七皿目 つけあわせ『満腹罪。ミレたん、もぐもぐのまま捕まる』
夜の帳がゆっくりと降りて、石畳の上に街灯の明かりが点々と並び始めた。
仕事を終えたミレアの腹が、静かな路地に小さく鳴り響く。
「……おなかが空いたわ」
ぽつりと呟き、おなかを押さえて歩き出す。
風に乗って漂う香ばしい匂いが、鼻先をくすぐった。
それは油の焦げる匂い、甘いタレの匂い、そして人の幸福の匂い。
ミレアはふらふらと、その源を追う。
「ん〜?……んー……」
すれ違う人々の感情を味見するように目を細める。
けれど、どれも淡い甘さばかりで、強い香りはしない。
怒りも悲しみも、まるで“よく煮詰められたスープ”のように静かに均されていた。
「……やっぱりこの国は退屈ね」
少し肩をすくめて、夜空を見上げる。
灯がまばらに揺れ、まるで星々が街に落ちたようだった。
「仕方ないわ。手頃なお店でご馳走になろっと」
ミレアは、石畳の先にぽつんと灯る店の明かりを見つけた。
扉の上には、洒落た筆記体で
『Le Banquet du Dragon』と金字で書かれている。
派手ではないが、窓越しに見える食器の輝きが妙に眩しい。
「おなか、すいたし……ここでいっか♪」
何の疑いもなく扉を押すミレア。
──そこが竜王国でも指折りの“高級すぎる庶民向け洋食店”だと知るのは、ずっと後のことだった。
扉を開けた瞬間、柔らかな鐘の音が鳴る。
照明は落ち着いた琥珀色で、床は磨かれた黒大理石。
カウンターの奥には、白手袋の給仕が三人並び、同時に一礼した。
「ようこそお越しくださいました。ご予約名を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「ごよやく……?」
ミレアは首を傾げる。
店員は一瞬だけ目を瞬かせたが、微笑を崩さず続けた。
「ええと、もしご予約がございませんでしたら、空いているお席をご案内いたします」
「うん! 空いてるとこでいいわ♪」
軽やかな返事に、店員は小さく頷き、手を差し伸べる。
白手袋の指先が、まるで儀式のように優雅だった。
「かしこまりました。ご案内いたします。お足元にお気をつけくださいませ」
ミレアは、案内されながら店内をきょろきょろ見渡した。
壁には竜を模した金の装飾、テーブルには繊細な花。
他の客たちは静かに談笑しており、フォークとナイフの音が鈴のように響いている。
「わぁ……きれいなとこ。“楙櫱の庭”みたい」
生命の神竜。稔竜・楙櫱。
枯れてもなお芽吹く命の象徴。
その名を思い出すほどに、この店はどこか温かい息づかいを感じさせた。
「ありがとうございます。当店の名は“ル・バンケ・デュ・ドラゴン”、竜王国の晩餐会を象徴する……」
「ばんさんかい? 食べる会なのね!」
「……ええ、まぁ、そういうことでございます」
店員は完璧な笑みのまま、心のどこかで“危険な香りがするお客様”と判断していた。
白手袋の店員に案内され、ミレアは奥の席へ歩いた。
廊下には和紙の灯りと、壁には金の装飾が混ざる。
一方のテーブルには西洋陶器、もう一方には漆塗りの盆。
まるで世界中の「美味しい」が一堂に集まったようだった。
「なんか、いろんな国のにおいがする〜」
促されるまま椅子に座り、差し出されたメニューを開く。
そこには天ぷら御膳、ポタージュ・パルマンティエ、特製ロッシーニ、にぎり寿司盛り合せ、クレープ・シュゼット……
何でもありの文字が並んでいた。
「……いっぱいある〜。どれがいちばんおいしそうかな……」
ひときわ豪華そうな文字を見つけて、ミレアは指を止めた。
《 Rossini Sélection 》
見た瞬間、意味はまったく分からなかったけれど、
並ぶ文字の響きがなんだか“かっこよくて”、おいしそうに見えた。
「うん、これにするわ!」
「かしこまりました」
優雅なお辞儀とともに、店員の声が静かに響く。
「名前がいちばんキラキラしてたし、きっと当たりよね!」
ミレアはメニューを閉じ、嬉しそうに頬を緩める。
「なにが出てくるのかな〜、たのしみ〜♪」
窓の外では、夜の街灯が石畳を照らしている。
その光がテーブルのグラスに反射して、ゆらゆらと波のように揺れた。
店内は静かで、聞こえるのは遠くのピアノと、皿を運ぶ小さな足音。
ふと、香ばしい匂いが鼻先をかすめる。
厨房の奥から、バターが溶ける音がした。
ミレアは胸の前で手を組み、小さく息を弾ませる。
「いいにおい……♪」
やがて運ばれてきたのは、前菜の小鉢だった。
湯気の立つポタージュ・パルマンティエ。
白い皿に金の縁取りがあり、スプーンを入れた瞬間、ふわりとバターとじゃがいもの香りが広がる。
「……やさしい味」
静かに口をつけ、丁寧に一匙ずつ。
店内の音が遠のいて、ミレアの頬だけがやわらかく染まる。
次に出されたのは、ソール・ムニエル。
レモンの酸味と焦がしバターの香りが絡み、皿の上で光るように揺れている。
一口食べた瞬間、彼女の瞳がきらりと揺れた。
「これもおいし〜♪」
肉料理のフィレ・ド・ブフ・ロッシーニに至っては、周囲の客が思わず息を呑むほどだった。
フォアグラがとろりと溶け、黒トリュフの香りが漂う。
彼女はナイフをほとんど使わず、まるで儀式のように一口ごとに味わっていく。
グラタン・ドフィノワ、天ぷら盛り合わせ、炊き込みご飯、クレープ・シュゼット──
どの皿も完璧に食べ切り、残り一滴も残さない。
そして、最後の逸品が運ばれてくる。
湯気をまとった《茶碗蒸し》が、そっとテーブルに置かれた。
蓋を取ると、熱の層がふわりとほどけて鼻先を撫でた。
鰹と昆布の合わせ出汁に、卵の甘い香り。
奥には、三つ葉の青い香りがほのかに差している。
その温もりだけで、胸の奥がやわらかく解けていくようだった。
ミレアはスプーンを静かに沈めた。
とろり、とわずかな抵抗のあと、ぷるんとした弾力を指先に伝える。
持ち上げたそれは、金色の光を透かすようにゆらぎ、
すくい上げるたびに湯気が細く立ちのぼった。
ひと匙を口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、卵の膜がほろりと崩れ、
熱を帯びた出汁が内側から溢れ出す。
ふわふわと溶けながら、鰹の旨味が喉の奥に届き、
昆布のまろやかさがそれを静かに包み込む。
次に現れたのは、銀杏。
ころりとした粒が舌の上で転がり、噛むとほのかな苦味と香ばしさが広がる。
その一瞬のアクセントが、全体の甘みを引き締めた。
さらに掬えば、椎茸。
出汁を吸いきった身は、噛むたびにじゅわっと旨味を解き放ち、
土の香りが鼻の奥で深く息づく。
その香ばしさが卵のやわらかさに溶け合い、
まるで森の空気を一匙に閉じ込めたようだった。
底には、海老。
熱でとろけかけた身が、舌に乗せた瞬間ふわりとほどけ、
海の塩気がほのかに残る。
その香りは出汁と混ざり合い、
まるで潮風が一瞬だけ店内を通り抜けたように感じられた。
「……ん〜♪ うまうまっ♡」
ミレアはうっとりと目を細めた。
湯気の向こうで、スプーンを口へ運ぶ手がゆるやかに動く。
口に入れるたび、温もりと香りが折り重なり、
味が層を成してひとつの調和を作っていく。
店内はしんと静まり、
器を打つ“かちり”という音だけが、世界のリズムになっていた。
ミレアはただ、その小さな器の中で──
幸福そのものを、もぐもぐと味わっていた。
そのとき、横から白手袋の手がそっと伸びる。
一枚の黒い革のホルダーが、テーブルの端に静かに置かれた。
「お会計でございます」
「む〜?」
ミレアはスプーンを口にくわえたまま、首を傾げる。
ゆっくりとその革の入れ物を開き、中を覗き込む。
「……お?」
数字が並んでいる。
一、十、百、千、万、十万──
「……ゼロ、多くない?」
店内の空気が凍った。
茶碗蒸しの湯気だけが、ゆらゆらと間を埋める。
「お、お客様……こちら、当店自慢の“ロッシーニ・セレクション”でございますので……」
「ひとり分でこれ? でもこんなに持ってないわ」
スプーンを持ったまま給仕の顔を見つめるミレア。
給仕は慌てて別の店員に目配せする。
「お待ちください! すぐ確認を──!」
ざわつく店内を他所に、ミレアはスプーンで茶碗蒸しをすくっていた。
「もぐもぐ……」
間もなくして、外の通りから衛兵の笛が響いた。
「無銭飲食の通報だ! 出てこい!」
扉が開いた瞬間、二人の衛兵が踏み込んできた。
店員が指を差す。
「その人です! 支払いを拒んで──」
衛兵がすぐさまミレアの腕を掴む。
「立て。衛兵署まで来てもらう」
「ぇう?」
ミレアは掴まれたまま、茶碗蒸しを見つめていた。
表面にまだ湯気が残っている。
スプーンを取り、ひと口。
「うまうまっ♪」
「何をしてる!? 今すぐ置け!」
「やだ」
「……ッ、この女……!」
腕を強く引かれても、ミレアは転ばない。
器を傾けないように、まるでそれだけに集中している。
「やーだー、たべるのー」
「もういい、連行しろ!」
牢屋型の馬車が横付けされ、衛兵が彼女を押し込む。
ミレアは抵抗もせず、すとんと床に腰を下ろした。
その手には、しっかりと茶碗蒸し。
馬車が動き出しても、ミレアは黙ってスプーンを動かす。
とろりとした卵を口に運び、静かに頷く。
「お〜いしっ♪」
外では衛兵がため息をつき、馬車に乗る。
──────────
同時刻。
その日の配達を終えようとしていたサクラは、最後の配達物を届けに繁華街の一角へ足を向けていた。
夕暮れの街に、妙なざわめきが混じっている。
「……? なにかあったのかな」
足を速め、声のする方を覗き込むと、
高級洋食店の前で人だかりができていた。
その中心では、衛兵たちが牢屋型の馬車に誰かを押し込めている。
「無銭飲食だ! しっかり押さえろ!」
サクラの視線がその人物に向いた瞬間、
心臓が止まりそうになった。
「……っ、ミレア……様?」
桃色の髪。
手にした茶碗蒸し。
そして──スプーンを動かす、あのマイペースな仕草。
間違いない。
「えっ……ええぇぇぇーーー!!?」
サクラの叫びに、ミレアがのんびりと顔を上げた。
もぐもぐと口を動かしながら、牢の中から軽く手を振る。
「サクラー♪ これね、すっごくおいしいよ〜♪」
「な、なにして……あ、ちょっ……ミレア様ぁぁーーー!!」
馬車が走り出し、遠ざかっていく。
夕暮れの街に、サクラの悲鳴と──かすかな“もぐもぐ”の音だけが残った。
七皿目 つけあわせ『満腹罪。ミレたん、もぐもぐのまま捕まる』
おしまい
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は カクヨム を中心に投稿しております。
今回の話で、なろう版はカクヨム掲載分の最新話まで追いつきました。
今後は 毎月「0」と「5」のつく日 に更新を予定しており、
カクヨムと同時期に投稿していく形となります。
引き続き『もぐもぐ神』をよろしくお願いいたします。




