三皿目 『赤いきつねと緑のたぬきと桃色ミレたん』
「サクラ……ごはん……」
「あっ、はい! すぐに!」
サクラは紙袋をテーブルにそっと置き、中から
《赤いきつね》と《緑のたぬき》を取り出した。
色の強い二つの器が並ぶと、そこだけぽんと小さな島みたいに存在感が浮かぶ。
ミレアは、しおれたツインテールのまま顔だけをゆっくり上げる。
その目は完全に空腹の亡者。
器を見ても、反応はほとんどゼロだった。
「……さく、ら……それ……なぁに……?」
声は薄く、音の端が頼りなく震えていた。
サクラはミレアの手元へ器を寄せ、なるべく分かりやすい言葉で告げる。
「ミレア様、これは“お湯で作るごはん”です。蓋を開けて、中に熱いお湯を注ぐと食べられます」
ミレアは器の縁を指でちょん、と触れる。
冷たい。
食べ物の気配がまったくしない。
それが余計に謎を深める。
「……これ、たべもの……じゃない……ただの入れ物……」
弱々しい言い分に、サクラは小さく苦笑して立ち上がる。
「お湯を持ってきますね。実際にミレア様に作っていただきたいので」
そう言って走り出すサクラ。
イベント会場の端、休憩所の奥で、ちょうどスタッフがやかんを並べていた。
「すみません、熱湯を貸していただけますか? 調理で使いたくて……はい、すぐお返しします」
事情を聞いたスタッフは快く頷き、大ぶりのやかんを手渡す。
底からわずかに立つ熱気が、持ち手越しに指へ伝わる。
サクラは走ったときの足音を抑えながら戻り、やかんをごとんとテーブルの端に置いた。
その瞬間、ミレアのまつげがわずかに揺れる。
熱気の匂いだけで、空腹の体が反応した。
「ミレア様、お待たせしました。ここまでできれば、あとはミレア様が開けて……お湯を注ぐだけです」
ミレアはゆらりと顔を上げ、やかんと器を交互に見つめる。
「どっち……?」
「まずは緑のたぬきにしましょう。こちらは熱湯3分で完成しますので、ミレア様も待ち時間が少ないですよ」
ミレアは言われるまま、ゆっくりと緑のたぬきの蓋に触れる。
まだ開けてはいない。
指先がふちに添えられただけ。
ただその一動作で、紙がわずかにしなり、
内部の香りが“閉じ込められている”気配だけが、ごく軽く伝わってくる。
ミレアの視線が、ほんの少しだけ生気を取り戻した。
開ける直前──
空腹の神は、静かに息を吸い込む。
次の瞬間にやってくる香りを、
本能で待っているように。
『緑のたぬき 天そば 熱湯3分』
表面の印字は乾いた指先にかすかに凹凸を返し、右側に描かれた天ぷらの絵が、油の香りまで想起させるほど存在感を放っている。
「……これ、見てるだけでおなかが空くの」
ひっくり返す。
重なったナイロンは、指を這わせた瞬間に薄い膜越しの張力を伝えてきて、側面にかけてきゅっと締まるような感触へと変わる。
そのままつまみ、軽く引く。
ナイロンはゆっくりと裂け、空気が一息だけ逃げるように反応する。
「薄いのにしっかりとした梱包。一個一個大切に扱われてるのね」
「七味とうがらし付」と書かれた小さな出っ張りを摘んで開くと、指の動きに合わせて素材がしなる。
紙を破く音に近い、“ザー”っと剥がれる音が響く。
「……なんだか、おいしさを詰めた宝箱みたい……」
半分ほど開く瞬間──内側から銀の反射が覗き、くしゃりと柔らかく折れるように粉末スープの小袋が姿を現す。隣には七味。
蓋をめくると、中央で堂々と陣取る天ぷらの厚みがまず目に入る。
乾いた状態なのに、油の名残が香りの影を落としていた。
その下、灰褐色の蕎麦が控えるように重なり、さらによく見ると、細かな“かまぼこ”がふわりと点在している。
彩りの赤と白が、全体に柔らかいアクセントを添えていた。
粉末スープを入れる。
軽さだけでなく、深みのある香りが同時にふっと立ち、
鰹と醤油が溶け合う前の輪郭が鼻先でほどける。
「わ……いい香りね。これだけで食欲をそそられるわ」
熱湯をくぼみのラインまで注ぐと蕎麦の色が一瞬だけ濃く沈み、天ぷらが湯気を吸ってふくらむ準備を始める。
蓋を閉じ、出っ張りを折り曲げて押さえ込む。
ついでに箸を置くと、そこだけ静かに重みが乗り、密閉された空間が完成する。
「ここからお蕎麦に育つの……?」
───ここから、“3分”が始まる。
普段の3分なら──
火のそばで湯を見守れば、すぐに湧き、誰かと話せば気づけば過ぎている。
けれど料理が“出来ていく時間”は、別の長さで流れる。
湯の音を耳で追い、天ぷらがふやけていく変化を想像し、
蕎麦がどれほど力を蓄えているかを思い浮かべると、
時はゆっくりとねっとり伸びはじめる。
器の中で起きている変化を知ってしまった者だけが味わう、
“待つための時間”。
蓋の縁へ伸ばした手を途中で止め、蒸気のわずかな漏れに心がざわつく。
焦れ、期待、静けさが一緒に胸の底で揺れる。
ただの3分ではない。
旨さが育っていく3分。
この短いはずの刻が、妙に長く、愛おしい。
そして3分──。
「……そろそろできたかしら?」
蓋をそっと持ち上げると、湯気がまともに頬へ触れた。
醤油の輪郭、鰹の厚み、天ぷらから滲んだ油の甘い香りが一度に押し寄せ、器の景色が一気に立ち上がる。
蕎麦をほぐすと、吸い込んだ湯気がふるりと震え、麺はしっとりと張りを取り戻している。
天ぷらは柔らかさと崩れの境界を保ちながら溶け始め、
かまぼこの赤と白が美しく浮かぶ。
「おぉ……お蕎麦がちゃんとできてる!」
箸でひと束をすくう。
湯気が細く揺れ、香りの層が鼻へ絡む。
「いただきますっ♡」
啜った瞬間、醤油の深み、鰹の香り、天ぷらの溶けが三層で舌へ広がり、すするごとに温度と旨味の重なりが厚くなる。
麺がほどけ、油の甘みが静かに後を引き、
3分待った意味が、その一口で全部わかる。
“待つだけで料理は変わる”。
その象徴が、この一杯だった。
「んっ〜♪ ひとくちで“重なってる”醤油の深さと、鰹の香り、天ぷらの甘さ……全部いっぺんに来てる……!」
ミレアはそっと箸を滑らせ、蕎麦をひと束すくう。
ふわりと揺れた麺は、湯を吸ったばかりのしっとりとした重さを帯びていて、蒸気の上でかすかに震える。
香りは、醤油の輪郭がはっきりしていながら、奥に柔らかい甘みを潜ませている。
甘い。
しょっぱい。
香ばしい。
それらが順番ではなく、ひとつの動きで同時に広がる。
つゆをひと口だけ含む。
「ほぁ〜……どうすればこんなに温まる味が出せるのかしら……?」
温度が舌の中心へ落ちた瞬間、醤油の香りがふっと立ち上がり、その奥から鰹の旨味が柔らかく追いかけてくる。
ミレアのまぶたがゆっくりと落ちる。
──深い。
ただの塩気ではない。
出汁の層が、温度でほどけるように立ち上がり、喉へ届くころには、甘さへと変わる。
そして天ぷらを箸でつかむ。
外側は湯気でふやけ、内側はまだ芯を保っているあの不思議な“境目”の柔らかさ。
たっぷりとつゆを吸った衣が箸の先でじんわり重みを返してくる。
「……旨みの重さがすごい……」
口に入れた瞬間。
衣に閉じ込められていたつゆが、
ほんの一滴ずつ舌へほどけていく。
柔らかく崩れる衣の間から、ごく薄く残った油の香りがふわっと顔を出す。
「この香りは……」
蕎麦のすっきりした香りとは違う、“温かい余韻”のある香り。
ふた噛み目。
天ぷらの中心に残っていた軽い歯応えがほどけ、
衣の厚みとつゆの旨味が一体になって溶けていく。
そこでミレアは、あえて蕎麦と天ぷらを一緒にすくう。
柔らかく広がる蕎麦。
ふわりと香ばしい天ぷら。
そのふたつが同時に噛まれたときだけ生まれる、
“温度と香りの重なり”。
つゆを吸った天ぷらが舌の上でほどけるたび蕎麦の香りが後ろから追いつき、香りが二段、三段と重なっていく。
天ぷらの衣がゆっくり溶け、蕎麦がその間をすり抜け、
つゆがすべての隙間を埋めていく。
これが、緑のたぬきだけが持つ“完成の形”だった。
「……おいしいが、いつまでも溢れてる……」
最後に、沈んでいたかまぼこをそっと口へ運ぶ。
柔らかく、軽く、そしてひっそりとした甘みが残り、
器全体の香りを丸く閉じるように後味を整える。
飲み込んだ直後、喉の奥に残るのは──天ぷらの香ばしさと、鰹の甘い余韻。
温度が胸へ落ちていくにつれて、香りが静かにほどけていく。
──これはただの蕎麦ではない。
湯と時間と香りが合わさって完成する“料理”だ。
ミレアはゆっくり息をつき、湯気の奥でふっと微笑んだ。
「……静かなる、旨みね」
その小さな声が、器の中で育った3分のすべてを物語っていた。
ミレアは、空っぽになった緑のたぬきの器をそっと両手で抱えたまま、しばし呆けたように動かない。
温かさが指先に残り、香りの名残が胸の奥へゆっくり降りていく。
乾いていた心まで、じんわり満たされるような静けさ。
やっと息をひとつ吐くと、
ミレアの視線が隣へ吸い寄せられた。
赤い縁取り。
白い文字。
まだ未開封のまま、ふっくらと待っている“赤いきつね”。
「……つぎ、これ……」
声はかすれているのに、さっきまでの限界の響きではない。
満ち始めた熱が、言葉の端にすこしだけ戻っていた。
ミレアは食べ終えた器をそっと脇に寄せる。
その動作に合わせて、赤いきつねの紙蓋がかすかに光を返した。
指先がふちへ添えられる。
触れた瞬間、緑のたぬきとは違う“ほのかな甘香”が
まだ閉じ込められたまま、器の奥からかすかに伝わった。
ミレアの喉が、こくり、と小さく動く。
空腹ではなく──
“もっと食べたい”という純粋な欲の反応。
力はまだ完全には戻っていない。
けれど、その不完全さすら愛嬌に見えるほど、動きが柔らかい。
指で紙の縁を持ち上げる。
ぱり、と微かな音。
中身がまだ見えない“寸前”で、
ミレアはふわりと息を吸い込んだ。
今度は“お揚げの甘い香り”が来ると、本能で知っているみたいに。
器の前で、ミレアの瞳がゆっくりと熱を帯びていく。
緑のたぬきで蘇った“食べる喜び”が、次の一杯へまっすぐ繋がっていく瞬間だった。
『赤いきつね うどん 熱湯5分』
赤の帯の中に白い文字が浮かび、その下に小さく「七味とうがらし付」。
ただの表記なのに、封を切る前から“甘い香りが立ち上がる予告”のように感じられる。
「見てるだけであったまりそう」
蓋に指をかけた瞬間、紙の縁がごく軽くしなる。
開くわずかな隙間から溜め込まれていた甘い香りが“押し出されるように”漏れた。
香りが外へ抜けたのではなく、中に溜まっていた甘さが一気に外へあふれる。
「甘い……お揚げのいい香りね」
粉末スープの袋を摘むと、中の粉が小さく揺れて“さらっ”と音を返す。
器の中には大判のお揚げ、白い太いうどん、そしてぽつぽつと散らばる小さな卵。
黄色、白、柔らかな茶色──
まるで最初から“あたたかい料理”が出来上がる下地だけが並んでいるような色合い。
大判のお揚げは乾いているのに板のような硬さではなく、
紙とスポンジの中間みたいな“空気を含んだ軽さ”があった。
触れていないのに質感が伝わる、独特の存在感。
「……このお揚げ、このままでもおいしそう」
粉末スープを落とす。
さらり、とした粉のはずなのに、
立ち上がる香りは緑のたぬきとは違う。
醤油よりも甘さが前に出て、昆布の旨味が底で支えるような、厚みのある香り。
粉末とは思えないほど柔らかな輪郭が鼻先に触れる。
熱湯を注ぐ瞬間、粉が沈むより先に大判のお揚げの表面がすっと色を変える。
外側から内側へ、ゆっくりと濃い甘さが戻るように。
膨らむ、のではなく──
染みていく。
沈んでいく。
戻っていく。
「……しゅわって広がる……お揚げが息をするみたいで、たまらないわね」
粉が一瞬で溶け、香りの層が湯気とともに立ち上がる。
お揚げが湯を吸い始めるにつれて、乾いていた表面がみるみる膨らみ、そのふくらみが湯気越しにゆっくり揺れた。
蓋を閉じる。
器の中の温度が底からふわりと立ち上がる。
蒸気の鼓動がひとつずつ重なって、内部だけがすごく静かに、濃く変化しているのがわかる。
器の中でじわりと変化していく気配が蓋越しに伝わってきて、
静かな台の上でも料理だけがひとりで呼吸しているように感じられる。
湯気の音がわずかに落ち着いたころ、5分は満ちた。
蓋をそっと外す。
蓋に触れた指先に、ほんのり重みが戻ってくる。
これは内部の湯気がしっかり“熟した”証だ。
「できあがりの香りがする……今が1番おいしい瞬間っ……!」
甘い。
温かい。
柔らかい。
湯気だけで胸の奥がほどけていく。
同時に、期待に高揚が強まる。
「改めて……いただきますっ♪」
箸を差し込み、お揚げをゆっくり持ち上げる。
触れただけで重い。
5分という時間をまるごと吸い込んだ証。
底から沈んでいたかまぼこがふわりと浮いてくる。
薄い赤の縁が湯の中でゆらめき、器の色にやわらかい彩りを添えていた。
まずは、お揚げを口へ。
唇に触れた瞬間、表面がとろりとほどける。
噛む。
──じゅわっ。
溜め込んだつゆが一気に溢れ、舌の上で甘さと旨味が広がる。
醤油の角は丸く、昆布の旨味がその奥に深く沈んでいて、お揚げの油と甘い煮汁がゆっくり混ざり合う。
「んっ! 甘さと香りが一気に広がる……」
二噛み目。
まだ奥に残っていた温かいつゆが、もう一度、喉へ優しく流れ込む。
次に、うどん。
箸で引き上げると、太いうどんが湯気をたっぷりまとって揺れた。
つるりとした表面の奥に、湯を吸って膨らんだ芯の柔らかさが見える。
啜る。
“ズズッ”と啜る音と共に、ふわっ……と口の中で広がる。
弾むのではなく、柔らかな反発で舌に寄りかかるようにほどけていく。
つゆをたっぷり抱えたうどんは噛むたびに新しい甘さと旨味を押し出し、喉へ落ちるまで温度が続く。
小さな卵がほろりと崩れ、つゆの甘さに軽い塩気を添える。
かまぼこは淡い弾力を返し、赤い縁が湯気とともにたおやかに揺れた。
お揚げ、うどん、つゆ──
それぞれが単独で完成していながら一口にまとめれば、
温度、甘さ、旨味が重なって、静かに立ち上がる“ひとつの料理”になる。
飲み込んだあと喉の奥に残るのは、昆布のまろみと──お揚げの甘い余韻。
ミレアは湯気の向こうで目を細めた。
「これ一杯で、甘さと旨味がひとつの“景色”みたいに溶け合っていくよう……」
その一言が、赤いきつねそのものの味だった。
「はふぅ〜……ごちそうさまでした♡」
ミレアは赤いきつねの器を胸に抱いたまま、満足の息をこぼした。
その表情は、さっきまでのぐでんとした限界少女ではなく、
完全に“ごはんで生き返ったミレたん”の顔だった。
サクラがおしぼりを差し出しながら微笑む。
「ミレア様……良かったです。ご満足いただけたようで……」
ミレアは頬を緩ませたまま、器をぽんぽんと満足げに叩く。
「サクラ、これ……すごい。天才的ね。ふたつとも、味も香りも……しあわせが詰まってたわ」
そして、ぴたりと動きを止めた。
数秒だけ沈黙。
そのあと、ぱっ、と目が輝く。
「じゃあわたしも! この天才的なごはんにちなんで、“わたし式”を考えてみたわ!」
むくっと立ち上がり、
サクラの前に両手を差し出す。
ぽんっ。
淡い桃色の雲をまとった小さな器が、ミレアの掌に登場した。
形はカップ麺。
でも色は優しい桃。
表面に描かれたキャラは──完全にミレたん。
サクラが瞬きを止めたまま固まる。
「……ミレア様……これ……?」
ミレアは胸を張る。──ドヤァ。
「“桃色ミレたんたん麺”よ! さっきのふたつがあまりにおいしすぎて、わたしなりに再現してみたの。お礼にサクラにあげるわ」
ほんの少しだけ照れたように、器をそっと差し出す。
「“これ”は受け取ってくれなかったけど。これなら、受け取ってくれるでしょう? サクラ」
輝くアレキサンドライトを指すミレアと器を見比べ、サクラは驚きと戸惑いと──そしてほんの一滴の嬉しさを胸の奥で揺らしながら、両手で器を丁寧に包み込んだ。
「……はい。これなら……いただきますね」
サクラの言葉にミレアはにこ、と笑う。
さっき食べた“あったかい味”みたいな笑顔で。
三皿目 『赤いきつねと緑のたぬきと桃色ミレたん』
おしまい
※本作に登場する「赤いきつね」「緑のたぬき」の名称および関連表現については、東洋水産株式会社様より正式に監修・使用許諾をいただいております。




