零皿目『ミレたん、チロルチョコと出会う』
「……なにこれ?」
その中央に書かれた文字は、こう読めた。
《TIROL CHOCOLATE》
ミレアは小さく瞬きをして、興味深そうにその包みを見つめる。
風が包み紙をかすかに鳴らす。深い茶色地に虹色の文字が、朝の斜光を受けて静かに揺れた。
「ミレア様は、食に関しては何でもご存じだと思っていましたが……《チロルチョコ》は初めてなのですね」
「う〜ん、お菓子はね……おいしいけど──おなかは満たされないから詳しくないんだ」
「お姉さん、チロルチョコ食べたことないの? なら一度食べてみなよ!」
コボルトの少年が笑顔で言う。
「きっとミレア様も気に入りますよ」
サクラも便乗してチロルチョコを勧めてくる。
ミレアはふたりの視線を受け、包みをもう一度見下ろした。
掌の上のそれは小さく、それでいて存在だけは妙に主張していた。
茶色い包み紙の上を、朝の光が細く滑り虹色の文字がゆっくりと浮き上がる。
見たことも聞いたこともないお菓子。
なのに、触れているだけで“何かが始まりそうな予感”だけは静かに灯る。
少年は期待に胸を躍らせるように尻尾を揺らし、
サクラは少しだけ前のめりになりながら、
「どうか召し上がってほしい」と仕草で語っていた。
ふたりの“すすめたい”という気持ちが、包み紙の重さをほんのわずかに変えていく。
まるでこの小さな四角が誰かの善意や好意をひとつに固めて渡されているみたいだった。
ミレアはゆっくりと息を吸い、指先を包みに添える。
開けてもいないのに、甘さの気配だけがほんのり漂った気がした。
「そこまで言うなら……」
ふたりに背中を押されるように、ミレアは包みをそっと持ち直した。
茶色い小箱のようなその包みは、指の腹に吸い付くように軽く張りがある。
まずは裏返す。
くるりとひっくり返した裏面にも、同じ《TIROL》の文字が印字されていた。
表だけでなく裏にも──
わずか二、三センチの世界なのに、ちゃんと「見せよう」という意志が宿っている。
ミレアは親指の腹で折り返しの角を押し上げる。
「ぺり」と小さく紙の接着が剥がれ、薄い空気が抜けた。
開いた瞬間、構造が露わになる。
包み紙の内側には、プリントの入った透明のナイロンと銀色のホイルが層のように重なっていた。
小さなチョコを守るために、指先ほどの空間に
見事な二重構造が詰め込まれている。
「ふぅん……」
少し遅れて、甘い香りがひとすじほど漂う。
鼻先に触れた瞬間、空気がやわらかくなる。
濃すぎない。
でも消えない。
“ひと口分の幸せだけを閉じ込めた甘さ”──そんな印象。
銀紙の端をつまんで開くと、掌の上にころんと落ちたそれは、まるで小さな宝石みたいだった。
裏面はつるりと平ら。
次に、表へ向けてそっと回す。
そこには、
渦を巻くような模様が浮かんでいた。
柔らかくうねりながら中心へ吸い込まれていく線。
小さな世界に、小さなデザイン。
その丁寧さにミレアは一拍だけ見入る。
指でつまみ上げるとチョコの表面が体温にほんの少し反応し、つるりとした滑りが指先に残る。
口へ運ぶ。
わずかに唇が触れた瞬間、香りがもう一段階ふわりと広がった。
一噛み。
ぱきっ。
最初の薄いチョコ膜が割れる。
その直後──舌の奥で、意図しなかった“抵抗”が歯に触れた。
予想していた滑らかさとは違う。
中心部に、別の層が潜んでいる。
固いのではなく、しなるような弾力。
噛み返してくる、あの独特の感触。
ミレアは歯を止めた。
わずかな違和感が、興味をさらう。
「……ん?」
口の中のそれをそっと転がしながら、ミレアは包み紙へ視線を戻した。
何が隠れているのか確かめるように、先ほどのナイロンを指先で広げる。
茶色い外包とは違い、内側のプリントは細かく丁寧に並べられている。
角をつまみ、光の下へかざすと──
透明のフィルム越しに文字が浮き上がった。
それは、この小さな一粒の“中身”をただ一語で示す名札だった。
《コーヒーヌガー》
チョコの甘さに寄り添うように、ほんの一瞬だけ遅れて“苦み”の気配が立ち上る。
だがそれは刺すような苦さではない。
焙煎の香りが丸く漂い、まるでコーヒー豆をそのまま低温で砕いて練り込んだような──柔らかいアロマだけが先に広がる。
歯がヌガーの層に触れる。
はむっ……と沈む。
ざらつかず、固すぎず、
“噛む前に噛まれ返すような弾力”を持った、独特の抵抗。
二噛み目で、その抵抗がふっと緩む。
ヌガーが熱でわずかに溶けはじめ、舌の上で甘さと苦みの境界が曖昧になっていく。
ここで一気に香りが変わる。
最初のチョコの甘さとは別に、焙煎強めのコーヒー特有の焦がし香が舌の奥から立ち上がる。
それは、味というより“香ばしさの温度”そのものに近い。
鼻腔へ抜ける空気が、軽く芳ばしい煙をまとっていく。
そして、中心部──
ヌガーの“とろみ”が、温度でゆっくりと解け始める。
噛むたびにカリッという微細な破片の音と、
もったりとしたキャラメル質の伸びが同時に訪れる。
外側のチョコはすでに薄く溶けて、舌の上に膜のような甘みだけを残しその下でコーヒーヌガーが主役へと躍り出る。
甘さは重くなく、苦みは刺さらない。
そのふたつが“中間点”で握手したような味わいが、じわじわと口の中いっぱいに満ちていく。
口を少しすぼめて息を吸うと──
一気に香りが跳ね上がる。
溶けたヌガーから立つキャラメル化した糖の甘い蒸気が、コーヒーの焙煎香と混じり、ほんのりビターな甘さを帯びた香気として鼻へ抜ける。
その香りは、かつて喫茶店で焙煎直後の豆袋を開けた瞬間のような、“甘い煙”の記憶を呼び起こす香りだった。
後味がまた素晴らしい。
チョコが消えても、ヌガーはすぐには消えない。
溶けたヌガーが舌の横に薄く張り付き、その膜からじんわりと“甘苦さ”が滲み出る。
飲み込むと、喉の奥にほんのわずかに焦げた糖の余韻が落ちていく。
それが消えるころには、舌だけがほんのり甘く……鼻だけがかすかに苦い。
相反するふたつが、一度の一噛みで完全に共存する。
これがチロルチョコのコーヒーヌガー。
“ひと口サイズで淹れたコーヒー”と呼ぶしかない完成度。
ミレアは小さく瞬きをした。
口の中に広がるその味の層が彼女の知らない“甘さの形式”で展開されていることを、ただ純粋に驚いていた。
「なっ……なにこれおいしい!」
ミレアの目にぱちんと星が灯った。
驚きと喜びが混ざったその瞳は、宝石のようにきらきらと揺れる。
「おいしいでしょ?」
なぜか胸を張り、誇らしげにドヤ顔になるコボルトの少年。
自分が作ったわけでもないのに、その得意げな顔が不思議と様になっていた。
「ふふっ、それおいしいですよね。私も好きなんですよ」
サクラはミレアの反応があまりに可愛すぎて、思わず口元に笑みを浮かべながら言う。
ミレアはというと──
もっちゃ、もっちゃ、もっちゃ……。
コーヒーヌガー特有のもったりとした噛み応えを
夢中で楽しむように咀嚼していた。
噛むたびに甘さと苦みの層が混ざり、その変化が楽しくて仕方ないといった様子。
「うん! うん!」
頷く勢いだけで背中の髪が揺れる。
やがて、ごくんと飲み込むとミレアはゆっくりと包み紙に視線を落とした。
「……この小さな一口に、どれだけ想いを込めたのかしら?」
呟きはひどく真剣で、その響きはまるで“職人を称える詩”のようだった。
「ほんとですよね。チロルチョコって、他にもたくさんの種類があるんですよね。遊び心を感じさせるお菓子で、子供だけじゃなくて大人も楽しめるんです」
サクラが軽やかに説明すると──
「他にもあるの!?」
ミレアが目を見開く。
その声は希望と興奮で一気に跳ね上がった。
「はい。それはもう、数十から数百とまで……」
「そんなに!?」
ミレアと少年の声が同時に弾んだ。
サクラが思わず吹き出しそうになる。
「どうして君まで驚いてるんですか……」
「あ、いや……たくさんあるのは知ってたんだけどさ。そんなにあるなんて知らなかったから……」
少年は頭をかきながら、頬を赤くして笑う。
ミレアは腕を組み、うんうんとうなりながら言った。
「う〜ん……チロルチョコ、侮りがたしね!」
「お姉さん、チロルチョコは気に入った?」
少年が期待に満ちた目で見上げる。
「ええ。それだけ種類があるなら、全種類食べてやらなきゃ気が済まないわね!」
目が再び星空のように輝く。
その熱意は、何か新しい世界を見つけた探求者そのもの。
「あはは、でもそれはちょっと難しいかもしれませんね」
サクラが苦笑する。
「どうして?」
ミレアは本気で不思議そうに首を傾げた。
「チロルチョコって期間限定のものが多く、もう見かけないものが多いんですよ」
「そ、そんな……じゃあもう食べられないの!?」
一瞬で肩を落とし、絶望の気配を背負うミレア。
「う〜ん、全種類は難しいかもしれませんね。王道のラインナップならどこのお菓子屋さんでも置いてると思いますよ」
「よし、そこから制覇しましょう」
決意のきらめきを瞳に宿し、ミレアはすっと踵を返した。
次の瞬間にはもう歩き出している。
「あ、お姉さんまって!」
慌てて少年が手を伸ばす。
ミレアは歩き出したポーズのまま、ぴたっと静止した。
そして、体はそのまま、
首だけくいっと後ろへ向けて振り返る。
静止した姿勢、真剣な顔、首だけ回転。
まるで妙に精巧な人形の動きに、少年とサクラは思わず固まった。
「……なにかしら?」
「……えっと、ぼくと同じくらいの歳の子供が集まる集会があるんだ。そこの催しというか、大会というか……その景品にチロルチョコがあるんだ」
「ほう……続けて?」
ミレアは歩き出すポーズのまま静止し、耳だけがぴくっと動く。
完全に“獲物を見つけた猫”の姿だった。
「何種類あるか分からないけど、沢山もらえるから……もしよかったらお姉さんもどうかなって」
「ふむ、大会ね……」
ミレアはくるりと振り向き、少年の真正面に立つ。
サクラが横から口を添えた。
「それって子供以外が参加してもいい催しなの?」
「うん、ぼくと一緒なら大丈夫だよ。……あ、ちなみにお姉さんが食べたチロルチョコ、それはぼくら兄弟で出場したときの優勝の景品なんだ」
「あら、そうだったの」
ミレアの視線が、空になった包みを一瞬だけ愛おしそうに撫でた。
「兄ちゃんが非常食として大事に取っておこうって……」
少年の声が少し沈む。
その言葉には、兄を想う気持ちが滲んでいた。
「なるほど、非常食ですか。それを分けてくれたんですね」
サクラは“非常食”の単語にぴくりと反応した。
自分もミレアの“非常食”であることを思い出し、なぜか妙な共感が胸をよぎる。
サクラはそっと微笑んで言った。
少年は照れくさそうに頷く。
「非常食があるのに、どうしてお兄さんは盗みをしたのかしら?」
ミレアは腕を組んで首を傾げる。
「チョコレートばっかりだと体に悪いからって、兄ちゃんが……」
「ふ〜ん。ま、とにかくその大会で勝てばチロルチョコが貰えるのね?」
「う、うん。丁度今日のお昼から始まるから、まだ間に合うよ」
その言葉を聞いた瞬間──
ミレアの顔に、あの“勝利を確信した時のドヤ顔”が浮かぶ。
「ふふん♪ そこへ案内しなさい。わたしが優勝してみせるわ!」
「わかった! それじゃあ着いて来て!」
少年はぱっと明るい声を上げ、足取り軽く歩き出した。
サクラが慌てて声をかける。
「ミ、ミレア様」
「んなに?」
「内容を伺ってませんけど、大丈夫ですか?」
ミレアは胸を張って答える。
「大丈夫でしょ。所詮は子供の催し、わたしが負ける道理がないわね」
「だといいのですが……。そもそも主催が子供と言ってなかったですし……集まるのが子供と言うだけで」
ミレアの肩がぴくりと跳ねた。
「……だ、大丈夫よ! 最悪全員ぶっ転ばせばいいのだから」
わずかに焦りが滲む声。
サクラがため息をつき、
「暴力はダメですよ。ズルもダメです。子供たちのための催しなんですから、やるなら……」
と言いかけた瞬間、ミレアが食い気味に言葉を重ねた。
「大人気なく完膚なきまでに叩きのめすように勝てばいいのね!」
「ちがっ……う〜ん……」
サクラは額に手を当て、しばらく黙り込み──
やがて、諦めきったように開き直る。
「……はい! そうですね。勝ちましょう!」
自分でも訳が分からないまま、勢いで折れた。
なんとかなるだろう、と。
考えることを一瞬放棄した結果だった。
「……お姉さ〜ん! なにしてるのー?」
遠くで少年が手を振る。
「今行くわ!」
ミレアは軽やかに返事をし、サクラとともに歩き出した。
サクラはその背を見つめながら、小さく祈る。
「……平和に終わりますように」
目の前に神が歩いているのにその祈りが何処へ向けられているのか、サクラ自身にも分からなかった。
零皿目『ミレたん、チロルチョコと出会う』
おしまい
※本作に登場する「チロルチョコ」の名称および関連表現については、チロルチョコ株式会社様より正式に使用許諾をいただいております。




