは──」
パウチを軽く掲げる。
「同じく、ハウス食品さんの《フルーチェ》です」
「フルー……チェ?」
聞き慣れない響きに、ミレアは少しだけ言葉を区切った。
発音を確かめるように、舌の上で転がす。
「そうです」
サクラは、淡々と説明を続ける。
「この中に入っている“フルーチェの素”と、牛乳を混ぜるだけで完成します」
それ以上でも、それ以下でもない。
工程はそれだけ。
手間をかける料理でも、技術を要する菓子でもない。
──だからこそ、“フルーチェ”なのだ。
「……それで、デザートになるのね?」
「はい。立派に」
サクラは、にこりと微笑む。
「……わかったわ」
ミレアは少し考えてから、結論を出した。
「とりあえず、やってみる」
差し出されたパウチを、両手で受け取る。
ハウス食品 フルーチェ〈イチゴ〉
パウチを開いた瞬間、空気が変わる。
いちごの甘酸っぱさが一気に広がり、軽やかなのに存在感がある。香りだけで方向性が分かる、迷いのない立ち上がりだ。
ボウルに出すと、赤く濃いデザートベースがとろりと流れ落ちる。
中には刻まれたいちごの果肉が見えていて、見た目から濃い味、果実側に寄せた色味。
「これに牛乳を入れるとデザートになるの……?」
牛乳をそっと注ぐ。
白が混ざり込むにつれて、
色はまろやかでクリーミーなピンクへと変わっていく。
甘さの角が取れていく過程が、目でも分かる。
大きめのスプーンで混ぜる。
「まぜまぜ……お?」
最初は抵抗が軽いが、数回回したあたりから明確に手応えが変わる。
液体でも、ゼリーでも、ヨーグルトでもない。
フルーチェだけが持つ、ぷるんとした独特のまとまりが立ち上がる。
スプーンですくうと、軽いのにだれない。
縁に沿って形を保ち、落ち着いた重さで乗ってくる。
早速、ひと口目。
まず冷たさが広がり、その直後に甘さ。
少し遅れて、いちごの甘酸っぱさが追いついてくる。
甘いのに、後に引かない。
「ん〜♪ 新感覚ね!」
口の中では、ほとんどが小さく刻まれた果肉。
なめらかさを壊さないサイズ感だが、ときどき混じる大きめの果肉がアクセントになる。
そのどれからも、いちごの種が小さく弾ける。噛むというより、潰れる感覚で、味に立体感を与える。
牛乳の役割は明確だ。
いちごの輪郭を丸く整え、全体を包み込むことに徹している。だから甘さは立つのに、重くならない。
贅沢なデザートでありながら、構えさせない。
作る工程も、食べる体験も軽い。
疲れている日でも、何も考えずに手を伸ばせる。
「すごくおいしかったわ。また食べたくなるわね、これ」
食べ終えたあとに残るのは、満足と納得。
甘い、冷たい、果実感がある。
その全部が過不足なく揃っている。
《ハウス フルーチェ イチゴ》は、
自分の手で作る楽しさもあり、
毎日でも、特別な日でも食べられる優しさを、ちゃんと贅沢に仕上げた、いちごのデザートだった。
「ごちそうさまでした♪」
両手を合わせ、ミレアは満足そうに息をついた。
皿の上には、きれいに何も残っていない。
「お粗末さまでした」
サクラは穏やかに返し、空になった皿を重ねて立ち上がる。
流し台へ運びながら、いつもの調子で問いかけた。
「ミレア様は、今日はどうなさるんですか?」
水を張る音が、静かな部屋に小さく響く。
「んー……」
ミレアは少し考える素振りを見せてから、軽く言った。
「せっかくだから、泊まっていこうかしら?」
その瞬間。
サクラの動きが、ぴたりと止まった。
「っ……」
水に浸しかけていた皿を持ったまま、わずかに肩が強張る。
振り返り、言葉を探す前に、ミレアの方を見る。
「……お邪魔じゃなければ、だけど」
サクラの反応を見て、ミレアは声の調子を落とし、ゆっくりと言い直した。
沈黙は、ほんの一拍。
「ミレア様ったら……」
サクラは、小さく息を吐くように笑った。
「今日は、どうしちゃったんですか?」
そう言って、何事もなかったかのように皿洗いに戻る。
水音が再び流れ出す。
けれど──
背中越しでも分かるほど、サクラの口元はわずかに緩んでいた。抑えようとしても隠しきれない、静かな喜び。
それに気づいているのか、いないのか。
ミレアは、椅子に腰掛けたまま、くすっと小さく笑った。
夜は、まだ始まったばかりだった。
十三皿目『ミレたん、暮らしの味』
おしまい
※本作に登場する
「レトルト バーモントカレー」
「フルーチェ いちご」
の名称および関連表現については、ハウス食品株式会社様より正式に使用許諾・監修をいただいております。




