六皿目 粉物『混沌の味。ミレたん、お好みを問う』
昼過ぎ、竜王国・ヴァルグレア。
サクラとツバキの親子は再会を楽しんだ後、一旦別れる。
ツバキは仕事の完了報告を済ませるため、在籍している街へと戻っていった。
再びサクラとの家族としての生活を選び、失われた時間を取り戻すためだ。
「さ、午後の仕事も頑張るゾ〜♪」
どこか楽しそうなミレア。
「私も頑張らないとっ!」
「お母さんと暮らすんだもんね?」
「はい……。本当はミレア様とご一緒したかったのですが……」
しょんぼりと肩を落とすサクラに、ミレアは笑みを浮かべる。
「いいのいいの。わたし、どこかで寝泊まりしてる訳じゃないから」
「……気になっていたんですが、ミレア様は普段どこで衣食住を……?」
「う〜ん、朝までやってるお店でだべってたり、路上でボードゲームやってるおじいさんと遊んだり?」
「へー……ん?」
サクラは眉をひそめた。
歩きながら、ミレアの横顔をちらりと覗き込む。
彼女の瞳には疲れの影もなく、むしろ淡い光を宿している。
昼の日差しの下でも、まるで夜にしか咲かない花のように、静かに輝いていた。
その“眠らぬ美しさ”が、逆に人の温度から離れていくようで──サクラの胸に、言葉にならないざわめきが生まれた。
「ほ、他には?」
「ん〜、夜の街を散歩しながらご馳走探し?」
「…………」
違和感が確信に変わる。
この人、“睡眠”を取っていない。
そういえば朱桜国でも眠気を見せた素振りは一度もなかった。移動の時も、必ず私よりも先に寝ることはなく、私が目を覚ました時にはもう既になにかをしていた。
「……あの、ミレア様?」
「なあに?」
「ミレア様は、睡眠とかって……」
「必要ないわね」
「えっ……」
なんてことのない調子で答えられて、サクラは言葉を失う。
「……あ、でも食事はなさるので衣食住が完全に不要という訳でもないんですね」
「うーん……正直なこと言うとね、別に食事もいらないんだ」
「え!? 普段からあれだけ食べていらっしゃるのに?」
サクラの驚きは自然なものだった。
「わたしが自我を持ち始めた頃は、周りに何もなくてね。光もなければ音もない、そんな“無”の世界だったの。……だから、“食べる”って行為がそもそも必要ないの」
サクラは息を呑む。
そんな虚無の世界で、自我が芽生えるとはどういうことか──想像すらできない。
「たぶん、“原初の混沌”って呼ばれる存在を呑み込んだ時からだと思うんだよね〜。よく覚えてないけど」
「原初の……混沌?」
「うん。なんとな〜くだけど、ぼんやりと記憶に残ってる感じ。なんかそんな感じのが寝てて、そいつから色んなものが零れ落ちてるの。わたしはそれをひとつひとつ集めていって、そして取り尽くした頃、もうそいつとわたししか残ってなくて……」
暗闇の中、音も輪郭もなく、ただ漂う光の粒がゆっくりと沈んでいく。
それらは記憶の欠片なのか、世界の残骸なのかも分からない。
“それ”は呼吸をしているようで、していない。
形を持たないまま、存在の圧だけがこちらを押し返してくる。
ミレアはただ、それを見つめていた──怖さもなく、空腹のような静けさだけを抱えながら。
「……それで呑み込んだんですか?」
「うん。そいつを呑み込んだ瞬間、色んなものが流れ込んできて……まさに混沌って感じ」
「大丈夫だったんですか?」
「ふふっ、見ての通り。わたしという自我が芽生えたのでしたっ!」
腰に手を当て、ドヤ顔を決めるミレア。
「……大胆というか、ぶっ飛んでるというか……。なんと言えばいいんでしょう?」
「バカみたいって言いたいのね?」
「言ってませんし、思ってもいません」
真顔で、きっぱりと否定するサクラ。
「ぇ、ぇう……」
「私がミレア様に対して、そのようなことを思うはずがありません」
言葉は静かだったが、芯の強さを感じさせた。
「……そう。おしゃべりはこの辺で、そろそろ配達に戻ろっか」
「はい。残りの分も手早く終わらせてきますね!」
軽く会釈をして、サクラは足早に次の配達先へと向かっていった。
その背中を見送りながら、ミレアは小さく瞬きをする。
「…………」
残されたミレアは、サクラが残していった感情の意味をうまく掴めずにいた。
人の心を“味”として理解してきた彼女にとって、それは珍しい感覚だった。
「人の感情って、何をどうすれば沸き立つのか……十分理解してたつもりだったけど。……このパターンは初めてね」
静かに呟く声。
ミレアの中に残っていたのは、サクラから感じ取った三つの感情──敬愛、親愛、そして……慈怒。
「全部、根底に“愛情”がある。フェリシア達が持つ愛情とはまた違う、不思議な香り……。“愛”って沢山あるのね〜」
そう呟きながら、ミレアは石畳をゆっくりと歩き出した。
配達に戻ったミレアの鼻を、ふと香ばしい香りがくすぐった。
焦げたソースと油が混ざり合うような、人の暮らしの匂い。
悪くはない。けれど、食欲をそそられることもなかった。
匂いの発生源を辿ると、小さな暖簾に文字が踊っている。
《お好み焼き》
「……お好み焼き?」
ミレアがその名を口にしたのは、これが初めてだった。
店の前には多くの客が並び、鉄板の上では店主が慣れた手つきで何かを混ぜ合わせている。
粉、卵、刻んだ野菜──それらがぐちゃりと混ざり、やがてひとつの円に変わっていく。
「……混ぜて、焼くの?」
鉄板の上で音を立てるその様子を、ミレアは静かに見つめていた。
ミレアが鉄板を見つめていると、店主がこちらに気づいた。
「お嬢ちゃん、初めて見る顔だな。食ってくかい?」
「食べたことないの。これ、なに?」
「ははっ、知らねぇのか。“お好み焼き”って言ってな、粉もんの王様だ」
ミレアは首をかしげる。
「お好み……焼き」
「そうそう。中に入れるもんは好みで選ぶんだ。肉でもイカでも、野菜でも何でもあり」
カウンターの脇には、ぎっしりと具材の札が並んでいた。
ざっと見ただけでも三十種類以上。
「ひと玉いくら」で、具を増やせばその分値も上がるらしい。
「焼き方も色々あるんだぜ。混ぜ焼き、重ね焼き、麺入り、薄焼き、厚焼き、早焼き、蒸し焼き、押し焼き、和風焼き、創作焼き……。ま、同じ“お好み焼き”でも千差万別だ」
ミレアは指を折りながら、軽く計算してみる。
三十種の具材、それぞれの組み合わせ。
焼き方のパターンを加えると……およそ百億通り。
「ひゃ、百億……?」
目を丸くするミレアに、店主は笑う。
「まあ実際そんな作るやついねぇけどな!」
「でも、同じのはほとんど無いってことね」
「そういうこった。お好みってのは、自分の“好き”を焼く料理なんだよ」
「……へぇ」
ミレアは小さく頷き、注文票を眺めた。
けれど、あまりに選択肢が多すぎて何を頼めばいいか分からない。
「じゃあ……店主さんのおまかせで」
「おう! 腕によりかけて焼いてやるよ」
鉄板が鳴り、香ばしい煙が立ちのぼる。
混ざり、押し固められ、円に成っていく材料たち。
やがて出来上がったお好み焼きが目の前に置かれる。
湯気が立ち、ソースの照りが灯のように光っていた。
「いただきます」
ミレアは箸を取り、焼きたてのお好み焼きを口に運んだ。
ふわりと立ちのぼる湯気の中、甘いソースと油の香りが鼻腔をくすぐる。
舌の上で広がるのは、まずソースの強烈な甘辛さ。
次にマヨネーズの酸味が滑り込み、キャベツの水気が一瞬でその余熱を奪っていく。
咀嚼するたび、豚肉の脂が滲み、天かすの塩気が弾けた。
……だが、噛み進めるほどに、味が崩れていく。
最初に感じたはずの香ばしさは、すぐにソースの甘みに上書きされ、次にはマヨネーズがそれを包み込み、塩味がそれを押し返す。
それぞれの味が主張を始めた瞬間、次の波に飲み込まれて消えていく。
「全部、勝手に混ざってる……」
ミレアは小さく息を吐いた。
豚肉の旨みも、キャベツの歯触りも、個性を持つ間もなく溶けていく。
残るのは“調和”という名の、均一な濃さだけ。
「これじゃあ、何を入れても、入れなくても同じじゃない」
噛むほどに、それぞれの“違い”が消えていく。
味の層は確かにあるのに、層であることを許さないほどに混ざり切っている。
個が失われ、全体だけが残る。
……それは、かつて呑み込んだ“原初の混沌”のようだった。
味も、形も、区別もない。
ただ一つの“ぐちゃぐちゃな存在”が、舌の上で蠢いているように感じた。
「……わたし、やっぱりあんまり好きじゃないな」
その言葉の奥に、かつて呑み込んだ“原初の混沌”の影が一瞬だけ閃いた。
ミレアは箸を置き、残りを見下ろした。
皿の上には、まだ半分以上お好み焼きが残っている。
「……ごちそうさま」
完食はしなかった。
代わりに、テーブルの隅へ数枚の硬貨を置く。
立ち上がろうとした瞬間、視線がぶつかった。
屋台の端、木箱の影から一人の子供が覗いている。
薄汚れた耳、尻尾──コボルト種の獣人だった。
着ている服はくたびれて、所々破れている。
貧民街の子だと、見ればすぐに分かった。
ミレアはそっと目を細める。
「食べる?」
子供はびくりと肩を揺らし、恐る恐る顔を出した。
「い、いいの……!?」
その瞳が、まるで星のように輝いた。
「うん、まだ温かいわよ」
皿を差し出すと、コボルトの子は両手で抱えるように受け取った。
ミレアはそれ以上何も言わず、静かに背を向ける。
鉄板の音と子供の咀嚼音だけが、夜気の中に溶けていった。
屋台を離れる途中、ミレアは一度だけ振り返る。
コボルトの尻尾が嬉しそうに揺れていた。
「……人の“お好み”って、わたしには分からないわね」
そう呟いて、彼女は人混みの中へ消えていった。
屋台を離れたあと、午後の陽がやわらかく石畳を照らしていた。
遠くで鉄板が鳴り、焦げたソースの匂いがまだ街の空気に漂っている。
通りのざわめきに混じって、誰かの笑い声が響いた。
ミレアは足を止め、ふと目を閉じる。
お好み焼きという料理は、自由を名乗りながら、結局どれも同じ味に帰っていく。
粉とソースが支配する世界の中で、どんな具材を混ぜても、どんな焼き方を試しても、
最後には「お好み焼き」として均質な香りに包まれる。
そこでは、何を入れ忘れても誰も気づかない。
欠けても崩れない料理──それは、寛容ではなく、ただの同化だ。
自由をうたうくせに、型からは出られない。
無限にあるはずのバリエーションは、実際には“同じ型の中で回っているだけ”。
それは多様性ではなく、個性を溶かした幻想。
平等という言葉で焼き固められた、ひとつの平面。
「混ぜすぎると、誰の味か分からなくなるね」
鉄板の音を思い出しながら、ミレアは小さく呟いた。
焦げても同じ顔。焼き直しても同じ味。
人の世界も、そうなのかもしれない。
それぞれの声が溶け合い、やがて“違い”が消えていく。
けれど、混ざることを完全に否定する気にはなれなかった。
重なり合うことで生まれる温かさもある。
ただ、個を焼き潰すような混ざり方は──終焉だ。
だから、静かに結論を出す。
「本当のお好みって、混ぜないで残すことかもしれないね」
粉は型、ソースは支配。
キャベツは個性、天かすは雑音、マヨの線は見せかけの多様性。
そして鰹節は、風に揺れているようで、結局どこへも行けない。
すべてが混ざってひとつの円になる。
それを人は“お好み焼き”と呼び、笑って食べる。
けれど、焦げたところを少しだけ残しておけばいい。
それが“違い”であり、“生きてる証”だから。
ミレアは最後に小さく笑い、午後の風を受けて歩き出した。
空はまだ明るく、けれど少しずつ橙に染まり始めていた。
六皿目 粉物『混沌の味。ミレたん、お好みを問う』
おしまい




