九皿目 締め『ミレたん、あたたかい朝。そして……』
朝。
フェリシアとサクラ、そして支部長のガルドが、問題となった洋食店の前に立つ。
扉を開けると、店主が出迎えた。
目の下に隈を作ってはいるが、怒りよりも戸惑いの色が濃い。
フェリシアは深く頭を下げた。
「昨日は、当支部の配達員がご迷惑をおかけしました」
ガルドも続けて頭を下げる。
「彼女はうちでも稼ぎ頭でしてな。美味しそうな匂いを見つけると、つい財布の中身を忘れてしまう癖があるんです。支払能力は十分あります。単に“持ち合わせがなかった”だけなんですよ」
店主は苦笑した。
「……確かに、あんな食べっぷりの人は初めてでしたよ。怒る気も失せるくらい、幸せそうに食べてましてね」
フェリシアは安堵の笑みを浮かべ、封筒を差し出した。
「こちらが昨日のお支払い分と、少しばかりのお詫びです。もしよければ、被害届は取り下げていただけませんか?」
店主は封筒を受け取り、しばし沈黙。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ええ、構いません。あんな風に食べてくれるなら、料理人冥利に尽きますよ」
フェリシアは頭を下げ、すぐに衛兵署へ向かう。
署内は朝の慌ただしさに包まれていた。
だが、牢の前だけは妙に静かだった。
衛兵たちは顔を見合わせ、困惑したように報告書を抱えている。
フェリシアたちが署に入ると、署長が机から顔を上げた。
その表情には、昨夜から続く緊張の名残がある。
フェリシアは封筒を差し出し、丁寧に言葉を添えた。
「こちらが昨日の支払い分と、被害届の取り下げ書です。店主の署名も入っています」
ガルドが横から補足する。
「所属証明と身元記録も添付してあります。アークリンク配達連盟ヴァルグレア支部所属──正式な配達員です」
署長は受け取った封筒を開き、一枚ずつ書類を確認していく。
静かな紙の音だけが部屋に響いた。
やがて、署長は深く頷く。
「……確かに、被害届は正式に撤回。支払いも完了。所属記録も正規。これなら拘留の理由はありませんな」
彼は報告書に署名し、机の上の印を押した。
「よし、これで釈放だ。彼女には何の罪もない」
署長の言葉に、フェリシアは小さく息をつく。
張りつめていた空気が、ようやくほどけた。
静まり返った廊下の奥──鉄格子の向こうから、柔らかな朝の光が差し込む。
舞い上がった埃が金色にきらめき、その中に誰かの影が揺れた。
フェリシアとサクラがゆっくり歩み寄ると、光の中にミレアが座っていた。
「……おはよ〜♪」
いつもの明るい声に、ふたりの肩がわずかに緩む。
「フェリシア、サクラ……あ、ガルドもいる。迎えに来てくれたの?」
陽の光を背にしたその笑顔は、昨日のどの瞬間よりも眩しかった。
サクラは思わず涙ぐみながら頷く。
「……はい。お迎えにあがりました、ミレア様」
ガルドが肩をすくめて笑う。
「まったく、お前さんがいないと支部が静かすぎる」
ミレアは照れたように頬をかく。
「えへへ……でも、みんなおなかいっぱいで幸せそうだったよ?」
フェリシアは目を瞬かせた。
「お腹……いっぱい?」
ミレアは微笑み、牢の奥を振り返る。
そこでは、囚人たちが穏やかな寝息を立てていた。
誰もが微笑みを浮かべたまま、まるで救われたような顔で。
フェリシアは静かに息を呑み、そして小さく微笑んだ。
「……ほんと、あなたって人は……」
「……さ、早く帰るぞ〜。今日も仕事が山積みだ」
ガルドが短く答えると、皆が自然と歩き出した。
サクラは振り返り、少し俯きながら口を開く。
「ミレア様、昨夜はすぐにお迎えに上がれなくて申し訳ありませんでした」
「大丈夫だよ〜」
ミレアは明るく笑い、まるで何事もなかったかのように伸びをした。
「……次からはちゃんと値段を見ないとダメですよ?」
フェリシアがやれやれとため息をつく。
「う〜い」
雑な返事をしながらも、ミレアはけろりと笑った。
数歩進んだところで、彼女がぽつりと呟く。
「……ところで、ここってなんだったの?」
「……え?」
ミレア以外の全員が同時に振り向いた。
静寂の中、廊下に朝日が流れ込む。
その瞬間、誰もが一瞬だけ言葉を失った。
その静寂を引き裂くようにある牢を過ぎたところで、か細い声が追いかけてきた。
「……待って!」
ミレアは足を止め、振り返る。
鉄格子の向こうで、ひとりのコボルトの少年が立ち上がっていた。
「昨日は……ありがとう。あの、ごはん……おいしかったです」
「うん」
短く返す。
ただの返事。それ以上の色はない。
少年は続けた。
「ぼく、弟がいるんです。……いつも腹を空かせてて。だから、ぼくが捕まったら、きっと──」
言葉が詰まる。
震える尻尾が、鉄格子の影を揺らした。
「もし会ったら、伝えてください。兄ちゃんは元気だよって」
ミレアは一度だけ瞬きをした。
胸の奥で、記憶がふっと重なる。
焦げたソースの匂い。
昼過ぎの屋台。
皿を抱えた、小さなコボルトの尻尾。
「……ああ、見たよその子。お好み焼きの前で物欲しそうに眺めてた」
少年の目が見開かれる。
「……ほんとに?」
「うん。だからお好み焼きを譲ってあげたら喜んでたよ」
それだけ言って、ミレアはまた背を向けた。
歩きながら、軽く片手を上げる。
「また見かけたら伝えておくね」
鉄の扉が閉まる音が響く。
そのあとに残ったのは、静かな息と、暖かな光だけだった。
朝の風が頬を撫でた。書類の角がかすかに鳴り、フェリシアが息を吐く。
「……とりあえず、一件落着ですね」
ミレアは陽のほうを向いたまま、にこりと笑う。
「おなか空いたし、どこかで朝ごはん食べたいな♪」
ガルドが肩を竦める。眉間の皺は深いが、声は緩い。
「まったく、お前さんは懲りんやつだな……。まあいい、今日はもう自由にしていいぞ。ただし、手持ちと支払い額の確認は先にな」
「にゅ〜……」
サクラが一歩前に出る。視線は横で、声音は固い。
「私も本日は休みをいただいてもよろしいでしょうか? このままミレア様をお一人にするのは少し不安で……」
「んー、そうだなぁ……」
ガルドが顎に手を添えた、その前にフェリシアが淡々と割り込む。
「構いませんよ」
「え、ちょ……」
フェリシアはさらに続ける。事務の口調のまま、芯だけ柔らかい。
「一晩とはいえ、ミレアさんは牢屋で過ごしたんです。休暇を与えているのは当然として、そんなミレアさんを一番心配していたのはサクラさんですから。それに……眠っていないのでしょう?」
「えっ……!?」
観念の色が走り、サクラの頬がわずかに熱を帯びる。
「分かりますよ、それくらい。サクラさん、昨日から緊張が張り詰めたままです。昨晩はずっとお祈りでもしてたのでは?」
サクラは言葉を選んで、視線を落とす。
「そ、それは……。主が大変な目にあっているのに、私だけが床に就くわけにはいきませんから……」
ミレアがふわりと寄る。軽く、抱きとめるだけの腕。
「なんかごめんね、サクラ。心配しちゃった?」
「……しますよ。身近な人が投獄されたなんて知ったら、誰だって心配します」
サクラは片手で抱き返すように、そっと背に触れた。指先が一度だけ確かめるように押し、離れる。
「今日一日はゆっくりしてください」
フェリシアが柔らかく言う。
「わしの意見は……?」
しょぼくれたガルドが、情けない声で呟いた。
「それではおふたりとも、また明日」
フェリシアはぴしりと告げ、踵を返す。
コツ、コツ──ヒールの音だけが静かに遠ざかっていく。
「わし、支部長……」
「支部長なんて、面倒事やお偉いさんが来た時の対応係でしょう。早く戻りますよ」
冷たくも見事な一刀両断。
ガルドの存在感が、見る間にしなしなと萎んでいった。
「……さては知らん間に地雷を踏んでしまったか……?」
とぼとぼと背を丸め、ガルドは去っていく。
「それでは何を食べましょうか、ミレア様」
「う〜ん……ラーメン。締めのラーメンってやつ? サクラの一日はまだ終わってないもんね」
ミレアの無邪気な笑みに、サクラは一瞬だけ息を詰める。
「朝からラーメンですか……わかりました。それではどこか開いてる店を探して……」
言い切る前に、ミレアがすぅ……と息を吸い込むように、サクラから溢れる感情を集めはじめた。
掌がゆっくり降り、石段の上に白い丼がふたつ、湯気とともに静かに据えられる。
空気の底に熱が溜まり、静かな香りが立ち上った。
それは、まだ整理しきれないサクラの感情の香りだった。
まず浮かんだのは、灰色を帯びた麺。
それは罪悪感。
後悔と祈りが絡み合い、ほどけずに震えている。
けれど、もう冷たくはなかった。
そこへ注がれる塩のスープ。
それは安堵。
しょっぱさが涙の味を思わせ、そのまま麺を抱きしめるように包み込む。
「もう大丈夫」と、静かに語りかける温度。
ミレアの指先から、一片の金色がふわりと舞い落ちた。
とろけて広がるバター。
それは願いと赦し。
「共に在りたい」「無力な自分への赦し」──
そんなサクラの祈りが、熱に溶かされて柔らかな香りへと変わる。
そして最後に、音もなく降り注いだコーン。
それはサクラの希望。
傷の底でまだ光ろうとする。
小さくて、まっすぐで、捨てられない気持ち。
スープの上に散らばりながら、ひと粒ごとに甘い匂いを立て、器全体に明るさを混ぜていく。
焦げた香りは後悔。
沈むメンマは受容。
刻み海苔は迷い。
それぞれが自分の居場所を見つけて、スープの中で静かに溶け合った。
ミレアは丼を覗き込み、やさしく息を吐く。
「ふぅ〜、《塩バターコーンラーメン》の完成っ♪」
ふたつのラーメンから湯気がふわりと広がる。
その匂いは、涙のしょっぱさと、少しの甘さが混ざった“生きる味”だった。
「ミレア様、もしやまた私の……」
サクラは箸を止め、丼の上で立つ湯気に視線を沈める。胸の奥でざわめく苦さを、そっと飲み下す。
この方は、いつも私がネガティブな感情を抱いたとき、それをすくい取って下さる。
これを私が食べたとき、ミレア様が召し上がられたとき、私の中に渦巻く感情は消失するだろう。
「そうだよ。サクラはいつもおいしそうな匂いを漂わせるんだもん。そのままだと勿体ないでしょ?」
サクラの胸がきゅっと鳴る。湯面に映る自分の顔が少し歪む。
「……複雑な気持ちです。ミレア様はただお腹を満たしたいだけ。その結果、私は救われる……。私はなにをお返しすればいいのか。お腹を満たすことが出来たなら、それは返せたことになるのか、と」
ラーメンの湯気の向こうで、サクラの顔が神妙な面持ちになる。
やはり人間は変な生き物だ。単純なことを難しく考えがち。答えは単純なのに。
「おいしく満たされるなら、それで十分でしょ?」
箸先でメンマをつまみながら、ミレアはあどけなく笑う。
「そういう……ものですか?」
「それ以外になにかある?」
真っ直ぐミレアの瞳を見つめるサクラに、にこっと笑顔で返す。
「……それに、どうしてサクラが不安になるの?」
「それは、私にとってミレア様は──」
「そんなに頼りない?」
被せるようにミレアが答える。
「そんなにも信じられない? サクラがついて行くって、決めた存在は──そんなにもヤワかしら?」
サクラは首を横に振る。
「そんなことは……」
「なら、わたしを信じた──自分自身を信じてみるところから始めればいいじゃない。自分を信じるって、最初の一口みたいなものだよ」
「っ……私自身を、信じる?」
サクラの背筋が小さく震える。
「うん。わたしよりもまずは自分を、だよ」
サクラは深く息を吸い、頷く。
「……わかりました。もう少し、見つめ直してみます。不甲斐ない自分を、少しでも……」
「それがいいよ。……っと、そろそろ食べないと麺が伸びちゃう」
ミレアがラーメンに目を落とす。レンゲの縁でスープが小さく揺れる。
「……私、柔らかい麺の方が好きなんです」
サクラは照れくさそうに箸を持ち直す。
「そうなの? どういう所が好きなの?」
湯気がふわりと広がる。
「食べ応えのある硬い麺より、スープが染み込んだ柔らかさが好きで……柔らかい麺だと芯までスープが通って、すすったときに丸い音になるんです。噛む前に、味が先に広がる感じ。麺とスープを分けて味わうんじゃなくて、同時に味わいたいんです」
「へ〜」
「それに、私こう見えて結構こだわりがあるんですよ?」
サクラは丼を両手で支え、湯気の立ち方を確かめた。
表面には薄い油膜が揺れ、塩とバターの香りが静かに混じっている。
焦げの匂いが鼻の奥に残るが、不快ではない。火を入れすぎた鍋底のような、落ち着く香ばしさだった。
箸を取り、レンゲの上に少しずつ移す。
スープを掬い、麺をくるりと巻く。
端にバターを少し、上にコーンをふた粒。
レンゲの中に一杯のラーメンが出来上がる。
「いただきます」
顔を近づけると、塩気が先に立ち、次に甘い香りが追ってくる。
「ん〜、いい香りです」
サクラは息を整え、静かにすすった。
最初に舌の先を打つのは塩の輪郭。
続いて麺の柔らかさが広がり、スープをしっかり吸った小麦の甘みが舌に残る。
噛むたびにわずかな弾力が戻り、喉に落ちる瞬間、熱が体に伝わる。
後から追ってくるのは溶けたバターの脂。
舌の上で丸く広がり、塩味の角をひとつずつ削り落としていく。
飲み込んだあと、鼻から抜ける香りが変わる。
焦げたメンマの香ばしさがほんのり残り、海苔の青臭さが静かに締める。
余韻は短いが、澄んでいた。
サクラは一息つき、目を細めた。
「……美味です」
サクラの一口に合わせ、ミレアも箸を伸ばす。
「いただきま〜す♪」
湯気の向こうで、金色の油がぱちぱちと弾ける。
ミレアはレンゲを傾け、唇の端をわずかに開く。
舌の上に落ちた瞬間、
塩が弾け、喉の奥まで一気に熱が走った。
思わず目を細め、息を吸いながら鼻からふわっと笑いが漏れる。
「はふぅ〜……おいし♡」
レンゲを置き、箸を取る。
湯気が頬をくすぐり、まつ毛に細い光が滲む。
麺を持ち上げると、脂の滴がぷちりと弾けて飛んだ。
その瞬間、空気の匂いが濃くなる。
ずるっ。
すすった音と同時に、頬の内側が熱でしびれる。
麺が舌に絡み、噛むたびに「じゅわっ」と音がして、
バターの膜がとろりと溶け出す。
息を漏らすように笑いながら、ミレアは頬をふくらませた。
喉を通るたび、熱が胸の奥に落ちていく。
飲み込んだ瞬間、鼻の奥で焦げの香りが小さく弾け、
目尻がとろんと下がった。
「んまぁ……♡」
次の一口。
箸の先でコーンをすくい、
舌先に転がす。
ぷちっ。
甘さが弾けて、唇の間にとろける。
熱と塩気がまじり合って、
息をするたび、甘い香りが肺の奥まで入り込んだ。
「……んっ♡ これ、最高……」
声が抜ける。
指先までじんわりと温かく、目の奥がじんと霞む。
スープを追うように飲み干すと喉がゆっくり鳴り、鼻から抜ける湯気がかすかに日光を含んだ。
最後の一口。
麺が残るわずかなスープを絡め取り、唇で受け止める。
「ちゅっ」と小さな音。
舌の上で塩と甘みが混ざり合い、頬の内側に残った熱を静かに溶かしていく。
「うまうまっ♪」
レンゲを置く小さな音が、静かな朝に吸い込まれていった。
湯気がまだ漂っていてミレアはその中で息を整える。
唇に残った油を舌先でぬぐい、目を細めて小さく微笑む。
「ごちそうさまでしたっ♪」
「……ごちそうさまでした」
声は小さく、けれど確かに甘く震えていた。
サクラも静かにレンゲと箸を置いた。
胸の奥がやけに澄んでいる。
ついさっきまで絡みついていた罪悪感は跡形もなく、湯気のように消えていた。
「……ミレア様、ありがとうございました」
「ぇう?」
ミレアがきょとんと首を傾げる。
けれど他に相応しい言葉など見つからなかった。
「今は、ただ感謝を……」
「……そう。それなら少し付き合ってくれる?」
「はい。どこまでも」
ミレアは嬉しそうに頷き、立ち上がる。
陽射しの中をふたり並んで歩き出した。
街はすっかり朝の色を取り戻していた。
露の乾きかけた石畳に、パン屋や露店の香りが混ざって流れてくる。
ミレアは手を後ろで組み、軽い足取りで通りを進む。
サクラは半歩うしろを歩きながら、その横顔を見守っていた。
「……ミレア様は牢の中でも落ち着いていらしたのですね」
「うん。みんな眠ってたし、静かだったからね」
「普通はあんな状況でそんな元気でいられませんよ」
「そっかな〜? それに、“光が差し込んでいた”からね」
「光……? 本当に強いお方ですね」
「えへへ〜」
軽く笑い合いながら、角を曲がる。
その先に、鉄板の焦げる音とソースの香りが漂ってきた。
ミレアが足を止め、鼻をひくひくと動かす。
「……ねえ、サクラ。さっきのあの子、覚えてる?」
サクラは頷く。
「牢でお話しされていた、獣人の少年ですね」
「うん。その子の“弟”、以前この先で見かけたんだけど。……今日も居るかな?」
風が吹き抜け、香ばしい匂いがさらに濃くなる。
ふたりは顔を見合わせ、匂いの源へと歩き出した。
曲がり角を曲がると、鉄板の焦げる匂いがふっと濃くなった。
通りの端、店の邪魔にならないよう柱の影に小さく座り込む影。
両膝を抱えたまま、じっと湯気の方を見つめている。
その耳の形を見ただけで、サクラが小さく息を呑んだ。
ミレアは足を止め、目を細める。
朝の光が斜めに差し、少年の毛並みを淡く照らしていた。
「ホントにいた。よっぽどお好み焼きが好きなのね」
「美味しいですし、いい香りもしますしね」
ミレアはくすっと笑い、靴音を忍ばせて近づく。
通りのざわめきに紛れても、その声はやさしく響いた。
「おはよっ」
「わっ!……あ、この間のお好み焼きを譲ってくれたお姉さん!」
少年の耳がぴんと立つ。
驚きのあとにぱっと笑顔が咲き、尻尾がちょこちょこと揺れた。
ミレアは膝を折り、目線を合わせるようにしゃがむ。
「いつもここに居るの?」
「うん……。ぼく、お好み焼きが大好きなんだ。でも、買うお金なんてないし……お店に迷惑かける訳にもいかないから」
言葉の途中、少年は俯いた。
目の前を通る客の影が、頬をかすめる。
ミレアは黙ってそれを見つめ、髪を耳にかけた。
「ふ〜ん。それより、君ってお兄さん居る?」
「え? うん、居るよ。今はいないけど……兄ちゃん、盗みで捕まっちゃったんだ。ぼくらは双子だから、すぐにわかると思うよ」
「やっぱりあの子、君のお兄さんなんだね。
そのお兄さんからの伝言、“兄ちゃんは元気だよ”ってさ」
少年の目が大きく見開かれる。
曇っていた瞳に、淡い光が戻る。
「兄ちゃんに会ったの?」
「まあね。初めは元気がなかったけど、ご飯をおなかいっぱいに食べたら元気になったよ」
「お姉さん、もしかして兄ちゃんにもご飯食べさせてくれたの?」
「そだよ〜」
ミレアの声は柔らかく、春の風みたいに軽い。
その響きに、少年の肩がわずかに震えた。
「っ!……お姉さん、どうしてそんなことしてるの? ぼくら、お姉さんに何も返せないよ?」
ミレアは一瞬だけ空を仰ぎ、眩しそうに目を細める。
風が髪を揺らし、前髪が頬にかかる。
「ん〜、見返りを求めてないって言えば嘘になるけど……放っておくのは勿体ないなぁって思ったから」
「……」
少年は指と指を絡め、しばらく黙ったまま考え込む。
鉄板の音が、遠くで「じゅっ」と鳴る。
その匂いがまた風に乗り、三人の間をすり抜けた。
やがて少年は顔を上げ、まっすぐミレアを見る。
瞳に映る光はさっきよりも確かだった。
「……お姉さん、名前は?」
「ミレア・ノワールよ」
「ミレア・ノワール……? どこかで聞いたことあるような……そっちの人は?」
後ろに控えていたサクラに視線が向く。
彼女は一瞬たじろぎ、胸に手を当てて軽く会釈した。
「え? わ、私ですか? 私はサクラ・ミナヅキです。そちらの、ミレア様の従者です」
その声音には驚きよりも、礼を尽くすような落ち着きがあった。
朝風が二人の間を抜け、少年の尻尾が小さく揺れる。
「サクラ……? こっちは知らないや」
照れたように笑うその顔に、まだ幼さが残っていた。
少年はしばらく考え込み、それからふっと笑った。
目尻が緩み、尻尾がゆるやかに左右に揺れる。
「……お姉さんは、悪い人じゃなさそうだね」
ミレアは目を瞬かせ、すぐに笑顔を返す。
「そう見える?」
「うん。なんだか、匂いがあったかいもん」
サクラはその言葉に一瞬首を傾げたが、少年は立ち上がり、手のひらでズボンの埃を払った。
その仕草にはもう警戒の色がない。
「……ついてきて。ちょっと、見せたいものがあるんだ」
「案内してくれるの?」
「うん!」
そう言って少年は振り返り、路地裏へと駆け出した。
背中の毛並みが陽にきらめく。
ミレアとサクラは視線を交わし、ゆっくりとそのあとを追った。
店裏の通りは、昼の喧噪から切り離されたように静かだった。
空の隙間から差す光が細く、土壁の影を濃くする。
少年は慣れた足取りで角をいくつも曲がり、小さな路地の奥へと進んでいく。
途中、ミレアは足元の空き缶を軽く蹴り、音を響かせた。
サクラはそれに苦笑しながらも、前を行く小さな背を見失わないように歩を速める。
やがて、煉瓦の崩れた建物の裏手に出た。
木箱や古い布が積まれ、即席の壁のようになっている。
少年はその隙間にするりと入り込み、ひょこっと顔だけを出した。
「ここが、ぼくらの“おうち”なんだ」
ミレアは目を細めて覗き込む。
中には古い毛布が数枚、使い込まれた食器、そして火の消えた小さなコンロ。
窓のないその空間には、外の冷たい空気とは違う、ほんのりとしたぬくもりが漂っていた。
「……いい場所ね。ちゃんと、工夫してある」
「兄ちゃんとふたりで作ったんだ。夜は寒いけど、風は通らないから」
ミレアは軽く頷き、しゃがみこんで手を伸ばす。
壊れかけの木箱をそっと撫でると、乾いた音がした。
「気持ちが籠った、立派なおうちだよ」
少年の耳がぴくりと動く。
照れたようにうつむき、口元を押さえた。
「……ねえ、お姉さん。お礼、渡したいんだ。ちょっとまってて」
そこまで言って、少年は奥へ駆けていった。
ミレアとサクラは顔を見合わせ、息をひそめて待った。
しばらくして、少年が奥の方から小走りで戻ってきた。
手の中には、何かを大事そうに握りしめている。
「お姉さん、これ……受け取ってほしいんだ」
息を弾ませながら、少年は両手でそれを差し出した。
掌には、小さく四角い包み。
ミレアは首をかしげながら受け取る。
指先でそっと包みを撫で、光をかざすように眺めた。
「……なにこれ?」
包み紙は黒く、虹色の文字が並んでいた。
赤、橙、黄、緑、青──色とりどりの点が並び、陽の光を反射してきらきらと光る。
その中央に書かれた文字は、こう読めた。
《TIROL CHOCOLATE》
ミレアは小さく瞬きをして、興味深そうにその包みを見つめる。
サクラは一歩後ろで立ち止まり、目を見開いたまま、どこか懐かしげな表情を浮かべた。
風が静かに吹き抜け、包み紙がかすかに鳴った。
九皿目 締め『ミレたん、あたたかい朝。そして……』
おしまい




