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【食品メーカー複数社監修】終焉の神ですが 今日も人の感情でお腹を満たす【もぐもぐ神™】  作者: 黒井津三木
献立3 B級グルメ

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31/50

九皿目 締め『ミレたん、あたたかい朝。そして……』

朝。

フェリシアとサクラ、そして支部長のガルドが、問題となった洋食店ル・バンケ・デュ・ドラゴンの前に立つ。

扉を開けると、店主が出迎えた。

目の下に隈を作ってはいるが、怒りよりも戸惑いの色が濃い。


フェリシアは深く頭を下げた。


「昨日は、当支部の配達員がご迷惑をおかけしました」


ガルドも続けて頭を下げる。


「彼女はうちでも稼ぎ頭でしてな。美味しそうな匂いを見つけると、つい財布の中身を忘れてしまう癖があるんです。支払能力は十分あります。単に“持ち合わせがなかった”だけなんですよ」


店主は苦笑した。


「……確かに、あんな食べっぷりの人は初めてでしたよ。怒る気も失せるくらい、幸せそうに食べてましてね」


フェリシアは安堵の笑みを浮かべ、封筒を差し出した。


「こちらが昨日のお支払い分と、少しばかりのお詫びです。もしよければ、被害届は取り下げていただけませんか?」


店主は封筒を受け取り、しばし沈黙。

そして、ゆっくりと頷いた。


「……ええ、構いません。あんな風に食べてくれるなら、料理人冥利に尽きますよ」


フェリシアは頭を下げ、すぐに衛兵署へ向かう。



署内は朝の慌ただしさに包まれていた。

だが、牢の前だけは妙に静かだった。

衛兵たちは顔を見合わせ、困惑したように報告書を抱えている。


フェリシアたちが署に入ると、署長が机から顔を上げた。

その表情には、昨夜から続く緊張の名残がある。


フェリシアは封筒を差し出し、丁寧に言葉を添えた。


「こちらが昨日の支払い分と、被害届の取り下げ書です。店主の署名も入っています」


ガルドが横から補足する。


「所属証明と身元記録も添付してあります。アークリンク配達連盟ヴァルグレア支部所属──正式な配達員です」


署長は受け取った封筒を開き、一枚ずつ書類を確認していく。

静かな紙の音だけが部屋に響いた。


やがて、署長は深く頷く。


「……確かに、被害届は正式に撤回。支払いも完了。所属記録も正規。これなら拘留の理由はありませんな」


彼は報告書に署名し、机の上の印を押した。


「よし、これで釈放だ。彼女には何の罪もない」


署長の言葉に、フェリシアは小さく息をつく。

張りつめていた空気が、ようやくほどけた。



静まり返った廊下の奥──鉄格子の向こうから、柔らかな朝の光が差し込む。

舞い上がった埃が金色にきらめき、その中に誰かの影が揺れた。


フェリシアとサクラがゆっくり歩み寄ると、光の中にミレアが座っていた。


「……おはよ〜♪」


いつもの明るい声に、ふたりの肩がわずかに緩む。


「フェリシア、サクラ……あ、ガルドもいる。迎えに来てくれたの?」


陽の光を背にしたその笑顔は、昨日のどの瞬間よりも眩しかった。


サクラは思わず涙ぐみながら頷く。


「……はい。お迎えにあがりました、ミレア様」


ガルドが肩をすくめて笑う。


「まったく、お前さんがいないと支部が静かすぎる」


ミレアは照れたように頬をかく。


「えへへ……でも、みんなおなかいっぱいで幸せそうだったよ?」


フェリシアは目を瞬かせた。


「お腹……いっぱい?」


ミレアは微笑み、牢の奥を振り返る。

そこでは、囚人たちが穏やかな寝息を立てていた。

誰もが微笑みを浮かべたまま、まるで救われたような顔で。


フェリシアは静かに息を呑み、そして小さく微笑んだ。


「……ほんと、あなたって人は……」


「……さ、早く帰るぞ〜。今日も仕事が山積みだ」


ガルドが短く答えると、皆が自然と歩き出した。


サクラは振り返り、少し俯きながら口を開く。


「ミレア様、昨夜はすぐにお迎えに上がれなくて申し訳ありませんでした」


「大丈夫だよ〜」


ミレアは明るく笑い、まるで何事もなかったかのように伸びをした。


「……次からはちゃんと値段を見ないとダメですよ?」


フェリシアがやれやれとため息をつく。


「う〜い」


雑な返事をしながらも、ミレアはけろりと笑った。


数歩進んだところで、彼女がぽつりと呟く。


「……ところで、ここってなんだったの?」


「……え?」


ミレア以外の全員が同時に振り向いた。


静寂の中、廊下に朝日が流れ込む。

その瞬間、誰もが一瞬だけ言葉を失った。



その静寂を引き裂くようにある牢を過ぎたところで、か細い声が追いかけてきた。


「……待って!」


ミレアは足を止め、振り返る。

鉄格子の向こうで、ひとりのコボルトの少年が立ち上がっていた。


「昨日は……ありがとう。あの、ごはん……おいしかったです」


「うん」


短く返す。

ただの返事。それ以上の色はない。


少年は続けた。


「ぼく、弟がいるんです。……いつも腹を空かせてて。だから、ぼくが捕まったら、きっと──」


言葉が詰まる。

震える尻尾が、鉄格子の影を揺らした。


「もし会ったら、伝えてください。兄ちゃんは元気だよって」


ミレアは一度だけ瞬きをした。

胸の奥で、記憶がふっと重なる。


焦げたソースの匂い。

昼過ぎの屋台。

皿を抱えた、小さなコボルトの尻尾。


「……ああ、見たよその子。お好み焼きの前で物欲しそうに眺めてた」


少年の目が見開かれる。


「……ほんとに?」


「うん。だからお好み焼きを譲ってあげたら喜んでたよ」


それだけ言って、ミレアはまた背を向けた。

歩きながら、軽く片手を上げる。


「また見かけたら伝えておくね」


鉄の扉が閉まる音が響く。

そのあとに残ったのは、静かな息と、暖かな光だけだった。




朝の風が頬を撫でた。書類の角がかすかに鳴り、フェリシアが息を吐く。


「……とりあえず、一件落着ですね」


ミレアは陽のほうを向いたまま、にこりと笑う。


「おなか空いたし、どこかで朝ごはん食べたいな♪」


ガルドが肩を竦める。眉間の皺は深いが、声は緩い。


「まったく、お前さんは懲りんやつだな……。まあいい、今日はもう自由にしていいぞ。ただし、手持ちと支払い額の確認は先にな」


「にゅ〜……」


サクラが一歩前に出る。視線は横で、声音は固い。


「私も本日は休みをいただいてもよろしいでしょうか? このままミレア様をお一人にするのは少し不安で……」


「んー、そうだなぁ……」


ガルドが顎に手を添えた、その前にフェリシアが淡々と割り込む。


「構いませんよ」

「え、ちょ……」


フェリシアはさらに続ける。事務の口調のまま、芯だけ柔らかい。


「一晩とはいえ、ミレアさんは牢屋で過ごしたんです。休暇を与えているのは当然として、そんなミレアさんを一番心配していたのはサクラさんですから。それに……眠っていないのでしょう?」


「えっ……!?」


観念の色が走り、サクラの頬がわずかに熱を帯びる。


「分かりますよ、それくらい。サクラさん、昨日から緊張が張り詰めたままです。昨晩はずっとお祈りでもしてたのでは?」


サクラは言葉を選んで、視線を落とす。


「そ、それは……。主が大変な目にあっているのに、私だけが床に就くわけにはいきませんから……」


ミレアがふわりと寄る。軽く、抱きとめるだけの腕。


「なんかごめんね、サクラ。心配しちゃった?」


「……しますよ。身近な人が投獄されたなんて知ったら、誰だって心配します」


サクラは片手で抱き返すように、そっと背に触れた。指先が一度だけ確かめるように押し、離れる。


「今日一日はゆっくりしてください」


フェリシアが柔らかく言う。


「わしの意見は……?」


しょぼくれたガルドが、情けない声で呟いた。


「それではおふたりとも、また明日」


フェリシアはぴしりと告げ、踵を返す。

コツ、コツ──ヒールの音だけが静かに遠ざかっていく。


「わし、支部長……」

「支部長なんて、面倒事やお偉いさんが来た時の対応係でしょう。早く戻りますよ」


冷たくも見事な一刀両断。

ガルドの存在感が、見る間にしなしなと萎んでいった。


「……さては知らん間に地雷を踏んでしまったか……?」


とぼとぼと背を丸め、ガルドは去っていく。




「それでは何を食べましょうか、ミレア様」


「う〜ん……ラーメン。締めのラーメンってやつ? サクラの一日はまだ終わってないもんね」


ミレアの無邪気な笑みに、サクラは一瞬だけ息を詰める。


「朝からラーメンですか……わかりました。それではどこか開いてる店を探して……」


言い切る前に、ミレアがすぅ……と息を吸い込むように、サクラから溢れる感情を集めはじめた。



掌がゆっくり降り、石段の上に白い丼がふたつ、湯気とともに静かに据えられる。


空気の底に熱が溜まり、静かな香りが立ち上った。

それは、まだ整理しきれないサクラの感情の香りだった。


まず浮かんだのは、灰色を帯びた麺。

それは罪悪感。

後悔と祈りが絡み合い、ほどけずに震えている。

けれど、もう冷たくはなかった。


そこへ注がれる塩のスープ。

それは安堵。

しょっぱさが涙の味を思わせ、そのまま麺を抱きしめるように包み込む。

「もう大丈夫」と、静かに語りかける温度。


ミレアの指先から、一片の金色がふわりと舞い落ちた。

とろけて広がるバター。

それは願いと赦し。

「共に在りたい」「無力な自分への赦し」──

そんなサクラの祈りが、熱に溶かされて柔らかな香りへと変わる。


そして最後に、音もなく降り注いだコーン。

それはサクラの希望。

傷の底でまだ光ろうとする。

小さくて、まっすぐで、捨てられない気持ち。

スープの上に散らばりながら、ひと粒ごとに甘い匂いを立て、器全体に明るさを混ぜていく。


焦げた香りは後悔。

沈むメンマは受容。

刻み海苔は迷い。

それぞれが自分の居場所を見つけて、スープの中で静かに溶け合った。



ミレアは丼を覗き込み、やさしく息を吐く。


「ふぅ〜、《塩バターコーンラーメン》の完成っ♪」


ふたつのラーメンから湯気がふわりと広がる。

その匂いは、涙のしょっぱさと、少しの甘さが混ざった“生きる味”だった。


「ミレア様、もしやまた私の……」


サクラは箸を止め、丼の上で立つ湯気に視線を沈める。胸の奥でざわめく苦さを、そっと飲み下す。


この方は、いつも私がネガティブな感情を抱いたとき、それをすくい取って下さる。


これを私が食べたとき、ミレア様が召し上がられたとき、私の中に渦巻く感情は消失するだろう。


「そうだよ。サクラはいつもおいしそうな匂いを漂わせるんだもん。そのままだと勿体ないでしょ?」


サクラの胸がきゅっと鳴る。湯面に映る自分の顔が少し歪む。


「……複雑な気持ちです。ミレア様はただお腹を満たしたいだけ。その結果、私は救われる……。私はなにをお返しすればいいのか。お腹を満たすことが出来たなら、それは返せたことになるのか、と」


ラーメンの湯気の向こうで、サクラの顔が神妙な面持ちになる。


やはり人間は変な生き物だ。単純なことを難しく考えがち。答えは単純なのに。


「おいしく満たされるなら、それで十分でしょ?」


箸先でメンマをつまみながら、ミレアはあどけなく笑う。


「そういう……ものですか?」


「それ以外になにかある?」


真っ直ぐミレアの瞳を見つめるサクラに、にこっと笑顔で返す。


「……それに、どうしてサクラが不安になるの?」


「それは、私にとってミレア様は──」


「そんなに頼りない?」


被せるようにミレアが答える。


「そんなにも信じられない? サクラがついて行くって、決めた存在は──そんなにもヤワかしら?」


サクラは首を横に振る。


「そんなことは……」


「なら、わたしを信じた──自分自身サクラを信じてみるところから始めればいいじゃない。自分を信じるって、最初の一口みたいなものだよ」


「っ……私自身を、信じる?」


サクラの背筋が小さく震える。


「うん。わたしよりもまずは自分を、だよ」


サクラは深く息を吸い、頷く。


「……わかりました。もう少し、見つめ直してみます。不甲斐ない自分を、少しでも……」


「それがいいよ。……っと、そろそろ食べないと麺が伸びちゃう」


ミレアがラーメンに目を落とす。レンゲの縁でスープが小さく揺れる。


「……私、柔らかい麺の方が好きなんです」


サクラは照れくさそうに箸を持ち直す。


「そうなの? どういう所が好きなの?」


湯気がふわりと広がる。


「食べ応えのある硬い麺より、スープが染み込んだ柔らかさが好きで……柔らかい麺だと芯までスープが通って、すすったときに丸い音になるんです。噛む前に、味が先に広がる感じ。麺とスープを分けて味わうんじゃなくて、同時に味わいたいんです」


「へ〜」


「それに、私こう見えて結構こだわりがあるんですよ?」


サクラは丼を両手で支え、湯気の立ち方を確かめた。

表面には薄い油膜が揺れ、塩とバターの香りが静かに混じっている。

焦げの匂いが鼻の奥に残るが、不快ではない。火を入れすぎた鍋底のような、落ち着く香ばしさだった。


箸を取り、レンゲの上に少しずつ移す。

スープを掬い、麺をくるりと巻く。

端にバターを少し、上にコーンをふた粒。

レンゲの中に一杯のラーメンが出来上がる。


「いただきます」


顔を近づけると、塩気が先に立ち、次に甘い香りが追ってくる。


「ん〜、いい香りです」


サクラは息を整え、静かにすすった。


最初に舌の先を打つのは塩の輪郭。

続いて麺の柔らかさが広がり、スープをしっかり吸った小麦の甘みが舌に残る。

噛むたびにわずかな弾力が戻り、喉に落ちる瞬間、熱が体に伝わる。

後から追ってくるのは溶けたバターの脂。

舌の上で丸く広がり、塩味の角をひとつずつ削り落としていく。


飲み込んだあと、鼻から抜ける香りが変わる。

焦げたメンマの香ばしさがほんのり残り、海苔の青臭さが静かに締める。

余韻は短いが、澄んでいた。


サクラは一息つき、目を細めた。


「……美味です」



サクラの一口に合わせ、ミレアも箸を伸ばす。


「いただきま〜す♪」


湯気の向こうで、金色の油がぱちぱちと弾ける。

ミレアはレンゲを傾け、唇の端をわずかに開く。


舌の上に落ちた瞬間、

塩が弾け、喉の奥まで一気に熱が走った。

思わず目を細め、息を吸いながら鼻からふわっと笑いが漏れる。


「はふぅ〜……おいし♡」


レンゲを置き、箸を取る。

湯気が頬をくすぐり、まつ毛に細い光が滲む。

麺を持ち上げると、脂の滴がぷちりと弾けて飛んだ。

その瞬間、空気の匂いが濃くなる。


ずるっ。


すすった音と同時に、頬の内側が熱でしびれる。

麺が舌に絡み、噛むたびに「じゅわっ」と音がして、

バターの膜がとろりと溶け出す。

息を漏らすように笑いながら、ミレアは頬をふくらませた。


喉を通るたび、熱が胸の奥に落ちていく。

飲み込んだ瞬間、鼻の奥で焦げの香りが小さく弾け、

目尻がとろんと下がった。


「んまぁ……♡」


次の一口。

箸の先でコーンをすくい、

舌先に転がす。


ぷちっ。


甘さが弾けて、唇の間にとろける。

熱と塩気がまじり合って、

息をするたび、甘い香りが肺の奥まで入り込んだ。


「……んっ♡ これ、最高……」


声が抜ける。

指先までじんわりと温かく、目の奥がじんと霞む。

スープを追うように飲み干すと喉がゆっくり鳴り、鼻から抜ける湯気がかすかに日光を含んだ。


最後の一口。

麺が残るわずかなスープを絡め取り、唇で受け止める。

「ちゅっ」と小さな音。

舌の上で塩と甘みが混ざり合い、頬の内側に残った熱を静かに溶かしていく。


「うまうまっ♪」


レンゲを置く小さな音が、静かな朝に吸い込まれていった。

湯気がまだ漂っていてミレアはその中で息を整える。

唇に残った油を舌先でぬぐい、目を細めて小さく微笑む。


「ごちそうさまでしたっ♪」

「……ごちそうさまでした」


声は小さく、けれど確かに甘く震えていた。

サクラも静かにレンゲと箸を置いた。

胸の奥がやけに澄んでいる。

ついさっきまで絡みついていた罪悪感は跡形もなく、湯気のように消えていた。


「……ミレア様、ありがとうございました」


「ぇう?」


ミレアがきょとんと首を傾げる。

けれど他に相応しい言葉など見つからなかった。


「今は、ただ感謝を……」


「……そう。それなら少し付き合ってくれる?」


「はい。どこまでも」


ミレアは嬉しそうに頷き、立ち上がる。

陽射しの中をふたり並んで歩き出した。


街はすっかり朝の色を取り戻していた。

露の乾きかけた石畳に、パン屋や露店の香りが混ざって流れてくる。

ミレアは手を後ろで組み、軽い足取りで通りを進む。

サクラは半歩うしろを歩きながら、その横顔を見守っていた。


「……ミレア様は牢の中でも落ち着いていらしたのですね」


「うん。みんな眠ってたし、静かだったからね」


「普通はあんな状況でそんな元気でいられませんよ」


「そっかな〜? それに、“光が差し込んでいた”からね」


「光……? 本当に強いお方ですね」


「えへへ〜」


軽く笑い合いながら、角を曲がる。

その先に、鉄板の焦げる音とソースの香りが漂ってきた。

ミレアが足を止め、鼻をひくひくと動かす。


「……ねえ、サクラ。さっきのあの子、覚えてる?」


サクラは頷く。


「牢でお話しされていた、獣人の少年ですね」


「うん。その子の“弟”、以前この先で見かけたんだけど。……今日も居るかな?」


風が吹き抜け、香ばしい匂いがさらに濃くなる。

ふたりは顔を見合わせ、匂いの源へと歩き出した。



曲がり角を曲がると、鉄板の焦げる匂いがふっと濃くなった。

通りの端、店の邪魔にならないよう柱の影に小さく座り込む影。

両膝を抱えたまま、じっと湯気の方を見つめている。

その耳の形を見ただけで、サクラが小さく息を呑んだ。


ミレアは足を止め、目を細める。

朝の光が斜めに差し、少年の毛並みを淡く照らしていた。


「ホントにいた。よっぽどお好み焼きが好きなのね」


「美味しいですし、いい香りもしますしね」


ミレアはくすっと笑い、靴音を忍ばせて近づく。

通りのざわめきに紛れても、その声はやさしく響いた。


「おはよっ」


「わっ!……あ、この間のお好み焼きを譲ってくれたお姉さん!」


少年の耳がぴんと立つ。

驚きのあとにぱっと笑顔が咲き、尻尾がちょこちょこと揺れた。

ミレアは膝を折り、目線を合わせるようにしゃがむ。


「いつもここに居るの?」


「うん……。ぼく、お好み焼きが大好きなんだ。でも、買うお金なんてないし……お店に迷惑かける訳にもいかないから」


言葉の途中、少年は俯いた。

目の前を通る客の影が、頬をかすめる。

ミレアは黙ってそれを見つめ、髪を耳にかけた。


「ふ〜ん。それより、君ってお兄さん居る?」


「え? うん、居るよ。今はいないけど……兄ちゃん、盗みで捕まっちゃったんだ。ぼくらは双子だから、すぐにわかると思うよ」


「やっぱりあの子、君のお兄さんなんだね。

そのお兄さんからの伝言、“兄ちゃんは元気だよ”ってさ」


少年の目が大きく見開かれる。

曇っていた瞳に、淡い光が戻る。


「兄ちゃんに会ったの?」


「まあね。初めは元気がなかったけど、ご飯をおなかいっぱいに食べたら元気になったよ」


「お姉さん、もしかして兄ちゃんにもご飯食べさせてくれたの?」


「そだよ〜」


ミレアの声は柔らかく、春の風みたいに軽い。

その響きに、少年の肩がわずかに震えた。


「っ!……お姉さん、どうしてそんなことしてるの? ぼくら、お姉さんに何も返せないよ?」


ミレアは一瞬だけ空を仰ぎ、眩しそうに目を細める。

風が髪を揺らし、前髪が頬にかかる。


「ん〜、見返りを求めてないって言えば嘘になるけど……放っておくのは勿体ないなぁって思ったから」


「……」


少年は指と指を絡め、しばらく黙ったまま考え込む。

鉄板の音が、遠くで「じゅっ」と鳴る。

その匂いがまた風に乗り、三人の間をすり抜けた。


やがて少年は顔を上げ、まっすぐミレアを見る。

瞳に映る光はさっきよりも確かだった。


「……お姉さん、名前は?」


「ミレア・ノワールよ」


「ミレア・ノワール……? どこかで聞いたことあるような……そっちの人は?」


後ろに控えていたサクラに視線が向く。

彼女は一瞬たじろぎ、胸に手を当てて軽く会釈した。


「え? わ、私ですか? 私はサクラ・ミナヅキです。そちらの、ミレア様の従者です」


その声音には驚きよりも、礼を尽くすような落ち着きがあった。

朝風が二人の間を抜け、少年の尻尾が小さく揺れる。


「サクラ……? こっちは知らないや」


照れたように笑うその顔に、まだ幼さが残っていた。


少年はしばらく考え込み、それからふっと笑った。

目尻が緩み、尻尾がゆるやかに左右に揺れる。


「……お姉さんは、悪い人じゃなさそうだね」


ミレアは目を瞬かせ、すぐに笑顔を返す。


「そう見える?」


「うん。なんだか、匂いがあったかいもん」


サクラはその言葉に一瞬首を傾げたが、少年は立ち上がり、手のひらでズボンの埃を払った。

その仕草にはもう警戒の色がない。


「……ついてきて。ちょっと、見せたいものがあるんだ」


「案内してくれるの?」


「うん!」


そう言って少年は振り返り、路地裏へと駆け出した。


背中の毛並みが陽にきらめく。

ミレアとサクラは視線を交わし、ゆっくりとそのあとを追った。



店裏の通りは、昼の喧噪から切り離されたように静かだった。

空の隙間から差す光が細く、土壁の影を濃くする。

少年は慣れた足取りで角をいくつも曲がり、小さな路地の奥へと進んでいく。


途中、ミレアは足元の空き缶を軽く蹴り、音を響かせた。

サクラはそれに苦笑しながらも、前を行く小さな背を見失わないように歩を速める。


やがて、煉瓦の崩れた建物の裏手に出た。

木箱や古い布が積まれ、即席の壁のようになっている。

少年はその隙間にするりと入り込み、ひょこっと顔だけを出した。


「ここが、ぼくらの“おうち”なんだ」


ミレアは目を細めて覗き込む。

中には古い毛布が数枚、使い込まれた食器、そして火の消えた小さなコンロ。

窓のないその空間には、外の冷たい空気とは違う、ほんのりとしたぬくもりが漂っていた。


「……いい場所ね。ちゃんと、工夫してある」


「兄ちゃんとふたりで作ったんだ。夜は寒いけど、風は通らないから」


ミレアは軽く頷き、しゃがみこんで手を伸ばす。

壊れかけの木箱をそっと撫でると、乾いた音がした。


「気持ちが籠った、立派なおうちだよ」


少年の耳がぴくりと動く。

照れたようにうつむき、口元を押さえた。


「……ねえ、お姉さん。お礼、渡したいんだ。ちょっとまってて」


そこまで言って、少年は奥へ駆けていった。

ミレアとサクラは顔を見合わせ、息をひそめて待った。



しばらくして、少年が奥の方から小走りで戻ってきた。

手の中には、何かを大事そうに握りしめている。


「お姉さん、これ……受け取ってほしいんだ」


息を弾ませながら、少年は両手でそれを差し出した。

掌には、小さく四角い包み。


ミレアは首をかしげながら受け取る。

指先でそっと包みを撫で、光をかざすように眺めた。


「……なにこれ?」


包み紙は黒く、虹色の文字が並んでいた。

赤、橙、黄、緑、青──色とりどりの点が並び、陽の光を反射してきらきらと光る。


その中央に書かれた文字は、こう読めた。



《TIROL CHOCOLATE》



ミレアは小さく瞬きをして、興味深そうにその包みを見つめる。

サクラは一歩後ろで立ち止まり、目を見開いたまま、どこか懐かしげな表情を浮かべた。


風が静かに吹き抜け、包み紙がかすかに鳴った。



九皿目 締め『ミレたん、あたたかい朝。そして……』

おしまい

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