十一皿目『ミレたん、敵意の味を希う』
※食の描写はありません
本来の目的だった、優勝賞品。
“チロルチョコ一年分”を箱で受け取ったミレアは、それを腕に抱えたまま、しばらく無言で眺めていた。
「……」
ほんの数秒。
だが、その沈黙には微妙な間があった。
「……チロルチョコ一年分って」
ぽつりと、感想とも愚痴ともつかない声。
「思ってたより、少ないわね」
「チロルチョコですから」
即座にサクラが応じる。
「満腹度ではなく、嗜好品としての満足度を重視した配分かと」
「それは、分かってるんだけど……」
ミレアは視線を外す。
不満があるわけではない。
チロルチョコ自体に、文句があるわけでもない。
──ただ、“一年分”という言葉から想像していた量と、現実に手にした箱の軽さに、少しだけ違和感を感じていただけだった。
「……ま、いっか」
すぐに興味を切り替え、ミレアは箱を軽く持ち上げる。
「リオ。半分こね」
「え?」
リオは一瞬きょとんとし、すぐに首を振った。
「スタンプはほとんどお姉さんが取ったから、それならお姉さんが全部もらうべきだよ」
遠慮がちだが、はっきりした拒否だった。
「リオ。あなたが居なかったら、わたしはこの大会に参加すら出来てないのよ?」
ミレアは、真正面から言う。
「……」
「そうですよ」
サクラも続ける。
「リオくんは、正当な参加者であり、今回の優勝者です。なので優勝賞品を受け取る権利は十分にあります」
「でも……」
リオは尻尾を小さく揺らす。
「それなら、ぼくも同じだよ。今回は兄ちゃんが居ないから、諦めてたし……お姉さんが居たから、参加できたんだ」
視線を落とし、続ける。
「それに……もう、他のお菓子もいっぱい分けてもらったし」
「それなら尚のこと、受け取るべきです」
サクラは、淡々と結論を出す。
「……」
一瞬の沈黙。
ミレアは箱を開ける。
「……あれ?」
ミレアは、箱の中をもう一度覗き込んだ。
数を確かめるように、軽く指で動かす。
「……1年分って」
そこで、ようやく気付いたように呟く。
「ひとりで1年分じゃなくて……ふたり合わせて、1年分ってことなのね……」
スタンプラリーはペア競技だ。
当然といえば当然だが、ミレアは無意識のうちに
“優勝者それぞれに1年分”だと解釈していた。
箱に収まっている量は、きっかり。
余分も、重複もない。
先ほど感じていた違和感の正体は、それだった。
「……あぁ」
サクラも箱を覗き込み、納得したように頷く。
「これは……仕方ないですね。ペア競技の賞品ですから」
「これじゃあ」
ミレアは少し不満そうに口を尖らせる。
「“チロルチョコ半年分”じゃない。ケチくさい運営ね」
「まあまあ……」
サクラは苦笑混じりに宥める。
「チロルチョコが悪いわけではありませんから」
「せめて箱、ふたつくれてもいいじゃない」
さらに文句を重ねるミレア。
「んー……」
サクラは少し考え、
「……まあ、それは確かに」
と、小さく同意した。
そのやり取りを見ていたリオが、そっと口を開く。
「やっぱり……お姉さんがもらってよ」
「……?」
「ぼく、なぞなぞ大会では何もしてないのに、ポテトチップスも分けてもらったし」
視線を落としながら、続ける。
「チョコパイ食い競争でも、お姉さんがその場でみんなに配ってくれたから、ぼくも食べられたんだし」
「……」
「それに」
リオは、顔を上げる。
「お姉さん、チロルチョコが欲しくてこの大会に参加したんでしょ?」
「……そうだけど」
ミレアは、少しだけ言葉を濁す。
「ぼくや兄ちゃんが頑張っても、優勝できたのはスタンプラリーだけだったんだよ」
リオは静かに言った。
「だから……こういう賞品は、お姉さんたちに貰ってほしいな」
付け加えるように笑う。
「前回のチロルチョコ、まだまだ残ってるしね」
今度は、はっきりとした拒否だった。
「……そう」
ミレアはしばらく箱を見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「そこまで言うなら……これは受け取っておくね」
そして、短く。
「ありがとう、リオ」
「ううん!」
リオは、すぐに首を振る。
「むしろ、ぼくの方こそありがとうだよ!」
尻尾が、楽しそうに揺れる。
「あんなにたくさんのお菓子、頑張ってもなかなか貰えなかったからね」
その言葉に、ミレアは一瞬だけ目を細めた。
「……お菓子だけじゃ、おなかは満たされないわ」
ぽつりと、小さな独り言。
「ねぇ、リオ……」
そこまで言いかけた、その時だった。
「ミレアせんぱ〜〜い!!」
場の空気を一気に引き裂く、大きな声。
視線を向けると、遠くからルッカが大きく手を振りながら、小走りで近づいてくるところだった。
「お疲れ様デス!」
息を弾ませながらも、表情はやけに晴れやか。
「いや〜、相変わらずとんでもない速さだったのデス!」
止まる気配もなく、勢いのまま続ける。
「私、これでも足の速さには結構自信があったんデスが……完膚なきまでに、叩きのめされたデス!」
悔しさよりも、感嘆が勝っている声色。
「いったい、何を食べたらそんなに速く走れるデスか!?」
身を乗り出す。
「それとも、やっぱり種族デスか!? 竜の血が、そこまでの身体能力を引き出してるんデスか!?」
矢継ぎ早の質問。
「ちょいちょいちょい。なに割り込んでんのよ」
横合いから、ぴしっとした声が飛ぶ。
次の瞬間、ルッカの動きが止まった。
「うぐぇ……」
首の後ろを掴まれ、そのまま半歩引きずられる。
「あぇ? もしかして……私、邪魔しちゃったデス?」
恐る恐る尋ねるルッカに、
「……別に、なんでもないわ」
当事者であるミレアは、あっさりと言った。
だがその直後、ルッカは妹に首根っこを掴まれたまま、ずるずると距離を取らされる。
「ちょっと、どうすんのよ」
低い声で、妹が言う。
「絶対、なんか大事な話してたでしょ。あの空気」
「わ、私……」
ルッカの顔色が変わる。
「私、マジでやっちゃったデス……?」
「うん」
即答。
「たぶん、あんたの評価、ダダ下がりだと思う」
「ひゃおぉぉ〜……!!」
両手で頭を抱えるルッカ。
「それはいけないのデス……! ここは、どうにかして挽回を……!」
ひそひそと、必死な密談が始まる。
その様子を横目に、サクラがぽつりと呟いた。
「……何をしに来られたのでしょう?」
「さあ?」
ミレアは、小さく息を吐く。
「……はぁ」
そして、気持ちを切り替えるようにリオを見る。
「リオ。今日一日、本当にありがとね」
「うん!」
リオは、満面の笑みで頷いた。
「ぼくからも、ありがとうお姉さん! すっごく楽しい一日だった!」
その笑顔に、ミレアは少しだけ目を細める。
「っ……それじゃあね」
別れの言葉を口にしかけた、その時──
「ちょ、ちょっと待つのデス!!」
勢いよく、ふたりの間に滑り込む影。
「ぇう?」
「……?」
突然割り込んできたルッカに、ミレアとリオが同時に目を向ける。
「えっとデスね!」
咳払いひとつ。
「ふたり、結構優勝したのデスよね? しかも、かなり目立つ形で!」
「優勝していない競技でも、十分目立っていたとは思いますが……」
サクラが冷静に補足する。
実際、思い返せばどれも常識を軽々と飛び越える結果ばかりだった。
「それなら、尚更デス!」
ルッカは、ぐっと身を乗り出す。
「この“竜っ子おかしフェス”が、どこが運営してるか……知ってるデスか?」
「全然知らないわ」
ミレアは、即答だった。
「ふっふっふ……」
ルッカは、意味ありげに笑う。
「聞いて、驚くデス!!」
ババン、と大げさなポーズを取る。
その直前、妹が小声で囁いた。
「……話、引き延ばしてるだけじゃないでしょうね」
「だ、大丈夫デス! 今度こそ重要な話なのデス!」
咳払いをして、胸を張る。
「このフェスを運営しているのは──」
一拍置いて。
「──“竜王殿”なのデス!」
ルッカが、胸を張って言い切った。
「竜王殿?」
ミレアは、きょとんと首を傾げる。
「国の本殿じゃない」
「……あ、ほんとですね」
サクラが、手にしていたパンフレットの表紙を改めて確認する。
「下の方に、小さく書いてあります。
『主催:竜王国ヴァルグレア』と」
それでようやく、この“竜っ子おかしフェス”が、
国主導の正式な催しであることが明らかになった。
「ふーん……」
ミレアは、少しだけ考える素振りを見せてから、
「じゃあ、竜王ってケチなのね」
と、あっさり言った。
「王様のくせして、ペア競技の優勝賞品があれって。
ずいぶん器の小さな竜じゃない」
「ミ、ミレア先輩っ!!」
ルッカが、顔色を変えて飛び込む。
「それはいけないのデス! 普通に不敬罪になるのデス!!」
慌てて言葉を重ねる。
「それにっ! べ、別に竜王様が直接、優勝賞品を決めてるわけじゃないと思うのデスよ!?」
必死のフォロー。
「ふ〜ん」
ミレアは、あまり気にした様子もなく。
「まあ、どうでもいいわ。ケチなのは、変わらないし」
「うぅ〜……」
ルッカは、頭を抱えかける。
「で、ではデスね!」
気を取り直すように、ぴしっと姿勢を正した。
「本題に移るのデス!」
ルッカは、天に向かって指を立てる。
「本題?」
「今回、かなり目立っていたであろう、おふたりは……」
ぐっと間を取ってから。
「絶対、竜王殿に招待されるのデス!」
言い切った。
どこか“言ってやった”という顔。
しかし──
「へー」
ミレアの反応は、驚くほど薄かった。
「あぇえ……?」
ルッカは、思わず間抜けな声を出す。
「りゅ、竜王殿デスよ!? 竜王様に、直接会うのデスよ!?」
「……で?」
「で、って……!」
今度こそ、言葉に詰まる。
ミレアは、淡々と続けた。
「会って、なにするの?」
その問いは、純粋だった。
権威も、名誉も、栄誉も、そこに価値を見出していない目。
「……えっと……」
ルッカは、助けを求めるように妹を見る。
「……竜王・ヴァルグレアはね」
妹は、少しだけ声の調子を落として答えた。
「常日頃から、優秀な人材を探しているのよ」
「そうなのデス!」
ルッカが勢いよく頷く。
「過去に、私たちも呼ばれたことがあるのデスよ!」
「あそう」
ミレアは、相変わらず興味の薄い反応だった。
「……幼少の頃から、目をつけておく。ということですね?」
サクラが静かに言葉を継ぐ。
「そういうことデス!」
ルッカは、胸を張る。
「なるほど……」
サクラは、少し考えるように目を伏せる。
「確かに、ミレア様が参加なされた競技は、それぞれ異なる分野でしたね」
ミレアが出場したのは、五種目。
宝探し。
虫取り。
なぞなぞ大会。
パン食い競走。
スタンプラリー。
「宝探しは、探索と目利き。
虫取りは、ハンティング能力。
なぞなぞ大会は、思考の柔軟さと回転速度。
パン食い競走は、制限下での身体操作。
スタンプラリーは、判断力とスタミナ」
サクラは、一つひとつ整理する。
「……このどれもが、別の“資質”を測る競技と見て差し支えないでしょう。十中八九、お声がかかると見て良いかと」
そう結論づけた。
「……ぼくも?」
控えめに、リオが口を開く。
「ぼくと兄ちゃんで、前回もスタンプラリーを優勝できたけど……特に、そういう話はなかったよ?」
「それは、多分……ふたりとも、コボルトだったからじゃないデスかね?」
ルッカが首を傾げながら答える。
「おそらく獣人である、という点では“特別ではない”そう判断されたということですね」
サクラは、すぐに理解する。
「うん」
妹も、短く頷いた。
「珍しいのは、速いことじゃないわ。
“想定外の速さ”とか、“枠に収まらない結果”を出すこと」
その言葉に皆の視線が、自然とミレアへ向く。
「……この人は、そのど真ん中でしょ」
妹は、目を細めて言った。
「……えへっ♡」
注目を浴びたミレアは、反射的に──いや、半ば無意識に、“ミレたん”としての愛らしい笑顔を返す。
「っ……!」
その瞬間、確実に胸を射抜かれた人物が二名。
「よ、要するに……」
サクラが、わずかに声を詰まらせながら言う。
「目立ちすぎた、ということですね」
「そ、そういうことデッス……!」
ルッカは頬をにやけさせたまま、それでも必死に平静を装い、力強く肯定した。
(……これは)
サクラは、内心で小さく息を呑む。
(“無自覚に惹きつける”という点でも、あまりにも危険ですね……)
「それで、呼ばれて……なにするの?」
ミレアは、そのまま問い返す。
「働くの? 仕えるの? それとも試験?」
「さあ? 人によるんじゃない?」
妹は、あっさり答える。
「私たちの時は、話を聞かれただけだったし」
「面談みたいなものだったのデス」
ルッカが補足する。
「……おそらく、能力、性格、価値観。最悪、危険因子になり得るかどうかの確認かと」
「ふーん?」
ミレアは、少しだけ考え込む。
「面倒だねー」
軽い調子の一言。
だが、その空気は確実に変わった。
エクス姉妹が、同時に息を呑む。
「……行かない、って選択肢もあるのデスか?」
ルッカが、妹に恐る恐る尋ねる。
「さすがに、あるでしょ。イベント行事だし、国が強制力を使うところまでは行かないと思うけど」
「お咎めは……さすがに無いデスよね……?」
「普通はないと思うけど……」
エクス姉妹の意見は一致していた。
「ミレア様」
サクラが、静かに言葉を挟む。
「行かなかった場合は、行かなかったで……監視が付けられる可能性はあるかと」
その言葉にルッカ妹も、すぐに頷いた。
「そうね。その線は十分あり得ると思う。あの竜ならやりかねないわ」
場の空気が、わずかに重くなる。
「……竜王・ヴァルグレアは、隙を見せちゃダメな相手よ」
妹は、少しだけ声を落とした。
「そう言えば、前にも言ってたデスね。値踏みされてた、とか……なんとか」
ルッカは思い出したように言う。
「あぁ、うん……」
妹は、無意識に自分の肩を抱いた。
「何度かあったわ。言葉の端々に……こう、
“どこから入り込めるか”を探ってくる感じ」
視線が、わずかに揺れる。
「親切そうで、理性的で、でも……距離の取り方が、気持ち悪いの」
それは恐怖ではない。
怒りでもない。
もっと、生理的な拒絶。
「私は、嫌いね」
はっきりとした嫌悪感だった。
場に、短い沈黙が落ちる。
ミレアは、その話を黙って聞いていた。
眉をひそめるでも、表情を変えるでもなく。
「要するに」
少しだけ考えるような間を置いてから、
「行っても面倒。行かなくても面倒。
どっちにしても、じっくり観察されるってことね〜」
ミレアは、あくまで軽い調子だった。
「それなら……むしろ、こっちから──“嫌なやつ”って認識させる方が、効きそうね」
その言葉に、エクス姉妹とサクラは、同時にミレアを見る。
それは、逃げでも、従属でもない。
ましてや無関心でもなかった。
──最初から、主導権を握るという発想。
この国の王、竜王を相手にしてなお、
立場を対等に置こうとする思考だった。
「……ぷっ」
最初に反応したのは、妹だった。
「……あははっ!」
堪えきれずに、声を上げて笑う。
「やっぱこの人、色々と規格外ね!」
「そう?」
ミレアは首を傾げる。
「嫌な気分にさせられるなら、こっちが先に仕掛けた方がいいと思うけど」
「普通、竜王相手にそんなこと考えないって」
ルッカ妹は肩をすくめるも、一瞬だけ振り返り、
にやりと笑った。
「……ま、いいんじゃない?
この人なら、きっと上手く切り抜けるよ」
そう言い残し、背を向けて歩き出す。
「ほら、行くわよ」
姉に声をかけながら。
「えっ……!?」
ルッカは一瞬慌ててから、
「た、確かにミレア先輩なら、どうにかしそうデスけど……! あ、ミレア先輩! 邪魔しちゃって本当にごめんなさいデス!」
振り返り、深く頭を下げる。
「それでは、またっ!」
そして勢いよく手を振りながら、そのまま妹を追いかけていった。
残されたのは、ミレア、リオ、サクラの三人。
「……」
短い沈黙。
サクラが静かに息を整える。
「“嫌なやつ”として認識させる、ですか」
「うん」
ミレアは、あっさり頷く。
「向こうが距離を詰めてくるなら、詰めにくくすればいいだけよ」
「……合理的ではありますが」
サクラは言葉を選ぶ。
「それは同時に、敵意を向けられる可能性も高めます」
「あはは〜♪」
ミレアは、どこか心地よさそうに笑った。
軽い調子のまま、しかし次の瞬間──空気が変わる。
「……ねぇサクラ」
それは、サクラがこれまで何度も耳にしてきた声とは違っていた。
低く、落ち着き、奥行きを伴った響き。
「“敵意”って、強ければ強いほど──
“味が濃くておいしい”んだよ?」
目を細め、微笑むミレア。
唇の隙間から、ゆっくりと舌が覗く。
その仕草と言葉に、サクラの背筋を電流のようなものが駆け抜けた。
思考よりも先に、身体が反応する。
ぞくり、と遅れて鳥肌が立つ。
「っ……ふっ……」
短く息を漏らし、サクラの口角が、意図せず持ち上がる。
胸の奥に、奇妙な高揚が灯っていた。
それは恐怖ではない。
嫌悪でもない。
──敬愛する主に向けられる、渇望。
“食われる”ことは、破壊ではなく救済だった。
だからこそ、サクラにとってそれは──
ご馳走を前にした者が向ける、あの期待のこもった眼差し。
その視線を、自分にこそ向けてほしいという願い。
ミレアの非常食である自分が、
その対象であってほしいという想いが、
意識するよりも先に、自然と反応として現れてしまったのだった。
(あぁ……)
胸中で、サクラは静かに理解する。
(やはりこの方は、人ではないのだと……)
恍惚としたまま立ち尽くすサクラに、ミレアがそっと頬へ手を伸ばす。
触れるのは指先だけ。温度を確かめるように、なぞるだけ。
「……今のサクラってば、すごく芳醇な香りがするわね。今すぐその実った果実を、もぎ取って食べてしまいたいのだけれど……」
名残惜しそうな声。
確かに欲するが──静かに抑えている。
「それを摘んでしまったら、後が育たなくなってしまうわ」
優しく、慈しむように頬を撫でる。
「ミレア様……」
サクラは、その名を静かに呼ぶ。
拒絶も、恐れもない。
ただ、従属とも異なる、深い信頼だけがあった。
ふたりの視線が、自然と絡み合う。
「ワ、ワッフ……!」
場の空気に耐えきれず、リオの尻尾が逆立ち、左右に激しく揺れた。
理解できない。
言葉にできない。
けれど、何か“決定的に違うもの”がそこにあることだけは、幼い彼にもはっきりと伝わっていた。
リオは何も言えず、ただ尻尾だけがその戸惑いを正直に示していた。
その頃、ルッカはすっかり弱気になっていた。
「うぅ……ミレア先輩に、嫌われてないデスかね……?」
歩きながら、ぽつりと零す。
「さあ? 一応、警告がてら先に言っといたんだし。何も言わないよりは、多少マシになったんじゃない?」
妹は肩をすくめた。
「うぅう〜……!」
「……そんなに心配なら後日、菓子折りでも持って行けば?」
「そうするのデス」
即答だった。
少し間を置いてから、ルッカは思い出すように言う。
「でも……私、竜王様と話した時は、そこまで嫌な感じはしなかったのデスよ?」
ルッカにとって竜王との関係は、あくまで“仕事”だった。
特急配達員として顔を覚えられ、急ぎの荷を指名で受ける。
高額な報酬、最優先の扱い。
それ以上でも、それ以下でもない。
「そりゃそうでしょ」
妹は即座に切る。
「あんたは“使える道具”として会っただけだもん」
「……そうなんデスか?」
「そう」
少し歩調を落とし、妹は低く言う。
「……あいつの狙いは、私だったのよ」
「でも、あの日以降、接触はないんデスよね?」
「まあ、ね」
妹は軽く笑う。
「こっちは、かわすのに必死だったし。結果的に、うまく逃げ切れたんじゃない?」
「むむ……」
ルッカは眉を寄せる。
「そんなにヤバかったのデスか?」
「そりゃあ、もう……」
妹は、心底うんざりしたように息を吐いた。
「どれくらいヤバかったデス?」
悪気のない、姉らしい追撃。
「ざっくり言うと……」
妹は少し考え、
「“澄ました顔した、超ヤなやつ”」
「わぉ……」
ルッカは目を丸くする。
「詐欺師みたいな感じデスか?」
「ううん……」
妹は首を振った。
「……どっちかって言うと、ペテン師?」
容赦のない評価だった。
「へ、へぇ……」
そこでふと思い出したように、ルッカの表情が一気に明るくなる。
「あ! ちなみに、ミレア先輩はどんな感じだったのデス!?」
期待に満ちた声。
だが──妹は、すっと足を止めた。
「……」
「……っ? どうしたのデス?」
振り返るルッカ。
妹は少しだけ視線を逸らし、言葉を探すように間を置いてから、静かに口を開く。
「なんて言うか……。
果てしない水底とか……無限に続く空とか。
そういう、“掴みどころのなさ”」
表現は美しい。
だが、その奥に、僅かな嫌悪が混じっていた。
「おぉ!」
ルッカは素直に感心する。
「ミステリアスな感じデスね!」
「だいぶ違う」
妹は即答した。
「ありゃ……?」
「う〜ん……」
少しだけ間を置いて、妹は結論を出す。
「……正直、竜王と比べても
──あの人の方が、“超絶ヤバい”」
乾いた声だった。
十一皿目『ミレたん、敵意の味を希う』
おしまい




