十二皿目『ミレたん、甘さのあとで』
ミレアは、白地に赤い文字の包みを指先で挟み直した。
手に持つのは《チロルチョコ ミルク》。
柔らかそうに見えるのに、紙は意外と腰がある。
甘いものにありがちな頼りなさがない。
全体は牛柄模様。
茶色のリボンに『生クリーム入り』と、小さな白字。
その下には大きく『milk』の赤文字。
裏には小さな牛の絵。
主張は控えめなのに、迷いがない。
包みを裏返し、折り返しの角を親指で持ち上げる。
紙がわずかに反発し、次の瞬間──
ぺり。
短く、軽い音。
中の空気が逃げる気配と同時に、まだ姿を見せないはずの甘さが、先に輪郭を描く。
強くない。
香りで押してこない。
ただ、白くてやさしい気配が、鼻先に静かに座る。
包みを開くと、印刷された透明なフィルムと銀紙。
いつもと変わらないチロルチョコ。
過剰でも簡素でもない、きちんと守るための層。
掌の上に落ちたそれは、小さなチョコレート。
表面には『TIROL』。
四角錐台の形は光をやわらかく返す。
ただ「ここにある」だけの形。
指でつまむと、すぐに分かる。
体温に反応するのが早い。
それでも時間とともに、じんわりとほんの少しだけ指に吸いつてくる。
口元へ運ぶ。
唇が触れた瞬間、香りが一段、近づく。
一噛み。
かち、ではない。
ぱき、でもない。
やわらかく崩れ、すぐに形を失う。
外側のチョコは抵抗を残さず、舌の上で最初から溶ける前提だったかのように広がる。
味は、即座“甘い”にとは言わない。
まず来るのは、ミルクの丸さ。
砂糖の甘さではなく、温めた乳の奥にある、あの穏やかな厚み。
次の瞬間、ようやく甘さが追いつく。
軽い。
重くない。
口の中に居座らない。
噛み進めると、中心まで均一。
何かが隠れている気配はない。
驚かせる仕掛けもない。
それ故に、安らぎのような安心感がある。
ただ、最初から最後まで、同じ調子で続く。
だが不思議と、単調ではない。
舌の上で広がる白い甘さは、温度と一緒に少しずつ表情を変える。
冷たいときは、すっきり。
溶け始めると、まろやか。
完全に溶けるころには、甘さが大きく広がり、ミルクの気配がチョコレートと混ざる。
息を吸うと、鼻に抜ける香りと甘さがより引き立つ。
強く主張しない。
でも消えない。
飲み込んだあと、口の中には薄い甘みが膜のように残り、喉の奥には、ほんのりとした乳の余韻が落ちていく。
苦みはない。
刺激もない。
代わりに「何も引っかからなかった」という感覚が、妙に印象に残る。
一粒で、終わる。
一粒だから、ちょうどいい。
ミレアは包みを見下ろしたまま、少しだけ考えた。
これは、驚かせるためのチョコじゃない。
満足させるためでもない。
──安心させるための甘さだ。
「……ん」
思わず声が漏れる。
「これ、気付けば無くなってる。その代わり、ずっと食べられるやつ……おいしい……」
《チロルチョコ ミルク》は、
“消えるまで性格が変わらない、やさしさのかたちをしたお菓子”だった。
白い余韻を舌に残したまま、ミレアは次の一粒へ、自然に指を伸ばしていた。
「もぐもぐ……ふふっ♡」
小さく頬を膨らませながら、ミレアはチロルチョコを口の中で転がしていた。
噛みしめるたびに、甘さが広がるのが楽しいらしい。
「ミレア様は、本当になんでも美味しそうに召し上がりますね」
サクラは、少し微笑みながらそう言った。
感心と、どこか安心したような声音。
「えへへ〜♡」
ミレアは、深い意味もなく愛嬌を振りまく。
それは計算ではなく、ただ“今は機嫌がいい”というだけの反応だった。
リオと別れてから、しばらくの時間が流れていた。
空はすっかり夕暮れを越え、街の灯りがひとつ、またひとつと点り始める。
昼の喧騒は引き、夜の気配が静かに帳を下ろそうとしていた。
「お夕飯は、いかがなさいますか?」
サクラは足を止め、周囲に漂う匂いを確かめるようにしてから、ミレアに尋ねた。
焼いた肉の香ばしさ。
煮込みの湯気に溶け込む、野菜と香草の匂い。
屋台の並ぶ通りからは、いかにも“一日の終わり”を感じさせる気配が漂っている。
「ぇう?」
ミレアは、チョコを飲み込んでから首を傾げた。
「ん〜……どうせなら、すぐに食べられるものがいいわね」
その言葉と同時に、彼女の脳裏には、昼間に口にした二つのカップ麺が浮かんでいた。
蓋を開けて、湯を注いで、少し待つだけ。
あの手軽さと、即座に満たされる感覚。
「すぐに……ですか」
サクラは小さく復唱する。
彼女の思考に浮かんでいたのは、ミレアのそれとは少し違った。
火を使わずに済む軽食。
簡単に供される定食。
あるいは、屋台でさっと買える温かい料理。
「軽食でしたら、この辺りにもいくつかございますが……」
そう前置きしながら、サクラは周囲を見渡す。
しかし、ミレアはまだ答えを決めかねている様子で、口の中に残ったチョコの甘さを名残惜しそうに舐めていた。
「……んー」
甘さはある。
でも、それだけでは足りない。
ミレアの視線は、自然と街の奥へと向いていた。
「あ、カレーが食べたいわ!」
突然ミレアがそう言い放った。
「……え」
サクラは、思わず声を落とす。
即座に、頭の中で計算が始まった。
今から食材を買いに行く。
下準備をして、火を入れて、煮込む。
香りが立つまで待ち、味を整える。
──最低でも、二時間。
(……“すぐに食べたい”とは、一体)
一瞬、思考が引っかかる。
それとも、これは何かの試験なのだろうか。
自分の判断力、対応力、柔軟性を測られているのか。
サクラは、表情を崩さぬまま、思考を高速で巡らせる。
手作り、という選択肢。
しかし時間がかかりすぎる。
では、外食。
だが、この辺りでカレーを扱っている店に心当たりはない。
探し回る必要がある。
見つかる保証もなければ、味の保証もない。
そもそも──
“今すぐ”という条件に、どこまで応えられるのか。
サクラは、無意識に顎に指を当てていた。
「うーん……?」
ミレアは、その様子を横目に見ながら、首を傾げる。
悪気はない。
ただ、今の気分を口にしただけだ。
「どうかした?」
少し遅れて、ミレアが尋ねる。
サクラは、ほんの一瞬だけ視線を伏せてから、ゆっくりと息を整えた。
「……いえ。(これは、悩むべき場面ではありませんね)」
次の一手を選ぶべきだ。
“すぐに”で、
“カレー”で、
“ミレア様が満足される”方法を。
サクラの思考は、さらに深く回り始めていた。
その時だった。
遠くから、聞き覚えのある張りのある声が響く。
「ミレアせんぱ〜〜い!」
ミレアは、ぴくりと耳を動かし、声の方へ顔を向けた。
次の瞬間、視界の端から勢いよく飛び込んでくる影。
「はーいっ!」
軽快な足音とともに、ルッカが全力疾走で駆け寄ってくる。
「ミレア先輩宛に、特急配達便デス!」
そう言い切ると同時に、両手で一通の手紙を差し出した。
それは一目で分かるほど、装飾の施された封。
紙質も、封蝋も、ただの私信ではない。
「あら?」
ミレアは、少しだけ目を丸くする。
「もう仕事に戻ったの?」
つい先ほどまで、竜っ子おかしフェスの会場にいたはずだ。
終了してから、まだそう時間は経っていない。
「はいなのデス!」
ルッカは、誇らしげに胸を張る。
「せめて国内の特急便だけでも、と思いまして! 配達員は、走れる時に走るのが基本なのデス!」
「そう」
ミレアは、素直に頷いた。
「ご苦労さま」
その一言とともに、手紙を受け取る。
封を指先でなぞりながら、ミレアは小さく息を吐く。
「……わたしに手紙ってことは」
ちらりと、ルッカを見る。
「つまり、アレなのね?」
ルッカは、一瞬だけ表情を引き締め、小さく頷いた。
「間違いないのデス……」
声を落とし、はっきりと告げる。
「竜王・ヴァルグレア様からなのデスよ」
宛名を確認すれば、疑いようはなかった。
封筒に記された名前は、確かにミレアのもの。
差出人には、王家の正式な印。
「やっぱり、お呼ばれしちゃったのね〜」
ミレアは、どこか他人事のように言いながら、封を切る。
ぱり、と静かな音。
中から現れたのは、王族御用達の高級紙。
格式ばった文面で綴られた、正式な招待状だった。
「……この後、来いだって」
ミレアは、文面を要約するように、結論だけを口にした。
「今日デスか!?」
ルッカが目を見開く。
「随分と急なのデス! 私たちは後日だったのデスよ?」
「面倒ねー」
ミレアは、招待状を軽く振りながら言う。
「……明日行くって、伝えておいて」
「明日デスね。……それなら……」
一瞬、納得しかけて。
「──明日!?」
ルッカは、ようやく事態の異常さに気付いた。
国の王からの直々の呼び出し。
それを断ったうえで、こちらの都合で日程をずらす。
それは、配達員の感覚からしても、あまりに無茶だった。
「急に呼びつけるなら、こっちの都合に合わせるのが筋じゃない?」
ミレアは、当然のことのように言う。
「それは……そうデスけど……!」
ルッカは、慌てて言葉を重ねる。
「相手はこの国の王様なのデス! 常識や法律なんて、関係ないのデスよ!?」
ルッカが恐れているのは、ミレアの“正しさ”ではない。
たとえ理があっても、王が黒と言えば黒になる。
それが、この国の現実だ。
「それがなに?」
ミレアは、即座に言い切った。
「なんでもかんでも、自分の思い通りになるなんて思わないことね」
その声音に、迷いはなかった。
どこまでも凛としていて、揺らぎがない。
「明日には赴いてやる、って言ってるんだから」
ミレアは、肩越しにルッカを見る。
「おいしいお菓子でも、たくさん用意して待ってなさい。
……とでも、言っておいて」
「え、えぇ……」
ルッカは、完全に言葉を失う。
「さすがに、それは……」
「……わたしには、成すべきことがあるの」
ミレアは背を向けたまま、静かに続ける。
「邪魔をするなら……竜王と言えど、後悔することになるわ」
その言葉には、脅しも誇張もなかった。
ただ、自分の道を曲げるつもりがないという、淡々とした宣言。
「お、おぉ……」
ルッカは、ぽかんとしながらも、どこか感嘆したように声を漏らす。
「なんだか……よく分からないデスけど……」
そして、にぱっと笑った。
「ミレア先輩には、ミレア先輩の道があるんデスね……!」
ルッカは拳を握り、強く頷く。
「わかりました!」
勢いよく敬礼する。
「その旨、しっかりお伝えしておくのデス! では!」
次の瞬間。
バビュン、と風を切る音を残し、ルッカは走り去っていた。
ミレアはぽつりと呟く。
「そう。わたしには──」
くるりと振り返る。
「今から、カレーを食べるという使命が……!」
しかし、振り返った先に、ルッカの姿はもうない。
「……ぇう……?」
少し間の抜けた声が、夜の街に小さく落ちた。
「……サクラ〜」
ミレアは、気を取り直すように声をかけた。
その視線の先では、サクラがまだ思考の海に沈んでいる。
両手の人差し指をこめかみに当て、静かに目を伏せたまま。
頭の中では、いくつもの選択肢が組み上がり、取捨選択されていく。
「んー……」
小さく唸ってから、
「やはり、これ一択ですね」
ぽつりと結論を零す。
「……あ」
そこでようやく呼ばれていたことに気づき、顔を上げた。
「はい。どうされました、ミレア様」
「おなか空いたわ」
ミレアは、指を唇に当てて、くすっと笑う。
その仕草はどこか無邪気で、遠慮がない。
「……はい」
サクラは一拍置いてから、穏やかに頷いた。
「カレーが御所望でしたね。ちゃんと御用意できますよ」
「……できるの!?」
ミレアの目が、ぱちっと大きく開く。
一気に表情が明るくなり、期待がそのまま視線に滲んだ。
「本当に!?」
自分で言い出したものの、“食べられたらいいな”くらいの感覚だったのは明らかだった。
「はい」
サクラは、少しだけ口元を緩める。
「任せてください。……とはいえ、さすがに買い出しには行きますよ」
「ええ!」
ミレアは即答だった。
「それくらい、どうってことないわ!」
腕を軽く振り上げ、歩き出す。
「さぁ、行くわよ!」
夜の街に、夕餉の匂いが漂っている。
これから王に呼ばれようと、国の思惑が絡もうと──
今この瞬間、ミレアの世界で一番大事なのは、
“ちゃんとしたカレーを食べること”だった。
サクラはその背中を見て、静かに一息つく。
(……本当に、この方は)
騒動の中心にいながら、
日常の欲求を何ひとつ曇らせない。
(──ぶれませんね)
そうして二人は、夜の市場へと歩き出した。
十二皿目『ミレたん、甘さのあとで』
おしまい
※本作に登場する
「チロルチョコ ミルク」
の名称および関連表現については、チロルチョコ株式会社様より正式に使用許諾をいただいております。




